よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

考察系

オタクはハマれるときにハマれ、という話。

2024年5月18日と19日、ときメモ30周年ライブが行われました。

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まずは、こうしたイベント実現に尽力されたであろう関係者の方々や、その原動力となったファンの方々に敬意を表すとともに、お祝いを述べさせていただきます。ほんとにおめでとうございます!!!

残念ながら私は両日とも参加がかなわなかったのですが(昨日はサイン会もあったし……)、知人・友人が参加したり、あるいは間接的に現場に関わっていたこともあり、その熱量のようなものをずっと受け取っていました。

そこで思うのは、「ああ、オタクって幸せだなぁ」ということ。

正直、こういうイベントに参加している人がめっちゃ羨ましい。そして、30年を経ても……いや、経たからこそ「羨ましい」と思える自分は幸せだと感じるんです。だって、30年前の経験を、今も大切にしていて、語り合える仲間がいるってことですから。

物心ついてから30年。人生50年とか言ってた時代なら、一生の半分以上の時間が経っている。世が世ならそのくらいの感覚です。日本企業の創業後30年の存続率は0.025%と言われますから、1つのコンテンツがそんなに長く続くのって、どこにでもあるできごとではない。でも、最近オタク業界では、こういう復古的なイベントが少なからず開催されてるんですよね。アクアプラスも今年30周年イベントやるみたいですし。

10代、20代という青春の只中を「ときメモ」で過ごした、私を含めたオタクたちが若い頃を思い出し、昔のように愛を語り、場合によっては若い世代にバトンを手渡す。そんな機会がこれだけ訪れるというのは、それだけ長い間オタクがコンテンツを愛し、支えてきたということの証左です。もちろん愛し、支えてきたというのは常にではなくても、定期的に話題にしたり、同人誌の即売会でネタにしたりという形がもっぱらでしょうが、コンテンツに生命を吹き込み続けてきたわけです。

この年齢になったから分かるし言えます。10年、20年、30年……時が経っても帰る場所がある。想いを受け止め、また新たに紡いでいく場所があるというのは、何とも幸せなことじゃないですか。

オタクコンテンツばっかり言ってきましたけど、J-POPとかも最近リバイバルっぽいの盛んですよね。サザンやB'zは言うまでもないとして、他にもラルクとかGLAYとか。同じようなことが言えるんじゃないかなと思っています。

そんなわけで、いまオタクをやっている若い人には、是非伝えておきたい。ハマったオタクコンテンツは無駄にならない。だから、ハマれるときにどっぷりハマれ、と。今はSNSも充実し、ファン同士の横のつながりもとりやすいし、クリエイターさんたちに声を届けるのも昔と比べればずっと容易になりました。今10代、20代の人がハマっているものは、30年後、40年後にも受け継がれていくかもしれません。でも、そうした未来が訪れたときに、そのコンテンツを楽しめるのは、いまハマったことのある人だけなのです。

アニメでもゲームでも、アイドルでも文学でも音楽でも、何でも良いじゃないですか。とにかく好きでハマって、注ぎ込む愛情を他人と競い合うような、そんな時間を過ごしてほしい。全てではないかもしれませんが、そのうちのいくつかはきっと何十年か経った後、またあなたを幸せな気持ちにしてくれるはずですから。

自民党の裏金処分と日本のこれからの話。

自民の政治資金パーティーをめぐる裏金問題、処分が出ましたね。

 ▼「【処分一覧】自民党 39人処分決定 塩谷氏 世耕氏 離党勧告」(NHK)

派閥の政治資金パーティーをめぐる問題で自民党は安倍派と二階派の議員ら39人の処分を決定し、安倍派幹部の塩谷 元文部科学大臣と世耕 前参議院幹事長は離党勧告となりました。

これを受けて世耕氏は離党届を提出し、受理されました。

今回の問題で自民党は4日午後、党本部で党紀委員会を開き、安倍派と二階派の議員ら39人の処分を決定しました。

それによりますと安倍派でキックバックの扱いを協議した幹部4人のうち、派閥の座長を務めた塩谷 元文部科学大臣と、参議院側のトップだった世耕 前参議院幹事長が離党勧告、また下村 元政務調査会長と西村 前経済産業大臣は1年間の党員資格停止となりました。

安倍派で事務総長を務めた高木 前国会対策委員長は半年間の党員資格停止、同じく事務総長経験者の松野 前官房長官と、二階派で事務総長を務めるなどした武田 元総務大臣、林 元経済産業大臣、平沢 元復興大臣は1年間の党の役職停止となりました。

また、萩生田 前政務調査会長ら5年間の不記載などの額が2000万円以上だった議員も1年間の党の役職停止となりました。

さらに不記載などの額が1000万円から2000万円の議員は半年間の党の役職停止、500万円から1000万円の議員らは戒告となりました。

一方、5年間の不記載が3526万円と最も多かった二階・元幹事長は次の衆議院選挙に立候補しない考えを表明したことを踏まえ、処分の対象とはなりませんでした。

また、岸田総理大臣はみずからが会長を務めていた岸田派の元会計責任者が有罪となりましたが、処分されませんでした。関係者によりますと、出席者から「処分が厳しすぎるのではないか」といった意見も出されたということです。

