よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

考察系

ツイッターキャンペーンの謎。

ツイッターキャンペーンというのがあります。私、あれでどうやって「抽選」をしているのかがずっと気になっているんですが誰かご存じの方おられるでしょうか……?

まあ「ツイッターのアイコンを変更」「ツイッターのヘッダーを変更」系のやつは、キャンペーン参加時に自分のアカウントをメールで送りますので、参加者全員の中から抽選というのはわかります。わかんないのは、「このアカウントをフォロー&このツイートをリツイート」系のやつ。

RT


残念ながら私は自分のツイートが何千RTもされたことがないので間違っているかもしれませんが、あるツイートを誰がリツイートしているか、全員を把握することってデフォのクライアントで可能なんでしょうか……? 他人のツイートに関して言えば、タイムラインに流れてくる何千RTの「RT数」をクリックしても、RTした人全員を確認することはできないと思います。たぶん50人くらいで表示上限になるはず。ちゃんと数えてないけど。

ちゃんとカウントしているとすると、外部アプリとして「ツイポーート」とかを使うのでしょうか。

▼「ツイポーート/twport

それで全部表示&カウントされているなら良いのですが、たとえば「1日のある時間に定期的に区切ってカウントしている」とか、「最初から恣意的に選択している」という可能性ももちろんあるわけです。いやまあ、それでも「抽選」であることに間違いはないし、雑誌やテレビの抽選なんかもそういう意味じゃ変わらないんですけれども、「ツイポーート」のような外部アプリを利用している場合、「応募したけれど表示されているかわからない」みたいな可能性もあるわけで、どういうかたちで参加者が管理されているのかは若干気になっています。

結局ブラックボックスでしかないから、知ってどうこうできるわけでもないんですけどね。

レジ袋は万引きになるの?

レジ袋の有料化とセルフレジが同時に導入され、うちの近所のコンビニはかなりレジがスムーズになりました。袋いらない人が、わりと軽快にピッピとレジを通過していきます。

ただ、私のように店員さんと話をするのが面倒だからセルフレジ選ぶという人もおり、そういう場合、レジ袋を最初に「購入」することになります。バーコード読むし、レシートにも印字される。

そうなると気になるのは、セルフレジで「間違って二枚レジ袋取っちゃった」とかいう場合の対処。

私が見ていると、2枚目を料金払わずもらって行ってる人とか、その場で床に落としていく人とかがそれなりにいます。んで、レジ袋も商品である以上、それって窃盗とか器物損壊の対象にならないのでしょうか?

なるとしたら、レジ袋のセルフってものすごくリスクが高い気がするのですが。実際のところどうなんでしょうね。

衣類のコスパの話。

ビジネスマンでない人にはあんまキョーミもわかない話かもしれませんが、最近の格安カッターシャツはすげーですね。

夏場の内勤に備えてコナカとかアオキのセール品、1000円のやつを購入しているのですが、頻繁に洗濯しても全然へたらずに1年は余裕で保つのが嬉しい。

ぶっちゃけ3着あれば着回しで1週間乗り切れるんで、その年と次の年、2年で3千円ですよ。恐るべきコスパ。

それでいて、チープな感じはありません。綿100のは探すのが難しいけど、ポリ混紡でよければ生地も高級感……は無いにしても無難なクオリティは保ってる。色とかはさすがにちょっと安っぽいけど、夏場のクールビズならそこまで気にする人いないし。

あと、洗濯頻繁にできるのでニオイとかに悩まされないのが嬉しいんですよ。

お値段的にはワンシーズンで使い捨てても全然惜しくなく、夏場の汗で傷みやすい期間を、クリーニングとかなしで安く清潔に乗り切れるのは、ホントにビジネスマンにとってはありがたい限り。ありがたい話です。

コロナと無責任主義の話。

今日帰宅の電車の中での話。ある駅で入ってきた乗客で座席にひとり、立ったままの人でひとり、凄い咳き込んでいる男性がいました。

季節の変わり目だし風邪が流行っているという話も聞くのでコロナと直結させる必要はないとみんなある程度分かっているとは思うのですが、次の駅に着いた途端、ドアから人がざっと出て別の車両に乗り換えていきました……。

私はその駅で降りる人だったので、マイグレーションする人の動きをチラ見するだけでしたが、続けて乗るなら私も車両変えたかなぁ。変なミエを張ってそのままいたかもしれませんが、気にはなったと思います。

