五輪の話題が盛り上がる中、先日こんなことが起きていたそうで。

五輪バドミントン女子複 故意敗退の4組全員失格Yahooニュース、8月1日22時2分配信)
[ロンドン 1日 ロイター] 世界バドミントン連盟(BWF)は1日、ロンドン五輪のバドミントン女子ダブルスの2試合で、決勝トーナメントの対戦カードを考慮して、選手が故意に負けようとしたとして、同試合に出場した中国などのペア8選手を非難する声明を発表した。
どうも、バドミントン・女子ダブルスで、決勝トーナメントの組み合わせを考えて「わざと負ける」行為を行ったチームを世界バドミントン連盟が失格扱いにしたようです。

私自身は戦略的にわざと負けることがあっても良いとは思うものの、バレるようにやったらいかんなぁと。少なくとも審判に再三の注意を受けてもやめなかったというのは、懲罰を受けても仕方がないでしょう。

それはさておき、お酒の席でこのことが話題になり、友人の一人が「実にけしからん、永久追放だ!」みたいなことを言い始めました。で、この発言を巡って議論が紛糾。ただ、そこは文系人間の集まる飲み会。五輪の話で盛り上がったわけではなく、ポリシーの一貫性を巡る問題で侃々諤々やりあうことになりました。

どういうことかというと、この「けしからん」発言をした友人、自称ポストモダニスト。それを知っている別の友人(私が見るところ、彼もポストモダニスト寄り)が、こう言ったのです。「ポストモダニストを自称する普段のお前の発言を鑑みるなら、ああいうのも認めないと駄目じゃないの」と。

言わんとすることはこうです。世界バドミントン連盟の裁定というのは、所詮一つの価値観にすぎない。けれど、それがいわば絶対的な価値として機能したわけで、失格になった4組の考える価値はないがしろにされた。価値の相対性を認め、その中での自由を重んじるポストモダンの思想を自分の主義主張の根幹に置くのなら、今回の話というのは許されざる自由の侵害であって、断固戦うのが筋ではないのか、と。

対して「けしからん」の君はぐっと言葉に詰まってキレ芸を披露。そこからもう一人の友人も参戦して怒号が飛び交う展開になり、私は隅っこの方で一人、「はやく帰って古色迷宮の続きやりたいにゃぁ」とスマホをいじっていたのですが(飲み会の席でスマホをいじる人間です)、つらつら思うに、この辺の違いって実は結構大事なことだと思います。

「けしからん」君を擁護するわけではないですが、今回の話はポストモダニストがどうこうというより、政治哲学でいうところのリバタリアニズムでいくのか、コミュニタリアニズムでいくのか、という問題にしたほうが解りやすくて、「いや、俺はリバタリアンじゃなくてリベラリストだ」と返せば良かったような気がします。いや、あんまり自信ないですけど、たぶん……。そうすれば、少なくとも具体例に即した建設的な議論にはなっただろう、と。ただ、実のところ議論の優劣は割とどうでも良い。私が気になるのは、普段の主張を徹底する、という「けしからん」君に対して行われたツッコミのほうです。

私たちはよく、自分の考え方が「~と同じだ」というようなことを言います。今回で言えば、「ポストモダニストだ」とか「リバタリアンだ」とか。そういう既存の枠組みを使って自分の考えを説明しようとするし、またその枠組みの権威を借りて、自分の考えの価値を主張しようとすることも少なくありません。ただ、この時に気を付けるべき問題が2つ、今回の話で見えてきた感じがする。

1つ目は、既存の枠組みを引き受けるということは同時に、その枠組みが持つ「欠点」も引き受けることになる、ということです。もう少し別の言い方をするなら、ある特定の場面でだけはその枠組みが都合良く使えても、その発想を突き詰めて考えると、別の局面ではうまくいかない場合がある。

「けしからん」君の話でいえば、ポストモダンというのは権力者が横暴を振るっているところでは(たとえばアメリカがアフガニスタンにミサイルぶっ放したり)非常に強い。ところが逆に、各人が好き勝手な主張をして収拾がつかなくなった場合にはどうするのか、という共同性の問題が常にある。「ポストモダンを徹底するならバドミントンの故意の敗北も認めなければならないのではないか」というツッコミは、内容的な妥当性はさておくとして、自分が主張するロジックを貫徹していないことへの批判、ととることができます。

そして2つ目は、本当に自分の考えなり立場なりは、既存の枠組みで説明できるの? ということです。これは、貫徹できないロジックを掲げていることへの批判、と言い換えても構いません。つまり、自分の立場はポストモダンだ、という「けしからん」君の立場表明自体が妥当ではない可能性がある。

たしかにある場面においてはポストモダンというのが正しいかもしれない。でも、別の局面では矛盾が出るのなら、理由は2つしかないはずです。すなわち、ポストモダンを徹底できていないか、実は彼の思想はポストモダンでは無かったか。いま述べたのは、後者の可能性です。

特定の局面に限定であてはまる思想が、全てに貫徹していると簡単に言う。けれど、本当に自分の立場なり考えなりはその説明で説明できるの? ということは疑っておく必要があるはずです。そして付け加えるなら、重要なのは対象が既存の考えで説明できると示すことではなく、それを示したことによって何が言えるのかにこそ存在するのではないでしょうか。

ことは自分の考えだけではなく、作品解釈を巡っても同じです。何度もこのブログで言っていますが、「この作品に描かれている思想は、誰それのこの思想と一緒だ」とか、「この部分は誰それという哲学者の言葉を参考にしている」とか。でもそれは、その思想の持つ問題も一緒に抱え込むことになり、それを引き受けたら作品が致命的に壊滅してしまう可能性もあるわけです。(たとえば、人間の平等を訴えているような作品の中に「儒教倫理」を見出した、などと書いたらこれは作品が自己矛盾を抱えて自爆しているということになります)

そして、既存の枠組みにあてはめてしまうことで、その作品が本来持っていたその枠組みから逃れていくような繊細な差異を見失ってしまうこともありえる。

特定の枠組みにあてはめるというのは、きちんと説明するということです。でも、自分の考えにしろ他人の考え(作品)にしろ、説明できたところから更に余剰の部分は必ず存在する。既存の枠組みで鮮やかに何かを説明するということには広汎な知識が必要で、それが偉大なのは認めるとしても、そこまでで停止してしまっては単に題材と素材を適切に組み合わせるパズルゲームで終わってしまうのではないか、というのも正直な実感です。

私たちはある枠組みや自分の思想といった対象を、徹底的につきつめて考えてみる必要がある。ただ、つきつめた結果、「つまった」ところで満足すると余剰が失われていく。それは、「つまらない」。レポートや感想文や、それこそエロゲーのレビューでもそうですが、対象を鮮やかに説明しきって「これで終わり」というものより、説明が鮮やかでありながらなお「まだ奥がある」ことを示してくれるようなもののほうが、私には魅力的に感じられます。ある解釈を押しつけてくる解釈より、読んだ人の解釈を促すような解釈。それを可能にするのは、常に自分の枠組みから逃れていく余剰を見ようとする意識を持ち続けることではないかな、という気がします。

他人の意見でも、自分の考えでも、ある作品についてでも、「結局こうだ」と言った瞬間に、私たちは何かを切り落としてしまう。「結局」は勿論必要なことではあるのだけれど、個人的にそのことの怖さは忘れないようにしたいです。つまり今回私がまとめた議論の話も、きっと本当は余剰があったんじゃないか、みたいな話に……。めんどくせえ!

というわけで、五輪から始まって全然関係ないところでオチるという、減点要素満点の着地でした。それでは、また明日。

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