あちこちで話題になっていた残念なニュース。幾屋大黒堂先生(ツイッターアカウントはこちら)がD.N.A.の配信する漫画アプリ「マンガボックス」(最近ゲーマーズとかで折込チラシがよく入ってるあれです)で連載していた『境界のないセカイ』が事実上の打ち切りになった件です。ちなみに『境界のないセカイ』は、「好きな相手が同性だったら?」というテーマのラブコメディ。ガンガンJKで連載されていた『プラナス・ガール』やYJの『ボクガール』のように、根強い人気を誇るジャンルに真正面から挑んだ作品でした。
講談社側の判断で単行本化を取りやめることとなり、収益を見込めなくなったためマンガボックスさんが打ち切りを決定したようです。大黒堂先生ご自身のまとめによると大まかな事情は次の通り。
何が起きたのか!? と気になって 詳細が書かれているという先生のブログを見に行くと、どうも最近渋谷区の同性婚認可などを巡って活発化している「性的マイノリティ問題」に対する配慮が行われた模様。

▼「「境界のないセカイ」マンガボックス連載終了のお知らせ」(幾屋大黒堂Web支店 @SakuraBlog)
これを読むと、先生ほとんど悪くないというか、ちゃんと代案まで用意していたのに日の目を見ることがなかったって悲惨すぎる……。通達も一方的だし、問題自体も認識した上で編集さんからはたぶんいけると太鼓判おされていたわけですからね。出版社側の理不尽さ、あるいは編集者の腕の悪さと大黒堂先生の間の悪さみたいなのが伝わってきてなんとも言えず切ない気持ちになります。
さすがに多くの人が「おいおい……」と思ったようで、Twitterのつぶやきは爆拡散。ネットニュースでもセンセーショナルに採り上げられました。基本的に、ほとんどは大黒堂先生に同情的な意見。
▼「漫画「境界のないセカイ」単行本化が白紙に 連載打ち切り 性役割に関する「表現上の問題」で」(ITmedia ニュース)
▼「「境界のないセカイ」、出版社の判断で連載終了 “表現上の問題”が原因か」(ねとらぼ)
正直講談社の判断には疑問を覚えます。問題が発生してからでもいいんじゃないかという気がするし、そうでなくとももうちょっと話を聞いても良かったのではないかと。大黒堂先生が「講談社さんの判断は守りに入りすぎているんじゃないか」というのもうなずけます。しかし同時に、先生が「講談社さんが萎縮する事にも同情的な気持ちにもなる」とも述べておられる通り、講談社を安易に批判・非難する気にもなれません。
なんせ出版社も商売です。わざわざ虎の尾を踏みに行く必要はないし、世間が敏感になっている状態で、生半可な気持ちで突っ込んで良い話題でもないと判断したのかもしれません。ここでつまらない意地を張ったがために他のどうしても戦わねばならない局面で全力をだせなくなったら本末転倒ですし、講談社の態度は残念ですが、この判断だけをもって講談社を責めるのはやはり違うと思う。もっと厳しい言い方をすれば、講談社に「それでもこの作品を世に届けたい」と思わせるだけの魅力を出せなかった『境界のないセカイ』にも責任の一端はあるのかもしれません。まあそれはあまりにもキツすぎる見方だから私は採用しませんが。
重ねて言いますと、今回の件は講談社が良いとか悪いとかの話ではないと個人的には思っています。では、とりあげた理由は何か。それは、ここに「自主規制」の怖さがあらわれていると思うからです。
「同性を愛する人々にひどいことを言っている」部分があるという理由で単行本化が見送られたということは、この作品が渋谷で行われていたヘイトスピーチと同列にみなされかねないという危惧があったということです。そして、出版社側がおそれ、配慮したのは、嫌悪感もあらわにパートナーシップ条例に対して反対運動を行っていた過激な人たちではなく、むしろ彼らを批判する側の人びとだった。(もちろん第一には、実際に同性を愛する人たちだったりへの配慮があるのでしょうが)
そりゃまあ、良識ある出版社としては嫌悪や差別意識を振り回すテンプレート的な右派と距離を取りたいだろうというのは分かるのですが、それは同時に、リベラル側がある意味で(無言の圧力によって)表現を規制したという皮肉な事態にもなっているのではないかと思うのです。
