よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

考察系

東京都感染者の増加。

本日の感染者が107人と、3桁に突入しました。予想より遅かったなという印象で、まぁ想定の範囲内です。

とはいえ、何でこうなったのかは考えておきたい。テレビやWEBニュースを見ると、小池知事や関係者は検査数を増やしたからだ、ただちに警戒する必要はない、と繰り返していますが、さすがに少し首を傾げたくなります。

6月30日の検査数は、都の発表では2213件。6月8日ごろでも2194件の検査を実施していました。1000件に満たない日ももちろんありますが、平均して今の検査数の半分以下ということは、ありません。

しかし、コロナの発覚数は倍以上になっているわけで、陽性率は明らかに上昇しているはずです(陽性率も表示されていますが、公開されている数値とデータが一致してないように見えます)。ふつうに考えればこれはあまりよろしくない状況でしょう。

一応7月1日の陽性率を見ておきますと、4.0%。やっぱり6月上旬くらいのレベルにまで上がってきていますね(都の発表によると最高値は4月11日で31.7%。5月11日は5.0%でした)。

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いや、ふつうじゃない考えできちんと「大丈夫だ、問題ない」と言えるのかもしれませんが、その詳しい道筋は説明されていません。したがって聞いてる側は思考停止するのでなければクエスチョンマークを頭の上に出すことになります。

こういう、誤魔化しに見えるもやっとした説明は、何か表沙汰にできないような背景があるのかなと勘ぐりたくなる要素です。都知事選を控え、票のためのムーブにも見えてくる。印象はあまり良くありませんね。

もしかすると都知事選が終わったら「警戒」が加速するかもしれません。それだと遅すぎることにならないか不安です。

ここできっちりと、国とは別に都のオリジナルな警戒態勢に移行していく、くらいのリーダーシップを見せてくれれば個人的には文句なく投票するんですけど、見てる感じことなかれの現状維持に落ち着きそうかなぁ。

専門家会議廃止。

まさかの展開。

 ▼「専門家会議「廃止」に日本政府への心配が募る訳」(東洋経済)

6月24日夕、新型コロナウイルス対策を担う西村康稔経済再生相は、政府に医学的な見地から助言をしてきた専門家会議(座長・脇田隆字国立感染症研究所長)を廃止すると発表した。

代わりに他分野の専門家を交えた分科会を発足させるという。市民にとっては、専門家会議が提示した科学的根拠に基づく生の情報によって、自分の判断で行動変容に対応できた。これまでにない施策過程の透明化が、国民的な理解を深めたともいえる。

専門家会議やクラスター対策班による分析にいろいろな「ツッコミ」が加えられ、世間ではやれ無能だなんだという声もあがっていましたが、こまかくデータを出し、たたき台となる分析を提出していたのは間違いありません。そうして、そのことで私たち一般市民の判断材料が増えたことも確かでしょう。

ろくでもない分析をするならないほうがマシ、ということはあるのかもしれませんが、私には専門家会議がそんな(ないほうがマシといえるような)組織だとは思えないんですけれども。


西村経済再生相は、専門家会議を廃止するのは、法的な位置づけが不安定だったためと説明している。新しい分科会は、リスクコミュニケーション(リスク時の情報発信)の専門家や地方自治体の関係者らを加える方針も示した。


ということですから一応法的な筋は通っているし、そもそも招集したのが政府ですから廃止も政府が決めて問題ないとは思うものの、手続きや発表のしかたがあまりにも雑で、今後「専門家」の協力を政府が得られるのか。得られたとしても、政府の思惑に沿うことしか言わない組織ができあがったとしたら意味がないのではないか。そんなことも考えます。

政府と考えが違ってもあくまで「感染症の専門家の立場」から警鐘を鳴らし続ける。そういう組織はこの後も必要なんじゃないのかなぁと思うのですが、新しく作られる分科会は多様な専門家が入ってくるそうなので、これまでのようなとんがった組織にはなりそうもありませんね。

