よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2012年05月

それでもエロゲーをやめない僕へ1 ――物語の自律性

突然ですが、私は二次元が好きです。そのうち、二次元の世界にいける気さえする……!

暑さでおかしくなったわけではありませんよ。もともとこんな感じです(爆)。いやまあ、冗談? はさておきまして、エロゲーをやっているとよく、現実と物語(虚構)の関係について考えることがあります。今回は、そんなお話。

なお、タイトルに「1」とつけたように、何回かの分割記事の最初という位置づけになる予定です。といっても予定は未定なので、このまま書かずに終わる可能性もありますが、ひとまず計画としては次のような感じ。

(1)物語の、現実に対する自律性について
(2)エロゲーが物語であるということについて
(3)エロゲーという物語との接し方について

何が何やらプランだけではわかりにくいですよね……。されど、私も全文書いているわけではないので、見通しだけでご容赦ください。何せ思った結論にいたるまでの道筋を最初から説明するとなると、長く入りくんだものになりそうだったので、ゆっくり外堀を埋めてみようかと。

コレを書いてる時点では先々どうなるか本当にわかりませんが、途中でポシャっても大丈夫なように、毎回一定の結論にまでは到達するようなことを言え……たらいいなあ。とりあえず今回は、直接エロゲーとは関係ある部分は少なめ。具体例ではちょいちょいだしますが、基本は一般的に物語やフィクションについて、みたいなスタンスで話を進めていく予定です。

▼エロゲー的なものは現実的か
エロゲーに対して冷たい人からの攻撃というのは、ストレートに「キモッ!」というものから、「恋人つくったら?」という思いやり溢れる助言、果ては「エロゲーみたいなのが犯罪を助長する」というありがたいお説教まで、いろいろなパターンがあります。

私自身は比較的エロゲーマーであることをオープンに話しているので(もちろん、TPOはわきまえて不要な場合は黙っていますが)、エロゲーの話を普通の人とすることが時々あります。また、オタクであってもエロゲーをやらないという人だって当然いる。そういう人からはよく、「現実の恋愛はしないの?」みたいなことを聞かれます。そのたびに、「それとこれとは別」と答えるけれど、どうもわかってもらえない。

こういう「攻撃」の背景には、アダルト産業に対する素朴な蔑視みたいなものが見て取れます。AVというのは現実のセックスの代替物で、普通はできないような特殊なプレイをしたりして喜んでる。エロゲーとかエロアニメになると、更に特殊な趣味を満たす為にやってるのだ、みたいな。だから、「別にエロ目的でエロゲーやってるわけじゃない」のような回答がされ、最終的には「じゃあ、エロっていらないんじゃないの?」みたいな話に発展していくのでしょう。

ただ恐らく、アダルト蔑視みたいなのは表面的な話。根本にはもうすこし、面倒な問題が横たわっているように思います。

面倒な問題とは何か。それは、エロゲーに限らず虚構の物語というものが、現実よりも劣っている、という発想です。AVやエロゲーを軽蔑する人だって、(一部のウルトラ潔癖性の人を除けば)オカズとしてそういうものがあるということは認めている。単なる性欲処理として、現実を慰める手段としてなら、お許しを頂ける。

彼らが本当に軽蔑しているのは、性欲処理という手段であることを飛び越えて、二次元自体を目的にしているような態度でしょう(ロリ規制運動家の皆さんとかはちょっとおいときます)。それこそ「自慰」という言葉が含む負のニュアンスにはっきりとあらわれているように、現実に発展しない自己満足に終始しているということです。物語が明確に劣っているとは言わないまでも、現実であることのほうが価値が高いのだと素朴に考えている人は多い。「物語でみたされるなんて、ただの(程度の低い)自己満足」というわけです。現実の効果として発揮されれば、彼らは納得してくれる。だから、性欲処理という現実の効果はみとめるけれど、それ自体が目的であるといわれると、怪訝な顔をして拒否反応を示すのです。ちょっと言い過ぎかな? でもそんな感じありますよね……。

要は、エロゲーは、ただエロがあるだけで軽蔑されているのではなく、現実ではない偽物のエロ行為をあがめ奉っているから「キモい」と言われる。そうでなければ、「現実の恋愛しようぜ」みたいなことを言わないはずです。たとえばエロゲーをやって実際に恋人ができるなら、だれもエロゲーをやめろとは言わない。エロゲーをやって就職できるなら、推奨されるかもしれません。

つまるところ、現実を比較項として出す多くの人は、エロゲーという物語を現実との関係において捉えようとしている。そして、物語は現実に従属すると考えているわけです。上述した通り、ことはエロゲーに限りません。エロゲーほど顕著ではないにせよ、小説でも映画でも、たとえば「役に立たない」のような言い方をされることは多い。

しかし、本当に物語は現実との直接的な対応で扱って良いものなのでしょうか。そしてもし関係があるとしても、それは自明に従属関係なのでしょうか。

少なくとも物語(この場合エロゲーですが、アニメでも小説でも映画でも同じです)を楽しんでいる私の実感からすると、そこに「待った」をかけたい気持ちがあります。

▼物語という虚構
物語というのは、具体的な現実ではありません。言語を通して語られる以上、どれほど細密な描写が行われていたところで、それは現実ではなくて抽象化された観念の世界です。だから、物語は虚構(フィクション)である、というのはまあ、その通りでしょう。

しかし、いくらフィクションだからといって、(ゲームでも小説でも構いません)物語というのは、現実との対応関係のみでその価値が測られるべきではないと私は思います。

もしも物語が現実の下に置かれ、現実との対応関係でのみ捉えられるものであるなら、物語の価値はつまるところ現実に対する効果(=有用性)に存在する、ということになる。でも、何か役に立つから物語を読んでいるのかと聞かれると、私は明確にNOです。教科書や実用書と違い、物語に関しては役にまったく立たなくても、楽しいから読んでいる。

私にとって、役に立つかどうかと、物語が楽しいかどうかは、次元が異なる問題です。だから、現実に恋愛をしているからエロゲーをやらなくて良いという話にはまったくなりません。実際、恋人がいたり家庭をもちながらエロゲーをやっている人もいるわけで、そもそもそういう人にとっては同じレベルの問題で無い可能性はあると思うのですが、どうもその辺は「特殊なパターン」としてスルーされてしまうみたい。

いきなり下世話な話で恐縮かつ特殊な立場を承知で言いますが、セックスと同じくらい二次元ネタにしたオナニーが良いというのはあって良いんじゃないかと思うわけです。AVやエロ本より、二次元が良い。エロ小説のが良い、という立場があるのとは別に、普通にセックスするのと同じくらい妄想も気持ちいい。そういう立場だってある。どうして常に三次元換算しないといけないのか。ニコ動の何万再生というのを、CD何枚売上に換算しないと価値が測れないなんてことはないでしょう? それと一緒で、二次元は二次元、三次元は三次元でいいじゃないですか。

これは単に、二次元と三次元を比較してどっちが勝った負けたというのではなくて、一旦相対化してそれぞれ別のものとして扱うことが可能であるということが言いたいのです。言わせて。お願いします(;´д`)人

いやホラ、実際問題、イメージプレイとかやるわけで。そういう時、私たちが感じている快楽というのは単に肉体的な刺激じゃなくて、精神的な(観念的な)刺激であるハズです。それを突き詰めていけば、観念に特化した快楽というのがあったって別に構わないだろう、と。

真面目な話に戻しますと、言うまでもなく、「現実に役立つ」(オカズになるという意味ではなく)ということは重要な価値です。私たちの空想なり想像なり、そういう観念の産物が現実において意味を持つということの一つのはっきりしたあらわれは、有用性である。そのことは多分、間違いない。

けれど、そこには「この物語でないとダメ」という、固有性の部分は抜け落ちています。ある作品の価値が、現実との関係における役割にあるということは、物語の固有性を無視するということでもある。ちょっと、この辺のことについて考えてみましょう。

▼物語の固有性と自律性
たとえば私たち生きている人間を例にとってみます。人間の価値というのは、有用性にあるのでしょうか。

ベルは「電話を発明した人」であるという評価。これは、社会という現実と結びついた有用性です。このような価値というのは、確かにはっきりしていてわかりやすい。でもそれは、電話を発明しさえすれば、ベルでもグレイでも良かったということの裏返しでしかありません。

恋愛で言うなら、社会的に立派な人物(地位がある、お金がある)だから好き嫌い関係なくおつきあいする、みたいなのを想像してみると良い。そのレベルにすると、途端に「むぅ……」ってなりません? ロマンチストを気取る気は無いけど、私的な好き嫌いと有用性との違いというのは、およそこんな風にあらわれてくる。

先日書いた記事、「作品と出会うという話」の一つのテーマは、私たち自身や作品の持つ固有性(記事の方では〈奇跡〉という言い方をしています)という問題についてでした。社会的な意味や価値というのは、他人に説明できるものです。それは確かに重要だけど、交換可能なもの、相対的なものに過ぎない。

一方で私たちは、そういう社会的な意味や価値に還元できない絶対的な価値や意味(固有性)を持っているのではないか。その話はまさに、いま述べているような事柄との関係で重要な意味を持ってきます。

「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう」という問いに、「両親がセックスしたからだ」という答えではすくいきれない含意がある、という永井均の話を引用した後の展開で言いたかったのは、人間に固有性があるのと同様に、作品にも同じことが言えるのではないか、ということでした。もう少し突っ込んで言えば、そのような作品の固有性との出会いの中で、私たち自身の固有性もまた浮かび上がってくる。だから私は、有用性だけでは作品を見ずに、作品の固有性も拾い上げたい。

以下、作品を物語とほぼ同義のものとして扱いますが、ある物語が「現実の恋愛を鮮明に描き取っているから、実際の恋愛にも役に立つ」とか、「恋で傷ついた心を慰めてくれる」と評価したとして、じゃあそれ以上に上手く描いた別の物語が出てきたらどうするのでしょう。もとあった物語の意味や価値は乗り越えられたのだから、骨董品的な意味はあるとしても、実質的には無価値なものとなったのでしょうか? うんそうです、と言う人もいるでしょう。でも、そんなことはないという立場もありえるのではないか。

同じ機能をもっていれば、Aという作品でもBという作品でも構わないというなら、マルチとセリオとミルファとイルファの要素を完璧に盛り込んだ新型HMXが出れば、彼女たちはお払い箱になってしまう。

そういう理屈が必ずしも間違っているとは言いません。技術の進歩というのは必然的にそういう軌跡を描くことになる。けれど、まったく異なる次元の問題として、作品の固有性に根ざした価値があっても良いのではないでしょうか。少なくとも、同じようなジャンルの作品の中でどの作品が好きだとか、似たような属性のキャラだけどこのキャラじゃないとダメだとかいうことに血道を上げて議論しているエロゲーマーの実態としては、有用性だけでは満足できない。

私には、他の誰とも違う「わたし」だという意識がある。そんな私たちの生が、有用性だけで判断されるというのも、何か寂しい気がする。同様に物語にだって、「この物語でなければならない」部分というのがあるはずです。同じ骨組み、同じ主題の話であれば何でも良いわけではなくて、セリフの一つ一つ、行動の一つ一つに対して好き嫌いはある。そういう、物語の「細部」というのは固有性を認め、固有性において物語を楽しむところにあらわれてくるものです。そして、物語をそのような固有のものとして楽しむ人というのは、少なからず存在しているハズです。

つまり、物語は現実に対して従属してばかりいるわけではなく、そこから独立した自律的領域も持っている。

▼自律した領域の物語
推測が続いて話が煩雑になったので、少し整理しておきます。

現実が良いか、観念(物語)が良いかという二項対立は、お互いが同じ次元で競合するという全体に立った質問です。そして多くの場合、現実が勝利する。物語というのは現実の意味に還元できる限りにおいて(たとえばストレスが解消される、知識が身に付く、社会問題を考えるきっかけになる等)意味や価値を認められることになります。

しかし、物語を楽しんでいる側の実感にひきつけて考えると、物語の良さというのは必ずしも現実との対応において、つまり何かと交換可能な価値として測定されるものではないのではないか。生身の人間に存在の固有性があるように、物語もまた現実から自立/自律可能な虚構としての独自の固有性をもっており、それを楽しんでいる人もいるのではないか。そういう話をしてきました。

物語には一般化できる部分と、そうでない部分があります。たとえば『君が望む永遠』なら、メインルートは三角関係というシチュエーションとして一般化できてしまうかもしれない。でも、その一般化の中でこぼれおちる部分にこそ、個々のキャラクターは存在しています。水月には水月の、遥には遥の固有の情念がある。私たちが物語を読むというのは、一般化してとりだせる部分を読むだけではなく、一般化しきれない情念を読むことでもあるはずです。

『君のぞ』でいえば、孝之くんが単に人間のクズだ、と言っているだけでは、現実の価値基準を持ち込んでいるに過ぎない。問題は、作品の中でどんな風にクズとして扱われているか、あるいは実は作品の中ではクズではないかということです。だって、『ランス』シリーズのランスは、あれ現実だったらホントマジでクズですよ(笑)。でも、作品の中ではヒーローとして描かれているわけで、それならそのことの意味は、作品の中で考えられなくてはならない。その中に、ランスのランスらしさや、孝之の孝之らしさはあらわれてくるはずだ――私が言いたいのはそんなようなことです。『ランス』も『君のぞ』も、作品として自律した世界を持った物語なのですから。

『ランス』をやって、この主人公クズです、なんてホントにくだらない結論だと思いますが、私からすれば「エロゲーをやったから犯罪に走る」のような話だとか、「エロゲーばっかりで恋人つくらないの?」みたいな質問というのは、物語の自律的な領域を無視しているという意味で同じレベルの考えから出てきている、ということです。