しかし、2人とも職場でおそらく似たような状況になっていたんでしょうに、ふつうにこの時間(19時ごろ)まで働いていたわけです。目に見える症状があっても、会社は休ませないんですよね。

ということは、目に見えない発熱や腹痛などで休むことはもっとないはずです。それで大丈夫なんでしょうか? 大丈夫なわけないですね。あきらかに。

結局、休んでくださいという個人へのお願いも、休ませましょうという企業や組織への要請も、まったく徹底されていない。うちの会社もそうです。

親戚のお子さんが通っている学校では試験期間に入ったそうですが、受験しないと高校入試の成績に関わるからということで発熱があるのに試験を受けている生徒がいるそうです。でも、学校はそれを知っていて止めていないんだとか。あかんやろ、と思うのですが実態はそんなもんですよね。塾や予備校は更に酷いという話も聞きますし。

もちろん、どこも外向けのポーズとしては「対策をしっかりしてます」なわけですよ。でも、実態は伴っていない。原因はあきらかで、誰も責任取りたくないからですよ。無理やり休ませて大したことがなかったら、そこで発生した被害の責任をどう取るのか。また、休んだことで発生する「穴」を誰が埋めるのか。みんなババ引きたくはありませんよね、そりゃあ。

ただ、この状態を何とかしないとほんとにまずいと思うんですけどね。正直者がバカを見ることにもなりますし。

いろんなところの実態調査とかしたほうが良いんじゃないかなぁ。それか、個人の状態を政府に伝えれば休ませるべきかどうかといった判断を出してくれる診断フォーム設置するとか。感染拡大を食い止めるという実利をとるなら、誰かが責任を取るのではなく、いっそのこと責任取る奴が内部に出ないようにすれば、もうちょっと「自粛」も行き届くと思うのですが。

東京都感染者の増加。

本日の感染者が107人と、3桁に突入しました。予想より遅かったなという印象で、まぁ想定の範囲内です。

とはいえ、何でこうなったのかは考えておきたい。テレビやWEBニュースを見ると、小池知事や関係者は検査数を増やしたからだ、ただちに警戒する必要はない、と繰り返していますが、さすがに少し首を傾げたくなります。

6月30日の検査数は、都の発表では2213件。6月8日ごろでも2194件の検査を実施していました。1000件に満たない日ももちろんありますが、平均して今の検査数の半分以下ということは、ありません。

しかし、コロナの発覚数は倍以上になっているわけで、陽性率は明らかに上昇しているはずです(陽性率も表示されていますが、公開されている数値とデータが一致してないように見えます)。ふつうに考えればこれはあまりよろしくない状況でしょう。

一応7月1日の陽性率を見ておきますと、4.0%。やっぱり6月上旬くらいのレベルにまで上がってきていますね(都の発表によると最高値は4月11日で31.7%。5月11日は5.0%でした)。

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いや、ふつうじゃない考えできちんと「大丈夫だ、問題ない」と言えるのかもしれませんが、その詳しい道筋は説明されていません。したがって聞いてる側は思考停止するのでなければクエスチョンマークを頭の上に出すことになります。

こういう、誤魔化しに見えるもやっとした説明は、何か表沙汰にできないような背景があるのかなと勘ぐりたくなる要素です。都知事選を控え、票のためのムーブにも見えてくる。印象はあまり良くありませんね。

もしかすると都知事選が終わったら「警戒」が加速するかもしれません。それだと遅すぎることにならないか不安です。

ここできっちりと、国とは別に都のオリジナルな警戒態勢に移行していく、くらいのリーダーシップを見せてくれれば個人的には文句なく投票するんですけど、見てる感じことなかれの現状維持に落ち着きそうかなぁ。

専門家会議廃止。

まさかの展開。

 ▼「専門家会議「廃止」に日本政府への心配が募る訳」(東洋経済)

6月24日夕、新型コロナウイルス対策を担う西村康稔経済再生相は、政府に医学的な見地から助言をしてきた専門家会議(座長・脇田隆字国立感染症研究所長)を廃止すると発表した。

代わりに他分野の専門家を交えた分科会を発足させるという。市民にとっては、専門家会議が提示した科学的根拠に基づく生の情報によって、自分の判断で行動変容に対応できた。これまでにない施策過程の透明化が、国民的な理解を深めたともいえる。