処分の決定を受けて、世耕氏は離党届を提出し、受理されました。

個人的には「結構思い切ったな」という感じがありますが、世間的には不十分という印象もあります。まあもうこういう事件になった時点で、よっぽど凄い対応でなければどんな処分しても叩く人は出てくるので、「賛否両論」になった時点で自民党側としては御の字かもしれません。

とはいえ、今回のことは結構大きなことだと思います。かつて55年体制が崩れ、自民党が下野するきっかけとなったリクルート事件や佐川急便事件と並ぶくらいのことでしょう。政治の腐敗、汚職、そういったものが権力の長期化によって進んでいっているという話です。

ただ、その時より状態が悪いなと思うのは、「代わり」になる政党、勢力が存在しないこと。正直、ガタガタになった自民党のほうが野党よりマシという感じがあります。いまの権力が駄目だなと思っても、代わりとなるものがなければ根本的な修正は効かないわけです。そうなると今度は、権力側(自民党内)での内ゲバが始まる。今回処分された勢力と、彼らを処分することで力を握ろうとした勢力の間で足の引っ張り合いになるわけですよ。

今の日本に、そんなことしてる余裕、あるんでしょうか?

優秀な政治家、力のある政治家があんまりいない状態です。力を合わせて日本をいい方向に導いていくのが重要だと思うんですが、そういう足の引っ張り合いに力を使い、疲弊していく。頭角を現すのは、人を排除する力を持った政治家になるかもしれません。権力が揺れると、下で働く官僚組織も落ち着いて仕事ができません。

結構ヤバいと思うんですよね。しかし打開策は見えない。どうすりゃいいんでしょうか、これ。

日本人は「だまされやすい」のか。

読売新聞がこんな記事をあげていました。

いわゆるメディアリテラシーの話で、「日本人は一次資料にあたらない」というのが結論。ソリューションの1つとして、「新聞を読むやつはちょっとマシで、ネット頼りのやつはバカが多い」という結論になっています。

 ▼「日本は米・韓より「偽情報にだまされやすい」、事実確認をしない人も多く…読売3000人調査
 日本、米国、韓国の3か国調査を読売新聞と共同して行った国際大の山口真一准教授が、日本のデジタル空間の現状を分析した。

 国際比較調査で、日本の弱点が明らかになった。情報やニュースにどう接しているかをみると、日本は受け取った情報を別のソースで確認する検証行動をすることが少ない。デジタル空間を特徴付ける「アテンション・エコノミー」などの概念を理解している割合も低かった。

偽情報を示して真偽を判断する設問では、日本は「正しい」と信じていたのが37%、「わからない」が35%だった。自ら情報を確かめず、受動的に漫然と過ごしている層が多いと解釈せざるを得ない。

 日本は中立で信頼できるマスメディアから受動的に情報を得る時代が長く続き、その意識のまま玉石混交のデジタル空間で情報を摂取するようになったことが一因と考えられる。

 米韓では「情報は何らかの意図を持って発信される」と考える傾向がある。日本より、政治的な分断が進んでいるからだろう。日本でも今後は生成AI(人工知能)の発展で、偽情報が選挙に影響を与える可能性があり、混乱を招きかねない。

 傾向が判明したことで、対策を講じる際、どこに力点を置けば良いか見えてきた。それは、デジタル空間の成り立ちについての教育の充実だ。ファクトチェックの強化や、AIが作ったコンテンツの表示義務化なども欠かせない。

 AIが社会に与える影響に関しては、韓国は肯定的な人が多かった。IT産業で発展してきた国だからだ。米国では肯定派と否定派が 拮抗きっこう している。現実にAIで職を失う事例がすでに起きている一方、生産性が向上していることもあり、評価が二分したのではないか。

 これに対して日本は「どちらともいえない」が44%を占めた。AIに関する法律の議論も欧米に比べて進んでおらず、現実の「遅れ」が評価に反映したといえる。

 メディア別の信頼度を調べると、日本で新聞やテレビなど伝統的メディアは、丁寧に取材して真偽を見分けて報道しているため、信用されていた。ただ、どのような取材をしているか知らない人も少なくなく、それが一部の情報消費者の不信感にもつながっている。丹念に取材している様子を伝えることが、信頼を保つ一助になるのではないか。それがひいてはデジタル空間の健全化へとつながっていくだろう。

ですが、この記事こそが日本のメディアのレベルの低さを皮肉にも体現し、この記事を鵜呑みにすることこそが、リテラシーのなさを露呈している気がします。

まず、一次資料に当たれと言っているのに一次資料を載せていない。論文へのリンクを貼れないのだとしても、アクセスできるような示唆をすべきです(この論文集に載りますよとか)。

