先日ぼんやりとタイムラインを眺めていたら、「君のぞもやらずにWA2を語るな」というようなツイートが流れてきました。実際はもう少し過激な文面であり、本来ならそれをここで引用するのが筋なのですが、鍵アカウントの人が、更に鍵付きの相手から非公式RTしたという複雑な事情があり、私のほうで発言の当事者が本当にそんなことを言ったのか裏をとれていない又聞き状態なので(こんな発言捏造しても誰も得しないので、嘘ではないと思いますが、冗談の一環として発言している可能性はある)、だいたいそんな感じの発言がどうやらあったらしい、というくらいに認識してください。

私はこれを聞いて(正確には読んで、ですが)、「またか」と思いつつ、あまり良い気持ちはしませんでした。理由は大きく二つあって、一つは、なぜ「君のぞ」と「WA2」が繋がるかを示さずにそういうことを言う、その中味の無さ。もう一つは、意見の表明なら自由にすれば良いと思うのですが、根拠があるんだかないんだかわからない権威主義的(たぶん自分が「君のぞ」をやっていることが権威として機能しているからこういうことが言えたんだろうと思います)な態度で、他のユーザーを頭ごなしに否定するところ。

実際問題、この手の「~も知らないくせに、偉そうに語るな」みたいな言説、ずーっと昔からたまに見かけます。ハッキリした傾向でなくとも、たとえばエロゲーやってる本数が多いとか、昔の作品をやっているとか、そういうことが端的にすごいことだと受け取られる傾向はある。その延長に、やった本数が多いと威張れる・少ないと気後れする、ということがあるのでしょう。けど、私としては、こんなバカな話は無いと思います。たかがエロゲーに必死になって、などと言うつもりは毛頭ありません。むしろ、必死だからこそ思うのです。エロゲーだろうがなんだろうが、好きなモノについて語るのに、何の資格が要るというのか。

昔は、こういう発言を聞くたびにカチンときて、でも自分に知識がない言い訳で抵抗していると思われたら嫌だから、なけなしの金をはたいて必死にエロゲーをやりまくりました。そうしてかれこれ十数年。人並み以上に本数をこなしているという自負はありますが、こなした本数なんて、ぶっちゃけ大したことないと思います。いや、正確には、こなした本数が価値を持つのは、非常に限られた条件のもとではないか、と思うようになりました。

つらつら考えてみるに、この手の本数至上主義というか、知識崇拝というか、そういうのの背景にはおそらく、エロゲーの――正確にはエロゲーに限らずオタク文化全般の――学問化のようなものがあるのでしょう。学問化という言い方が適当でないかもしれないので言いなおすと、エロゲーの作品に対する評価というのがユーザーの間でメジャーなコンテンツになった。その時、評価をするうえで導入された、既存の「学問的方法論」の影響が色濃く出ている、という感じです。

ことわっておくと、私個人としてはそのような傾向に対して否定的ではありません。むしろ、個人的な感想を繰り返すだけでなく、ある種の客観的基準を導入しようという試みは、作品の内容をより豊かにする助けになるでしょうし、批評文化が盛り上がることはコマーシャル・セールスという実利的な面からみても少なからずプラスがあるはずです。

しかしながら、生兵法はけがのもととでも言いますか、無自覚に方法を振り回すと、かえってたちの悪いことにもなりかねない。その代表例が、冒頭にあげたように中途半端な博物学的関心でしょう。


「学問的方法」のなかで、傍目にはとても分かりやすそうに見える手法の一つが、おそらくは比較論です。AとBを並べて、その違いやつながりを説明する。客観的な証拠もあり、違いが言えた/繋がりが言えたということで、一応結論らしきものも出る。形式のテンプレートにも載せやすいし、知識を加工(分析や読解)無しに直接使える……ように見えます。

しかし、比較するということは、実は結構難しい。AとBを比べるためにはまず、AとBとの間で同じところと違うところがどこか、説明しなければなりません。さらにそのうえで、なぜその2つを比べたのか、比べることで何がはっきりするのかも明らかにする必要がある。たとえば、「ケーキとまんじゅう」を比べるとき、両者は菓子という共通性があるけれど、西洋と東洋という違いがある。2つを比べることで、欧米と日本の間の甘さに対する感性の違いを明らかにしたい……というように。