香川県ゲーム条例に対する訴訟の動きの話

香川県の高校生が、香川県ゲーム条例に対し、「条例が違法であること」の確認と、「議員の立法不作為責任」追及のため、国家賠償請求を求めての訴訟を起こす動きがあるようです。

個人的には非常に素晴らしいことだと思います。

 ▼「香川県ゲーム条例が憲法違反の確認と、議員の立法不作為責任を求める国家賠償請求訴訟」 (GoodMorning)

まず、事前のステップとして「署名」を行うなどの手続きをちゃんと踏んでいる。(ここで大きな賛同を得られて、人口の1/50以上の署名数を得られていれば、条例の廃止を議会に強制することができました)

次に、法治国家にふさわしい手続きを理解した上で社会にはたらきかける行為をしている。いま「デモ」が流行っているからということで安易にデモに訴えないというあたりが私好みです(集まらない・集まれないという実務的な問題もあったんでしょうが)。あ、ちなみにデモがダメといっているわけではありません。デモはデモで有効な局面もあるはずです。

最後に、主体があくまで個人であるということ。怪しげな政治組織や思想団体の力を借りるのではなく、あくまで香川県に住む「市民」の1人が自治体に対して直接請求権を行使するという、これこそお手本のような民主主義ではないかと思うわけです。しかも、渉氏は高校3年生。選挙権を獲得する(あるいはしている)年です。18歳の若者が主体的に政治に参加するというのは、単純に投票に行くということももちろんそうでしょうが、こうした手続きを多くの若者が知り、実践できることを言うのではないかと思います。

実際にクラウドで支援するのは、渉氏のバックグラウンドなどについてもう少しきちんとした情報を得て、きちんとしたかたちでお金が使われるであろうことを確信してからにするつもりですが、個人的には支援を表明したいと考えています。1口1000円ですしね。そして、多くの人の賛同が集まってこのプロジェクトがきちんと動くということが、表現問題の今後に繋がると考えています。若い世代に、正当な主張で世の中が動くのだという実感を持ってほしいという気持ちもありますし。

話題になった「グレタさん」よりも(よりも、という言い方はよくないのかもしれませんが)、こういう身近なところで民主主義の精神が実践されている例を、メディアはもう少し取り上げても良いんじゃないかと思う次第です。

コロナ下の「登校」に意味はあるのかという話。

6月1日になり、近隣の小中学校で登校がはじまりました。我が家の周りも大量の小学生があふれ、あちこちで密を形成しており……そういう状況を見ながら、ちょっとめんどくさい話をつらつらとしていきます。

はじめにことわっておきたいのは、ここでは学校現場の先生たちを非難・批判する意図はまったくないということです。現場の先生たちにもさまざまな意見・立場があるとは思いますが、生徒・児童の登校の可否に関して現場の先生たちが決定権を持つことはほぼ無いでしょう(それは、われわれサラリーマンが出社を自己判断できないのと同様に)。むしろ教育行政や私学であれば運営母体となっている学校法人に対する問題提起のつもりで書いています。

昨日、北九州の小学校でクラスター発生の報せがはいってきました。

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 ▼「北九州 小学校でクラスター発生 9日間で市内97人 新型コロナ」(NHK NEWS WEB)
北九州市では31日、新たに12人が新型コロナウイルスに感染していることが確認されました。このうち4人は、今月28日に感染が確認された小学生と同じ学校に通う児童で、北九州市は、この小学校で感染者の集団、「クラスター」が発生したとしています。

北九州市によりますと、新たに感染が確認されたのは、小学生を含む10代から80代の男女、合わせて12人です。

このうち、いずれも10代の女子3人と男子1人の合わせて4人は、小倉南区にある守恒小学校の児童で、今月28日に感染が確認された女子児童と同じクラスです。守恒小学校では今月25日から活動が再開され、感染が確認された5人の児童も登校していたということで、北九州市は、この小学校で感染者の集団、「クラスター」が発生したとしています。