専門家会議やクラスター対策班による分析にいろいろな「ツッコミ」が加えられ、世間ではやれ無能だなんだという声もあがっていましたが、こまかくデータを出し、たたき台となる分析を提出していたのは間違いありません。そうして、そのことで私たち一般市民の判断材料が増えたことも確かでしょう。

ろくでもない分析をするならないほうがマシ、ということはあるのかもしれませんが、私には専門家会議がそんな(ないほうがマシといえるような)組織だとは思えないんですけれども。


西村経済再生相は、専門家会議を廃止するのは、法的な位置づけが不安定だったためと説明している。新しい分科会は、リスクコミュニケーション(リスク時の情報発信)の専門家や地方自治体の関係者らを加える方針も示した。


ということですから一応法的な筋は通っているし、そもそも招集したのが政府ですから廃止も政府が決めて問題ないとは思うものの、手続きや発表のしかたがあまりにも雑で、今後「専門家」の協力を政府が得られるのか。得られたとしても、政府の思惑に沿うことしか言わない組織ができあがったとしたら意味がないのではないか。そんなことも考えます。

政府と考えが違ってもあくまで「感染症の専門家の立場」から警鐘を鳴らし続ける。そういう組織はこの後も必要なんじゃないのかなぁと思うのですが、新しく作られる分科会は多様な専門家が入ってくるそうなので、これまでのようなとんがった組織にはなりそうもありませんね。

香川県ゲーム条例に対する訴訟の動きの話

香川県の高校生が、香川県ゲーム条例に対し、「条例が違法であること」の確認と、「議員の立法不作為責任」追及のため、国家賠償請求を求めての訴訟を起こす動きがあるようです。

個人的には非常に素晴らしいことだと思います。

 ▼「香川県ゲーム条例が憲法違反の確認と、議員の立法不作為責任を求める国家賠償請求訴訟」 (GoodMorning)

まず、事前のステップとして「署名」を行うなどの手続きをちゃんと踏んでいる。(ここで大きな賛同を得られて、人口の1/50以上の署名数を得られていれば、条例の廃止を議会に強制することができました)

次に、法治国家にふさわしい手続きを理解した上で社会にはたらきかける行為をしている。いま「デモ」が流行っているからということで安易にデモに訴えないというあたりが私好みです(集まらない・集まれないという実務的な問題もあったんでしょうが)。あ、ちなみにデモがダメといっているわけではありません。デモはデモで有効な局面もあるはずです。

最後に、主体があくまで個人であるということ。怪しげな政治組織や思想団体の力を借りるのではなく、あくまで香川県に住む「市民」の1人が自治体に対して直接請求権を行使するという、これこそお手本のような民主主義ではないかと思うわけです。しかも、渉氏は高校3年生。選挙権を獲得する(あるいはしている)年です。18歳の若者が主体的に政治に参加するというのは、単純に投票に行くということももちろんそうでしょうが、こうした手続きを多くの若者が知り、実践できることを言うのではないかと思います。

実際にクラウドで支援するのは、渉氏のバックグラウンドなどについてもう少しきちんとした情報を得て、きちんとしたかたちでお金が使われるであろうことを確信してからにするつもりですが、個人的には支援を表明したいと考えています。1口1000円ですしね。そして、多くの人の賛同が集まってこのプロジェクトがきちんと動くということが、表現問題の今後に繋がると考えています。若い世代に、正当な主張で世の中が動くのだという実感を持ってほしいという気持ちもありますし。

話題になった「グレタさん」よりも(よりも、という言い方はよくないのかもしれませんが)、こういう身近なところで民主主義の精神が実践されている例を、メディアはもう少し取り上げても良いんじゃないかと思う次第です。

コロナ下の「登校」に意味はあるのかという話。

6月1日になり、近隣の小中学校で登校がはじまりました。我が家の周りも大量の小学生があふれ、あちこちで密を形成しており……そういう状況を見ながら、ちょっとめんどくさい話をつらつらとしていきます。

はじめにことわっておきたいのは、ここでは学校現場の先生たちを非難・批判する意図はまったくないということです。現場の先生たちにもさまざまな意見・立場があるとは思いますが、生徒・児童の登校の可否に関して現場の先生たちが決定権を持つことはほぼ無いでしょう(それは、われわれサラリーマンが出社を自己判断できないのと同様に)。むしろ教育行政や私学であれば運営母体となっている学校法人に対する問題提起のつもりで書いています。

