最近、いわゆる「味のわかる」友人とラーメンを食べに行くことが増えました。彼は結構すごくて、使ってるスープのベースを、味である程度判別できる。「アゴだな」(※トビウオのこと)とか言い出した時は、ちょっと尊敬しました。
本人も結構な料理好きで、もちろん素人なのですが、プロ顔負けのこった料理を作ります。材料にも詳しい。だからラーメンに限らず、いろんな料理の作り方から素材まで、おおよそのところはわかるようです。ばくばく食べて「うめーうめー」言ってるだけの私とは、食事の楽しみ方のレベルが違う。
で、「文章を読む」ってのも実は、これに似たところがあるのかもしれないなぁ、と思いました。文字はほぼ誰にでも読めるから、あんまり意識はされないけれど、たくさんの文章を読み、知識や概念を身に着けている人とそうでない人、普段文章を書く人と書かない人、そういうところで、他人の文章を受け止めるレベルは、やっぱり明らかに違います。
最近光文社から新訳が出た『ソクラテスの弁明』の訳者解説には、こんなことが書いてありました。「プラトンは、「知らない」ことをめぐる状態を、「不知/無知」という語で基本的に分けている」。もちろんこれは日本語に直した時の区別ではあるけれど、「Amathia」と「Agnoia」を使い分けるという意識は、ことばを「なんとなく漠然と」使う人には持ち得ない意識だろうし、それを「不」と「無」に分けて考えるという時にはやはり、知識が必要になるでしょう。
私が、ラーメンたべても醤油か味噌かくらいの区別しかつかないのと同じように、知識や経験無しにフクザツな文章を読んだって、そこに書かれてあることは分からない。こんなことを書くと、鼻持ちならない教養主義と見なされるかもしれませんが、そういうことは、現実問題として、確実にあります。
というか、ついでに言っておくと、私はどっちかっていうと「読めない」ほうです。訓練は積んだのでずぶの素人だった時よりはマシになったかもしれませんが、世の中にはほんとにすごく「読める」人がいて、そういう人の前に行くと、「こらアカンわ……」と打ちのめされます。教養主義的なことを言っておきながら、自分はそれに乗っかれていないというバカバカしさ。
ただ、私は、そうやって複雑な文章を読みこなせることが必ずしも良いことであるとは思いません。もちろん、読めるに越したことはない。けれど、文章の味わい方、楽しみ方というのは、そればかりというわけでもないでしょう。それこそ、素材や調理法を知らなくてもラーメンを美味しく食べることができるように、文章もまた、楽しみ方は人それぞれで良いはずです。
料理の話だと分かりにくければ、音楽とかはどうでしょう。クラシック音楽なんかは特に、過去の膨大な蓄積と、卓越した技術を背景に持っています。また、オーケストラとかになると楽器の量も多く、クラシックファンというのはその辺りを基礎知識として持っている――少なくとも今鳴っている楽器が何であるかの聞き分けくらいはできる――人が非常に多い。でも、「第九」を聞いて心踊っている素人がいたとき、彼の音楽の楽しみは、玄人的なファンの楽しみに劣るものなのでしょうか? そんなことはないだろう、と私は思います。
たしかに知識があると、楽しみに幅は広がるかもしれません。傍から見ると凄いと感じるでしょう。それをたとえば、「深い」と表現するのは構わない。でも、「深い」ことが「善い」ことであるとは限りません。善くないと言っているのではなく、善いか悪いかとは別の問題だと、私は言っているつもりです。
「なんとなく「分かっているよ」と片付ける人は、本当には分かっておらず、自己認識がないままに、曖昧なまま進歩もなく、思い込みの中で人生を送っていく。また、不十分なまま「知らないよ」と開き直っている人にも、そこから知に向かう積極的な動きは起こらない」(『ソクラテスの弁明』解説)。それは事実ではあろうけれど、現実問題として、常に「愛知(フィロソフィー)」し続けるなんてことは、私達には難しい(そもそもそれが「善い」かどうかは、やはりわかりませんが)。せいぜい、常に自分は「読み足りていないのではないか」という謙虚な意識を持ち続けるくらいが関の山ではないでしょうか。
わからないこと、難しいことがあれば、それは文章の側に責任があるのではなく、読み手である自分の中に問題があるのではないかと考える――そういう意識を手放さなければ、文章の楽しみは人それぞれですから、別段是非善悪を論じる必要は無いだろうと、私は考えています。