また、調査対象とした各国の3,000人がどういう層なのかが不明です。インターネット調査で、インターネットを日頃から使っている層であるとしたなら、日本より諸外国のほうが使い慣れている可能性はありますよね、特に韓国。その時点でベースとなるリテラシーが異なります。

誤情報に騙されていないかの確認として「正しい」「わからない」「誤り」の三択で回答を求めたところ、「誤り」と見抜くことができた割合」を見たとしていますが、日本人は「わからない」と答えていたかもしれない。「誤り」と「わからない」の違いがそこまで明確にわかるような出題だったのでしょうか。「正しい」「正しいとは言えない」の2択問題だったら結果は違っていたかもしれませんよね? あるいは、「わからない」という慎重な姿勢こそリテラシーが高いと言う可能性もあるわけです。

少なくとも、具体的にどういう調査内容だったのかがわからなければ、この実験が妥当かどうかわからない。複雑な知識が必要な化学反応とかではないのだから、そういう論理的な部分をきちっと埋める記事を書いていく必要があるのではないでしょうか。これだと、〇〇大学の先生が調査したから、という権威にすがった内容にしかなっていません。

他にもまぁツッコミするならきりがありません。

調査が嘘だ、と言っているわけではないですよ。真偽の判断ができない、考えるきっかけもないと言っているのです。

要するにこの記事は、記事として重要な正確性に関わるロジックが欠如しています。それをもって、リテラシーを問うという噴飯ものの行為が横行しているということが、日本のリテラシーを下げている根本原因だと(もし本当に低いのだとすれば)思いますけど、いかがなものでしょうか。

まるで、ワインのような。

今日立ち寄った居酒屋で、「美味しい日本酒」をリクエストされたご店主が、あるお酒を持ってきてこう言いました。「まるで、白ワインみたいな味わいの、うまいお酒ですよ」と。

「まるで◯◯のような」というのが、わかりやすい例えなのでしょう。また、「日本酒はダメだけどワインならいける」という層にアプローチするのにも効果的です。実際、お酒の専門サイトでも頻繁に同じような文言が見られますので、ある種のテンプレ表現だというのは理解る。そのうえで、私はあまりこの表現が好きではありません。

なぜか。「まるでワインのよう」という言い方って、単なる比喩であることをこえて、日本酒がワインより劣っているのが前提だから出てくる表現のように聞こえるからです。そう思いませんか? 「広末のような美人」といった時、その美人と広末比べたら、広末のほうが上ってことですよね。私の考え過ぎでしょうか。

同じ醸造酒系のお酒だから、味が似通うことはあるでしょう。でも、ワインに対して「まるで日本酒のようなワイン」って表現が使われているのはほとんど見たことがありません。「クラレンドルのような日本酒」とは言われても、「八海山のようなワイン」とは言われないわけで。ワインのほうが高価で、おしゃれで、飲みやすくて、美味しいお酒。そんなワインに近い、だから価値があるんだよ。そんなふうに聞こえてしまいます。

発泡酒に「まるでビールのような」とつけるのは、まだわかります。発泡酒はビールの下位互換のようなかたちで開発されましたから。でも、日本酒は違うでしょう。ワインとはタイプの異なるお酒です。「まるでワインのような」日本酒なら、ワインを飲めば良い。でも、そうじゃないでしょう。日本酒には日本酒のオリジナルの良さがあって、私たちはそれを楽しみに飲んでいるはずなのです。

店のご店主に、こういう意識は無かったんじゃないかと思います。単にわかりやすくするために、あるいはキャッチーに伝えるために、「ワインのような」という表現を使ったのだと思う。「花のような香り」と同じノリで。でも、いま書いたような理由で、「ワインのような」は日本酒を低く見るところから生まれた表現じゃないかなと感じてしまい、あまり良い気持ちにはなれませんでした。

とはいえ、別の酒に例えることなく味わいを表現するのって、難しいですけどね……。

意図の徹底。

仕事の影響もあって、現代アートをいろいろ見てきました。

具体的な作家さんの名前を出すのは控えますが、よくわからんなぁと思ったのが、花瓶とか酒器を、あえて割れた形で造形した作品。「用途が無く(機能が無く)、ただそこにあるだけで美しいというコンセプト」だとうかがったのですが、果たしてこれが可能なのか。

まぁ私が聞いたコンセプトはその場に居たスタッフの方からだったので作家さんご自身ではありませんし、私にはアートの素養がないので解釈もかなり雑になってしまっているとは思います。しかし、やっぱり幾つか気になることはある。

まず、「用途がない」ということがありえるのか。

確かに、割れた酒器で飲み物を飲むことはできません。でも、「飾る」時点でそれは別の用途が発生していると思います。絵画だって、壁にかける時点でインテリアです。

次に、機能と美は両立しないのか。

おそらく、「美」の「純粋さ」を追求するために他のものを削ぎ落としている、ということがコンセプトのキモなのだと思うのですが、美とは本当に、単独でなければならないものなんでしょうか。たとえば、料理。美味しさとは雑味を捨てた単独の味わいだけを意味するものなのでしょうか。それはもう信念への問いかけになってしまうのですが、だからこそ作品は、その問いに対する答えを用意していなければならないと思うのです。機能が備わることで、美の何が失われるのか? それはわかりませんでした。

最後、売るのは良いの?