昨日、北九州の小学校でクラスター発生の報せがはいってきました。

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 ▼「北九州 小学校でクラスター発生 9日間で市内97人 新型コロナ」(NHK NEWS WEB)
北九州市では31日、新たに12人が新型コロナウイルスに感染していることが確認されました。このうち4人は、今月28日に感染が確認された小学生と同じ学校に通う児童で、北九州市は、この小学校で感染者の集団、「クラスター」が発生したとしています。

北九州市によりますと、新たに感染が確認されたのは、小学生を含む10代から80代の男女、合わせて12人です。

このうち、いずれも10代の女子3人と男子1人の合わせて4人は、小倉南区にある守恒小学校の児童で、今月28日に感染が確認された女子児童と同じクラスです。守恒小学校では今月25日から活動が再開され、感染が確認された5人の児童も登校していたということで、北九州市は、この小学校で感染者の集団、「クラスター」が発生したとしています。

31日に感染が確認された4人の児童はいずれも症状は無いということです。

また、すでに集団感染が確認されている小倉北区の北九州総合病院では新たに医療スタッフ3人の感染が確認され、この病院で感染が確認された人の合計は26人になりました。

北九州市で31日に感染が確認された12人のうち2人は感染経路が分かっておらず、この9日間で感染が確認された97人では34人の感染経路が分かっていません。

このため、北九州市は、市民に対して、引き続き感染予防に努め、不要不急の外出を自粛するよう呼びかけています。
私は現場を見たわけではありませんが、この小学校がコロナ対策を怠ったというパターンではなく、むしろかなりコロナ対策に配慮していた部類のようです。



これが事実であろうとなかろうと、現実問題として学校現場でのコロナへの万全な対策はほぼ不可能です。これにはさまざまな理由がありますが、わかりやすいものを2つ書いてみます。

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まず根本的な問題として、コロナウィルスの全貌が医学的にあきらかになっていないからです。いま喧しく議論されている内容の大半は、「現状で蓋然性が高いと考えられる」ことです。少なくとも専門家の間でも、ほぼこれが確定だ、という話は限られているように見受けられます。専門家ですらそれですから、私を含め素人がどれほど勉強して情報を仕入れたところで、個人の行動判断に使うレベルなら良いとしても、他人の行動や生命に責任を負いきれるようなレベルで確定的な判断を下すのは困難でしょう。これはつまり、対策が万全かどうかを判断する客観的な指標が現状では成立できないことを意味します。指標がないのですから、「万全な対策」は原理的に不可能です。

※ちなみにもしあるとすれば、国か地方自治体のものになります。これは社会的な観点としては間違っていないと思います。国や自治体の示す判断基準が妥当かどうかそもそもわからない、というそもそも論まで行かずに、正しかろうが間違っていようがお上の示すものを基準としてやっていくという考え方は揶揄ではなく1つの明確な方針と言えるでしょう。ただ、その方針に従ったとしてそれはコロナ対策が完璧なのではなく指示を完璧に守っているだけにしかならないので、上の話は否定されません。

2つ目。人と人との接触が生じるからです。判明していることが少ないコロナウィルスで最低限わかっていることとして、人と人との接触によって感染が拡大する、ということがあります。ロックダウンやら何やらという施策はそうした分析に基づいて行われていますね(ロックダウンが妥当か否かは論じません)。そして小学校や中学校では、どうやっても人とすれ違う場面があります。たとえばトイレや手洗い場で接触があるでしょう。小学生低学年なら特に、登下校や休み時間の際に先生の見ていないところで学校の基準を無視するはずです。

だいたい年頃の子どもたちが、全員先生の指示に100%従うということは有りえません。見えないところで身体的な接触をするに決まっています。マスクを外して会話することもある。それを常に監視し、止めることは不可能です。いやできるんだ、学校はそれをやるべきだ、という人がおられたら、この記事を読む意味はありませんのでどうぞブラウザを閉じて下さい。

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まあそんなわけで、現状コロナへの万全な対策は不可能です。そして、いま日本はPCR検査の実施数を増やさないでコロナに対処する作戦をとっています。子どもはコロナの症状が出にくい、重症化しにくいなどと言われていますが(その真偽はおくとして)、感染しないわけではありません。無症状での感染例は多数報告されているわけですから、熱も咳も体調不良もないけれど感染している子どもはごろごろしていると考えられます。

