昨年末のコミックマーケット(C87)において、『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』のリメイクが発表されました。
▼『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』 (ティザーサイト)

▼『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』が18年の時を経てMAGES.より発売決定! (電撃オンライン)
また、電撃オンラインさんではこれに際し、プロデューサーである浅田氏のインタビューを掲載。こちらには、これまで『YU-NO』のリメイクがほとんど出なかった事情や、今回elfからではなくMAGES.(5pb.)から出ることになった経緯など、興味深い内容が記されています。
▼『YU-NO』が約18年の時を経て復活! 浅田プロデューサーが語る「なぜ今出るのか、なぜ今まで出なかったのか」 (電撃オンライン)
すでに過去のゲームかなと思いきや案外話題性はあったようで、発表直後はあちこちでこの話題を目にしました。ただし、反応は好意的なものと批判的なものが半々くらい。リアルの知人友人関係、あるいはTwitterのタイムラインなどを見ても、まさに「賛否両論」という印象です。
賛否の表明があまり意味があるとは思いませんが、一応私の立場を先に言ってしまうと、私はいかなるかたちであれリメイクが出る、ということには賛成です。
理由はいくつかあります。主だったものを2つほど挙げると、まずきわめて有名な作品であるにもかかわらず原作が余りにも古すぎてプレイできない(あるいはやる気が起きない)という人が多いため、「出す」ということ自体に一定の意味があると思うから。
特に、古参のエロゲーマーや評論系エロゲーマーにはことあるごとに『YU-NO』を聖典として掲げる人が一定数おり、そうした人たちと若いエロゲーマーとのジェネレーション・ギャップを埋める――もっと過激なことを言えばそういった「物知り」たちの既得権益を剥奪するのに一役買うこともあるでしょう。
もっとも、今度は両方をやってしっかり比較する人の発言というのが重みを帯びてくるだけかもしれませんが……。
もう1つは、いまの内容とややバッティングするように思われるかもしれませんが、オリジナル(PC版とサターン版ありますが、その辺は一応無視して)の『YU-NO』の価値や意味に影響を与えないと思われるからです。
たとえばこれが、同じスタッフが揃って作った「続編」だったり、「リニューアル」だったりすれば、私はもっと複雑な思いを抱いたでしょう。しかしながら、(それが不可能という事情もあり)今回のリメイクは完全な第三者の手によってなされるものですから、原作の『YU-NO』とはひとまず違うものと考えることができます。
だから、どれだけズッコケてもファンにとって本当に許されざる被害を与えることはほとんどないでしょうし、成功したら成功したで見返りは大きいと思う。そういう意味で、まあ商業的にうまくいくかはおいといて、試みとしては面白いと思っています。
付け加えることがあるとするならば、願わくは真摯な敬意と情熱を傾けて取り組んでもらいたい、そしてその実態はインタビューなどで作品について語ることではなく製品のクオリティーとして表現してもらいたい、というくらいですね。
ただ、今回の件に限らずずっと思っていたのは、エロゲーを「残す」ことの難しさです。
たとえば『源氏物語』。訳本がいっぱいあります。そして大筋は一緒でも、訳者によって解釈や雰囲気が異なっている。現代語訳のみならず古文の原典だと思っているものも、実は写本をもとに後代に整理編集されたもので、ある種のリメイクだったりします(底本なになに、とかいうやつ)。その意味で私たちは、『源氏物語』のリメイク版を読んでいることが多い。
しかし「本」であれば、それこそ平安時代のものでも平気で残っており、私たちは望めばいつでも「原典」(あるいはそれに近いとされているもの)にあたることができます。これは、よくよく考えると非常に凄いしありがたいことですよね。
