先日ワクチンを打った話を書いたら、1件だけですが、「ワクチンのような危険思想を広めるな」みたいなお便りをいただきました。ご意見・ご感想はありがたく拝読しました(ワクチンは思想ではありませんが)。ただ、すでにお返事を差し上げた通り、当方としては自分のワクチン接種体験談を出すことに(限られた狭い範囲とはいえ)意義があると思っておりますので、あしからずご了承ください。
その方に限らないのですが、「反ワクチン」の思想に私は困惑と恐ろしさを感じます。それは、内容に対してではありません。もちろんワクチンにナノマシンが混入されていて思考が操られるとか寿命が縮むとかいった主張そのものに首を傾げたくなることは多いのですが、それよりも、基本となる考え方が遠く隔たりすぎているという事実のほうに、どう処すればよいかわからないのです。
私は医学の専門家ではありません。よって、ワクチンに関するさまざまな論文を読みこなせてもいなければ、ワクチンが機能する機序も正確に理解できてもいません(根拠となる英語の論文を読んではいますが、化学・生物学の用語などはさっぱりわかりませんし、機械翻訳に頼っている部分もあります)。その意味で、ワクチン反対派の主張を私自身が論理的に反駁することはできません。私はただ、外側の権威に頼って彼らの主張はおかしいと言っているだけです。そこは、認めねばならないでしょう。
もっとも、ワクチン反対派も状況は似たようなものです。私にメッセージをくださった方も、別の偉い(?)人のまとめた内容を紹介していましたし、その人も海外のジャーナルを引用するアメリカ人医師の発言を出典としていました。彼ら・彼女らもまた外側の権威を借りてきているにすぎないわけです。
ワクチンvs反ワクチンの戦いは、互いの信じる権威――神と呼ぶならそうなのでしょう――をめぐる争いと化しています。たとえて言えば、ある「できごと」に対して『ネイ○ャー』誌を引用するか『○ー』誌を引用するかの違いであって、自分自身のこととしてその「できごと」を知っているわけではない、ということです。
ただそれでも、多くの人は「どっちを信じるか」と訊かれれば「こっち」というのが共通しています。しかし、反ワクチン思想はそこが一致しない。平然と、私(あるいは私たち)が信じているものをデマや陰謀と呼び、自分たちの真実を主張するわけです。
たとえば、いま私たちは「地動説」を信じています。けれど、実際に地球が太陽の周囲をまわっているのを見た人はほとんどいないでしょう。また、惑星の公転周期を計算した人もかなり少ないと思います。それでも私たちが地動説を信じるのは、それが教科書に載っているからであり、その教科書は政府が認めているものだからであり、政府が認めているということは多くの専門家が異論を唱えていないから……ではないでしょうか。まあ「政府」を出すと面倒なことになるかもしれませんのでそこを省いても良いです。要は、大多数の専門家が保証してくれる真実であるから私たちも信じる。そういう、ベーシックな信頼が存在します。だから実際、専門家の中で意見が割れるような内容については共通見解が見出しにくく、諸説入り乱れる場合は少なくありません。歴史認識なんかはその1つかもしれませんね。
さて、今お話をしているワクチンですが、私の立場からすると、これはもう信用していい情報であると思うわけです。もちろん究極的には根拠のない信仰ではあるのですが、各種の国際機関の発表、研究所が公開しているデータ、読み解いている専門家……そういった人びとへの信頼が情報を取捨選択させます。
しかし、反ワクチン派の人はそれらを「陰謀だ」と喝破し、私からすると怪しげなデータに基づいてまったく異なる主張を行う。むしろ、「政府は嘘をつくものだ」「専門家やメディアが声高に主張することは嘘だ」という確信に近い疑惑から議論を立ち上げているように見えます。それを馬鹿げたことだと笑うのは容易いのですが、しかし、だとすれば私たちにとって彼らは(また彼らにとって私たちは)まったく違う神を崇める異教徒なわけです。つまり、互いに対話ができないわけです。
お互いが信じるもの、重きを置くものが正反対で、歩み寄りの可能性がほぼない。そういうコミニュティ同士が対立するとろくなことにならないですし、ましてそういう人がすぐそばにいる、というのはとても怖いことだと思います。たぶん、互いをリスペクトして……なんてことはできないでしょう。実際なっていません。さりとて不干渉でいようにも、同じコミュニティで生活しているわけですし互いの主張のためにどうしても干渉せざるを得ないことが出てくる。そのとき、私たちはどうすればいいのか。一方的に我慢するのか、何か対処するのか。対処を誤るとどうなってしまうのか。
ついでに言えば、もちろん自分の立っている場所がほんとうに安全なのか、という疑いもごくわずかですがあります。大日本帝国で大本営発表を人びとが信じていたように、あるいは崩壊した共産主義国家の中で人びとが自分たちの進歩の絶対性を信じていたように、私がまやかしの中で生きている可能性がないわけではない。
