仕事の影響もあって、現代アートをいろいろ見てきました。
具体的な作家さんの名前を出すのは控えますが、よくわからんなぁと思ったのが、花瓶とか酒器を、あえて割れた形で造形した作品。「用途が無く(機能が無く)、ただそこにあるだけで美しいというコンセプト」だとうかがったのですが、果たしてこれが可能なのか。
まぁ私が聞いたコンセプトはその場に居たスタッフの方からだったので作家さんご自身ではありませんし、私にはアートの素養がないので解釈もかなり雑になってしまっているとは思います。しかし、やっぱり幾つか気になることはある。
まず、「用途がない」ということがありえるのか。
確かに、割れた酒器で飲み物を飲むことはできません。でも、「飾る」時点でそれは別の用途が発生していると思います。絵画だって、壁にかける時点でインテリアです。
次に、機能と美は両立しないのか。
おそらく、「美」の「純粋さ」を追求するために他のものを削ぎ落としている、ということがコンセプトのキモなのだと思うのですが、美とは本当に、単独でなければならないものなんでしょうか。たとえば、料理。美味しさとは雑味を捨てた単独の味わいだけを意味するものなのでしょうか。それはもう信念への問いかけになってしまうのですが、だからこそ作品は、その問いに対する答えを用意していなければならないと思うのです。機能が備わることで、美の何が失われるのか? それはわかりませんでした。
最後、売るのは良いの?
その作家さんの作品には、値札がついていました。美は美だけである。芸術はただ存在するだけで価値がある、という話だったと思うのですが、これを売ってしまったらダメじゃない? そこに、金銭的価値が生じるし、意味が重なることで美の純粋さは損なわれますよね。マルクスの物神化論などを出すまでもなく、経済的機能を備えてしまうんじゃないのか。
機能を一切排することによって、純粋な美を取り出そう、みたいな話って現代アートでは本当によく見かけるんですけど、それなら金をからませちゃダメだと思うんですよね。根源に自己矛盾を含んでしまう。そして行き着く先は、完全に機能を排除することはできない、という仏教の煩悩みたいな話になっちゃうと思うんですけど、その道は既に人類が通ってるから新しくもなんとも無い、手垢の付いた思想の再現になっちゃうよという。
まあそんな感じのことを考えたわけですが、どうなんでしょうね。
具体的な作家さんの名前を出すのは控えますが、よくわからんなぁと思ったのが、花瓶とか酒器を、あえて割れた形で造形した作品。「用途が無く(機能が無く)、ただそこにあるだけで美しいというコンセプト」だとうかがったのですが、果たしてこれが可能なのか。
まぁ私が聞いたコンセプトはその場に居たスタッフの方からだったので作家さんご自身ではありませんし、私にはアートの素養がないので解釈もかなり雑になってしまっているとは思います。しかし、やっぱり幾つか気になることはある。
まず、「用途がない」ということがありえるのか。
確かに、割れた酒器で飲み物を飲むことはできません。でも、「飾る」時点でそれは別の用途が発生していると思います。絵画だって、壁にかける時点でインテリアです。
次に、機能と美は両立しないのか。
おそらく、「美」の「純粋さ」を追求するために他のものを削ぎ落としている、ということがコンセプトのキモなのだと思うのですが、美とは本当に、単独でなければならないものなんでしょうか。たとえば、料理。美味しさとは雑味を捨てた単独の味わいだけを意味するものなのでしょうか。それはもう信念への問いかけになってしまうのですが、だからこそ作品は、その問いに対する答えを用意していなければならないと思うのです。機能が備わることで、美の何が失われるのか? それはわかりませんでした。
最後、売るのは良いの?
その作家さんの作品には、値札がついていました。美は美だけである。芸術はただ存在するだけで価値がある、という話だったと思うのですが、これを売ってしまったらダメじゃない? そこに、金銭的価値が生じるし、意味が重なることで美の純粋さは損なわれますよね。マルクスの物神化論などを出すまでもなく、経済的機能を備えてしまうんじゃないのか。
機能を一切排することによって、純粋な美を取り出そう、みたいな話って現代アートでは本当によく見かけるんですけど、それなら金をからませちゃダメだと思うんですよね。根源に自己矛盾を含んでしまう。そして行き着く先は、完全に機能を排除することはできない、という仏教の煩悩みたいな話になっちゃうと思うんですけど、その道は既に人類が通ってるから新しくもなんとも無い、手垢の付いた思想の再現になっちゃうよという。
まあそんな感じのことを考えたわけですが、どうなんでしょうね。