青少年健全育成保護条例が制定された際、猪瀬副都知事(当時)なんかがよく言っていたのは、条例による指導やゾーニングは表現規制にあたらない、みたいな話でした。そして、これを「見ない自由」をたてにとって支持したのがどちらかというとリベラル寄りの知識人などで、逆にこれに猛反発したのがどちらかといえば保守寄りと見られていたネット民・オタクたちだった。私は当時、これを皮肉だなぁと思ったのですが、今回もその時と同じにおいがします。
当時問題になっていたのは、圧力が発生すると出版社は「自主規制」をしてしまうのではないかということ。そして今回、事実なったわけです。こんなふうに、一方的な正義というのは、制度化されていなくても事実上の規制としてはたらくことがある。そして、自分たちの主張に正義があると信じて疑わない人たちほど、そのように発生する圧力に無自覚です。リベラルの皮肉というのは、彼らが自分たちの正義を掲げてそれを周囲に押し広げる中で、いつの間にかその正義が同調圧力として機能し、全体主義的な傾向を帯びてくるというところです。
まあもちろん、だからといって保守のほうがマシだとかそういうことを言うつもりはありません。ただ、「正義の反対は別の正義」というすぐれた格言(?)が示すように、ある種の自由の追及が強い圧力として機能する場合があるということに意識を向けなければ、バランスを保つことは困難だという意識は必要だと思います。
もちろん、これは私自身にも言えることなんですが(そして、こういう自己言及をすれば許されると思っている私にこそ当てはまることかもしれませんが)。
講談社側の判断で単行本化を取りやめることとなり、収益を見込めなくなったためマンガボックスさんが打ち切りを決定したようです。大黒堂先生ご自身のまとめによると大まかな事情は次の通り。
①「境界のないセカイ」の講談社からの単行本発売はなし②「境界のないセカイ」のマンガボックスでの連載は15話で打ち切り③「境界のないセカイ」企画の再建先を募集中④「境界のないセカイ」以外でもお仕事募集中
何が起きたのか!? と気になって 詳細が書かれているという先生のブログを見に行くと、どうも最近渋谷区の同性婚認可などを巡って活発化している「性的マイノリティ問題」に対する配慮が行われた模様。

▼「「境界のないセカイ」マンガボックス連載終了のお知らせ」(幾屋大黒堂Web支店 @SakuraBlog)
「境界のないセカイ」は本日公開の第15話をもってマンガボックスさんでの連載を終了することになりました。これまで本作を楽しみにして下さっていた皆様、力及ばず申し訳ありません。(中略)分で、「男は男らしく女は女らしくするべき」というメッセージが断定的に読み取れることだと伺っています。(私への窓口はマンガボックスさんの担当編集氏なので、伝聞になっています)これに対して起こるかもしれない性的マイノリティの個人・団体からのクレームを回避したい、とのことでした。これが顕著にみられるのは本作第5話で、バーチャルリアリティ空間内で女性化した主人公に対して男性の恋人があてがわれ、オペレータが「女性の恋人は男性であることが当然である」ように語るシーンがあります。このオペレータの台詞が同姓を愛する方々にとっては酷いことを言っている、という認識はありました。だったらなぜそれを言わせたのか。この作品は男女の性別の行き来が可能になった世界を描いています。その世界ではセクシュアリティに特に疑問を持たない、無関心な人たちは「男(女)が好きなら女(男)になれば良いのでは?」と考える人が比較的多いのではないか、と考えていました。そして物語が進む中で主人公はヒロインをはじめとして性の越境を行った人に触れる中で、こうした無関心から来る考え方にすこしづつ疑問を抱いていき、最終的には多様な生き方に寛容な考えを持たせていくつもりでおりました。ここの描写は背景世界の説明の一部であり、主人公の変化を描く過程の一部でした。問題となった描写は作品世界内の個人の発言でしか無いこともあるし、それが現実世界において好ましくない意見だとしてもいずれ作品総体としては否定されていく意見であるので、最終的には問題なくなると判断していたのです。
これを読むと、先生ほとんど悪くないというか、ちゃんと代案まで用意していたのに日の目を見ることがなかったって悲惨すぎる……。通達も一方的だし、問題自体も認識した上で編集さんからはたぶんいけると太鼓判おされていたわけですからね。出版社側の理不尽さ、あるいは編集者の腕の悪さと大黒堂先生の間の悪さみたいなのが伝わってきてなんとも言えず切ない気持ちになります。