しつこいようですが勘違いしないで欲しいのは、「物語に有用性は無い」と言っているわけではない、ということ。有用性=現実との対応というのは、物語を読む効用として確かにある。けれどそれとはまったく別の評価軸として、固有性に根ざした楽しみも見せてくれるのが物語ではないか、と言っているつもり。

たぶんこれは、物語の一般的な性質というより、ある場合に出てくる問題です。その「ある場合」というのは、読み手が自分の固有性を、物語を通してのぞき見ようとする場合です。

再び私事で恐縮ですが、子供の頃の私は、いわゆるアニメとか小説とかにはまる人間で、そういう物語に触れると、すぐに物語内部に自分を登場させたくなった。といっても、どれかのキャラクターになりたいというのではなくて、自分のオリジナルキャラをその話の中に登場させたいという、いっちゃん痛々しいパターンですね(笑)。

ただ、振り返ってみるとそれは、物語の世界を拡張させようとしていたとも言える。拡張というと何だか偉そうですが、「これで終わるの勿体ないから、まだ続けられるはずだ」とか、「この場面に私がいたら、もっとうまくやれたのに」というように。いまでいう、いわゆる二次創作とかに通じるものがあったかもしれません。

そうやって作られたのは、完全にオリジナルとは言えないにしても、元あった物語とは違う「私だけの物語」です。そんなことをしているうちに、その物語のどこが自分の琴線に最も触れる部分であるかとか、そういうのが好きな自分って何なのかということが、私の中でおぼろげにではあるにせよ形作られてきた。つまり私にとって、私だけの観念の世界の表現というのは、物語という形式をとるようになった。これが絵や音楽の人もいるのでしょうが、私にとっては物語だった。そうして、物語の中に自己を置いてみると、その中の登場人物たちもまた、自分に唯一のしかたで関わる固有の存在のように思えてきた。敢えて理屈をつけると、そんな感じかも知れません。

考えてみれば、個人の内的な世界と、社会という外側の世界がそのままストレートに接続するというのはかなり不自然なことです。現実というのは社会的な(共約可能な)ものであり、観念の世界は本質的には個的な(誰とも共有できない)種類のものなのだから。最終的にはその両者が何らかのかたちで接続するにせよ、単純に引き比べるのはさすがに乱暴だろう、という気がします。内的な世界は、ひとまず外の世界に対して独立している。

そして私にとって物語というのは、その作品の固有性の領域に属するものとして存在した。社会的な領域とはひとまず別の、そっちと直接的な関係が結ばれていなくても何の問題もないことなのです。だから、「現実に恋人がいること」と「エロゲーをやること」とは別の問題だ、という結論になる。ここには幾つかの段階があって、私がうまく説明できていないせいでとてもわかりにくいと思うのですが、似たような議論は大昔からなされていました。

たとえば、日本における物語論の先駆者、本居宣長は「源氏物語玉の小櫛」の中で次のように述べています。
みな物語といふもののこころばへを、たづねずして、ただよのつねの儒仏などの書のおもむきをもて、論ぜられたるは、作りぬしの本意にあらず。たまたまかの儒仏などの書と、おのづからは似たるこころ、合へる趣もあれども、そをとらへて、すべてをいふべきにはあらず。大かたの趣は、かのたぐひとは、いたく異なるものにて、すべて物語は、又別に物がたりの一つの趣のあることにして、はじめにもいささかいへるがごとし。
古文なのでアレですが、要約すると、「最近は物語(ここでは特に『源氏物語』)を捕まえてきて、儒教だの仏教だのの教えと合致するかどうか見ようとするヤツらが多いけど、それって全然ダメで、物語には物語の趣ってのがあるんだよ。わかってないねー」みたいな感じです。ここで「儒仏」というのは、当時の社会道徳を形成していた主流概念ですから、わかりやすいところだと昔話を読んで嘘はよくないという「教訓」を得るとか、そういう社会的な有用性にひきつけて物語を考えることを宣長は批判しているわけです。物語が、勧善懲悪と訓戒ばかりだったらつまらないだろう。役に立つ・ためになるから物語を読むというのは、おかしなことだと宣長は考えている。

そんな宣長にとって理想的な「物語の読み方」というのは、自分の体験や想いとひきつけて、「もののあはれをしる」(心がうごく)ことだ、という話になります。昔の日本人は素直に物語を読んでいたのに、中国から儒教だの仏教だの「さかしら」な思想が入ってきたせいで、無理繰り物語を分析してみせて、社会道徳との関係で意味づけようとするみたいな話が出てきたのは実にけしからん、と怒っている。なんか、どっかで聞いたような話ですが気のせいです、多分。

ともあれ宣長は、一旦社会的な道徳や何やらと個人的な情念を切り分けて、個人的な情念の領域を扱う表現として「物語」を考えようとした。私は宣長ほどラディカルに、物語は個人的な情念を扱うのがその本質だと言うつもりはありませんが、そういう固有性「も」扱いうるものだと思います。現実との対応だけで物語を測ろうとするのは、そういう側面を切り落としてしまうことになる。

宣長は、「物語では現実でやったらさすがにマズい犯罪でも、かっこよく描いても良い」と言います。もし現実と物語とが素直にリンクしているなら、犯罪行為を描いた物語というのはゴミクズということになる。でも、実際には物語の中で、任侠や悪党というのはヒーローとして活躍したりもする。現実は現実、物語は物語できちんとわけて考えるのが当然でしょ、というわけです。むしろ物語というのはそうやって、独自の観念世界を創るところに良さがあるのだ、と。

私はこの辺りまったくその通りだと思います。私たちの「固有性」と繋がった観念的な世界というのは、直接的には外側の現実、社会的な領域とは切り離されていても問題がない。現実で犯罪をしたら、そりゃあダメにきまっていますが、観念の中でするぶんには構わない。そこを切り離して考えないから、たくさんの馬鹿げた議論が噴出する。『レイプレイ』事件をはじめ、エロゲーやったから犯罪に走るとかのたまっている人たちに是非とも読んで頂きたい部分なのですが、まあそれはさておき。

日本においては、そういう固有性にかかわる部分を担う表現として、物語が選ばれてきたということもあったわけです。ちょっといくら物語論の草分けとはいえ宣長先生は古すぎたかもしれないので、もうちょっと最近の人を召喚してみると、吉本隆明は、エッセイ「批評眼について」のなかで、こんなことを言っています。
そもそも、いい作品、悪い作品というのは本来ないはずですが、それでも、しいていい作品とそうでない作品を見分ける方法というのはあります。文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。とてもシンプルな見分け方と言ってよいでしょう。それは、たとえば小説の中に書かれている事件がいま風で面白いということとはちょっと違っています。いまの事件を書いたら、それはそれで面白いかもしれないけれども、しかし、その作品が、これは俺にしかわからない、みたいなことをきちっと読者に感じさせるものかどうかは別の問題となります。作品がいいか悪いかは、中に出てくる事件の面白さやよさだけではないということが言えます。(吉本隆明『真贋』)
吉本は、「俺だけにしかわからない」と感じさせる作品は一人一人の「俺だけ」に届いているという意味で人間の普遍性を掴んだ最高の作品であるとし、次点には、時代を同じくした人間にはよくわかる作品を挙げます。エッセイだけにぱっと見論理性は見あたらない、ただの印象論にも見えるのだけれど、私には何となく、吉本が言いたいことがわかる気がします。「俺だけにしかわからない」ということで吉本が言わんとしていることもまた、物語と読み手の持つ固有性の問題でしょう。

※勿論、宣長の意識においての仮想敵は儒仏的物語解釈であり、吉本の場合はおそらく(この時点ではもうそこまで意識されていないかもしれませんが)、マルクス主義文学論みたいなのがアンチにいるので単純に同じことを言っているというつもりはありません。ただ、どちらもともに現実に物語が従属する(マルクス主義文学論の場合は、たとえば農村の実態を描いたものが素晴らしい、革命に寄与するものがすばらしいという風に、先に現実の価値が確定されていて、それを物差しにして測っている)という意味では述べてきた内容に合致するだろうと考えて引用しました。また、先人の引用をしたのは、別に知識をひけらかしたかったわけではなく(多少権威を借りようという狡い意図はありますけどね、そりゃ)、物語の読みに限らず、日本的な思惟のあり方についてかんがえるとき、個的内的な世界と社会的外的な世界との対立というのは、割とずーっと問題になり続けているのだということを言いたかったということがあります。

作品との関係にそくして言えば、固有性があらわれる端的な場面というのは、「これ面白い」とか「これ最低だ」のような、心の動きがあらわれる場面だと思います。泣けたり、怒れたり、笑えたり、抜けたり(エロゲーなら)。そんなとき、私たちは作品を通路にして、自分の固有性とも出会っている。そして自分の固有性を通して作品を見ることで、作品の固有性にも触れ得ている。

そんな風に物語を読んでいるときが一番楽しくて、そうさせてくれる物語こそが最高じゃないか、吉本がそう言っているのだとすれば、私はまったくもってその通りだと思うわけです。

▼次以降へのフリ
さて、少々長くなってきたのでこの辺で一旦話を切ることにしましょう。ただ、ここまで読んでくださった方には幾つかの疑問というか、もやっとした感じが――幾つかどころではなく全然意味わかんねぇよ、という感じかもしれませんが――あるはずです。

私が言ってきたのは、物語を固有性をもつ表現として、自分自身の固有性との関わりの中で楽しむ人もいるはずだ、ということでした。そしてそのような人にとっては、物語というのは現実とはひとまずは別の、現実との対応関係において考えられる必要のない価値が読み込まれているのではないか、と。

しかしそれなら、そのような固有の領域に属する価値なり物語なりについて、私たちはどのようなことを語り得るのか。また、どのようにその面白さを掴みだしているのか。そういう問題があります。つまり固有のものとしての物語との関わりをどう扱うのかという問題。そしてもう一つ、エロゲーについて語りますといって始めた以上、エロゲーと物語との関係はどうなっているの? という問題があります。エロゲーも物語ですから、物語の中にエロゲーが含まれるのは構わないとして、エロゲーを第一義的に物語と見なして良いか、というあたりのことは、改めて考えられなければならないでしょう。

ただ、それは次回以降の課題とすることにして、今回はこれで筆を置きたいと思います。長くなるから分割にする予定で書き始めたのですが、結局それでも長くなってしまった……。できれば最後まで書ききりたいですが、あんまり退屈だと申し訳ないし、かといってわかりやすく書けるか不安。

今回は(今回も)ぐちゃぐちゃした書き方になったのですが、いつも以上にわかりにくいと思います。すみません。理由は、私の能力不足が第一で、次にはやはり分けて書いているためかなあ。結論までいけば、問題が何であったかもう少しハッキリするとは思うのですが……。まあ、頑張って最後まで書ききるようにします。

記事についてはちょくちょく加筆修正を加えると思いますが、ご容赦ください。なお、予定については固まったものではないので、これおかしいとか、ここ意味わからないとかあれば(そしてご親切にも指摘する気が起きれば)言ってくださるとありがたいです。

それでは、また明日。

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それで良いのかヨスガ基準

すでにご存知の方も多くおられるとは思いますが、平成24年5月14日におこなわれた第623回東京都青少年健全育成審議会で、アニメ『ヨスガノソラ』が「兄と妹の近親相姦シーン」を描いているが、「社会的に是認されているかのように描いたり、あるいは必要以上に反復して詳細に描いているというもの」ではないので、新基準に該当しないとして、事実上公認された、という話が広がっています。

今回の件はエロゲーマーたる私にとっても他人事ではないなということで、ほうほう、と思ってあちこちに貼られているURLを辿ってみました。

議事録は◆こちらにございますが、一応コピペ等しやすいようテキストを掲載。一部改行をはじめレイアウトに変更を加えていますが、本文の内容については一切手を加えておりません。
〇青少年対策担当部長
皆さん、こんにちは。定刻になりましたので、始めさせていただきます。まず最初に、委員の交代がございましたので、ご紹介を申し上げます。第 4 号「関係行政機関の職員」の工藤聡委員の後任といたしまして、東京法務局人権擁護部長の柴崎周市委員でございます。

〇柴崎委員
柴崎でございます。どうぞよろしくお願いします。当法務局の人権擁護ということで、子どもの人権、幼児の虐待、小・中学校でのいじめ問題に取り組んでおります。ここのところちょっと感じたことですが、人権擁護については、高校生への手のさしのべ方が少ないのかな、という感じがしています。どうぞよろしくお願いいたします。

〇青少年対策担当部長
それでは会長、議事よろしくお願いいたします。

〇会長
ただいまから、第 623 回、健全育成審議会を開催いたします。初めに、本日の諮問事項につきまして、事務局からご説明をお願いいたします。

〇青少年課長
はい。今回の諮問事項でございますが、不健全図書類の指定ということで 、「ACTION COMICS 淫戯の果て①」ほか、合計 3 誌の指定について、でございます。よろしくお願いいたします。

〇会長
それでは、議事(1)の「不健全図書類の指定」につきまして、事務局からご説明をお願いいたします。

〇青少年課長
それでは 1 ページをご覧ください。諮問第 1002 号でございます。2 ページの「諮問図書類及び指定基準該当箇所一覧」をご覧ください。こちらに記載されました図書類は、平成 24 年 4 月 2 日から 5 月 1 日までの間に、都内のコンビニまたは書店から購入しました 134 誌のうちから、条例施行規則第 15 条の指定基準に照らしまして、指定図書類の候補として選定したものでございます。今回、諮問する図書類は、3 誌でございます。1番としまして、「ACTION COMICS 淫戯の果て①」、平成 24 年 4 月 12 日、株式会社双葉社発行でございます。2番は、「制服×征服×性服=世界大戦」、平成 24 年 4 月 10 日、株式会社日本文芸社発行でございます。3 番は、「DAITO COMICS TL シリーズ S の鍵 M の鍵穴Ⅲ ウエディング狂想曲」、平成24 年 5 月 7 日、株式会社秋水社発行でございます。なお「狂想曲」と書いて、実際の本には、「かぷりっちお」とルビをふってございます。これらの発行所の過去 1 年間の指定回数ですが、1 番の双葉社は、3 回、2 番の日本文芸社と 3 番の秋水社は、2 回でございます。該当箇所につきましては、いずれも「全編大部分」。

