
タイトル:『辻堂さんの純愛ロード』(みなとカーニバル/2012年9月28日)
原画:みこしまつり
シナリオ:さかき傘
公式:『辻堂さんの純愛ロード』 OHP
定価:6800円
評価:B(A~E)
関連: 批評空間投稿レビュー (ネタバレ有り) ※外部リンク
※具体的な長文感想・内容紹介は、批評空間さまにて投稿しております。
▼評価について
ミドルプライス(6800円)とは思えないボリュームに、豪華なスタッフ。かといって手抜きがあるわけでもなく、もの凄くコストパフォーマンスに優れた作品でした。新ブランドの自己紹介を兼ねたデビュー作としては大成功だと思います。正直Aつけても良かったかなと思わないではないくらい楽しめましたが、細かい部分を見ていくとどうしても物足りなさが残るのでBに。
素晴らしいところをあげれば、まず声。私は声では滅多に評価を上下させない(こだわりがあるからではなくて、逆)のですが、余り声に関心のない私ですら、CVでキャラの魅力が跳ね上がっていることを実感しました。『つよきす』のように中の人ネタを多用されると却って萎えるところ、今回は純粋にうまさというか、素材にあった調理を選んでいる感じ。あとは、テンポの良いギャグ。魅力的なキャラとテキストで引っ張っていく感じで飽きないという意味で良質なエンターテインメントでした。ただ、厳しい言い方をすればそこどまり。楽しみは一過性で、何度も思い返して味わいたくなるようなところがない。それが最終評価の決め手でした。
でも、決して悪くないというかとても丁寧で良い作品なことは間違いないです。買うつもり全くなかったのに評判に後押しされてプレイして、正解だったと素直に思える内容でした。
▼雑感
この作品の楽しいところというのはなんだかんだでギャグパートだろうとは思うので、スカッと笑って、ちょっといい話にほろりとなって終われば万事オーライという気もします。ただ、巷で騒がれていた「主人公クズ」説。これについてはちょっと思うところもあったりします。
周囲の評判を見ていると、主人公の長谷大くんは少し、いや、かなり評判が悪いんですね。曰く優柔不断、曰く芯が通っていない、曰く浮気性。要するに、立派な(?)クズ主人公として認知されつつある。この主人公をクズと感じるか否かは人それぞれだとしても、事実として多くの人が素直には納得しがたい行動や思考を見せたことは認めざるを得ません。
にもかかわらず、不思議なことに、作品そのものの評判はそれほど悪くないという。むしろ平均的なエロゲーよりも面白かったという声を多く聞くぐらいじゃないでしょうか。
普通、主人公の評判が悪い作品というのはそれだけで作品が貶されることも少なくありません。ま、まあ『君が望む永遠』のように、主人公の悪評と作品の評判が正比例する場合も希にありますけど、それは概ね、三角関係など作品のテーマと主人公のクズっぷりが不可分な関係にあるからで、本作のようなタイプとは少々事情が異なる。
問題は、大がクズであると思われているのに、作品自体は許容されているというこの奇妙なねじれがどこから来ているのかというところです。思うに、作品内部の論理とそれを外側から見るユーザーの立場との間のズレが原因なのかな、と。
もし大の行動が作中においても単なるクズの所業として位置づけられているならば、辻堂さんたちはクズに騙される可哀想なヒロインか、さもなければそんなクズを全力で愛する健気なヒロインということになります。けれど、この物語はそんな風にヒロインを嘲笑したり、あるいは憐れんだりする話だったようには、私には思われません。つまり、少なくとも作品の中の論理では、大というキャラクターがクズとして扱われてはいない可能性は残されているわけです。
ならば問題は、大というキャラクターが作中でどのような存在なのかというところに逢着する。
この場合可能性は何通りかあって、もしかすると、「本当は描きたかった主人公像」と「実際描けている大」が全然ずれているのかもしれない。その場合、この作品は狙った的にあて損ねた失敗作ということで良いでしょう。しかし、大という主人公がある一貫したキャラクターとして成立しているのだとすれば、まずはそれを拾い出す必要というのがやはりあります。