その作家さんの作品には、値札がついていました。美は美だけである。芸術はただ存在するだけで価値がある、という話だったと思うのですが、これを売ってしまったらダメじゃない? そこに、金銭的価値が生じるし、意味が重なることで美の純粋さは損なわれますよね。マルクスの物神化論などを出すまでもなく、経済的機能を備えてしまうんじゃないのか。

機能を一切排することによって、純粋な美を取り出そう、みたいな話って現代アートでは本当によく見かけるんですけど、それなら金をからませちゃダメだと思うんですよね。根源に自己矛盾を含んでしまう。そして行き着く先は、完全に機能を排除することはできない、という仏教の煩悩みたいな話になっちゃうと思うんですけど、その道は既に人類が通ってるから新しくもなんとも無い、手垢の付いた思想の再現になっちゃうよという。

まあそんな感じのことを考えたわけですが、どうなんでしょうね。

共同通信とマスメディアのこと。

共同通信社の記者による「不祥事」が立て続けに起きて話題となっています。

1つは、JAXAのロケット打ち上げに対して「失敗」という表現を執拗に用い、言質を取ろうとしたことに対して。

 ▼「「それは一般的に失敗といいます」JAXA打ち上げ中止会見での共同記者の“指摘”に批判続出」(女性自身)
これに対して岡田氏は「ある種の異常を検知したら止まるようなシステムの中で、安全、健全に止まっているのが今の状況です」と返答してやり取りは終了するかと思いきや、最後に記者はこう言う。

「わかりました、それは一般に失敗といいます。ありがとうございます」

やり取りの中で“失敗”という言葉にこだわり、失敗ではないと否定したJAXAに対して、「それは失敗といいます」と締めくくった記者。この“指摘”にネット上では、批判が殺到した。

もう1つは、匿名のTwitterアカウントを使って共同通信の記者がヘイトスピーチを繰り返していたことに対して。

 ▼「【独占】ツイッターでヘイト発言を繰り返していた「桜ういろう」は、共同通信のデスクだった」(NEWSポストセブン)
 Twitter上で過激な発言を繰り返し、炎上を繰り返していたユーザーが大手メディア共同通信社の記者だったことが「週刊ポスト」の取材でわかった。

 ユーザー名は「桜ういろう」。いわゆる“左翼アカウント”として、数年前からユーザーに認知されていた。フォロワーは1.6万人にのぼる(現在はアカウントごと削除)。作家の百田尚樹氏や有本香氏らの有識者に執拗に絡み、〈【朗報】ホラノ門ニュース(編集部注:百田氏が出演していたニュース番組『真相深入り!虎ノ門ニュース』を指しているとみられる)の百田尚樹氏、やっと自分をサイコパスであることを自覚する。コバンザメの有本香氏もすかさず「『天才』は往々にして勝ち組サイコパス」とヨイショ!つーか、気付くの遅すぎ〉などと過激な投稿を繰り返していた。一般ユーザーに対しても〈ネトウヨ(ネット右翼の略称)は知識が足りない〉などと馬鹿にした言動が目立ち、問題視されていた。

 桜ういろうの発言がSNS上で大炎上したのは昨年7月。在日ウクライナ人政治評論家のナザレンコ・アンドリー氏が〈人類史上、最も人を殺したカルトは「共産主義」という〉と投稿したところ、桜ういろうは〈日本人は満州や朝鮮で、ソ連人に強姦され虐殺されました。日本人にとってナザレンコ・アンドリーさんの祖国ウクライナもまた加害者なんですよ〉〈お金が欲しいのは仕方ないかもしれませんが、どうかインチキ宗教のお金目当てで日本人を扇動するのはやめてください〉とリプライを送っていた。

前者はまだ、ある種の信念にもとづいて自分の考えを述べていたのだと言い張れないこともないでしょうが、後者はまぁ完全にアウトでしょう。

私が考えるに、問題は2つあります。1つは、マスメディアが「客観的で中立的な情報を伝えようという努力を放棄している」こと。これは、「情報が客観的・中立的ではないこと」ではありません。そんな情報を届けることは不可能です。しかし、そうあろうとすることは重要です。

打ち上げを「失敗」だと言いたかったのだとしたら、そう主張している別の専門家の発言を引っ張ってくるべきであり、記者の恣意によって「一般的には失敗と言います」などとご注進することは、メディアの領分を逸脱した行為といえる。「JAXAはこう発表した」「これに対して次のような意見もある」で良いはずです。