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本人も結構な料理好きで、もちろん素人なのですが、プロ顔負けのこった料理を作ります。材料にも詳しい。だからラーメンに限らず、いろんな料理の作り方から素材まで、おおよそのところはわかるようです。ばくばく食べて「うめーうめー」言ってるだけの私とは、食事の楽しみ方のレベルが違う。
で、「文章を読む」ってのも実は、これに似たところがあるのかもしれないなぁ、と思いました。文字はほぼ誰にでも読めるから、あんまり意識はされないけれど、たくさんの文章を読み、知識や概念を身に着けている人とそうでない人、普段文章を書く人と書かない人、そういうところで、他人の文章を受け止めるレベルは、やっぱり明らかに違います。
最近光文社から新訳が出た『ソクラテスの弁明』の訳者解説には、こんなことが書いてありました。「プラトンは、「知らない」ことをめぐる状態を、「不知/無知」という語で基本的に分けている」。もちろんこれは日本語に直した時の区別ではあるけれど、「Amathia」と「Agnoia」を使い分けるという意識は、ことばを「なんとなく漠然と」使う人には持ち得ない意識だろうし、それを「不」と「無」に分けて考えるという時にはやはり、知識が必要になるでしょう。
私が、ラーメンたべても醤油か味噌かくらいの区別しかつかないのと同じように、知識や経験無しにフクザツな文章を読んだって、そこに書かれてあることは分からない。こんなことを書くと、鼻持ちならない教養主義と見なされるかもしれませんが、そういうことは、現実問題として、確実にあります。
というか、ついでに言っておくと、私はどっちかっていうと「読めない」ほうです。訓練は積んだのでずぶの素人だった時よりはマシになったかもしれませんが、世の中にはほんとにすごく「読める」人がいて、そういう人の前に行くと、「こらアカンわ……」と打ちのめされます。教養主義的なことを言っておきながら、自分はそれに乗っかれていないというバカバカしさ。
ただ、私は、そうやって複雑な文章を読みこなせることが必ずしも良いことであるとは思いません。もちろん、読めるに越したことはない。けれど、文章の味わい方、楽しみ方というのは、そればかりというわけでもないでしょう。それこそ、素材や調理法を知らなくてもラーメンを美味しく食べることができるように、文章もまた、楽しみ方は人それぞれで良いはずです。
料理の話だと分かりにくければ、音楽とかはどうでしょう。クラシック音楽なんかは特に、過去の膨大な蓄積と、卓越した技術を背景に持っています。また、オーケストラとかになると楽器の量も多く、クラシックファンというのはその辺りを基礎知識として持っている――少なくとも今鳴っている楽器が何であるかの聞き分けくらいはできる――人が非常に多い。でも、「第九」を聞いて心踊っている素人がいたとき、彼の音楽の楽しみは、玄人的なファンの楽しみに劣るものなのでしょうか? そんなことはないだろう、と私は思います。
たしかに知識があると、楽しみに幅は広がるかもしれません。傍から見ると凄いと感じるでしょう。それをたとえば、「深い」と表現するのは構わない。でも、「深い」ことが「善い」ことであるとは限りません。善くないと言っているのではなく、善いか悪いかとは別の問題だと、私は言っているつもりです。
「なんとなく「分かっているよ」と片付ける人は、本当には分かっておらず、自己認識がないままに、曖昧なまま進歩もなく、思い込みの中で人生を送っていく。また、不十分なまま「知らないよ」と開き直っている人にも、そこから知に向かう積極的な動きは起こらない」(『ソクラテスの弁明』解説)。それは事実ではあろうけれど、現実問題として、常に「愛知(フィロソフィー)」し続けるなんてことは、私達には難しい(そもそもそれが「善い」かどうかは、やはりわかりませんが)。せいぜい、常に自分は「読み足りていないのではないか」という謙虚な意識を持ち続けるくらいが関の山ではないでしょうか。
わからないこと、難しいことがあれば、それは文章の側に責任があるのではなく、読み手である自分の中に問題があるのではないかと考える――そういう意識を手放さなければ、文章の楽しみは人それぞれですから、別段是非善悪を論じる必要は無いだろうと、私は考えています。










