アタマに電気を流して鬱を治す……そんな夢(?)のようなお話が現実になりつつあるようです。

 ▼「脳に埋め込んだ電極で「うつ状態」から「喜びに満ちた状態」へ感情を移行させることに成功」(ナゾロジー)

1月18日に『Nature Medicine』に掲載された論文によれば、脳内に埋め込んだ電極で「喜びの回路」を刺激することで、難治性のうつ病が数分で改善したとのこと。

信じがたい話ですが、論文が掲載された『Nature Medicine』は権威ある『Nature』系列の科学雑誌であり、信ぴょう性は確かなようです。

しかし研究者たちは、個人差の大きな脳からどうやって「喜びの回路」をみつけたのでしょうか?

(中略)

そして今回、マッピング技術の性能を確かめるために、難治性うつ病に苦しむ36歳の女性患者に対して、はじめての試験が行われました。

その結果は、まさに驚きでした。

女性患者は覚えている限り5年間、一度も笑ったことがないほどの重いうつ病でしたが、神経マッピングによって発見された最適部位に電気刺激が行われると

「突然、心の底から本物の歓喜と多幸感を感じ、世界に色が戻ったように感じて笑みが絶えない状態に変化した」

とのこと。

この結果は脳への適切な電気刺激が、喜びの感情を強制的に起動し、うつ病に対して有効に働いたことを示します。

しかしより興味深い点は、刺激する場所によって女性患者が感じる喜びの質に違いがあったことがあげられます。


英文の方も目を通しましたが、実際に医療の現場で用いられるようになるのか、また効果がどのくらい持続するのか、萎縮した脳の働きが回復するのか、副作用はどうなのか……といった部分は置いといて、脳に電気的な信号を流したり、あるいは流した結果出てくる化学物質を投与することで感情をコントロールする、という研究がずいぶんと進んでいることにある種の感慨を抱きました。

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人間を「知覚の束」といったのは哲学者のヒュームですが、私たちが強固に信頼している自我や理性、感情といったものを究極的にはすべて化学物質の反応で説明できるのだとすれば、私たちの「人間」という感覚には大きな違いが生まれるだろうし、事実そうなりつつあります。

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少しわかりにくいかもしれないので丁寧に言いますと(この手の話が好きな人は別として)、人間の感覚・感情・思考といったものは脳の反応によって生じます。それをコントロールしている物質と、その時の脳の反応を自在にコントロールできるのだとすれば……と考えてみて下さい。

今回とりあげたニュースのように、鬱をキャンセルして多幸感をもたらすこともできるでしょうし、特定のものごとに対してやる気を出させることもできるでしょう。親や先生に従順にさせる回路、みたいなものだって発見されるかもしれません。眠くなる刺激を与えてやれば睡眠薬がわりになり得るし、逆に脳を興奮させて覚醒に導くことも難しくないはずです。また、視覚や聴覚、嗅覚と結びつく部分を刺激することで幻覚を見せることも可能かもしれない……。感情、思考、行動。そういったものを物質的な反応として説明し、制御できるようになるわけです。ある意味究極の唯物論ですね。

SF小説の古典的名著・オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』では、人びとが「ソーマ」と呼ばれる、多幸感を得られる薬を受け取って「幸せに」生きているデストピアが描かれていましたが、そういうSFチックな世界も遠くないのかな、なんてことを考えてしまいます。

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もちろんそこまでの反応が解明できるのか、できたとしてほんとうに制御できるのかはわかりません。「近代哲学の父」と呼ばれたデカルトは、世界のすべてを機械論的に説明できると信じていました。すなわち、世界の因果化関係はすべて何らかの法則にもとづく説明可能なものなので、究極のところまでいけばAという行為がどのような結果をもたらすか、完全に予測できるはずだ、と。世界は巨大な機械のようなもので、どういうことが起きればどういう反応があるのかは決まっている、というわけです。

デカルトのこうした発想から物理学が発展してきたことはあまりに有名ですが、21世紀の現代にいたり、私たちの世界は機械論的な部分とそうでない部分の差を、未だに埋めきれないでいます。むしろ、そこに埋めがたい何かがあるということがかえって鮮明になってきたとも言えるでしょう。

取り上げた記事のような研究が進み、人間の記憶や感情などがすべて電気信号として記録できるようになったとしたら――。そうなったら、「脳のコピー」を作ることができるようになるかもしれません。あるいは、ある人とまったく同じ思考をすることのできる脳をつくる、とか(理論的には可能だとしても、現実にはもちろん無理だと思います)。

ただ、そうなったとしても「私」という神秘は失われないのだろうという妙な確信もあります。スピリチュアルな話ではなく。

たとえば、「私」と「私の脳のレプリカ」があったとします。「私」が死んだとしても、その記憶は全て「私の脳のレプリカ」に移植されて次の肉体へ受け継がれる。そんな夢のような「転生」が可能になった世界を想像してみてください。

外側で生きている人間には、「私」と「私の脳のレプリカ」に違いはないのかもしれません。しかし、死んでしまう「私」は、ほんとうにそれで納得できるでしょうか? だって、「私」には、「私」の死後のことはわからないのに。あなたの記憶をすべて引き継いであなたと同じように振る舞うコピーロボットが、あなたの死後のことをすべて引き継いでくれるから安心して死んでくれ、といわれて全員が全員納得できるとは、私には思えません。少なくとも私は無理かな。

ロマン主義的な話になるけれど、その揺るぎない一回性を認めるならば、それこそ私たちが「魂」と呼ぶものの置きどころのようにも思われます。そんなふうに考えると、今回とりあげたような唯物論的な脳の研究が進むことで、最後に残る場所として人間の神秘があぶり出されてくるのかもしれませんね。