もう1つは、マスメディアが、自らを政治的な道具のように用いていること。桜ういろう氏の件は、単に頭のおかしな個人の暴走などではなく、現代のマスメディアが内側に抱え込んだ病理が顕在化したものだと私には思われます。自分たちを、世論を作ることができる偉い存在だと勘違いしている。JAXAの職員に投げかけた無礼な発言にも、そうした意識が透けて見えます。

自分たちの思ったように世の中の言説を動かそうとする。それはもう、メディアの報道ではなく、プロパガンダかアジテーションです。致命的なのは、おそらく当の本人たちがそのことに気づいておらず、自浄作用が望めないこと。批判を受けても、自らの報道の姿勢を顧みて一から出直す、というようなことにはならないでしょう。

すべてのマスメディアが同じだと言い切るのは乱暴かもしれませんが、日本のマスメディアの質の低さが垣間見える事件だったように思われます。

フィギュアと仏像の話。

今日はワンフェスがありました。私は参加していないのですが、友人がすごく興味を持っていて、今年はどうなのか知りませんけれども、例年だとかなりお高いやつも購入しています。で、彼の話を聞いて、フィギュアとは現代の仏像なのではないかと思った次第。バチが当たらないか心配ですが、真面目な話です。

ともあれフィギュアの話から始めましょう。いまのフィギュアってめちゃくちゃレベル高くて、細部に至るまですごいリアルなんですよね。原型師さんをはじめ、製作しておられる方々の努力と熱意には脱帽するしかありません。

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ちなみに上は、左藤空気先生のサイン会に展示してあったのを撮らせて頂いた、『ケガレボシ』のフィギュア。おっぱいが凄い質感です。

ワンフェスのツイートを見るだけでも、まるでキャラクターが作品から飛び出したかのようなフィギュアをたくさん見ることができて非常に楽しい。これが家にあったら、毎日が豊かになるだろうなぁと思わされます。








以下、今回のワンフェスとは関係ない過去のフィギュアの話になりますが、私はやっぱり美少女系のフィギュアが好きで、ライザのこれとか良いなぁと思います。キャラだけじゃなくて世界観も再現できてますよね。

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アズレンのフォーミダブルのフィギュアとかも凄い。この流れるような髪の表現。衣装のドレープ感も。

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美少女じゃなくても、『北斗の拳』のトキとか、凄いです。なんか凄いしか言ってないけど、それ以外にことばが思いつかん。死兆星が見えそうとか言えばいいですか。

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友人曰く、「フィギュアがあることでより一層、作品のキャラクターをイメージしやすくなるんだ」ということでしたが、それって「仏像」みたいだなぁと。

仏像って、時期にもよりますけど、かなり作り込んであるんですよ。

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有名な半跏思惟像。美しい像としても有名ですが、足の指とか、ディテールの作り込みが凄い。

senju

千手観音像とかも、ガチで1000腕彫り込んで(ただしくは「彫る」ではないのかもしれませんが、便宜上)いたりする。精確には1041本ですか。

現代において仏像は美術品として扱われている感じがあり、それはまぁ間違ってはいないのでしょうけれど、作られた当時を想えばやはり、第一に信仰の対象だった。仏教には「念仏」(仏の姿をありありと思い浮かべること)という修行があり、それができれば、御仏の救いが得られるのだと、そう信じられていました。細かいことを言うともうちょっといろいろあるんですが、ここは仏教の専門講義をする場所ではありませんから、ざっくりそんな説明で許してください。

しかし、奈良時代やら平安時代の人の目の前にあるのは、漢字で書かれたお経の文字だけ。テレビも漫画もない当時の人びとが、それで仏の姿を思い描くというのはかなり困難です。

そこで、仏教美術の出番。仏画も仏像も、人びとが仏の姿をイメージしやすいよう、お経をもとに姿かたちや表情、ポーズ、シチュエーションを可視化したのですね。だから、顔の向き、指先の動き1つとっても意味があります。

要するに仏像というのは、仏様を信仰する人びとが、御仏のお姿やらおわします世界の様子やらを如実にイメージしやすくなるように作られたものであり、仏像を見ることで、悟りを身近なものにしようとしたわけですね。たぶん。よく知らんけど。

翻って現代のフィギュアを見れば、物語の世界をリアルにイメージし、キャラを身近に感じるためにあると言えなくもない。美少女フィギュアだと、それが側にいることで賢者となって悟る人も少なからずおられることでしょう。これはもう、現代の仏像と申し上げて過言ではないのではないか、と。

そんな話を友人にしたのですが、呆れられてしまいました。でも、誰か言ってそうな話だとは思うんですけどね……。

ちなみに、「現代の仏像」っていうのは本当にアートの世界であったりします。

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こういうやつ。現代美術作家・上根拓馬氏の作品。現代っていうか、近未来っぽいですね。「基本的に経典に書かれている内容に沿って制作」されているそうで、なるほどこういう路線もあるのかと。面白く感じました。