※この日本の方針に対する議論も、ここではおこないません。これが成功か失敗か、PCR検査をすれば登校していいのか、という話がここでの主眼ではないということをご承知おきください。PCR検査を実施せずに乗り切ろうという現状の方針を前提として、登校再開というのがその方針にほんとうに合致しているのか? という話です。

そうして、無症状の子どもの間で感染が拡大し、それが各家庭に運ばれます。言うまでもなく接触機会が多いため家庭内のほうがはるかに感染の可能性が高いでしょう。すると子どもから家族が感染し、その家族内で症状がでるかもしれません。出なかったとしても、両親から職場に運ばれ、そこで感染が広がる……ということは容易に想像できます。実際、かなりの対策をしていた北九州の小学校でクラスターが発生しているわけですからね。


で、以上のような話をしていると当然、「なぜそこまでして登校させる必要があるのか?」という話になります。私が言いたいのはここです。大事なことなので2回言います。なぜ、登校が必要なのでしょうか?

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まあ、理由はいろいろ出てくると思います。たとえば……

・生徒の学力がつかない。
・生徒の学力や健康などを確認できない。
・他の生徒とのコミュニケーションがとれずに人格的な成長を促せない。
・子どもが自宅にいると困る家もある(両親共働きなど)。
・自宅にいないほうがいる子どももいる(DVなど)。
・いつまでも休校を続けるわけにもいかないのでどこかで慣らさないといけない。

私は現場の人間ではないので細かいところはわかりませんので想像ですが、これくらいは標準的に出てくる内容じゃないでしょうか。コロナの中でずっと引きこもっていることもできませんからどこかでリスクを採らないといけない、というのは確かです。しかし、それはほんとうにこのタイミングなんでしょうか。

実際これ、全員にあてはまる話ではないはずです。加えて、全部学校に登校しないと解決できないことではないですよね? オンラインで授業できてる学校もあるわけですし、健康観察は電話でもできます。

家でじゅうぶんな学習も運動もできていて、両親共働きだけど祖父母が近隣にいて預けることができる。子ども同士のコミュニケーションも、LINEやZoomでできている……そんな家であれば、通常通りの登校をする必要が出てくるでしょうか?

学校に意味がないと言っているわけではありません。教育活動というのはどんなものでもすべて何らかの意味があるはずですので、登校する、登校して集団行動をする、という中で必ず子どもたちにとって有意義な活動ができるはずです。

しかし、それがどの程度必要なもので、現状の社会情勢にかんがみて適切なのかどうなのか、デメリットと比較して是非実施しなければならないものなのか……ということが検証されているのか、甚だ疑問です。少なくとも、「感染拡大を防ぐ」という意味では、現時点での登校再開は下策ではなかろうかというのは既に述べた通りです。
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そこを曲げて登校させる理由がある子どももいる、というのはわかります。ならば、そういう子どもだけを登校させる、というのではダメなのでしょうか? たとえば家の経済的な事情でどうしてもインターネットにつないでWEB授業をうけることができない子どももいるでしょう。学校ではそういう子どもたちを集めて授業を行う。クラス全員が出てこないとダメ、って話は少ないと思うんですよね。

もちろん、ずっと家にいろというのではなく週に1回とか2週に1回とか登校するのは良いと思うんです。でも、「通常に戻す」というのを意識して毎日登校とかにする必要、いまの段階であるんでしょうか……? いや、あるのだ、ということならそれで構わないのですが、どうもきちんと議論されているように思えないのです。いま、コロナの拡散を抑えること、経済活動を止めないことが二大重要事項ですが、それを超えるメリットが果たして登校再開にあると判断したのでしょうか。

社会全体で感染をおさえるという意味では、コントロールが難しい子どもを外に出すのが最も危険な気がするのです。また、子どもたちにとっても登校することがほんとうに「良い」ことなのかわかりません。無条件に「学校に登校できるのは良いことだ」「日常を取り戻すというのは、子どもたちにとっても嬉しいことだ」という前提を置いてしまっていませんか……?