これに対してエロゲー(あるいはコンシューマゲームやPCゲーム全般も含めて)は、黎明期――ほんの2、30年前のものでもなかなか手に入らない。それは生産数が少ないとか管理されていないというのもさることながら、プレイ環境の変更(フロッピーからDVD)や、OSの変更(MS-DOS、Windowsの各バージョン等)、保存メディアの劣化によるデータ消去といった外的な要因が大きく影響しているものと思われます。
もちろんこれをもって、エロゲーがきわめて同時代的なものであり、ある特定の時代にプレイ環境を満たしていた人にしか味わうことのできない特別なものだ、と言ってしまっても構わないのですが、それは「文化」という側面(なんか高尚な意味ではなく)を考えると少し寂しい気もします。
作品というものが生み出されるとき、ほとんどがそうだと思うのですが、大なり小なり常にそれ以前に存在する作品を意識して創られるはずです。だから、そのジャンルにおける蓄積の「量」は、そのままその後の時代の「質」に転化される部分があるのではないでしょうか。単純に、20年前の作品で凄い面白くて画期的だったけど不幸にして日の目を見ずにくすぶっていた作品が「発掘」される――なんて可能性エロゲーではほとんどないし、それどころか「凄い面白い」と少数の人が言っている作品のプレイすらできなかったりするのですから。
そうであるならば、蓄積を参照しづらいエロゲーの体制というのは、単純に損をしているしそのことが他の創作物に較べて活きてこない、発展に貢献できていない部分ってあると思う。今は技術的にもいろいろな選択肢が増えてきたし、真面目に考えてみても良いのかもしれません。
というわけで、『YU-NO』のリメイク、大いに結構ではあるのですが、同時に旧バージョンをそのまま(できればPCで!)プレイできる環境も整えて貰えれば最高なんだけどなぁ。
▼『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』 (ティザーサイト)

▼『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』が18年の時を経てMAGES.より発売決定! (電撃オンライン)
MAGES.のゲームブランド・5pb.は、1996年にエルフより発売されたPC-9801向け美少女ゲーム『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』のリメイクを発表。合わせてティザーサイトを公開した。
本作は12月28日~30日で開催されている“コミックマーケット87”の5pb.ブースにてイメージビジュアルのみ公開されていたタイトル。プロデューサーは浅田誠氏、キャラクターデザインは凪良氏が担当する。
また、電撃オンラインさんではこれに際し、プロデューサーである浅田氏のインタビューを掲載。こちらには、これまで『YU-NO』のリメイクがほとんど出なかった事情や、今回elfからではなくMAGES.(5pb.)から出ることになった経緯など、興味深い内容が記されています。
▼『YU-NO』が約18年の時を経て復活! 浅田プロデューサーが語る「なぜ今出るのか、なぜ今まで出なかったのか」 (電撃オンライン)
その後、エルフの版権を管理している方にお話を伺って、最初はやはり許諾という形で作って、監修をお願いするという話をしていたのですが、エルフさん側にも『YU-NO』がわかる方がいないというのがネックになっていました。下手に内容を触ってしまって、当時のファンに反感をくらってしまわないかというのを気にされていて、どういう形でやれるのがベストなのかを何度もお話させてもらいました。そこで出た結論の1つが「許諾ではなくて版権の譲渡」ということでした。
すでに過去のゲームかなと思いきや案外話題性はあったようで、発表直後はあちこちでこの話題を目にしました。ただし、反応は好意的なものと批判的なものが半々くらい。リアルの知人友人関係、あるいはTwitterのタイムラインなどを見ても、まさに「賛否両論」という印象です。
賛否の表明があまり意味があるとは思いませんが、一応私の立場を先に言ってしまうと、私はいかなるかたちであれリメイクが出る、ということには賛成です。
理由はいくつかあります。主だったものを2つほど挙げると、まずきわめて有名な作品であるにもかかわらず原作が余りにも古すぎてプレイできない(あるいはやる気が起きない)という人が多いため、「出す」ということ自体に一定の意味があると思うから。