さすがに多くの人が「おいおい……」と思ったようで、Twitterのつぶやきは爆拡散。ネットニュースでもセンセーショナルに採り上げられました。基本的に、ほとんどは大黒堂先生に同情的な意見。
▼「漫画「境界のないセカイ」単行本化が白紙に 連載打ち切り 性役割に関する「表現上の問題」で」(ITmedia ニュース)
▼「「境界のないセカイ」、出版社の判断で連載終了 “表現上の問題”が原因か」(ねとらぼ)
正直講談社の判断には疑問を覚えます。問題が発生してからでもいいんじゃないかという気がするし、そうでなくとももうちょっと話を聞いても良かったのではないかと。大黒堂先生が「講談社さんの判断は守りに入りすぎているんじゃないか」というのもうなずけます。しかし同時に、先生が「講談社さんが萎縮する事にも同情的な気持ちにもなる」とも述べておられる通り、講談社を安易に批判・非難する気にもなれません。
なんせ出版社も商売です。わざわざ虎の尾を踏みに行く必要はないし、世間が敏感になっている状態で、生半可な気持ちで突っ込んで良い話題でもないと判断したのかもしれません。ここでつまらない意地を張ったがために他のどうしても戦わねばならない局面で全力をだせなくなったら本末転倒ですし、講談社の態度は残念ですが、この判断だけをもって講談社を責めるのはやはり違うと思う。もっと厳しい言い方をすれば、講談社に「それでもこの作品を世に届けたい」と思わせるだけの魅力を出せなかった『境界のないセカイ』にも責任の一端はあるのかもしれません。まあそれはあまりにもキツすぎる見方だから私は採用しませんが。
重ねて言いますと、今回の件は講談社が良いとか悪いとかの話ではないと個人的には思っています。では、とりあげた理由は何か。それは、ここに「自主規制」の怖さがあらわれていると思うからです。
「同性を愛する人々にひどいことを言っている」部分があるという理由で単行本化が見送られたということは、この作品が渋谷で行われていたヘイトスピーチと同列にみなされかねないという危惧があったということです。そして、出版社側がおそれ、配慮したのは、嫌悪感もあらわにパートナーシップ条例に対して反対運動を行っていた過激な人たちではなく、むしろ彼らを批判する側の人びとだった。(もちろん第一には、実際に同性を愛する人たちだったりへの配慮があるのでしょうが)
そりゃまあ、良識ある出版社としては嫌悪や差別意識を振り回すテンプレート的な右派と距離を取りたいだろうというのは分かるのですが、それは同時に、リベラル側がある意味で(無言の圧力によって)表現を規制したという皮肉な事態にもなっているのではないかと思うのです。
青少年健全育成保護条例が制定された際、猪瀬副都知事(当時)なんかがよく言っていたのは、条例による指導やゾーニングは表現規制にあたらない、みたいな話でした。そして、これを「見ない自由」をたてにとって支持したのがどちらかというとリベラル寄りの知識人などで、逆にこれに猛反発したのがどちらかといえば保守寄りと見られていたネット民・オタクたちだった。私は当時、これを皮肉だなぁと思ったのですが、今回もその時と同じにおいがします。
当時問題になっていたのは、圧力が発生すると出版社は「自主規制」をしてしまうのではないかということ。そして今回、事実なったわけです。こんなふうに、一方的な正義というのは、制度化されていなくても事実上の規制としてはたらくことがある。そして、自分たちの主張に正義があると信じて疑わない人たちほど、そのように発生する圧力に無自覚です。リベラルの皮肉というのは、彼らが自分たちの正義を掲げてそれを周囲に押し広げる中で、いつの間にかその正義が同調圧力として機能し、全体主義的な傾向を帯びてくるというところです。
まあもちろん、だからといって保守のほうがマシだとかそういうことを言うつもりはありません。ただ、「正義の反対は別の正義」というすぐれた格言(?)が示すように、ある種の自由の追及が強い圧力として機能する場合があるということに意識を向けなければ、バランスを保つことは困難だという意識は必要だと思います。
もちろん、これは私自身にも言えることなんですが(そして、こういう自己言及をすれば許されると思っている私にこそ当てはまることかもしれませんが)。