該当指定基準は、いずれも施行規則第 15 条第 1 項第 1 号イ・ロでございます。購入場所は、いずれも書店でございます。諮問図書類につきましては、条例第 18 条の 2 第 2 項に基づきまして、本審議会の諮問に先立ちまして、先週 9 日に図書類出版業界、取次業界及び販売業界等からの意見を聴取しまして、その結果を 3 ページから 5 ページにとりまとめてございます。

まず、3 ページをご覧ください。1 番の「ACTION COMICS 淫戯の果て①」ですが、聞き取り内容のとおり、「指定やむなし」の意見が 8 名、その主な意見は、「性器部分は修整されているものの、器具を使ったシーンが詳細あるいは露骨」などでございます。「保留」については 3 名、「指定非該当」とする方は 3 名でございます。その主な意見としましては、「コミカルで卑わい感は無い。器具を使用してのセックス描写も多いけれども、ギリギリ許容範囲」などでございます。なお、自社出版物のため、意見表明無しの方が 1 名ございました。

続きまして 4 ページをご覧ください。2 番「制服×征服×性服=世界大戦」につきましては、「指定やむなし」の意見が 7 名、その主な意見は、「SF だが、幼女っぽい子への器具を使った性交、体液の多さが気になる。カラーで印象度も高い」などでございます。「保留」は5 名、「指定非該当」とする方は 3 名でございます。その主な意見としましては、「設定や修整の仕方等気になる部分はあるが、パロディ漫画で、性的刺激の対象とするものではない」などでございます。

続いて 5 ページをご覧ください。3 番「DAITO COMICS TL シリーズ S の鍵 M の鍵穴Ⅲウエディング狂想曲」でございますが、「指定やむなし」の意見が 5 名、その主な意見は、「器具の使用が多く、性器の描き方にも一部リアルなところがある」などでございます。「保留」は 1 名、「指定非該当」は 9 名でございます。その主な意見としましては、「設定は過激な部分はあるけれども、ふんわりとした絵柄でリアル感がなく、露出も控えめで許容範囲」などでございます。以上でございます。

〇会長
ありがとうございました。ただいまのご説明につきまして、ご質問がございましたら、どうぞお受けいたします。

(「なし」の声あり)

〇会長
よろしいでしょうか。ではご質問がございませんので、図書の審査に入ります。

(図書審査)

〇会長
それでは、ご覧いただけたようですので、それぞれ各委員からご意見をいただきたいと思います。

〇■■委員
3 誌とも指定でお願いします。

〇■■委員
3 誌とも指定でいいと思います。

〇■■委員
3 誌とも指定でお願いいたします。

〇■■委員
3 番目の漫画は、非該当という意見もあって、いろいろ迷ったんですが、特にストーリー性があるわけでもなし、結論としては、3 誌指定でいいと思います。

〇稲葉委員
3 誌指定でお願いいたします。

〇中村委員
3 誌指定でお願いいたします。

〇■■委員
3 誌とも指定でお願いいたします。

〇■■委員
3 誌とも指定でいいと思います。

〇■■委員
3 誌指定でいいと思います。

〇■■委員
3 指定でいいと思います。

〇■■委員
僕は 1 番と 3 番は指定でいいと思います。2 番は保留にさせてください。

〇柴崎委員
3 誌とも指定でお願いいたします。

〇会長
1誌目と3誌目については、委員の全員の方が指定というご意見でございますが、2誌目につきましては、■■委員から保留というご意見ございました。いかがでしょうか。大方の皆様が 3 誌指定ということでございますので、そのように答申してよろしゅうございましょうか。

(「異議なし」の声あり)

〇会長
それでは、3 誌指定ということで、答申をさせていただきます。次に議事を進めさせていただきます。(2)の「条例に基づく事務の施行経過」について、事務局からご説明をお願いいたします。

〇青少年課長
それでは、資料の 11 ページをご覧ください。前回の健全育成審議会以降の 4月 9 日から 5 月 13 日までに実施した事務局の動きを簡単にまとめたものでございます。前回のご意見を踏まえまして、指定図書類を決定しまして、4 月 13 日に告示いたしました。その他、出前講演会等々を実施しております。12 ページでございます。こちらは、今年度平成 24 年度の不健全図書類の指定実績を載せてございます。

さらに 13 ページでございます。こちらも平成 24 年度優良映画等の推奨実績を載せてございます。

続いて 14 ページをご覧ください。こちらは、都が委嘱しております東京都青少年健全育成協力員の環境浄化活動の 4 月分の状況でございます。平成 24 年 4 月までに委嘱しております協力員は、217 名。4 月の活動者数は 26 名、調査店舗数は 145 店舗でございます。この表は、各店舗におきまして、指定図書類、表示図書類、シール留め雑誌を始めとした大人向けと思われる図書類につきまして、包装や区分陳列等の実施状況の調査結果でございます。なお、包装及び区分陳列が徹底していない店舗につきましては、職員による立入調査を順次行っております。

次の 15 ページでございますが、都の職員による書店の立入調査及びカラオケボックス等の実態調査の結果でございます。1 番目の表でございますが、書店等立入調査では、指定図書類の取り扱い不適切が新刊書店で 6 店舗、古書店で 1 店舗ございます。また、表示図書類の取り扱い不適切が新刊書店で6 店舗、コンビニで 1 店舗、その他、酒屋ですが 1 店舗ございました。その場での是正措置を含めまして、条例を遵守するよう指導いたしました。2 番目の表ですが、映像ソフト・ゲームソフト専門店等の立入調査でございます。表示ソフトの取り扱い不適切が、映像ソフト店及びゲームソフト店の専門店で各 1 店舗ございました。こちらも、その場での是正措置を含めまして、条例遵守について指導いたしました。3 番目の表でございますが、カラオケボックス、まんが喫茶等への実態調査でございます。青少年の制限掲示無しが、カラオケボックスで 1 店舗、年齢確認の実施無しが、カラオケボックスで 1 店舗、まんが喫茶・ネットカフェで 2 店舗ございました。なお、まんが喫茶・ネットカフェでフィルタリングを導入していない店舗が 1 店舗ございました。4 番目の表ですが、古書店、映像ソフト店のうち、古物を取り扱っている店舗ではいずれも年齢確認、保護者同意確認がなされておりました。

16 ページをご覧ください。こちらは雑誌・ビデオ類等の自動販売機に義務付けられております届出等の施行状況でございます。①でございますが、4 月末現在の区市町村別届出台数一覧でございます。設置箇所数は、62 ヶ所、設置台数は、214 台でございます。②でございますが、4 月中に届出のあった内訳でございます。廃止届が 38 台分ございました。③でございますが、4 月中の自動販売機等の立入調査の結果でございます。調査を行いました 17 台のうち、条例第 13 条の 3 により義務化されている廃止無届が 4 台ございました。それから届出表示無しが 7 台ございました。こちらについては、設置者に対して、直ちに是正の指導を行いました。次に条例第 13 条の 5 により義務化されている買えない措置・見えない措置の必要な 8 台につきましては、いずれも条例及び施行規則どおり実施されておりました。今後も引き続き、立入調査を実施してまいります。

続いて 17 ページでございます。こちらは平成 23 年度の東京都青少年健全育成協力員の環境浄化活動状況の累計の表でございます。

続きまして 18 ページは、平成 23 年度の立入調査結果の累計でございます。

19 ページは、平成 23 年度の自動販売機の届出等の累計を載せてございます。

条例に基づく事務施行については、以上でございます。

〇会長
ありがとうございました。ただいまご説明いただきましたけれども、何かご質問等ございましたら、どうぞ、お伺いいたします。よろしいでしょうか。

(「なし」の声あり)

〇会長
ご質問等ございませんので、進めさせていただきます。(3)の「その他の報告等」につきまして、事務局からご説明をお願いいたします。

〇青少年課長
それでは資料の 20 ページをご覧ください。4 月処理分の都民の申出でございます。

まず 1 番。メールによる申出が 1 件ございました。内容は「性的な描写のあるテレビアニメについて」で、兄と妹の近親相姦シーンを含む 5 作品につきまして、都民から指摘がありました。1 作品は DVD になっているものを購入して確認を行いました。他の 4 作品につい6てはインターネットの動画で確認いたしました。このうち「ヨスガノソラ」というアニメが兄と妹の近親相姦を描いております。ただ、社会的に是認されているかのように描いたり、あるいは必要以上に反復して詳細に描いているというものではありませんので、新基準等には該当しておりませんでした。その他のアニメ 4 作品につきましては、いわゆる旧基準の対象となりますが、いずれも該当するものではありませんでした。

続いて、電話による申出は 2 件ございました。まず一つ目ですが、「アイドルグループのプロモーションビデオについて」ということですが、メンバーの中学生が、踊りながらスカートをめくって下着を見せており、子どもが真似をすると影響が大きいので、出回らないように販売規制ができないかというような都民の申出でございました。こちらにつきましては、プロモーションビデオの制作者のホームページを確認した結果、振り付けの一部を自粛するという発表がすでになされておりました。各方面からの批判があったようで、おそらく制作者サイドのほうで自主的に振り付けを変更したものと推察しております。

最後ですが、「表示図書類を販売する書店について」でございます。都内の 2 つの書店において、内容のひどい 18 禁の同人誌が区分陳列されずに販売されているとの都民の申出でございます。こちらにつきましては、早速この 2 店舗に立入調査を行いまして、指定図書類を含めて区分陳列が適切になされていないことを確認しましたので、その場で区分陳列を徹底させたところでございます。

都民の申出は以上でございます。

続いて前回、第 622 回の議事録を 4 月中旬に委員の皆様に送付いたしまして、内容の確認をしていただきましたものを本日配付してございます。議事録の中で行政機関の委員の方を除きましては、お名前等の伏字を行ってございます。こちらの議事録につきましては、4 月25 日から、すでにホームページ及び都民情報ルームにおきまして公開をしております。次回諮問予定の推奨映画等はございません。事務局からは、以上でございます。

〇会長
ありがとうございました。ただいまの報告につきまして、ご質問がございましたら、どうぞ。よろしいでしょうか。

(「なし」の声あり)

〇会長
それでは、本日の議事はこれで終了といたします。次回は 6 月 11 日の月曜日になりますので、どうぞよろしくお願いいたします。本日はどうもありがとうございました。

まとめサイト等では、「このうち「ヨスガノソラ」というアニメが兄と妹の近親相姦を描いております。ただ、社会的に是認されているかのように描いたり、あるいは必要以上に反復して詳細に描いているというものではありませんので、新基準等には該当しておりませんでした。」の部分が強調して流され、万歳ムードのように扱われていますが、いやいや、これはちょっと待った方がいいんじゃないの、というのが正直な感想です。ツイッターのほうでも、概ねそんなことを呟きました。

規制問題については以前、「表現規制は藪の中」という長い記事を載せたことがあります。そこで挙げた危惧がまるで解消されていなくて、個人的には「うわぁ」という感じ。そう感じたのは私だけではなかったようで、あれこれの意見を拝見している限りでは素直に喜べないという慎重論も多く見られました。

今回の決定に意味があるとすれば、『ヨスガノソラ』ならOKだという一つのラインができた、ということでしょう。しかし、そのラインの基準が何なのか、実は全然ハッキリしていません。この「青少年課長」という方が、「必要以上に反復して詳細に描いている」ことも、「社会的に是認されているかのように描」かれてもいない、と判断したというだけです。手続きともよべないレベル。このプロセスが容認されることのほうが余程問題に思えてきます。
※5/31追記:これ実は審議されて許可がでたのではなくて、審議に持ってくる前に個人的判断で議題から外しましたという報告に過ぎないのではないかというご指摘を頂きました。なるほど、そうかもしれません。だとしたら、『ヨスガ』ならOKというラインすらできていないことになるのでしょうか。この辺の条例判断のスタンスを知りもしないのに記事を書いてしまうあたり、いい加減な性格で恥ずかしいのですが、もしご存知の方などいらしたら、ご教示頂けると嬉しいです。一応私のほうでも調べてみて、わかったら更に追記したいと思います。
これが決定として通過したということは、『ヨスガ』が基準となって支えてくれる可能性よりも、委員の恣意的な基準をぶんぶんまわしにされる危険性の方が、遥かに高い気がします。今度は別の人が「社会的に是認されているかのように描いている」と判断したら、たとえ「お兄ちゃん好き」と作中で発言しただけでもアウト、といわれかねない。実際戦時の思想統制なんてそんな風に行われたわけで。

『ヨスガ』ばかりが引用されていますが、規制をくらった他の作品に対する判断を見て頂ければ、酷さがおわかりになるでしょう。『ヨスガ』と同じ理屈でまったく逆のことになっています。

たとえば、「性器部分は修整されているものの、器具を使ったシーンが詳細あるいは露骨」という理由で規制食らうことになった『淫戯の果て①』。そもそも器具は何が悪いんですか。「施行規則第 15 条第 1 項第 1 号イ・ロ」に書いてあるのでしょうか。よしじゃあ、みてみようじゃありませんか
第十五条 条例第八条第一項第一号の東京都規則で定める基準は、次の各号に掲げる種別に応じ、当該各号に定めるものとする。
一 著しく性的感情を刺激するもの 次のいずれかに該当するものであること。
イ 全裸若しくは半裸又はこれらに近い状態の姿態を描写することにより、卑わいな感じを与え、又は人格を否定する性的行為を容易に連想させるものであること。
ロ 性的行為を露骨に描写し、又は表現することにより、卑わいな感じを与え、又は人格を否定する性的行為を容易に連想させるものであること。