「登校再開」というのが、どうして「全員一律で毎日(あるいは週に数日)登校せねばならない」になるのか。そこをしっかり考えていくべきではないでしょうか。少なくともそんな議論もろくにできていないのに登校するのは準備不足であろうと私は思います。緊急事態宣言にあわせるのではなく、子どもの実態と社会の実態にあわせて判断するということはできないのかなぁ。そうすれば、もうちょっとフレキシブルな学校の再開ができるんじゃないかと思うのですが、どんなもんでしょうね。

わかることとやれることは別ごとかもね、という話。

本日ツイッターを眺めていると、こんな記事がRTで回ってきました。それに関して思うところがあったので少し書いていきます。ちょっと嫌味ったらしいと思われるかもしれません。ここで引用したツイートの方などをバカにしたりという意図はなく、不適切であると言われるならば謝罪し取り下げるつもりもございます、ということをおことわりしたうえで進めさせていただきます。

 ▼「東大卒業式、ネットで激賞 伝説の格言の内幕明かし、コピペ情報に警鐘 信州大あいさつと一緒に話題に」(Yahoo!ニュース)

内容は、平成26年度の東大教養学部(駒場)の卒業式で、石井洋二郎学部長の式辞に関するもの。かつて大河内一男総長が語ったとされる「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」という「格言」について、これに「3つのデマ」が含まれている、という話です。

この「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」というのは私もよく耳にし、そのたびに疑問を感じていました。あきらかにJ.S.ミルの「It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.」(満足した豚であるよりは不満足な人間であるほうがよく、満足した愚者であるよりは不満足なソクラテスであるほうがよい)を縮小したか、あるいは改変したものです。

しかし、「豚」と対置されるのは「人間」であり、「ソクラテス」と対置されるのは「愚者」ですから、「肥った豚よりも痩せたソクラテス」などというとこれは、ミルにもソクラテスにもたいへん失礼ではないかな~なんて思っていたのですが、もとネタはこういうところにあったんですね。

さて、この記事および実際の石井氏の挨拶は、「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみる」ということの重要性を説いています。これは、ネット社会において非常に大切なことである、というのは間違いないでしょう。実際、この記事は非常に多くツイートされています。2015年4月8日の9時30分時点で約1080件。

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すべてを読んだわけではありませんが、多くの人がこれに賛意を示しています。

ただ、ここでどうしても私は「う~ん」と思ってしまうんですね。

というのは、このYahoo!ニュース自体、実は「二次文献」(あるいは総長の式辞全文を「一次資料」と見なすならば三次文献/資料)だからです。きちんと出典元は記載されていますが、これwithnewsからの引用というか転載ですよね。もとの記事は、文章こそ同じですがタイトルは全然違っていますし、写真なんかも入っていてレイアウトはまったく別モノになっています。

 ▼「東大卒業式、抜群のセンスでコピペ情報に警鐘 「肥った豚…」ネタに」(with news) 

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そして、同じく2014年4月8日の9時半時点で、こちらは130件しかツイートされていません。「一次資料にあたりましょう」ということを訴えた記事の出典もとが参照されていないわけです。笑うしかありません。

たまたま目に入っただけなので他意はないのですが、たとえばこちらの方。Yahoo!ニュースのほうを引用して次のように呟いておられます。



ご指摘はもっともで、実際に「一次情報」である総長挨拶へのリンクを貼って欲しいと言えるのは、おそらくそれを参照しようとしたからですよね。悪い意味ではなく意識の高い方なのだろうと思います。

しかしこれ、実はwithnewsのほうではきちんと「関連リンク」として末尾にリンクが貼られています

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つまり、Yahoo!ニュースが(おそらくは本文に含まれていなかったため)勝手に除外しただけです。この記事に対して批判を加えるなら、リンクを貼っていないことではなく、本来貼られていたリンクを取りこぼしたこと、でしょう。そんなことは承知のうえで上記のツイートをされた可能性はありますが、どうもYahoo!ニュースのほうを原典として扱っている気配が見えるので、私としては元の記事をご覧になっていなかったんじゃないかなぁ、と思ってしまうわけです。

ただ、この方などはおそらくマシなほうで、この記事に関して呟いた、あるいはそれをRTした1000人余りのうち、実際何人が東大教養学部のHPに行き、石井学部長のコメントを参照したのでしょうか

再びツイッターからになりますが、こちらの方。



石井氏の式辞を読めば「「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」がJ.S.ミルの言」では「ない」というのが非常に重要なポイントだというのがわかるはずなのですが、それをこういうかたちで言いとってしまうというのは、やっぱり「式辞」のほうは読まずにコメントしておられるのかなという疑いを抱いてしまいます。