そういった可能性を惹起させる存在としても、「異質な」人というのが私を何かしら恐怖へと駆り立てるのです。なんか最近、本当にそういう「こわい」という思いが強くなってきました。私たちはどうやって生きていけば良いんでしょうね。
その方に限らないのですが、「反ワクチン」の思想に私は困惑と恐ろしさを感じます。それは、内容に対してではありません。もちろんワクチンにナノマシンが混入されていて思考が操られるとか寿命が縮むとかいった主張そのものに首を傾げたくなることは多いのですが、それよりも、基本となる考え方が遠く隔たりすぎているという事実のほうに、どう処すればよいかわからないのです。
私は医学の専門家ではありません。よって、ワクチンに関するさまざまな論文を読みこなせてもいなければ、ワクチンが機能する機序も正確に理解できてもいません(根拠となる英語の論文を読んではいますが、化学・生物学の用語などはさっぱりわかりませんし、機械翻訳に頼っている部分もあります)。その意味で、ワクチン反対派の主張を私自身が論理的に反駁することはできません。私はただ、外側の権威に頼って彼らの主張はおかしいと言っているだけです。そこは、認めねばならないでしょう。
もっとも、ワクチン反対派も状況は似たようなものです。私にメッセージをくださった方も、別の偉い(?)人のまとめた内容を紹介していましたし、その人も海外のジャーナルを引用するアメリカ人医師の発言を出典としていました。彼ら・彼女らもまた外側の権威を借りてきているにすぎないわけです。
ワクチンvs反ワクチンの戦いは、互いの信じる権威――神と呼ぶならそうなのでしょう――をめぐる争いと化しています。たとえて言えば、ある「できごと」に対して『ネイ○ャー』誌を引用するか『○ー』誌を引用するかの違いであって、自分自身のこととしてその「できごと」を知っているわけではない、ということです。
ただそれでも、多くの人は「どっちを信じるか」と訊かれれば「こっち」というのが共通しています。しかし、反ワクチン思想はそこが一致しない。平然と、私(あるいは私たち)が信じているものをデマや陰謀と呼び、自分たちの真実を主張するわけです。
たとえば、いま私たちは「地動説」を信じています。けれど、実際に地球が太陽の周囲をまわっているのを見た人はほとんどいないでしょう。また、惑星の公転周期を計算した人もかなり少ないと思います。それでも私たちが地動説を信じるのは、それが教科書に載っているからであり、その教科書は政府が認めているものだからであり、政府が認めているということは多くの専門家が異論を唱えていないから……ではないでしょうか。まあ「政府」を出すと面倒なことになるかもしれませんのでそこを省いても良いです。要は、大多数の専門家が保証してくれる真実であるから私たちも信じる。そういう、ベーシックな信頼が存在します。だから実際、専門家の中で意見が割れるような内容については共通見解が見出しにくく、諸説入り乱れる場合は少なくありません。歴史認識なんかはその1つかもしれませんね。
さて、今お話をしているワクチンですが、私の立場からすると、これはもう信用していい情報であると思うわけです。もちろん究極的には根拠のない信仰ではあるのですが、各種の国際機関の発表、研究所が公開しているデータ、読み解いている専門家……そういった人びとへの信頼が情報を取捨選択させます。
しかし、反ワクチン派の人はそれらを「陰謀だ」と喝破し、私からすると怪しげなデータに基づいてまったく異なる主張を行う。むしろ、「政府は嘘をつくものだ」「専門家やメディアが声高に主張することは嘘だ」という確信に近い疑惑から議論を立ち上げているように見えます。それを馬鹿げたことだと笑うのは容易いのですが、しかし、だとすれば私たちにとって彼らは(また彼らにとって私たちは)まったく違う神を崇める異教徒なわけです。つまり、互いに対話ができないわけです。
お互いが信じるもの、重きを置くものが正反対で、歩み寄りの可能性がほぼない。そういうコミニュティ同士が対立するとろくなことにならないですし、ましてそういう人がすぐそばにいる、というのはとても怖いことだと思います。たぶん、互いをリスペクトして……なんてことはできないでしょう。実際なっていません。さりとて不干渉でいようにも、同じコミュニティで生活しているわけですし互いの主張のためにどうしても干渉せざるを得ないことが出てくる。そのとき、私たちはどうすればいいのか。一方的に我慢するのか、何か対処するのか。対処を誤るとどうなってしまうのか。
ついでに言えば、もちろん自分の立っている場所がほんとうに安全なのか、という疑いもごくわずかですがあります。大日本帝国で大本営発表を人びとが信じていたように、あるいは崩壊した共産主義国家の中で人びとが自分たちの進歩の絶対性を信じていたように、私がまやかしの中で生きている可能性がないわけではない。
そういった可能性を惹起させる存在としても、「異質な」人というのが私を何かしら恐怖へと駆り立てるのです。なんか最近、本当にそういう「こわい」という思いが強くなってきました。私たちはどうやって生きていけば良いんでしょうね。