「器具」の「き」の字も見あたらないんですが、器具は何がどうダメなんですか? それとも、器具のシーンが殊更露骨だったというだけで、器具は関係ないのでしょうか。(ちょっと興奮しているので事実関係に誤認があるかもしれません。その時は是非、おしえてください) その辺、サッパリ解らない。一方の擁護する側も擁護する側で、「コミカルで卑わい感は無い。器具を使用してのセックス描写も多いけれども、ギリギリ許容範囲」と言っていますが、これも意味がわからない。なんすか、「ギリギリ許容」って。「コミカル」だと「卑わい」じゃないんですか。マジで? それとこちらの方は、器具を論点にして絡む気なんでしょうか……と、ツッコミどころ満載。

いや、議事録みてる限りなので、実物みたらわかるとか言われるのかも知れませんが、しかし内容が伝わらない議事録ならまったく意味がありませんし、そもそもこれ、「これ卑猥だとおもうひとー?」「はーい」(8人)。「これコミカルだとおもうひとー?」「はーい」(3人)。「じゃあ、多数決で卑猥ってことにしますねー」「はーい」(全員)。ってことですよね? 学級会じゃないんですよ。いや、それは学級会に失礼すぎたでしょうか。

「卑猥さとは何か」という哲学的議論をしろとまでは言いませんが、せめて該当する作品の、どのページのどの表現が、どういう風に卑猥なのか、または卑猥でないのか、そのくらいは各委員に聞きましょうよ。そうでないと、修正のしようがないじゃないですか。『ウエディング狂想曲』なんか、規制派は「性器の描き方にも一部リアル」だと言っていて、容認派は「ふんわりとした絵柄でリアル感がなく」って、完全に逆のこと言ってるじゃないですか。それが何で、ろくな議論もすり合わせもなく、いきなり多数決で決まるんですか。もう、わけがわからないよ……。
※6月2日追記
色々と調査+情報を頂きまして、事実関係の誤認等も明らかになりましたので追記します。まず、『ヨスガ』は本当に認められたか否か、ということについては、やはり「わからない」のだそうです。この課長さんのところで止められているというだけで、審議されたことにはならない。ただ、慣例上この課長さんが在任中は再び話題になることはないのではないか、というのがその道に詳しい人の見解でしたが、これもはっきりしません。要は、正確なことが知りたければ問い合わせるしか無さそうです。

次に、こっちのほうが重要。大いに勘違いしていて恥ずかしいのは、ここで公開されいてる判断意見は、「取次業界及び販売業界等」から聴取した意見であり、委員のものではない、ということ。つまり、「指定やむなし」の8名云々というのは委員ではなく、自主規制団体等ということでした。これはよく読めばわかることでした。まったくお恥ずかしい限りです。ちなみに、その聴取内容についてはこちらにPDFでまとめたものがありました。

ただ、そうであったとしても私が述べた問題は何も解決されていない、むしろもっと酷いんじゃないかという感じがします。問題はおよそ以下の三点。
(1)一部の個人の主観によって「卑わい」かそうでないか等が決められ、しかもそれが前例として都の基準となるかもしれない。
(2)そもそも指定の具体的基準がわからない。たとえば、どのコマはよくてどのコマが悪いかが指摘されていれば、そこから判断を逆算もできるけれどそれも無理。ある人は擬音語、ある人はシーン数、ある人は絵、ある人は露骨さと基準がまちまちなのに、すりあわせる気配もない。
(3)「大方の皆様が 3 誌指定ということでございますので」という理由で、結局委員の中でも多数決。委員間での意見交換や議論も無い。これは、委員の大半が納得していたから良いという問題ではなく、全員が賛成に回りそうだったら敢えて反対の異議申し立てをして、内容を相対化するようなバランス感覚がある委員がいないということでもあり、審査というものに対する意識の低さ自体が問題になる。

失礼な言い方をすると、ここで展開されていた「意見」が委員のものではなく聞き取り調査によるものであったとしたら、委員の中には本当に「3誌とも指定で」としか言っていない人もいるということになります。これが作品に対する裁きの場であるということに、やはり疑問を抱かざるを得ません。

最後に、今回の件について非常にまとまった情報を開示しておられるブログを教えて頂きましたので、ご紹介。「えふすくBlog 2ndSeason」さんの、「東京都青少年健全育成審議会 番外編 もうちょっと詳しく書いてみるテスト」という記事。事実関係に即したとてもきっちりしたまとめです。「審議会の委員の意見」ではないというお話も、こちらではきちんとわけて書いておられました。過去の「東京都青少年健全育成審議会資料」についてもきちんと目を通していろいろコメントしておられ、私のようなニワカとは格が違います。非常に勉強になるし面白いです。

ただ、私とは意見が大きく違うように見える点もあって、それはたとえば記事末の「「不健全か否か」は非常に主観的なものなので、個人の主観を尊重してあげてください。」や、「個人的にも意見側より委員側の方が頷けることが多いですので安心(?)してください」のような部分。

えふすくBlogさんのこうしたご意見は、もしかすると今回の件に関してだけの話で、トータルの意見ではないのかもしれませんが、並べるとわかりやすいので、最後に私の考えをえふすくBlogさんとの比較で再度述べておきたいと思います。

いまは良識のある委員だから良いとして、でもここに非常識な人が来る可能性は当然あります。あるいは、政治的な判断が働くこともあるでしょう。もっとありそうなのは、エロ漫画が原因で犯罪が起きた、といったようなニュースが流れるとか。その時、「主観で」まっとうな判断が可能なのか。表現というものに対してそのような「主観的な」判断をあてはめるということ、そしてその手続きが、たとえ誰もが「まあこりゃ指定だな」と思っているものに対してであっても、かくおざなりな手続きによって通過しているということ。それらのことが原理的に問題だ、ということです。

「都民からの申し出」として思わず笑ってしまうような内容のものも含まれた「申し出」が紹介されていましたが、「主観を尊重」するのなら、これがまるっと通過して全部規制です、となることも尊重しないといけない。そういう原理をもったシステムを運用するというのは、爆弾抱えて歩いているようなものであるようにも思われる。

そしてその爆弾が爆発しない保障はどこにもない。それこそ、原発神話より危ないです。だから、できることなら原理的に予防策をとりたいし、とるべきというわけ。

この場では大したことにならなくても、こういうやり方を認めると言うことは、同じようなやり方でもっとひどいこともできるし、またボーダーラインの上げ下げも「主観」のひと言で片づいてしまう。そういう危険性に対する意識がこの議事録には無いし、ストッパーも見あたらない。これが企業の面接なら別に何も言いませんが、都民の表現に対する「審査」だというなら、私は現状どれほど妥当な判断が下され、どれほど二次元に甘い内容が言われたとしても、断固警鐘を鳴らす立場をとるつもりです。

もちろん実際の活動という意味でいえば、えふくすBlogさんは今回の件で急に議事録を見始めた私などより余程真摯にとりくんでおられる。まこと見習いたいところですし、今後も勉強させて頂ければと思います。

私はここに上がった三作品を読んでいないので規制の内容が妥当かどうかについては意見を申し述べることができません。もしかしたら妥当だと思うのかも知れない。しかし、手続きについては確実に妥当じゃないと思うし、こんなもんで規制されたら作品が浮かばれないと思います。

同時に、こんな手続きで『ヨスガ』が「OK」のハンコをもらったことに、まったく実質的な意味は無いと思う。それこそ本当に、この課長さんが『ヨスガ』のファンだったのかもしれないくらいです。「指定図書類を含めて区分陳列が適切になされていないことを確認」という、まるで具体性の無いこの説明ですべてが通るなら、こんな会議無いも同然。

そもそも致命的な問題として、ある表現についての内容の妥当性を判断するのに、その表現の専門家がいなくて良いんでしょうか。最低でも現役のクリエイターなり、その道に詳しい人を入れるのが普通なのでは? もちろん議論が有害図書のことばかりではないから常任で漫画家いれろとかは言いませんが、臨時で召集して意見を聞くとかはできるはずだし、そのくらい慎重な手続きは必要なのではないでしょうか。個人的には、各事例に対して専門家による合議集団を組織して、審議会とは独立してだした結論をすりあわせるかたちにしても良いくらいだと思っています。

今回の決定の意味は、繰り返しになりますが、前例として『ヨスガノソラ』ならOKになった、ということに尽きます。規制反対派が今後振り回す武器としては、格好の材料を得たとも言える。「ヨスガで良いんだから、これがダメってのはおかしい」と論陣を張る拠点を手に入れたのですから。

しかし、私はやはり原理的に今回の規制問題に抵抗感を覚える立場です。だから、自分に都合のいい判決だけを都合良く拾うということはしたくない。『ヨスガ』という武器を振り回すと言うことは、委員の恣意によって勝手に決められた判断を受け容れるということにもなりますから、振り回せば振り回すだけ、最後は委員が「俺がダメだっつってんだからダメ」と言った時に、抵抗する力を失うことになります。今回の決定で本当に恐ろしいのは、『ヨスガノソラ』という前例にすがりつくことで、それが成立した無茶苦茶な決定プロセスをも事実上認めることになってしまう(プロセスは認めないけど『ヨスガ』がOKという部分だけ利用する、というのは多分認められません)ことです。

規制肯定派の人にとっても、今回のは「私なら規制するのに、どうしてこれじゃダメなのさ」と考える契機になってくれれば良いな、と思う。「近親相姦を描いたマンガは「無害」だという主張も、近親相姦を礼賛していれば小説であっても取り締まるべきだという主張も、ともに議論の余地無く却下される」と昔の記事で私は書きましたが、その通りのことになっているんじゃないでしょうか。結果論で『ヨスガ』が認められたことよりは、その結果へ至る過程で『ヨスガ』は本当に不健全でないのかということにも、それが不健全だとしても規制していいのかということにも触れないまま終わってしまったことが問題です。

ちょっと警戒しすぎなのかもしれないし、また、今回は私なんかが言うまでもなく多くの良識ある人が「微妙」と意見表明しておられるので、ことさらに突っ込む必要もないのでしょうが、この結果を万々歳で受け容れるのは自爆コースという気がしてならない。こんな感じで次々に「基準」ができあがっていくのかと思うと、恐ろしくてなりません。

そんなわけで見えない明日への恐怖を抱きつつ、本日はこれでお終いにしたいと思います。お疲れさまでした。

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レビュー:『パパのいうことを聞きなさい!』10巻

ぱいこき10巻
松智洋『パパのいうことを聞きなさい!』10巻
(スーパーダッシュ文庫、2012年 イラスト:なかじまゆか)

というわけで、パいコキもとい『パパ言う』の10巻が発売されていたので購入。店舗ごとにメッセージペーパーが付くようで、メロンが莱香さん、アニメイトは空ちゃん、とらのあなが美羽様、ゲーマーズはひなだお! でした。私は莱香さん一筋なので当然メロン……だったのですが、とらのは4Pのリーフレットだということでとらでも購入。エロゲーと違ってラノベは特典の為に複数買いするのが楽で良いな! などと思う辺り、だいぶ調教具合が末期に来た感じがします。

『パパ言う』も10巻の大台にのったわけですが、特別なことも無く、いたって平常運転。これまでの巻同様、事件が起こり、祐太が奮闘して解決し、周りの女性陣が「キャー祐太さん、抱いてー」状態になるという安心のパターンでございました。……と思っていたら、最後に来て(私的には)結構ワクテカな展開が!! これは莱香さんの話が次巻以降動き出すのかと、期待に胸を膨らませています。ただヤングジャンプで連載中のコミックが露骨に莱香さん押しなので、本編では脇に押しのけられるのでしょうか……。

本巻は、冒頭で「普通」について祐太が色々と考え(自分は至って普通のつもりだけど、世間一般から見れば普通ではないのだろうな、という風に)、そういう彼らにとっての「普通」をおびやかすものとして、世間の偏見みたいなものがクローズアップされています。お話としては美羽がモデルにスカウトされるというところから入るのですが、祐太と三姉妹と一匹にとって、あるいはその周りの人びとにとっての幸せのありかたは何かを具体的に描こうといういつものパターンから微塵もズレていないので、既存シリーズのファンなら問題なく読めるのではないでしょうか。

ただ、さすがに少々マンネリ化してきたかな、という気もします。

この作品の持ち味は、いきなり美人三姉妹と同居することになった健全な大学生がどうなるのか、思い人・莱香との恋愛を絡めて描いていくというストーリー的な興味で引っ張りつつ、その中でもの凄く具体的なエピソードを重ねることで、登場人物たちの心情を描いていくところにありました。

推理小説であればプロットというかストーリー自体が目的であるし、キャラクター小説ならキャラクターの具体像が細かく掘り下げられていくことが面白いわけですが、そういう意味では本作は両者の中間。ストーリーで関心をひきつつ、キャラも掘り下げるという両輪を巧く回しながら、全体として何かテーマも見えてきそうな感じを漂わせていたと思います。

ただ、飽和気味だったヒロイン勢にお隣さん(栞)やら大学の同期生やら、挙げ句人妻(サーシャ)まで加わったことで、ストーリーの方はかなりカオスに。恋愛模様というのは『めぞん一刻』が良い例である程度シンプルなほうが緊張感が出やすくて良いと思うのですが、ハーレムにしたいのか誰かに軸を置きたいのか(一応空ちゃんなのだろうとは思います)段々見えなくなってきて、ちょっと停滞気味。