一応リンクを貼っておきましょうか。

 ▼「平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞

こちらの式辞には、記事(withnews)の内容とは結構違うなというところや、よりはっきりとわかるところが幾つもあります。

たとえば、「実際は大河内さんの発言ではなくJ・S・ミルの引用だったこと。原稿には、J・S・ミルの引用を明記した上で書かれていたが、実際には読まれなかったこと」という部分。どうして「原稿」に書いてあったことのほうが一般に流布したんだろう、という疑問が起こるのですが、それについてはきちんと式辞内でわかるように説明がされています。

そして、石井氏の話というのは今回の例にとってほんとうに適切なのかな? という気もしてきます。というのは、大河内総長の「言葉」というのは、マスコミが報道したものです。そしてマスコミには東大の広報から正式に原稿が配布されていた。当時はネットなどありませんし会場の様子を録画・録音していたかどうかもわかりませんから、一般の人はメディアの発表を信じるくらいしかなかった。石井氏は「皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものである」という例でこれを挙げておられて、その意図はわからないでもないのですが、この大河内総長の話のほうは一次資料にあまりにも当たりにくいという意味において「ネットに流れている雑多な情報」とは、ややレベルが違うかなという気がします。出典元である書籍などのメディアの情報にまで疑いをむけるなら同じことが言えるかもしれませんが、それはもう「無意識のうちに伝言ゲームを反復している」のとは違いますよね。この辺の問題意識というのは、withnewsの記事を読んでいるだけでは出てきにくい内容のような気もします。

また、続きである「原文をかなりアレンジした表現になっていることなど」という部分。石井氏の発言では最終的に「これは「資料の恣意的な改竄」と言われても仕方がない」 とまで言われており、「かなりアレンジ」というのとはだいぶニュアンスが違います。石井氏が最後に、一次資料にあたることを「教養」として訴えることから考えても、この部分は割ととりおとしてはいけない(また、式辞では「意図的」ではない=アレンジというより勘違い、という立場のほうで語っておられるので、事実関係としても不適切な)表現ではないかと思われます。

と、こんな具合。やはり「伝言ゲーム」の中で取りこぼされるものや変奏されるものはある。

まあこういう話を言い出すと、じゃあミルの原典あたったのかとか、ここに掲載されている全文がほんとうに読まれたかどうかも分からんではないか、と言われそうですが、一応「ちなみに教養学部によると、公開された文章は、大河内さんの時とは違い、すべて実際に読み上げた」とのことなので、そこは信用するしかないでしょう。ミルのほうは原典あたっていません。すみません……。ただ、記憶にある内容とは一致しています。

話を戻しまして、つまるところ一次資料にあたることの重要性を説く記事が実は二次資料、あるいは三次資料であり、記事自体が多くの賛同者を得たにもかかわらずその原典なり出典元なりにきちんとアプローチをした人はおそらく結構少ない、というのがこの記事のパフォーマティブなレベルでの笑えない「オチ」ではないかと思うわけです。

こういうことを「教養」と呼ぶかどうかはさておき、実際に一次資料にあたるクセをつけるというのは、やはり相当難しいと思います。理由は主に2つあって、1つはネット情報の性質に依るもの。ネットというのはスピード感の求められるメディアなので、多少情報に誤りがあってもスピードのほうが優先されている、という側面はあるのではないでしょうか。

もう1つは、やはり人間の怠惰さ。一次資料をあたるにはなんだかんだで「ひと手間」が必要ですし、その「ひと手間」を惜しむということは多々ある。以前にも書いた気がしますが、私の記事の一部がtumblrか何かで引用されていたとき、そのtumblrで引用元として記載されている私の記事に飛んできた人は、リブログしている人の1/10にも満たないくらいの数でした。リンクをワンクリックするのでも来ないのに、自分で検索したりまして本を実際に読んだりという話になると更に厳しい気がします。

ただこのあたりのことで問題なのは、「一次資料にあたりましょう」というのが何やら高尚な、それこそ「教養」のような話だと思われていることではないでしょうか。ネットがこれだけ普及した現在、原典に、あるいは一次資料にあたるというのは「道路を渡る時は左右を確認してから渡りましょう」と同じくらいの、ごく基本的なこと、それこそ生活の知恵的なものであるべきです。