政府の愚策と教育の暗澹たる行く末の話。

昨年のニュースではありますが、もうじき「新年度」を迎えるにあたり、状況が改善しているという話はいっこうに耳にしないので、ちょっと取り上げます。この辺の話って、教育にちょっとでも関わった人には馬鹿馬鹿しさがわかるけど、学校を「通う側」からしか見ていない人にはわからないと思うんですよね……。

▼「「教員不足」で緊急通知 “特別免許制度の積極活用を” 文科省」(NHK NEWS WEB)
2022年4月21日 19時15分 

新年度も各地で厳しい「教員不足」の状況が発生しているとして、文部科学省は教員免許がなくても知識や経験がある社会人を採用できる制度を積極的に活用するよう全国に緊急で通知しました。

文部科学省が昨年度初めて行った全国調査では、4月の始業日の時点で公立の小中学校や高校などで合わせて2558人の教員不足が明らかになりましたが、今年度も厳しい教員不足の状況が報告されているとして、文部科学省は全国の教育委員会に緊急で通知しました。

この中では、教員免許がなくても知識や経験のある社会人を教員として採用できる特別免許の制度について、博士号を取得した人や国際的なコンクールで実績がある人などにも基準を緩和できるとしたうえで、積極的な制度の活用を促しています。

また、教員免許を持つ人を採用できない場合に例外的に認められる臨時免許についても、中学校の免許がある人に小学校の臨時免許を与えたり、免許があったものの更新しなかった人に臨時免許を与えたりできるとしています。

そのうえで、特別免許や臨時免許で採用される人は必要な知識や技能が不足していることも想定されるとして、各自治体に適切な研修を求めています。

教育財政や教員の配置に詳しい日本大学の末冨芳教授は「緊急的な対策だけでなく抜本的な対策を同時に進めることが重要で、この状況が続けば子どもの学びや成長への影響が懸念される。国や自治体は事態の深刻さを認識し正規の教員をしっかり確保できるよう予算を確保していくことが重要だ」と指摘しています。


肝心なのは、求められているのが「公立の小中学校や高校」の教員である、ということです。大学教員ではない。大学教員は、むしろなりたい人で溢れてますからね。

小中学校や高校(小中高)の教員に求められるのは、学力や教科の指導力以前に、生徒児童を「まともに生活させる力」です。チャイムが鳴ったら座る。授業中に暴れない。列を作ったらまっすぐ並ぶ。信号は赤で止まる……。高校レベルでもそういった指導が必要なことは、先般から話題の「スシロー醤油ぺろぺろ事件」を見ればわかるでしょう。全国各地の高校で、あのレベルの人たちがわんさかいるということは、小中学校はもっと酷いということです。

また、子どもたちの間でさまざまなもめ事があり、そのケアに追われる。なんせ都心だと、30人とか40人が1クラスにひしめいているわけで、そこに発生する人間関係は子どもだからこそ、無慈悲なものになりがちです。心を病む子どもも少なからずおり、彼ら彼女らの頼る先は、まず教員なのです。

これに加えて、子どもの保護者が学校に口出ししてくることも少なくありません。「モンスターペアレント」なんてことばも一時期流行りましたが、最近その名前を聞かなくなったのは、いなくなったからではなくもはや当たり前のモノとして定着してしまったからです。当人達は「当然の要求」をしているつもりでも、「全体」を優先させなければならない学校において、個別の家庭の事情はくみ取れない場合も多いということを理解しない、あるいはできない保護者は多い。その認識の齟齬を抱えたままトラブルになると、話が通じないので時間と労力と精神力を使って、事態は悪化していくとかいう地獄のような状況が訪れます。しかも、多くの保護者は若い教員を下に見ている。中には、「先生には子どもがいないからわからないでしょうけど」なんてセクハラまがいの暴言を吐く(そして、それがセクハラだと思っていない)保護者もいるようです。それでも、教員の側は保護者に訴訟をできないんですよね。いや、物理的にはできるのかもしれませんが、あんまり聞いたことがありません。

話が長くなりましたが、子どもと同レベルか、下手をすればそれ以上にやっかいな保護者がいる。30人の学級を担当すると、プラス30人の保護者、両親揃ってヤバいやつだと60人の保護者を意識しながら毎日を過ごさねばならないわけです。私立ならまだ保護者の層もある程度保証されていていくぶんかマシかもしれませんが、公立はそうとうしんどいでしょう。

で、コレに加えて授業研究やらテストの作成・採点やら部活動やらその他の校務やらがあるわけです。私の親戚で私立の高校教員がいましたが、教員が辞めすぎて人材がおらず、30代前半で教科主任と校務の主任、部活動の責任者を兼任させられ、毎日深夜2時以降の帰宅になり(電車が無いので近隣にアパートを借りたそうです)、5年で身体を壊して辞めました。それでも5年いると、辞める頃には職場の「古株」になっていたそうです。そして、そういった話が珍しくない世界だ、とも聞きました。