一方のキャラクターの掘り下げも、たとえば今回でいえば美羽の具体的なエピソードとしては「美羽らしい」ものでとてもよかったのですが、逆に言えば「美羽らしい」と思える時点で、新しい発見は少なかった。この作品、かなり早い段階で多くのキャラが固まっている気配があったし、アニメ化を経たせいか最近とみにその傾向が強い。そんな中で、既存のイメージを固めるようなエピソードが並ぶというのは、今後の伏線的意味合いもあるにせよ、ちょっと退屈に感じる部分があったことは否めません。

そのぶん、何か動き出す感じを最後に漂わせた莱香さんのあの反応が目立って良かったし、期待は高まっていますけど! いずれにせよ、ストーリーの進展か、キャラクター像に何か変化を加えるようなエピソードを投入するか、10巻も続くとそろそろどっちか欲しい時期なのかなぁ。いっそ、新キャラで2、3人女の子を増やして祐太と絡ませて、収拾のつかないバタバタハーレムになっても面白いかなと個人的には思います。売上には繋がりそうにないですが。

ともあれ、安心安定の巻でしたということで、次巻以降も期待したいところ。それでは、本日はこの辺で。また明日(*・ω・)y-~~~

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いろいろ違いを痛感した話

gooランキングに先日、「最強のNHKアニメは「これしかない!」と思うものランキング」というのが掲載されていました。結果はご覧の通り。(10位までを引用しましたが、リンク先には45位まで掲示されています)

1位 忍たま乱太郎
2位 おじゃる丸
3位 ふしぎの海のナディア
4位 火の鳥
5位 メジャー
6位 ニルスのふしぎな旅
7位 カードキャプターさくら
8位 おさるのジョージ
9位 バクマン。
10位 十二国記


えっ、マジですか……。いや、どれも有名だし人気があるのはわかる……観たことがないのでわからないのもありますが、まあ大体わかります。わかりますが、私の中の「これぞNHKアニメ!」というイメージと食い違いがありすぎて、しばし愕然といたしました。

私の好きな他の作品でいえば、「電脳コイル」は14位。「アニメ三銃士」は15位(いつでも、心に冒険を!)。「コレクター・ユイ」は35位。おいおい、「モンタナ・ジョーンズ」がいないぞ! と思ったら、43位の「冒険航空会社モンタナ」。これですか……。再放送で名前変わっていたんですね。「青いブリンク」入ってないし、そうかぁ、という感じ。

何より、「ジーンダイバー」が入っていないとは!(笑)

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私の世代ならみんな知ってる(嘘)、名作アニメ『ジーンダイバー』。シンプルながら優れたセンスが光ります。

「ジーンダイバー」というのは、「天才てれびくん」の中の1コーナーとして1994年ごろに放送されたアニメ。世界観や設定には何の関係も無いのですが、実写とアニメを組み合わせるという手法ゆえか、「恐竜惑星」(93年)、「救命戦士ナノセイバー」(97年)とあわせてファンの間では「バーチャル三部作」と呼ばれていました。ある意味NHK(教育)でしかありえないタイプのアニメなので、「最強」かどうかは知らないけれど、NHKらしさは炸裂しています。

「天才てれびくん」は子ども向けの夕方番組で、たしか18時ごろに放送しておりました。当時もう高校生になろうかといういい年をしていたにもかかわらず、このアニメのために録画して見ていました(部活あったので帰れなかったのです)。いや、ホントに面白かったんですよ。いわゆるNHKのお勉強アニメで、進化について勉強(も)できるよ、というのがウリのはずなのですが、その辺の事情は完全にかっとばしたSF設定が素敵でした。

ヒロインは、芳賀唯ちゃん。なんかどっかで聞いたような名前ですね……。当初は「現実世界と仮想世界を行ったり来たり」しながら(つまり、実写の女の子・唯とアニメのユイがかわりばんこに登場するかたちで)進行していたのですが、次第に「バーチャル世界が独立した進化を遂げようとしている」と、完全にバーチャル世界中心にシフトしていきます。要するに、実写の子たちはほとんど出なくなります。たぶん、大人の事情というヤツです。

残酷描写上等、人死に上等と、NHKお子様向けアニメにしては随分頑張った感じだったので二度と日の目を見ることは無いかと危惧していましたが、10年ほど前(2003年)にDVD化されまして、大喜びで予約購入いたしました。

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DVDボックスのパッケージ。真ん中の子が唯ちゃん。左手の黄色いのが相棒兼マスコットのパック。

「ジーンダイバー」の話はどっかでできたらやりたいなぁ。いやあ、「てれびくん」枠だからアニメとしてカウントされていないのかもしれませんが、私の世代は結構見ていたと思うんですけど……ああいうの見て育ったからいまの主流とは違うタイプになっちゃったのかしらん。

まあ、あとはやっぱり納得いかないのが、「CCさくら」ですよ! 7位ですか。7位ですかぁ……。「総務省が公共放送で、日本人をオタクにしようという方針を明確に打ち出した」とまで(主に私の近隣で)大騒ぎだった超有名作品が、野球バカのノゴロー君に負けているだなんて……(ファンの方すみません。メジャー良いアニメですよね)。

NHKといえば萌え御用達、というのは多少歪んだ認識であるにせよ、何かこれじゃない感というか、ううむ、という感覚に襲われるランキングなのでした。ま、gooランキングだからそこまで一般的なものじゃないのかもしれないんですけど。だから、実際にはこのランキング結果が意味するものとか、そういう話には全然興味ありません。単なる話題のネタです、と身も蓋もないバラシ。ランキングに入っていないのでも良い作品がいっぱいあるあたり、さすがNHKさんは半端無いッスね! というオチにしておきます。

とりあえずgooランキングってリサーチ対象がどういう母集団なのか、調べたけどあんまりよくわからなかったので、ご存知の方がいらしたら是非おしえてください。

といったところで本日はこの辺で。また明日、お会いしましょう。それでは。

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レビュー:『パニックドールズ』

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PC9801版:1996年7月19日
Win版:1998年7月10日
原画:角井陽一
シナリオ:矢部光吉
開発:すたじお実験室
販売:日本プランテック
種別:18禁
ジャンル:ややリアルな美少女調教シミュレーション
※3.5インチ 6枚組
※640KB以上のメインメモリが必要です。
※ハードディスクの空き容量が8メガバイト以上必要です。


押入の整理をしていたら、すごく懐かしいものが出てきたのでご紹介。PC98時代の名作、『パニックドールズ』です。残念ながら箱は無くなっていたので画像はその辺で拾ってきたものですが(左はマニュアルです)、これ1996年。バッチリ覚えています。カクテルソフトの『Piaキャロットへようこそ!!』のPC98版が発売されたのが、同じ年の7月26日。96年6月号のパソコンパラダイス誌は、青髪ショートのアイドルみたいな女の子のキャラ絵が表紙(松原秀典さんが描いておられました)で、これがめちゃめちゃ可愛かった。いま手元になくて画像等でお見せできないのが残念です……。

パソパラは18禁指定も無かったので表紙一目惚れで購入して中身をパラパラめくっていたら、トップ記事が『デリシャスらんちぱっく』と『Piaキャロ』。その他で目に付いたのが、『妖女乱舞』とこの『パニックドールズ』でした。当時から触手成分大好きだったんだなぁ……。

とはいえ残念なことに、まだ18歳になっていなかった私は一日千秋の思いで誕生日を待ち望み、日付が変わったその日に地元だと誰かに見つかったら恥ずかしいという思いから電車で約20分はなれた加古川(兵庫県)にある遊コンにおもむき、そこで『Piaキャロ』を購入したのです…………。

『パニックドールズ』どこいったんだよっていう話ですが、1年待っている間に店頭から消えていました。・゚・(ノД`)・゚・。 あと、当時からエロゲーはだいたい8800円定価。学生あがりの我が身には高すぎて、そんなホイホイ買えるものでもなかった。あとぶっちゃけ、他にやるべきゲームが多すぎた。『ドラゴンナイト4』や『遺作』、『同級生』などelfの主要な作品は教養としておさめておくべし、という雰囲気がありましたし、同じく96年にはLeafから『雫』が発売され、一部地域では非常な盛り上がりをみせていました。丁度、Windows95への移行期だったこともあり、そんな激流の中で、変身ヒロインモノという当時としてはニッチなジャンルは忘却の彼方へとおきざられていったのでしょう。
余談ですが同じ年、戦隊系ヒロインエロゲーのはしりとして有名な『聖少女戦隊レイカーズ』の最終作、『聖少女戦隊レイカーズ3』も発売されていました。攻略記事を見ながら、「乳でけーな……」と感心したことを覚えています。やはりこちらも、売上は伸び悩んだ模様。後にWin版が発売されて、それを購入しましたが、結構面白かったです。
で、なんか96年の終わりには『鬼畜王ランス』発売とか色々あって大騒ぎ。私もすっかり『パニックドールズ』のことなんて忘れていたのですが、これがなんとビックリ、98年にWin版としてリメイクされたんですよ! やったねぱうぱう~♪

というわけで、発売されると同時、Win版のほうを購入いたしまして、やりました。ヤりました。犯りました。まあ、なんでもいいんですが、とりあえずこう、野生に帰ったかのように毎日遊びまして、ぶっちゃけやりすぎてすぐに飽きたんですが、とても満足いたしました。

ゲームの内容は「ややリアルな美少女調教シミュレーション」。ただ、いわゆる調教モノではありません。迷宮型のMAPに召喚したモンスターを配置し、トラップに誘い込んだりしながら、「パニックドールズ」という変身ヒロインたちを倒して捕縛する、というもの。「ドールズ」たちは勝手に動き回り、放っておくと主人公の所属する悪の秘密結社「マヴゥ」を壊滅させるので、動きのパターンを見極め、うまいこと誘導する作業を楽しむゲームです。

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ゲーム画面。このMAPで動き回るドールズたちを誘導します。

今で言うと『巣作りドラゴン』とかの系列に近いかな。というよりは、コンシューマでテクモの『刻命館』を連想する人が多いですか、多分。

『刻命館』も1996年の7月発売ですから、『刻命館』とタメをはるゲーム! などと当時私の友人(年上)は言っておりましたが、『パニックドールズ』にはダンジョンをカスタムするようなアイディアは無かったので、実際にプレイした感覚としては、『レミングス』とかに近かったです。

ヒロインは、フェニックスローズ(赤いの)、タイガーリリー(白いの)、トータスチェリー(青いの。なぜ陸亀……)に、彼女らの上官である銀河警察のエージェント、マスター・ドラグーン。まあドラグーン(龍川)さんは戦闘には参加しません。怪我してたんだったかな。学校でフラフラしてるのを主人公に良いようにコマされるサービスキャラ的役回りでした。

冒頭の選択肢群で「はい」の回数が多いと鬼畜モード、「いいえ」の回数が多いとラブラブモードでゲームが進行します。基本モンスターは完全な噛ませ犬で瞬殺されるんですが(50種類近くいたはず)、時々H能力を持ったのとかがいて、うまく当てるとHイベントが発生したり捕獲できたりします。ローズがサイクロプスみたいなのに宙づりにされて下から……とか、主人公バラード様とHより、どっちかっていうとモンスターのHイベントが良かったです。

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「着せ替えモード」など当時としては比較的斬新なサービスモードも搭載。

さすがにマイナーゲーすぎるかと思っていたのですが、こちらこちらでとりあげられているなど、ネット上ではそんなにマイナーでも無い様子。意外と人気があったのでしょうか。まあ、結構面白かったんですよね。ゲームパート。

ストーリー部分に関しては、上記サイト様でも言及されていますが、割と破綻気味です。いや、一応きちんとした一本の物語になってはいるのですが、「悪の秘密結社マヴゥ本部の最上階をめざし」と言ってるのに本部は地下にあったり、調教の設定がマニュアルと違ったり。この辺はさすがに私も「ぇー?」と首を傾げたものです。そもそも「パニックドールズ」ってヒロイン達をパニックにして人形にするというコンセプトでつけられた名前だったと思うのですが、それが戦隊ヒロインの名前で良いのかという……。あれ、でも相手をパニックにするからこの名前になったんでしたっけ。作中なんか説明されていた気がしないでもないですが、細かいところは忘れてしまいました。でもヒロインたちのコードネームから考えると、「アニマル戦隊フラワーズ」あたりが妥当ですよね。

原画は角井陽一さん。『ヤマモト・ヨーコ』のようなコミカライズのほうが有名でしょうか。良いイラストを描かれる方です。大好きでした。あと、開発が「すたじお実験室」ときいて「おおっ!」と思われた方もおられるでしょうか。先に挙げた「パソコンパラダイス」誌で「学園トライアングル」という読者投稿企画をやったり、あとは『ばにぃはんたぁ零』、『ぷりんせす・でんじゃあ』、『くるみちゃん・にんじゃあ』などの大変個性的で楽しい作品群を出しておられた、名スタッフ揃いの会社。『ぷりんせす』や『ばにぃはんたぁ』は『クロノクルセイド』の森山大輔(森山犬)氏が原画をしておられました。

メインメモリ(コンベンショナルメモリ)640KB解放とか懐かしくて涙がでそう。Win版でプレイしたのでDOSの苦痛は味わわずに済みましたが、戯画のゲームとか、メインメモリあけるのが本当に大変でした。「DOSプロンプトは切れ」というエロゲーマーの鉄則を久々に思い出して背筋を悪寒が。

容量8メガバイト、3.5インチフロッピーというのも時代を感じます。今となっては古くさいだけの作品かもしれませんが、ちょっと週末にでも折を見て再プレイしてみようかな。ああ、でも今週末は新作ラッシュ……。なんて間の悪い。・゚・(ノД`)・゚・。 いや、新作ラッシュにむけて押入整理していたから必然だったのかもしれませんが。