実際にできるかどうかはわかりません。正直こんな偉そうなことを書いている私も、じゅうぶんにできているとは言いがたい。むしろ手抜きまくり。道を渡るときつい飛び出してしまったり、スマホ歩きをしていてぶつかりそうになったりということがあるように、実践はなかなか伴わないものです。しかし、当たり前と思われているからこそお互い気軽に注意するし、言われた側も素直に聞き入れることができる面はあるはず。いま私たちに必要なのは、「一次資料にあたる」ということの心理的なハードルを下げて、とりあえずそれが当然だよね、という意識を広く共有できるようにすることではないかと、そんなことを思ったのでした。

あと最後、ほんとうにどうでもいい話を1つ。Yahoo!、withnewsともに見出しで使われている東大のイメージ写真。これ、「一次資料」(withnewsに出典がimasiaと記載されており、写真を検索すればこれがでてきた)だと本郷キャンパスにある安田講堂のように見えるんで、渋谷の駒場にキャンパスのある教養学部の話としてはふさわしくないのかなとか思っていたのですが、駒場の時計塔なのかな? まあ安田講堂でも、東大のシンボルということなのかもしれませんけど。(駒場祭へようこそ! と書いてあるので、駒場キャンパスの1号館の時計塔ですね。安田講堂がモチーフらしく勘違いしましたが、これこそちゃんと一次資料と対象させるべきところでした。失礼しました)

う~ん、やっぱり一次資料にあたるのってめんどくさいですね(ダメじゃん)。

新しいことへの挑戦は難しく、けれどおもしろいという話。

ちょっと私信めいた話……というかほぼ100%私信なのですが、そういうブログなのでご寛恕ください。

本日、私用でちょっとある会合に行ってきまして、まあこれまで何度か機会がありお誘いも受けていたのですが、あまり直接的なかかわりがないため敬遠したいと思ってぜんぶお断りしていました。ただ、あまり断り続けるのもアレだなという若干の申し訳なさと、一度くらい行ってみてもいいかという興味があわさって思い切って参加してきました。

すると、予想以上にフランクで気をはらずにすみ、またこれまでに知らなかった分野の世界をいろいろと知ることができた。あんまり詳しく書けない話なので抽象的でわかりにくいとは思うので恐縮ですが、ひとことで言えば非常に面白かったわけです。

お決まりの「この歳になると」なのかそれとも私の生来の性格ゆえなのかは判りませんが、どうも「新しいこと」を始めるのに躊躇いがありました。それをやることにデメリットがあるからというわけではなく、単にめんどくさい、あるいは他にやりたいこともあるし乗り気になれない。そうしてあれやこれやと言い訳をして、勝手に「どうせこんなもんだろう」と決めつけて、未知なるものへの取り組みから逃げ続けていたところがありました。

いや、いまの言い方でもちょっとカッコをつけているかなぁ。実際、怖かったんだと思います。何かよくわからないけど怖い。あるいは、わからないからこそ怖い。実際今日も現地に行く前には、「場違いじゃないかな」とか、「行ってやることあるんだろうか」とか、「数時間針のむしろじゃないのか」とか、「エロゲーやりてぇ」とか、いろいろ考えて不安になっていた。楽しみな要素ってほとんどなかったと思います。それでよく行こうという気になったもんだ……。 

結局最近の私は、その怖さみたいなのを乗り越えるエネルギーを持てないことが多かったということなのでしょう。停滞とは、そういう小さな立ち止まりの積み重ねの中で、自分に対する言い訳がどんどん上手になっていき、結果として生じるものなのかもしれません。

私にも「知らないことにどんどん挑んでみたい」と思って、考えるより即行動、みたいな時期はあったはずなのですが、新しいことにトライするというのは難しく、実際うまくいかないことも多い。だから、周りが見慣れたもので埋まってくると、自分がうまくやれること、あるいはやれそうなことを見つけてそちらに労力を傾けるほうが楽です。守りに入る、というやつですね。けど、今日その会合に行ってみて、やはり挑戦してみること、未知なるものに触れるということの面白さを思い出した気がします。

そういう気持ちになれただけでも行った甲斐はあったし、更にそこでのいろんな出会いはいまの私にとって活力を得られる有意義なものだったという確信があります。

これからは「食わず嫌い」 をできるだけやめるべく、いろんなことに挑戦していきたいなぁ。とりあえず、まずはエロゲーでやったことないブランドの作品プレイするとか、避けてたジャンルのをやってみるあたりからスタートしてみようと思います。
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