特に、古参のエロゲーマーや評論系エロゲーマーにはことあるごとに『YU-NO』を聖典として掲げる人が一定数おり、そうした人たちと若いエロゲーマーとのジェネレーション・ギャップを埋める――もっと過激なことを言えばそういった「物知り」たちの既得権益を剥奪するのに一役買うこともあるでしょう。
もっとも、今度は両方をやってしっかり比較する人の発言というのが重みを帯びてくるだけかもしれませんが……。
もう1つは、いまの内容とややバッティングするように思われるかもしれませんが、オリジナル(PC版とサターン版ありますが、その辺は一応無視して)の『YU-NO』の価値や意味に影響を与えないと思われるからです。
たとえばこれが、同じスタッフが揃って作った「続編」だったり、「リニューアル」だったりすれば、私はもっと複雑な思いを抱いたでしょう。しかしながら、(それが不可能という事情もあり)今回のリメイクは完全な第三者の手によってなされるものですから、原作の『YU-NO』とはひとまず違うものと考えることができます。
だから、どれだけズッコケてもファンにとって本当に許されざる被害を与えることはほとんどないでしょうし、成功したら成功したで見返りは大きいと思う。そういう意味で、まあ商業的にうまくいくかはおいといて、試みとしては面白いと思っています。
付け加えることがあるとするならば、願わくは真摯な敬意と情熱を傾けて取り組んでもらいたい、そしてその実態はインタビューなどで作品について語ることではなく製品のクオリティーとして表現してもらいたい、というくらいですね。
ただ、今回の件に限らずずっと思っていたのは、エロゲーを「残す」ことの難しさです。
たとえば『源氏物語』。訳本がいっぱいあります。そして大筋は一緒でも、訳者によって解釈や雰囲気が異なっている。現代語訳のみならず古文の原典だと思っているものも、実は写本をもとに後代に整理編集されたもので、ある種のリメイクだったりします(底本なになに、とかいうやつ)。その意味で私たちは、『源氏物語』のリメイク版を読んでいることが多い。
しかし「本」であれば、それこそ平安時代のものでも平気で残っており、私たちは望めばいつでも「原典」(あるいはそれに近いとされているもの)にあたることができます。これは、よくよく考えると非常に凄いしありがたいことですよね。
これに対してエロゲー(あるいはコンシューマゲームやPCゲーム全般も含めて)は、黎明期――ほんの2、30年前のものでもなかなか手に入らない。それは生産数が少ないとか管理されていないというのもさることながら、プレイ環境の変更(フロッピーからDVD)や、OSの変更(MS-DOS、Windowsの各バージョン等)、保存メディアの劣化によるデータ消去といった外的な要因が大きく影響しているものと思われます。
もちろんこれをもって、エロゲーがきわめて同時代的なものであり、ある特定の時代にプレイ環境を満たしていた人にしか味わうことのできない特別なものだ、と言ってしまっても構わないのですが、それは「文化」という側面(なんか高尚な意味ではなく)を考えると少し寂しい気もします。
作品というものが生み出されるとき、ほとんどがそうだと思うのですが、大なり小なり常にそれ以前に存在する作品を意識して創られるはずです。だから、そのジャンルにおける蓄積の「量」は、そのままその後の時代の「質」に転化される部分があるのではないでしょうか。単純に、20年前の作品で凄い面白くて画期的だったけど不幸にして日の目を見ずにくすぶっていた作品が「発掘」される――なんて可能性エロゲーではほとんどないし、それどころか「凄い面白い」と少数の人が言っている作品のプレイすらできなかったりするのですから。
そうであるならば、蓄積を参照しづらいエロゲーの体制というのは、単純に損をしているしそのことが他の創作物に較べて活きてこない、発展に貢献できていない部分ってあると思う。今は技術的にもいろいろな選択肢が増えてきたし、真面目に考えてみても良いのかもしれません。
というわけで、『YU-NO』のリメイク、大いに結構ではあるのですが、同時に旧バージョンをそのまま(できればPCで!)プレイできる環境も整えて貰えれば最高なんだけどなぁ。



