でもそのうち再プレイしたいです。今やったらどんな感想になるのか、怖いような楽しみなような。

というわけで八割くらい思い出話の記事でした。それでは、また明日。

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汝の罪は、プリンタのインクであがなえ

今、プリンタは恐ろしく安い値段になっています。が、よく知られているようにそのぶんプリンタインクの値段が爆上げ状態。こちらこちらのサイトさんで随分と以前から話題になっていますが、血液よりもプリンタインクのほうが高いという、そんな時代。

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比較されているインクは、引用サイトのままならHP(ヒューレッドパッカード)の黒インクでしょうか。グラフはGigazine様からの転載。

うちで使っているCanonのMP480、だいたい買ったときが1万円。正規品のインクだとカラーとブラックあわせて5千円くらいなので、インク2回詰め替えたら本体と同じお値段になるという……。私の場合は普段2~3ヶ月でインクを使い切るので、年間通すと2~3万。割とバカにならない出費になったりします。

「Gigazine」さんにも携帯電話との比較が書かれていますが、これが携帯電話なら、機種はタダ同然だけどパケット料金がアホみたいに高いという状態。想像するだけで恐ろしい。たまにしか使わないものならまだしも、それならネットカフェにでも行ってプリントアウトするわけでして、プリンターを家に置く=日常的に使う、という風に考えると、あきらかにインクが高いというのは損です。それなら、本体を3万とか4万円にして、インク詰め替えは1000円くらいにしてほしい。

ユーザーとしては勘弁してくれ状態なわけですが、これってメーカー側としてはどうなんでしょう。プリンタが売れなくなったことによる苦肉の策だったのだとしても、よくよく考えてみると普通に高いプリンターを買って長く使われるより、消費物で定期的に搾り取るほうが明らかに儲かっていそうな気はします。本体だけで儲けを出そうとするTVや冷蔵庫は、結局一定の需要が満たされた時点で頭打ち。新機能でもついて買い換えのタイミングが訪れれば爆発的な売れ行きを見せることがあるかもしれませんが、ぶっちゃけプリンタにそれは無さそうですしねぇ……。

結局、ハード的にユーザーを拘束して、しかる後にそのハードを使うのに必要なソフトで稼ぐ、というのは効率的に思われます。ゲーム産業にも似ているかも知れません。ただし、元の高いハードを買わせる家庭用ゲームではなくて、元手はタダでスタートできて、中であそぶためのアイテムに課金させるタイプのソーシャルゲームとか、そっち系。

残念ながらプリンタに「コンプガチャ」は無いので消費者庁が出張ることは無いでしょうが、本当にインクの消費は辛い。どうしても必要で高価だというのならあきらめもつきますが、やれヘッドクリーニングだ何だで、ガンガン無駄に貴重なインクを使うのが、どうもこうも許し難い。詰め替えという手もありますが、やるとサポート外扱いにするとか言われるし……。

あと、こちらのサイトさんを拝見して驚きました。インクカートリッジが無駄にハイテク。ハイテクなだけならまだしも、中身、全然インクはいらないじゃないですか、これ(笑)。そもそもこれが消耗品扱いなのは本当に意味不明。上記サイトさんも「プリンタ全体の機構を考えると印字ヘッド直前に設置する「エア混入防止装置」と位置づけるのが妥当じゃないでしょか?」と書いておられますが、まったくその通りだと思います。なんか毎回万年筆まるごと買い替えているような無駄を感じます。

これならもういっそのことレーザープリンタにしたほうが良いんでしょうか。場所さえ確保できれば、買っちゃいそう。どうせほとんど白黒印刷ですし。おすし。カラーの時だけコンビニかネカフェ行くのが賢いのかも。身の丈にあったプリンタ生活を、いずれ練り直すことにします。

というわけで本日はそんなお話でした。それでは、また明日。

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君は金環日食を見たか

ネタが無い! 時間が無い! 今日は何だか気分が乗らない! そんな更新に行き詰まったブログの心強い味方、それが時事ネタ。

きっと今日は多くのブログが金環日食の話題をピックアップするんでしょう。没個性を目指す私としても、このビッグウェーブにのらない手はないので、とりあえず話すことが無くても金環日食について書きます! 一部の反骨精神溢れる人は、敢えてこういう話題を外すかもしれないし、無関心な人はブログを更新しないかもしれません。ということは、世界のブロガーは金環日食の話をする人と、しない人と、ブログを更新しない人の3パターンに分かれるわけですね。ロジックが完璧すぎて我ながら怖いです。犯人は、10代から30代、もしくは40代から70代の人間。

金環日食Google
Google先生も更新のネタが見つかって大喜びです。

一部地域では、某アイドルの方が6月6日の「金星の太陽面通過」と混同なさったか、「金星が地球と太陽の間にある」と書いて物議を醸していましたが、別に擁護でも何でもなく事実として、金星が太陽を隠している、と言っている人を今朝何人も見かけました。

言うまでもなく金環の「金」は、金星のことではありません。『三国志演義』に登場する南蛮王孟獲配下の三洞元帥、第一の洞を守る武将・金環三結……とも何の関係もありません、はい。

月によって太陽が隠れるのが日食ですが、月が小さくて金色の環が月のシルエットの周囲を取り囲んで見える蝕を、その見た目に因んで金環日食と呼ぶんですね。月のほうが大きくて太陽が全部隠れる場合は皆既日食です。

見晴らしの良いところに行こうと思って近所の公園に行ったのですが、道すがら、外に出ている人がみんな上を見上げている光景はコロニーでも降ってくるのかと思う感じで、なかなか見応えありました。しかもなぜか、上を見ている人って半分くらい口をあけていてちょっと面白かったです。私も仲間に入って空を見上げる。

幸いうすぼんやりとですが日食の様子を見ることもできまして、皆さんと一緒に撤収。帰途、見知らぬ人と「やっぱり見に来ちゃいますねえ」「何か記念みたいな感じですねえ」などと話をしながら、皆考えてることは似たり寄ったりで、金環日食を見たいというよりはイベントに取り残されないようにしたいという気持ちで見に来てるんだろうなあ、などと身も蓋もないことを考えました。

こういうイベントごとがあるというのはなんだかんだで楽しいのですけどね。しかし、カメラもっていったけど写真は全然撮らなかったな……。勿体なかったかしらん。

というところで本日はこの辺で。また後日お会いしましょう。それでは!

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僕はこのペーパーナイフでエロゲーを切ろう

あらかじめことわっておくと、パッケをあけるという話ではないです。

先日、ツイッターで「批評」とは何か、といった話が少し話題になりました。そことの関係でいろいろあって、「エロゲーにとって「批評」とは何か。」という記事を書こうかと思ったものの、ちょっと問題をデカく構えすぎて収集が付かなくなりそうでしたし、先日「エロゲーにとってエロとは何か」みたいな話をしたらタイトルから凄いことを期待して見に来た多くの方をガッカリさせてしまった感があるので、今回はちょっと比喩的なタイトルにしてみようと。まあ考えるの面倒だったので逃げました。

ことの発端は、ある人が「批評家を語る人間が企業の回し者になって良いのか」とお怒りになったことだったのですが、その後タイムラインは何故か(何故かもクソも、エロゲークラスタだからか)、エロゲーの批評の話に。その際、別のフォロワーの方がエロゲー批評というのは「単純な物事をさぞ難解なようにしたてあけでわざわざ批評する」ものであって、馬鹿馬鹿しいし嫌いである、という発言をリツイートされました。(毎度ツイッターというのは距離感が難しい……。リツイートの意図もわかりませんし、また私は発言者とフォロー関係にないのに恐縮ですが、公開アカウントだということでご発言の引用だけはさせていただきます。「ある人曰く」くらいに思って聞き流してくださっても結構です)
単純な物事をさぞ難解なようにしたてあけでわざわざ批評するのってバカバカしくないですか?エロゲ批評の大概がそれな気がするんですよね。もともと批評する余地なんてないのに、わざと小難しく絡めてグチャグチャにした上でしたり顔で語る。だから長ったらしいエロゲ批評って大っきらい
さて、言うまでもなく私はエロゲーを批評する(批評空間さんに投稿していますし)タイプの人間なので、立場上この方とは反対です。ただ、エロゲーユーザーの中にはこの方のように、したり顔の批評は嫌いである、あるいは意味がない、と考えておられる方が多くいることは理解しているつもりです。そこで今回は、自分の考えをまとめつつ、エロゲーにとって批評行為がどのような意味を持ち得るか。言い換えれば、なぜ私がエロゲーを「批評」しようとしているか、そのことについて日頃ぼんやりと考えていることを、とりとめなく書いてみようかと思います。

さて、エロゲーの話に飛ぶ前のツイッターでも話題になりましたが、「批評」という語は非常に曖昧かつ多義的に使われていて、意味を確定しづらい。ただ、ある程度決めなければ話ができません。また嫌われがちな「エロゲー批評」に限るという意味もあるので、ここでは簡単に、エロゲーをはじめ作品の内容について単なる個人的感想ではなく、何か基準を設けてその価値を判断しようとすること、としておきましょう(※手元の辞書を幾つか引いた結果、「事物の価値を判断し論じること」というのが一般的な説明のようで、そのあたりでざっくりとまとめるのが良いと思い、このような意味にしました。要するにあるものについて価値判断を自らの手で行うことです)。一応誤解しないで頂きたいのは、批評というのは「叩く」と同義ではありません。「critic」(批判・批評)という語の原義通り、作品を非難するのではなく、その作品について深く考えるという意味で用います。

くだんのツイートが、単なる個人的な好き嫌いの表明であったなら、これは言うまでもなく、論じる意味がありません。「エロゲーの批評って嫌いだわ」「俺めっちゃ好きゃねん」でお終い。赤が好きか青が好きかと同レベルの話なので、これ以上続ける意味はないでしょう。所詮結論はそこにしかないだろ、と思われる方にとっては私の文章は時間の無駄になって申し訳ないので、この辺でお引き取りくださることをお薦めします。

ただしこういう文章を書いていることからもおわかりのように、私はそういう話ではなかったと考えます。それは、私の思い込みや、私が議論のためにそう仮定しているというだけではないはずです。根拠としてたとえば、ツイートのこの文言。「単純な物事をさぞ難解なようにしたてあけで」(原文ママ)というところ。難解なように仕立てあげるという、その作為性がここでは問題とされている。つまり、批評が嫌いというよりは《おかしな》批評が嫌い、ということでしょう。そのおかしさというのは、「もともと」のような言葉から察するに、作品の本来性を失っているということでしょう。つまりここで嫌われていることというのは、その批評に都合のいいように作品を歪めているということだと思われます。

もっと言えば、そうやって自分の知識なりをアピールする人間の自己顕示欲がイヤ、ということかもしれませんが、そのあたりはどうであっても構いません。肝心なのは、この方の中には「エロゲーのありのままの姿」と、「そのあるべき受け容れ方」という基準が存在しているということです。たとえばですが、「エロゲーというのは単純なものであって、考えるのではなく感じるものだ」のように。

であるならば、価値判断をしているのですから、この発言もまた一種の批評行為と呼ぶことが可能です。このツイートは一見、批評vsアンチ批評の構図のように見えますが、実は批評行為のあるべきありように対するメタ批評になっているということで、だからこそ、私はこのツイートをきっかけとして、「ではエロゲーにとって批評の意味を考えてみましょうか」と言いたくなる。単に、批評とか言ってる奴は消えてしまえと言われただけなら、「左様でございますか」(CV:篠崎双葉)と言ってさっさと自室でエロゲーするんですけどね。


作品(この場合はエロゲー)を味わい、楽しむというやりかたは、実にさまざまにありえます。あの娘が好きだ! でも良いし、この話が面白かった! でも、絵が好きだ! でも、まあ何でもありですよね。そういうエロゲーの味わい方の中の一つに、エロゲー批評みたいなものが出てきた。この辺の歴史的な流れをきちんとおさえているわけではありませんが、かつて多根清史(敬称略)は「コミックアンリアル」誌のコラム「人生は残機ゼロ」で、次のように述べていました。
とっても好きなエロゲーの名前でググったとしよう。いの一番にたどり着いたブログがややこしい文章だらけでチンプンカンプン、という覚えはないだろうか? 「エロゲの語り口」はどんどんお利口になっている。ネットで笑いものにされた「クラナドは人生」発言もギャグじゃなく、たぶん本人は大まじめだ。そもそもの始まりは、東浩紀という人が、エロゲを大まじめに語ったこと。彼が『YU-NO』やら『未来にキスを』などを哲学的にほめちぎったのが、くそまじめに分析する「エロゲ論壇」の広がりに一役買ったのだ。
オチは、東浩紀って実はあんまエロゲやってないよね、みたいな話で終えていましたが(意外にそうでもないと思います)、多根の分析は目の付け所が面白い。東が学界という椅子取りゲームの世界に「オタクの椅子」を持ち込んで悠々と王様チェアーに腰掛けていると同時に、「オタク知識で上下関係を決めようとする」旧世代オタクに喧嘩を売り、サブカルチャーと呼ばれたオタク文化の中でも更に下の方の地位しか無かったエロゲーを拾って殴り返しに行っているとか、そんな感じのことを言っています。

事実関係で引っかかる部分としては、東以前にも、更科修一郎とか、エロゲーについて分析的なことを述べていた人は少なからずいたのではとかそういうことはあるものの、多根が言うところの「エロゲ論壇」形成のエポックメイクとして、やはり東の『動物化するポストモダン』(2001年)の影響が大きかったというのは確かであると思われます。エロゲーを「わざと小難しく絡めてグチャグチャにした上でしたり顔で語る」連中の本格的な登場、というわけです。
(註)この辺りの歴史的な背景は、本当はもっと突っ込まなくてはいけないのでしょう。いわゆる文学や映像論の知識に基づいてアニメや漫画を語るという手法は、エロゲーでそれが行われるより以前から存在していましたし、そういう手法がエロゲーにもちこまれたというのは、単にそれが面白かったからというよりは、社会的に価値が認められていないエロゲーに、社会的価値を付与しようという切実な問題意識(特に、エロゲーは一時期規制によって存在を抹消されるのではないかと危惧されたことがあった)から来た、価値付け行為の一環であったようにも思われます。ただ、その話をしはじめると別の記事が二つくらい書ける分量になると思うので、今回はそういう視点もあるということについてメンションかますだけにとどめ、内容はざっくりカットさせてください。
ここから、東シンパというか、東の影響を受けた人たちが、エロゲーについて社会分析的な手法、思想的な切り取り方をガンガンするようになります。そして、東の本は読まず、それ(再生産された東的言説)だけを読んだ多くのエロゲーマーは、恐らくこう思ったのです。

はあ、それで、だから何なの?