たとえば赤穂浪士の討ち入りの話。あの物語を「外の視点」で見れば、報復で人殺しをするなど言語道断、大石内蔵助はじめ四十七士は総じてクズの集団です、という批判も一応は可能です。でも多くの「忠臣蔵」では、仇討ちという行為に法解釈的な断罪を加えたいのではなく、浪士たちの内部の論理として忠義や人情を描こうとしている。そのことを踏まえずに、彼らをクズと断罪するのは少々厳しすぎる。
同じことが、『辻堂さん』にも言えると思います。傍目にはクズと見えかねない言動を繰り返していても、大くんはこの作品の中ではモテモテであり、また辻堂さんの「純愛」の中心を担う人物です。たとえば何故ヒロインたちは大に惚れるのか。クズだと思われている大の行動というのは、ヒロインが好きな大の性質と無関係なのか。そのことを考えずにこの作品について結論を出すのは、いささか早急に過ぎるかなあ、と私なんかは思うんですけど。
それで、今回批評空間さんに投稿したレビューでは、大くん絡みで通してみました。ひとことでまとめるなら、「みんながクズっていうのわからないでもないけど、どうしょうもないのでは」ということ。それは、安楽椅子探偵に「もっと現場行け」と言うのと変わらない内容のツッコミになっているかもしれないぞ、と。
いずれにしても、まずは作品の構造明らかにして内容を読み取るところからスタートかなとは思います。各自の印象はそれからでも遅くありませんので。例の如くその試みが成功しているか否かは、読者の方の判断に委ねることになりますが。
まあただ主人公クズ説にも見るべき所はあって、それはさっきちょっと書いたように、「こんなクズな相手にでも尽くす辻堂さんの態度こそが真の純愛である」というメッセージを発しているのだとすれば、この作中で大くんがクズ扱いされていてもおかしくないのかもしれません。「辻堂さん」の「純愛」とは、惚れ込んだらどんな相手にでもとことん愛を注ぐ健気さなのだ、と。
……そんな話にするならもうちょっとやりようはあったと思う(大を一般人代表のように描く必要はまるでなくて、とびっきりの社会不適合者で良かった)ので、ちょっと乗りづらいのですが、可能性としてはありえるかもしれません。
批評空間さんのレビューで、「ライターの人はどういう意図でこんなクズを主人公にしたのか」というような感想を書いているかたがおられました。答えは(1)クズにすることに意味があった。(2)クズを描いているつもりはない。の、2パターンしかありません。そしてこの感想を書いた方はおそらく、(2)で、ライターの表現力や考えが足りないと非難したいのでしょう。
しかし、じゃあライターさんはそのような造型にすることで何が描きたかったのでしょう。もし「失敗」なのだとすれば、もともとの狙いは何だったのかを明らかにしなければいけません。あるいは、その「クズ」さによってクズとは別のことが描けてはいないのでしょうか。自分がその可能性を見落としているだけかもしれない。そう思って読むのが、ある意味で作品に対する優しさという気もします。
主人公クズ説をとるなというのではありません。とるならとるで、他の可能性も浚ったうえで、その読みの妥当性を主張する必要があるのではないかな、ということでした。
作品に対して「主人公はクズ」というような評価を下すとき、自分の物差しが作品の中のものなのか外のものなのかということには注意をはらって、なぜその物差しが必要なのかを考えながら使っていきたいですね。でないと道具に振り回されて、作品の本質を見失ってしまうことになりかねない。私も上手くできているかはわかりませんが、それでも短絡的に「大はクズ」と言ってしまうのはちょっと憚られる内容の作品だったのではないかと思うのですが、どんなものでしょうか。
あと、FDがあればの話。
あずにゃん攻略させてください(涙)
いやもうホントマジでたのんます……。OHPのキャラ紹介の内容がちょっとちぐはぐだったので(巧妙に「おかしさ」を演出していたと思います)コイツ何かあるな、とは思っていたのですが、こんな美味しいキャラだとは。くやしい(ビクンビクン)。「あーずにゃんって呼んでくれて良いッスよ」で脳みそとろけます。何だろうこの感覚。
……ちょっと関係ないラインで長話になってしまいました。そろそろ撤退します。それでは、また明日。