比較においてはそのような「目の付け所」こそが重要なのですが、多くのエロゲー的比較論は、単に「あれとこれが似ている」「ここが違う」という、説明に終始していて、それがどういう意味を持つのかは等閑視されがちです。そうやって並べて違いを見ているというのは、二つの作品の箱を並べて「パッケージの色が違うネ!」と言っているのと、たいして変わりません。そりゃ違う作品なんだから、細部は異なるわい。そんなことが言いたいだけなら別に、君のぞやらずにWA2について語っても何の問題もないと思うわけです。

逆に、もしAとBの間――「君のぞ」と「WA2」の間――に、比較するに値することがあるかもしれません(実際あるだろうと私は思います)。しかし、それはあくまで比較において導かれることであって、作品単体をかたってはいけない、ということにはならない。比較すると違うものが見えてくる、というだけのはずです。

具体的に考えてみましょうか。あくまでも私見ですが、「君のぞ」を「WA2」と比較する場合、三角関係という構図が同じであるにもかかわらず、ユーザーの印象が結構違う。それは何故か。「君のぞ」は水月か遙のどちらを選ぶか、という作品だったのに対し、「WA2」はかずさか雪菜、どちらを切るか、という作品になっている。だから、孝之はどんなに相手を振る選択肢を選んでも振り切らないし、春希はつきあう選択肢を選び続けても問題が解決しない。結果は同じでも、過程が違う作品で、だからこそ描かれている恋愛観がずれているんだ――とかなんとか、言おうと思えば言える気がします。

で、そこからたとえば「WA2」の恋愛観について何か言えたとしましょう。

その結論は原則、「WA2」単体からでも導けるものでなければならないはずです。当たり前ですね。そうじゃなかったら、「WA2」についての話になりません。「君のぞ」はあくまで見通しをよくする為のサポートで、「君のぞ」無しでは出てこないような話になるなら論外です。

または、「君のぞ」と「WA2」の比較からしか言えないこと、というのもあるかもしれません。しかしそれは、そもそも「WA2」の話をしたい人にとってはどうでもいいことのハズです。「WA2」の話がしたいのに、別の作品との関係でしか言えないようなことを言われるというのは、カレーたのんだらラーメン持ってこられたみたいな理不尽きわまりないお話でしょう。いずれにしても、ある作品について語るのに、別の何かを知らなければ何も言えない、なんてことは無いはずです。


比較以外にもう一つ、感想や評価を権威付ける手っ取り早い方法として、「歴史」というのがあります。こういう歴史の流れの中に位置づく、ということを言えば、何か大きなことが言えた……! というパターンです。今回の場合なら、三角関係作品という系譜の中にあてはめた、ということですね。

しかし、これもまた実際にはそう簡単ではありません。そもそも、歴史というのは別に客観的な事実ではないので、ただ単に並べれば良いってものじゃないわけです。私は歴史学には門外漢なので、偉そうなことを言うのも気が引けますが、歴史記述ということを巡っては多少専門に片足突っ込んでいる部分もありますので、少し回り道をさせてもらいます。そんな専門的な話ではなく、かなり端折った大ざっぱな話ですが。

最近の学生は――といっても、私の同年代が大学生だったころからそうですが、歴史というのが一つの思想であるということを聞いたことがない、という人が結構多いみたいです。確かに、高校とかでは習わないんですよね。酷いのになると、年表というのは事実の羅列だと思っている人がいる。

当たり前の話ですが、実際の歴史的事実というのは、教科書やら年表やらに書き残せるものではありません。叙述された歴史というのは、何らかの意図に沿って編集されたものでしかないわけです。たとえば今の日本史の教科書・近現代史なら、「民主主義の称揚」と「反戦」いうのが大きなテーマでしょうか。その線に沿って編集されている(だからこそ、「つくる会」との教科書問題が起こるわけです)。