この作品はデータベースだ! この作品はシミュラークルだ! この作品はポストモダンだだだだだ!!!! と言われたって、ホントに、だから何? という話。そして、そう訊ねると彼らはこう答えるのです。「『動物化するポストモダン』を読めばわかるよ」と。知るか、そんなもん。

上は私の感じた実感も含めているのですが、当時のいわゆるエロゲー論壇というのは、割とマジでこんな感じだったと記憶しています(私の周りだけかもしれませんが)。そして、こいつらの崇める東浩紀の本というのは余程つまらない本なのだろうと私は思っていたのですが……結論からいうと、読んでみるとそれは誤解だとわかりました。

実は東浩紀の言っていること、やっていることというのは、上に書いたような東をまねる人々(アズマネ、というワードが思いつきましたが、あんまり流行らなさそうなので使いません)がやっていることとは少し違っていて、そこを誤解するせいで、語る側にも聞く側にも大変気の毒なことになるのだと思います。東が『動ポモ』でやろうとしていたことは、何だったか。東自身のことばから、一度確認しておきましょう。
本書での筆者の関心はオタク系文化のまた別の特徴(引用註:データベース消費)にあり、そちらは今度は日本という枠組みを越え、より大きなポストモダンの流れと呼応している。(p.38)
東の考えは、「オタク系文化の構造には私たちの時代(ポストモダン)の本質がきわめてよく現れている」ということです。これは、まずもって私たちの時代が「ポストモダン」という状況にあるということが問題意識として前提されていることに由来します。ポストモダン的な社会の中では、人間は極端な相対主義に陥って、「なにが正しいことか」を決められない。ざっくり言うと、そういう「社会的な問題」のほうが先に存在する。そして東の論法は、オタク文化の中には、そういう特質が非常によくあらわれていて、オタクたちは最もよくポストモダン的な社会を理解し、その中でいかに生きていくかに関する手掛かりを与えてくれるのだ、とか、およそそんな感じの議論なわけです。

つまり、東はエロゲーを分析する「ために」ポストモダンを持ち出したのではなく、ポストモダンの分析をしている中で、エロゲーを発見したのです。言い方を変えれば東は、あらかじめオタク文化の価値を「ポストモダン的なもの」であると決めている。なぜなら、いまの生きにくい社会を生きていくうえで、その考えが助けになるから、です。

だから、東にとってはエロゲーの中にポストモダンを見いだすことは、社会の実相を探ることであり、自分の生き方について考えることであり、そこに面白さを感じるのでしょう。東の批評の行き着く先は、エロゲーの構造を分析してみせて、そこにポストモダン構造を読み込むことでエロゲーを価値付ける、ということになります。

よく耳にする、東は一部の作品しか扱わず、『Fate』のような一般的なエロゲーを評価しない。だから奴はエロゲーマーとしては偽物だ、というような攻撃は、東への反論としてはまったく無意味です。なぜなら東にとってはポストモダン的なものこそが意味と価値を持つのですから。彼が『Fate』はダメだと言ったとしたら、それは、エロゲーはヌけてナンボと考える人が「『Fate』ではヌけなかったから微妙」と言っているのと、同じようなニュアンスになっているはずなのです。エロゲーの魅力としてあげられる、絵とかエロさとか音声とか、それらと同じレベルで、東は「ポストモダン性」を見ている。

東浩紀シンパの人たちの多くは、おそらくこの部分の問題を、つまりポストモダン状況が自分たちにとって切実な課題であるという東の問題意識の部分を共有すること無く、手法と結論だけをまねていたのだと思います。だから、論じることそれ自体が目的化してしまい、彼らの語る「この作品はポストモダンだ」という結論は何が何だかわかりませんでした。が、東浩紀の結論なら私はなんとなくわかります。
(註)これだけだと、まるで切実な問題意識が無かった、と言っているように思われるかも知れませんが、それは誤解です。おそらく今も当時も、そういう論評を書く人(私を含め)にはなにがしかの問題意識がある。ただ、東のとった手法というのは、明確に東の問題意識とリンクしているため、その手法をとると自動的にその問題意識について語ったことになる、そういう怖さもあるわけです。いわゆる、語りの形式と内容が一致している、とかいうヤツですね。だから、東とは違う問題(たとえば、自分はエロゲーをやっているけど恥ずかしいことではないと言いたいから価値付けを試みるとか)を抱えているのに、論じ方だけ東をまねてしまうと、そこには言いたいとととやっていること(やれていること)の間のズレが生じる。そして残念ながら、そのことに自覚的であった人はそれほど多くなかったと思います(私を含め!!)。自分のことを棚に上げて言っていますが、お前はどうなの、と思った方は恐縮ながら、私のセルフツッコミでもうしばらく我慢なさってください(。・x・)。
何というかたとえば、私たちが南の国の少数民族の映像を見て、「彼らの生活は、現代人が失ったなにか大事なことを思い出させてくれる……」というナレーションが流れたりしますが、そんな感じでしょう。今の自分たちの生き方にとって、ダイレクトに響いてくる問題としてエロゲーを見ている。それが『動ポモ』の場合ちょっと理屈に走りすぎて、『AIR』の分析とかで的を外しまくった感じがありますが、『動ポモ2』(『ゲーム的リアリズムの誕生』)のほうでは見事に軌道修正して、ああ、この人ホントに『AIR』楽しんでやったんだな、という感じの書き方になっていました。


ただまあ、同じ映像を見ていても、そういう問題意識(いまの自分の社会や生活)では見ない、という人もいると思います。「ここのご飯おいしそうだなぁ」とか、「象にのって移動って楽しそう」とか、そういう人がいたって全然おかしくない。俗に言う、作品への「切り口」の違いというのはこのことを指している。うまくいくかはわかりませんが、ひとつ、具体的な例を挙げて説明を試みてみます。

『三国志』という物語があります。中国の後漢末期から三国時代について書かれた歴史書であり、西晋の陳寿によって編まれました。西晋というのは、三国時代を制した司馬氏の建てた王朝ですね。史書ですから、タテマエとしては、実際に起きたできごとが客観的に記されている。しかし、歴史記述(物語)である以上、やはり何らかのバイアスがかかっていることも事実です。

『三国志』は西晋の正史だという話をしました。ですから、曹家の魏から王位をぶんどったという経緯がある。そういうわけで、曹王朝をある程度正統の王朝と描くことで自分たちが奪うに値する権威があったということと、同時に自分たちが奪っても構わないような過失があったというような書き方をしている部分がある。魏を正統として編纂した史書として『三国志』を読む、という読み方が一時期はやりましたが、それは史実とつきあわせることで編者・陳寿なり陳寿にそれを書かせた西晋なりの思想(イデオロギー)を暴いてい読み方です。

他にも、中国古代には「天帝(天)」の意図が働いて王朝を決定する、という思想が基本にありますから、歴史を書いていけば、そこには天意があらわれている、そんなふうに昔の中国の人々は考えていた。有名な司馬遷の『史記』というのは、そういう発想に対抗して書かれたなどとも言われますが、読み手としては、他の史書との比較などを通して、『三国志』にあらわれている古代中国の「天」がどのようなものであったかを読み取る、そういう読みも可能です。

あるいは、当時の文化を『三国志』を通して見て、農村の暮らしであるとか、異民族の生活であるとか、義兄弟のシステムだとか、やろうと思えば「切り口」なんてのはいくらでも見つかる。ジェンダーやポスコロ(ポストコロニアル)のように、現代の問題意識からさまざまな「抑圧」を読み取り、女性差別や異民族支配の実態を切り取るなんてのもあるわけです。

この「切り口」、つまり、読みの方法によって作品が何であるかという結論も、作品への評価も、またもちろんそこにあらわれてくる作品の面白さというものも、変化していきます。エロゲーの話にもどしてみますと、他の類似作品と比較したり、同じブランドやライターさん、原画家さんの作品と比較する。あるいは、作品単体のテーマ性について考えたり、誰か一人のキャラに絞った話をしても良いでしょう。

「切り口」を生みだすのは自分の武器なわけですが、結局の所、どんな武器を使ってどんな風に切るか、というのは、これはもう、好みに依るとしか言いようがない。研究ということなら、お金を引っ張りやすいやり方とか、指導教員の学閥(実にくだらないことですが)だとか、考えるべき要素は多々あるとしても、エロゲーの批評にはそんなものが(少なくとも現在は)ありませんから、やりたいようにやりゃあ良いと思うのです。日本刀みたいに、切る武器にこだわりがあると言う場合は、とにかくカッコイイ武器を探せば良い。そもそも切るのが楽しいから切りやすさ第一、という実用派なら、自分が一番何か考えやすいやりかたで考えれば良いし、切ったあとにいろんな切れ跡を眺めるのが好き、というのなら、武蔵坊弁慶よろしく武器を集めてはあれこれ持ち替えて、いろんな切り方を試してみれば良い。

そうやって考えていけば、「すげー抜けたから良かった!」とか、「汁の飛び方がサイコーでした!」という言説だって、(少なくともこの記事の中の定義でいえば)十分「批評」です。自分の「切り口」と武器が何であるか、それが伝わるように相手に見せて、実際に作品を切って見せているわけですから。つまるところ「批評」というものの持つ意味は、ある作品を「こう読んだら面白いよ」とか、「こんな風によんだらつまんないよね」と具体的に伝えるというところにあって、決してその作品の価値を一義的に定めたり、あるいは何か読み方の「正解」を押しつけるようなものでは無い。

東浩紀がもてはやされたのは、その鮮やかなロジックと深い洞察が、物珍しかったということもあるでしょう。みんなが、日本刀やら長ドスやらを見せてあれこれ自慢していたところに、突然黒船にのってやってきたペリー提督みたいなもんです。どかん、と大砲とか鉄砲をぶっ放されて、みんな「うおー、すげー」と思っちゃった。実際に凄いし、射程は半端ないわけですが、日本刀や脇差しや、あるいはロングソードやチャクラムみたいな武器と、単純に比べることは本当ならできないわけです。殺傷力は大砲のほうが高いんでしょうけど、扱いやすさや見た目の美しさはどうか、とか基準はいろいろある。……段々話がずれてきましたので修正しますが、好みでどんな武器を使って切っても良いのですから、火力にこだわらなくたって、別に構わない。俺様、ひのきの棒で魔王倒してやるぜェ、ドヤッ! という勇者がいたって、それはそれで楽しいではございませんか。


脱線しかかっていたので、少し話を整理しなおします。

今回話題になった方のツイートというのは、もう一度振り返ってみますと、「もともと批評する余地なんてないのに、わざと小難しく絡めてグチャグチャにした上でしたり顔で語る」ということがイヤだ、というお話でした。前提として、これが単なる趣味の表明(私ピーマンってまずいから嫌い)であるのなら、特に何も言うことはないということを申しました。ただまあ、もし本当にそれだけの話だと言われてしまったら逆に言いたいことは出てくるかもしれません。そも、ネット上には批評を書いている人間がわんさかいるわけですから、堂々と嫌悪感をあらわにするというのはいかがなものか。ピーマン農家の人の前で、自分がいかにピーマン嫌いかを拡声器使って大演説することにどんな意味があるのかは、私の鈍い頭では少々解りかねるところがあります。

でもまあ、言葉の端々から伝わってくるのは、そういう(単純な好き嫌いの)話ではないだろう、と。「もともと」を誰が判断するのかとか、「長ったらしい」というのは唯の形式論なのかとか、細かいツッコミはいくらでもいられますが、むしろそのように書いてしまうというところに、この方の持つある種のバイアスがみえてくる。

最初のほうでも述べた通り、恐らくこの方は、何らかの「あるべき作品との接し方」というのを持っていて、それに沿って語っておられる。それは、作品を故意に歪めて、語る(批評する)ための道具に貶める、そういう接し方に対する嫌悪感を表明しておられるのではないかと思うのですが、特にはっきりとは書かれていないので、まあ詳しくは解りません。そもそも「批評」をどのような意味で捉えているかもハッキリしませんし。別の方が指摘しておられたように、偉そうにドヤ顔で自分の読み方を披露する、その自己アピールが鼻につく、ということかもしれない。もしそうであるとすれば、そのあたりの気持ちは、何となくわかる気もします。

しかし、これまで述べてきたような意味で「批評」という行為を捉える私からすれば、作品について語る――それ以前に、作品を解釈するということは、既に自分と作品との関係の中で、その作品を組み替えているのだと思います。だから、あらゆる「批評」と、そのもとになる解釈行為は恣意的であり、同時にまた、あらゆる「批評」と解釈とは、その作品の持っている可能性を何かのかたちで拡げる行為であると思う。作品を「切り取る」という言い方をしましたが、「批評」によって切り取られることで、それはどうやったってもともとの作品そのものではなくなってしまう。でも、その切り口が作品の新しい側面を見せてくれるのだから、どんな風に切っても、何かしら発見はあるのではないか、そんな風にも思います。