というわけで、教員が辞めまくって足りなくなるのは、教科の指導ができないからではありません。まずもってマンパワーが足りていないことや、「話が通じない」相手とつきあっていかねばならない精神的な負担が大きいからです。

にもかかわらず、政府は「博士号を取得した人や国際的なコンクールで実績がある人」などにも基準を緩和、といった寝ぼけたことを言っているわけです。あのね、そんな人が、自分の技能も活かせない教員になりたがるわけないでしょ

bakaja

だいたい、もしそういう人が技能を活かせるような学校なら、そもそも人手不足になっていません。人手が足りなくて困っているのは、もっと泥臭いことが必要な場所なのです。現状をどう認識しているのかわかりませんが、解決策がまったく現状にマッチしていない。「小中高の人手がたりない」+「教員には高度な力が求められる」+「博士号持ちの高学歴者に仕事がない」=「博士号持ってる就職できてない奴を小中高にまわそう」といった感じの計算が行われたのではないかと推察します。お役所仕事ここに極まれりという。今の公立の小中高に、そんな高度な人材がどれほどの役に立つというのか。

もちろん、だからといってどんな人でも採用すればいいかというと、それは違います。いままで述べてきたのとは別の話として、酷い教員によって酷い教育(狂育)が行われた結果、子どもたちに取り返しのつかない傷を負わせた、なんて話も珍しくありません。教員によるパワハラや淫行が発覚するにつけ、そこのクオリティを維持する大切さを誰もが痛感するでしょう。

つまり、人格的にもすぐれ、子どもたちを指導する力もあり、教科を教える技術もある。そういう人を大量に引っ張ってこないとダメなんですが……。そんなのほとんど無理じゃんと思うかも知れません。でも、解決する方法はたぶんあります。ぶっちゃけ、カネです。記事の末尾で日大教授が言っておられる「国や自治体は事態の深刻さを認識し正規の教員をしっかり確保できるよう予算を確保していくことが重要だ」というのはまことにその通りで、クソの役にも立たなさそうな施策を考えてる暇があるなら、予算ぶんどってくるべきだろ、というのが、教育にタッチしたことがある人の感覚でしょう。ただ、どんな風にその予算を使うべきかということも議論されなければなりません。

教員1人あたりの給料を良くすれば良い、という話も聞きます。でも、年収1000万円になったところで、そこまで優秀な人が何千人もいるとは思えない。ではどうするか。いっそ方向を転換して、分業すればいいのです。

たとえば、1クラスが30人から15人になるだけで、教員の負担はぐっと減ります。テストだって半分で済みますからね。また、テストを作る教員と授業を行う教員を別にしたり、学校の事務的なこと(校務)を担当する教員と授業をする教員、クラスをまとめる教員を別にしてやればいい。また、それぞれに適正な資格を設定してもいいかもしれません。臨床心理士の資格があれば、授業は担当できないけれどホームルーム教員になれるとか。むしろ、ホームルーム教員にはそういう資格を必須にするほうがいいのかな……。

ともあれそうすれば、各教員は仕事に専念できてその分余裕ができます。給料は良くならなくても、仕事が減って適正量になれば、なり手は増えるんじゃないかと思います。部活動を外部委託するという話がありますが、あれもきちんと国がお金を出して、部活動専門の教員として採用すりゃいいんですよ。そしたら、部活の指導をしたくて教員になった、いやいや保健体育教えてるクソみたいな体育教師とかいなくなってみんなハッピー。やったね。

ただ、これをやるとなると今の2倍から3倍、教員を雇う必要があります。学校の教員室(職員室)も拡大しないといけない。予算はかなりかかります。ですが、やればほぼ確実に教員のクオリティは上がるし、教育も充実する。20年、30年後の日本の将来を担う世代を、きちんと育てていくことができ、それがひいては日本社会の充実に繋がるはずなのです。

だいたい、教育のための予算(文教費)が年間予算の5%ほどしかないわけで、せめて1割にすれば、完全とは言わないまでも上のようなことはできるでしょう。もちろんそのぶんの予算どこ削るんだみたいな話はありますが、日本という国家の将来を考えるなら、無理にでも捻出すべき費用だと私は思っています。

データの罠。

これめっちゃ笑いました。




kogan

女性の方が平均年齢が高いから、男女の人口比が崩れたところで中央値が0に急落するわけですね。

なるほど、平均とか中央値とか、きちんと意味を考えて使わないとデータから現象をただしく理解できないし、いい加減な言説にダマされることになるのでしょう。

中高の数学とか情報の授業で、こういうことが理解できるところまで教育ができるのなら、日本の将来は明るいと思うんですけどなかなか難しいんですかね、やっぱり……。

反ワクチン思想の話。

先日ワクチンを打った話を書いたら、1件だけですが、「ワクチンのような危険思想を広めるな」みたいなお便りをいただきました。ご意見・ご感想はありがたく拝読しました(ワクチンは思想ではありませんが)。ただ、すでにお返事を差し上げた通り、当方としては自分のワクチン接種体験談を出すことに(限られた狭い範囲とはいえ)意義があると思っておりますので、あしからずご了承ください。