歴史マニア、記録マニアと言われた古代中国なら、王朝の勃興から滅亡までをことこまかく記している、あれは客観的事実記述を目指したんじゃないのか、という反論があるかもしれません。しかしああいった歴史にしても、始まりから終わりまでを描くことで、なぜ始まり、なぜ終わったのかが問われている。その歴史が描いているのはさしずめ、「天帝」の意志でしょう。「最後の審判」へと向かうユダヤ・キリスト教であれば、歴史には「神」の意志があらわれる。ヘーゲルが「歴史は絶対精神の発展過程」と言ったのもそういうことです。

ちょっと話が飛びました。要するに、歴史の中に何かを位置づけるというのもやはり、ものの見方を提示することに意味があるのであって、なんとなく繋がりました、なんて言っても「あ、そう」で終わっちゃうわけです。

分かりやすい例になるか知りませんが、エロゲーなら、ランキングのようなものを想像してみれば良いのではないでしょうか。2011年をエロゲーで振り返ってみて、と言われたとき、たとえば1月に1本をとりあげて12本のエロゲーで1年を語ることもできるし、売上の1位~10位を並べて10本で1年を語っても良い。自分の好きな作品を並べることもできるし、特定のジャンルに絞って振り返ることも可能でしょう。

結局、作品相互の繋がりというのは、やろうと思えばどんな風にでも繋ぐことができる。だからこそ、なぜその2つが繋がるのか、それを繋ぐことで何が言えるのか、という「視点」の説明こそが、本当に重要な課題となるはずです。それが言えたなら、ある作品を過去の作品の歴史(エロゲー史)の中に位置づけるということの意味は出てくるでしょう。文学史にしても政治史にしても思想史にしても、その「史」が何を語るために必要なのか、ということこそが重要で、それがあるから、「~も読んでないなんて論外」みたいな話が出てくるわけですが、エロゲーにそこまで体系だった「史」が存在しているという話は、私は寡聞にして存じません(あったら是非教えてください)。

そして、よしんば存在したとしても、別にだからといって作品個別について何かを語ることが禁じられるわけではないだろう、と思います。


なんだか最初の話から、随分遠いところへ来てしまった感じがしますが、とにかく「~を知らないから語るな」というような言い方は、個人的にはNGというか論外に思えます。そして、過去の作品との比較で何かを語ったり、史的な観点で作品を位置づけるなら、たんに事実を並べるだけではなく、そのことの意義こそが重要なのだ、ということが今回の話の結論ということになるでしょうか。頭にやや血が上っていたので、自分でも何を書いてるか覚束なくなっていますが……。

いやもちろん、昔を懐かしんで、「あれとこれって似てるよね!」というような話を否定するつもりは全くありません。そういう話は私だってどんどんします。どちらかというと懐古厨ですから。ただ、知っているということだけをかさにきて、他の人を攻撃するとか、そういうのは本当に無意味ですよね。

まあツイッターではちょっと言いましたが、そういう人はきっとそのうち、若い世代の最先端からどんどん取り残されて、可哀想なことになるんだろうなああ、ほっときゃ良いか、とも思うのですが、現在進行形の問題としてやはり、いらないプレッシャーを与えているわけですし、「単に物知りになったら良い」というような、私が植え付けられた洗脳じみた誤解が蔓延するのはよろしくないことだという気もするわけです。

それとは別に、この記事の最初のほうにちょっと布石を打ったのですが、「エロゲー史」的な興味関心に基づいて体系立った「通史」を、考えてみるのも面白いのかな、と。もちろん、それに近い著書やWEBサイトをいくつか存じ上げてはいるのですが、私の知る限り、まだたたき台、という感じがします。私自身は史学的視点をまったく持てない大ざっぱな人間なのですが、個別の作品をより深く捉える上で、史的な視点というのが欲しくなるときはやっぱりある(ここまでの議論とは矛盾しませんよ!)ので、だれかやってくれないかなー。やってくれたら本買うのになー……。

と、今回はそんなお話でした。グダグダになりましたが、この辺で。それでは、また明日。

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