作品の解釈、などというと偉そうですが、要は作品を受け取って、感想を抱いたらそれはひとつの解釈です。「批評」というのはおそらく、それを誰かに伝わるかたちにすることなのではないでしょうか。偉そうな、「批評のための批評」が、自分の知識をひけらかすだけの「批評」が鼻につくのと同じように、私は、自分と異なる問題関心を持つ人がその作品を見たらどう思うかということに対して、すぐに排他的に嫌悪したり、バカにしたり、そもそも理解しようとしない、そういう態度もまた、好きではありません。それは単に、「俺と意見の違う奴はイヤだ」という、小学生のダダみたいな話ですし、実際そのレベルで意見を言う人(そしてそういう人にかぎって声が大きかったりする)も多い。私にしては珍しく、攻撃的な発言をしていますが、自分でも驚いています。何か溜まってたのかなあ。

たとえばですけど、私が全然抜けなかったエロゲーについて、「陥没乳首マジ最高ッス」みたいなことが書いてあった。これ読んで私は、「なるほどね!」と思ったわけです。自分の知らなかった、思いもつかなかったような作品の「切り口」を見られるというのはとても面白い。それが「小難しい」というだけで拒否反応を起こしてdisるというのは、ちょっと過剰反応にも見えます。解らないことを言っている人がいるなら、面白そうだなと思って興味を持つか、興味を持たずに聞き流せば良いと思うのですが、はてさて、殴りに行く必要はあるのかなあ、などと。そんな難しいこと書く意味がないじゃないというけれど、その人は意味があると思って書いてるんだから、まずその意味をくみ取った上で何か話をするならともかく、最初から無意味と決めつけるのは単に読む気がないだけでしょう、と。

結局のところ私からすると、「批評」行為を否定することは、究極的には(ラディカルに考えを進めれば、という意味です)作品に対する解釈を誰かに伝えると言うことを、ひいては解釈そのものをも無意味なものとして斥ける、そういうことに繋がるのではないかという危惧があります。そして、それはとても勿体ない。そりゃもちろん、つまんない「批評」(私の感想とかね)とか腹が立つ「批評」があるというのはわかりますが、それは語り方の問題だったり書き手の思想の問題であって、恐らく「批評」という行為それ自体の問題では無いはずです。

あ、ことわっておくと「小難しい」という語を使ったのは、例のツイートの方へのあてつけではありません。例のツイートの方は、このレベルの話はしていないと(私は)思う。用語レベルでは直線的なことをおっしゃっているように見えますが、くりかえしてきたようにかの人が問題としていたのはおそらく、作品の「読み方」(解釈)を優先して、作品そのものを手段としてしまう、そういうことではないかと思います。解釈によって切り取った作品を楽しめばいいのに、「俺は虎徹使ってるんだぜ」みたいな武器自慢をする奴とか、「居合い最強ッス」みたいに切り方自慢するやつとか、そういうのが多すぎる、と。たぶん、「こう読むと面白いから試しにどうですか」なら、何の問題もないのじゃないかな。問題は、「こう読むべきだから、こう読まない奴はバカ」みたいなことを言うパターン。少なくとも発言内容を拝読した限り、切ること(批評・解釈)そのものを脊髄反射的に嫌がっているようには読めませんでした。

こういう立場であるとすれば、実は私自身はわりとツイートの方に賛成の部分もあって、先日書いた「作品と出会うということ」という記事では近いことを言っているつもりです。

作品の本質というのは、何か作品の外側にあるものの意味に回収されるのではなく、作品そのものの中にあって、受け手はそのような作品の本質と出会うことができたら一番幸せで、一番面白いだろう。そこで述べたのは、だいたいそんなことです。『三国志』の話で言えば、歴史書や、思想の表現として読むと言うことは、なるほど『三国志』のもつ意味を鮮やかに浮かび上がらせはするけれど、『三国志』でなければ描けなかった《何か》を、つかみ取ることはできていないのではないか。あの中で描き取られている曹操や劉備や孫権といった、さまざまな人の生き方。それこそが、『三国志』の固有性なのではないか。そこに入り込んでいくことができれば、一番面白いのではないか、と。

けれど、私はやはり、他の立場もまたスタンスとして否定はしたくないし、できないと思います。だって、何を面白いと思い、どう読みたいかというのは、やっぱり好みの問題でしかないのですから。

いままでの話をもの凄く簡単にまとめると、こうです。まず、「エロゲーをお高くとまった語り方で語る批評が嫌い」という人が居て、それが単に「である」調がイヤとかいう好みを問題にしているだけなら、単にその人の個人的な話なので何も言うことはない。しかし、それがエロゲーの批評はかくあるべき、という何らかの「べき」論と繋がっているのなら、その「お高い批評」の何が問題なのか考える必要があるはずだ(ではそもそも、エロゲーの「批評」とはどういう意味をもちえるのか)。そして、「批評」というのはその作品の可能性や楽しみ方を広げるものであるから、「批評」のやりかたが気に入らなくても、「批評」行為や「批評」の内容自体はそう簡単にゴミ扱いはできないのではないか(つまり、その「べき」は最後まで根拠を持ち得ないのではないか)、と。ただ、問題が発生し得るとしたら、言いたいこと(批評している意図)とやってること(批評している形式)がズレている時には、ちぐはぐになって変な「批評」になる可能性があるという話も申しました。

んで、それなら私自身はどうなのよというツッコミが出てくる。少なくともこのブログを読んでくれてる方=ほぼ知り合いなので、私がどんなレビュー書いてるかもご存知だったりする。そういう人からすれば、お前こそポストモダンがどうこうってしょっちゅう言ってるじゃねぇか、東浩紀のシンパに酷いこと言ってるけど、ブーメランって言葉知ってる? ということになるかもしれない。

実際、前回の記事(作品と出会う云々)に対して友人が、「でもOYOYOくんって結構外在的な話で作品意味づけるよね。しかも評価軸バラバラ」とコメントをくれまして、私もうんそうだね、と答えました(バラバラのつもりは無いけどね)。私事で恐縮ですが、結果として、私はいろんな「切り口」で切ってみているところがあります。ただそれは、わざとやってるわけじゃない。たまたまそうなっている感じです。私は不勉強なうえにプライドもポリシーも無く、興味があちこちに分散しちゃうタイプなので、「こう読むのこそ正しい」みたいな決まった読み方を強くは持たない。だから、「こういう風に読んでみたら意外と面白いところがある気がする」という自分の発見を提示して、「どうっすかね」とおうかがいを立てている。もうすこし正確に言い直すと、自分が直観的に感じた面白さを全部綺麗に説明する一つの体系(マイ武器)を持てないので、時々に応じてナイフやらカッターやら日本刀やら、丁度良い道具を仕方なくいろいろ持ち出しているつもりです。

だから、どれが「正解」とかそういう話ではなくて、この見方なら自分の感じた面白さをうまく言いとれる気がする、という読み方を提示して、それが作品でどの程度うまくいっていたか(成功している場合もあれば、失敗している場合も当然あるわけですから)を述べている。そして、どうやっても私には無理でした、というときは素直にそれを書いて、他の方の意見などを参考にさせていただこうと。むしろ、一本の武器でバッサバッサ切れたらかえって楽なのかもしれませんが、それができないせいで、毎回自分の感覚と作品へのアプローチをひっつけようとして、あんなとっちらかった感じになっている気がします。

勿論、スタンスとしてブレるつもりがない部分もあります。自分にはわからない面白さが作品にあるかもしれないし、私が「面白くなかった」説明をきちんとすればそれに対して反論が来て、私の考えが改まるかもしれない。作品には何か、どこか良いところがあるという考えは、「作品に優しい読み」などと言われますが、私は原則その立場を支持します(おわかり頂けるとは思いますが、褒めるだけが優しさではないですよ)。

とはいえ、面白さと言ってもなんだかんだで順位はある。たとえばジェンダー論的な切り方をして、それで何か意味のあることをこの作品は言えてる気がするけど、私にはこの程度の面白さしか見つからなかったなぁ、ということもあります。また、ロジカルに綺麗に説明をつけている人がいて、それは鮮やかに作品を意味づけているけれど、自分の感じた面白さとか感動ってそこじゃない気がする、ということもある。逆に、自分が心震えるときはいつも、同じような切り方で作品を見ていることに後で気づいたりもします。

そんなわけで私にもたぶん、自分の読み方の中でひとつ、「この切り口で読めたら最高!」という方法がある。ただハッキリ言って、ペーパーナイフみたいにチャチな武器です。大学者さんのぶっぱなす大砲とか、多くのレビュアーさんが持っておられる綺麗な刀に比べれば見劣りする。そのぶん小回りは利くかなという自負もありますが、自分の武器がチャチいせいで、それにどうしてもこだわらねばならないとは思いません。一般ウケもしないと思う(ただ、私にとっては「物語」を読むということと切り離せないところなので、こだわりたい、とは思っていますが)。ですから他の人の読み方でも、面白いものがあれば試してみたいし、それがまた、自分の読み方を深める手助けにもなってくれると思う。それは人付き合いも同じことで、これと決めた付き合い方のパターンにあてはまらないような付き合いをくり返すうちに、よりよい付き合い方をマスターしていくものです。だから私は、私のペーパーナイフをよりよく磨き、またそれに相応しい切り方を見つけるために、他の人の「批評」を読んでいる。

もっと言えば、ものを単なる対象として分析・観察するのではなく、自分自身との関係の中で捉えるというのは、そういう試みの繰り返しの中でしか生まれてこない。それはエロゲーに限らず、です。だから私は、余程のことがない限り簡単には他の人の読みや考えを否定しようとは思わない。唯一クビを傾げるのは、「批評」なんて無意味だという言説に対してのみ。私のペーパーナイフをバカにするのは良いけれど、ペーパーナイフを持つことまでも否定するのは勘弁してほしい、と。

ここまで言ったらなんか流れで、私にとっての一番面白い読み方が何で、どんな作品に出会ったときにそう思うのかというような話は本当はしなければならないのでしょうが、さすがに疲れたし、長すぎてもうこれ以上読む気になる人もあんまりない気がする。話もまとまらなくなってきたしの三重苦なので、今日はお開きにしてまたの機会と需要があれば、やりたいと思います。

それでは、また明日。今回は自分の言いたいことを言い過ぎて読む人のことをまるでスルーしてしまったので、ちょっと反省ですね……。

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ブックカバーの話 その2

以前少し申し上げましたが、私はブックカバー好きです。ただ、どうも革のものは皆さん馴染みが薄いようで。確かに結構高いし、管理大変だし、かといって合皮だと肌触りも硬さも全然よろしくないし、革はあんまり一般ウケしないのかもしれませんね。

紙のものは自分でいろいろいじったりデザイン性が高く、また安価なので、自分だけのカバーを作って喜ぶのには最適なのですが(ライトノベルのブックカバーなんかは自作すると結構良い感じになります。後日、機会があればサンプルなど)、紙のものだと濡れたりすぐに傷んだりと、実用性の面から少し微妙。また、手触りがガサガサしたり、手の水分を吸っていくので冬場にはあんまり向かない感じがあります。

というわけで、今回は布製のブックカバーをご紹介しようと思います。既製品だと、種類も豊富、値段も手頃と割と良い感じのものが揃っているのは、やはり布製ですね。色々なものを買いましたが、最近のお気に入りは、こちら。

ドンヒラノ01

ドン・ヒラノ(DON HIRANO)さんというメーカーのブックカバーです。本当に手作りなのか、「手」という機械が作っているのかはわかりませんが、〈こちら〉に詳しい説明が載せられているとおり、かなり凝った作りのカバーです。シンプルなデザインながら味があり、手触りも良好。布カバー特有の、持ったときの温い感じも良好。

ポケットなどがついておらず、栞の差し込みや付箋の扱いに困るのが少々残念ですが、紙カバーならどちらにしてもついていない要素なので、実用面からはあきらめがつきます。割と可愛らしいカバーも多くて、たとえば「見返り猫」なんかは秀逸。

ドンヒラノ02
しおり紐の先が鈴になっています。芸が細かい。

ワンポイントの控え目なチャームがよく見るととても凝っていて、見ていると非常に楽しい。電車の中で持っている人を見かけて、「おっ」と思っていたところ、丸善に売っていたので買いあさってしまいました。一冊読み終わるたびに別のカバーに替えて楽しんでいます。

というわけで本日は、ステマともつかぬブックカバー紹介でした。それでは、これにて。また明日。

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漫画買ってきた話

この前からちょっと気になっていた、わだぺん。著『東京自転車少女』と、松本規之著『南鎌倉高校自転車部』を購入しました。

南鎌倉
『南鎌倉高校自転車部』。店員さんがもの凄いオシのPOPを書いていました。

別にそれほど自転車大好きというわけではないのですが、女の子が自転車に乗ってる姿を見るのは好きです(爆)。自転車漫画、最近恐ろしく流行っているけどどうしてなんでしょう。ロードレースか自転車業界のステマでしょうか。

東京自転車
『東京自転車少女』。わかりやすく好みな絵柄。一時期話題になっていました。

読んでいないので想像ですが、おそらく自転車を通して地域の景色を見ていく、みたいな「世界の車窓から」のようなほのぼのした話なのではないかな、と。読んでから感想かけと言われそうですが、これから読みます! 面白かったら自転車買っちゃうかも! という感じで。なんかママチャリでもいいんですが、オサレな自転車も一台ほしいよなあと思ったり思わなかったり。

昔は「変速ギア」が大好きで、何段変速という語感の格好良さに憧れてゴテゴテした自転車やマウンテンバイクが良いなあと思っていましたが、最近は「やっぱ前にカゴついてるの最高だわ」という輸送手段としての自転車がメインなので、なんだかんだでママチャリか(笑)。

というわけで本日は短いけれどこんなところで。それでは、また明日。

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エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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