その方に限らないのですが、「反ワクチン」の思想に私は困惑と恐ろしさを感じます。それは、内容に対してではありません。もちろんワクチンにナノマシンが混入されていて思考が操られるとか寿命が縮むとかいった主張そのものに首を傾げたくなることは多いのですが、それよりも、基本となる考え方が遠く隔たりすぎているという事実のほうに、どう処すればよいかわからないのです。

私は医学の専門家ではありません。よって、ワクチンに関するさまざまな論文を読みこなせてもいなければ、ワクチンが機能する機序も正確に理解できてもいません(根拠となる英語の論文を読んではいますが、化学・生物学の用語などはさっぱりわかりませんし、機械翻訳に頼っている部分もあります)。その意味で、ワクチン反対派の主張を私自身が論理的に反駁することはできません。私はただ、外側の権威に頼って彼らの主張はおかしいと言っているだけです。そこは、認めねばならないでしょう。

もっとも、ワクチン反対派も状況は似たようなものです。私にメッセージをくださった方も、別の偉い(?)人のまとめた内容を紹介していましたし、その人も海外のジャーナルを引用するアメリカ人医師の発言を出典としていました。彼ら・彼女らもまた外側の権威を借りてきているにすぎないわけです。

ワクチンvs反ワクチンの戦いは、互いの信じる権威――神と呼ぶならそうなのでしょう――をめぐる争いと化しています。たとえて言えば、ある「できごと」に対して『ネイ○ャー』誌を引用するか『○ー』誌を引用するかの違いであって、自分自身のこととしてその「できごと」を知っているわけではない、ということです。

ただそれでも、多くの人は「どっちを信じるか」と訊かれれば「こっち」というのが共通しています。しかし、反ワクチン思想はそこが一致しない。平然と、私(あるいは私たち)が信じているものをデマや陰謀と呼び、自分たちの真実を主張するわけです。

たとえば、いま私たちは「地動説」を信じています。けれど、実際に地球が太陽の周囲をまわっているのを見た人はほとんどいないでしょう。また、惑星の公転周期を計算した人もかなり少ないと思います。それでも私たちが地動説を信じるのは、それが教科書に載っているからであり、その教科書は政府が認めているものだからであり、政府が認めているということは多くの専門家が異論を唱えていないから……ではないでしょうか。まあ「政府」を出すと面倒なことになるかもしれませんのでそこを省いても良いです。要は、大多数の専門家が保証してくれる真実であるから私たちも信じる。そういう、ベーシックな信頼が存在します。だから実際、専門家の中で意見が割れるような内容については共通見解が見出しにくく、諸説入り乱れる場合は少なくありません。歴史認識なんかはその1つかもしれませんね。

さて、今お話をしているワクチンですが、私の立場からすると、これはもう信用していい情報であると思うわけです。もちろん究極的には根拠のない信仰ではあるのですが、各種の国際機関の発表、研究所が公開しているデータ、読み解いている専門家……そういった人びとへの信頼が情報を取捨選択させます。

しかし、反ワクチン派の人はそれらを「陰謀だ」と喝破し、私からすると怪しげなデータに基づいてまったく異なる主張を行う。むしろ、「政府は嘘をつくものだ」「専門家やメディアが声高に主張することは嘘だ」という確信に近い疑惑から議論を立ち上げているように見えます。それを馬鹿げたことだと笑うのは容易いのですが、しかし、だとすれば私たちにとって彼らは(また彼らにとって私たちは)まったく違う神を崇める異教徒なわけです。つまり、互いに対話ができないわけです。

お互いが信じるもの、重きを置くものが正反対で、歩み寄りの可能性がほぼない。そういうコミニュティ同士が対立するとろくなことにならないですし、ましてそういう人がすぐそばにいる、というのはとても怖いことだと思います。たぶん、互いをリスペクトして……なんてことはできないでしょう。実際なっていません。さりとて不干渉でいようにも、同じコミュニティで生活しているわけですし互いの主張のためにどうしても干渉せざるを得ないことが出てくる。そのとき、私たちはどうすればいいのか。一方的に我慢するのか、何か対処するのか。対処を誤るとどうなってしまうのか。

ついでに言えば、もちろん自分の立っている場所がほんとうに安全なのか、という疑いもごくわずかですがあります。大日本帝国で大本営発表を人びとが信じていたように、あるいは崩壊した共産主義国家の中で人びとが自分たちの進歩の絶対性を信じていたように、私がまやかしの中で生きている可能性がないわけではない。

そういった可能性を惹起させる存在としても、「異質な」人というのが私を何かしら恐怖へと駆り立てるのです。なんか最近、本当にそういう「こわい」という思いが強くなってきました。私たちはどうやって生きていけば良いんでしょうね。
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