31日に感染が確認された4人の児童はいずれも症状は無いということです。

また、すでに集団感染が確認されている小倉北区の北九州総合病院では新たに医療スタッフ3人の感染が確認され、この病院で感染が確認された人の合計は26人になりました。

北九州市で31日に感染が確認された12人のうち2人は感染経路が分かっておらず、この9日間で感染が確認された97人では34人の感染経路が分かっていません。

このため、北九州市は、市民に対して、引き続き感染予防に努め、不要不急の外出を自粛するよう呼びかけています。
私は現場を見たわけではありませんが、この小学校がコロナ対策を怠ったというパターンではなく、むしろかなりコロナ対策に配慮していた部類のようです。



これが事実であろうとなかろうと、現実問題として学校現場でのコロナへの万全な対策はほぼ不可能です。これにはさまざまな理由がありますが、わかりやすいものを2つ書いてみます。

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まず根本的な問題として、コロナウィルスの全貌が医学的にあきらかになっていないからです。いま喧しく議論されている内容の大半は、「現状で蓋然性が高いと考えられる」ことです。少なくとも専門家の間でも、ほぼこれが確定だ、という話は限られているように見受けられます。専門家ですらそれですから、私を含め素人がどれほど勉強して情報を仕入れたところで、個人の行動判断に使うレベルなら良いとしても、他人の行動や生命に責任を負いきれるようなレベルで確定的な判断を下すのは困難でしょう。これはつまり、対策が万全かどうかを判断する客観的な指標が現状では成立できないことを意味します。指標がないのですから、「万全な対策」は原理的に不可能です。

※ちなみにもしあるとすれば、国か地方自治体のものになります。これは社会的な観点としては間違っていないと思います。国や自治体の示す判断基準が妥当かどうかそもそもわからない、というそもそも論まで行かずに、正しかろうが間違っていようがお上の示すものを基準としてやっていくという考え方は揶揄ではなく1つの明確な方針と言えるでしょう。ただ、その方針に従ったとしてそれはコロナ対策が完璧なのではなく指示を完璧に守っているだけにしかならないので、上の話は否定されません。

2つ目。人と人との接触が生じるからです。判明していることが少ないコロナウィルスで最低限わかっていることとして、人と人との接触によって感染が拡大する、ということがあります。ロックダウンやら何やらという施策はそうした分析に基づいて行われていますね(ロックダウンが妥当か否かは論じません)。そして小学校や中学校では、どうやっても人とすれ違う場面があります。たとえばトイレや手洗い場で接触があるでしょう。小学生低学年なら特に、登下校や休み時間の際に先生の見ていないところで学校の基準を無視するはずです。

だいたい年頃の子どもたちが、全員先生の指示に100%従うということは有りえません。見えないところで身体的な接触をするに決まっています。マスクを外して会話することもある。それを常に監視し、止めることは不可能です。いやできるんだ、学校はそれをやるべきだ、という人がおられたら、この記事を読む意味はありませんのでどうぞブラウザを閉じて下さい。

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まあそんなわけで、現状コロナへの万全な対策は不可能です。そして、いま日本はPCR検査の実施数を増やさないでコロナに対処する作戦をとっています。子どもはコロナの症状が出にくい、重症化しにくいなどと言われていますが(その真偽はおくとして)、感染しないわけではありません。無症状での感染例は多数報告されているわけですから、熱も咳も体調不良もないけれど感染している子どもはごろごろしていると考えられます。

※この日本の方針に対する議論も、ここではおこないません。これが成功か失敗か、PCR検査をすれば登校していいのか、という話がここでの主眼ではないということをご承知おきください。PCR検査を実施せずに乗り切ろうという現状の方針を前提として、登校再開というのがその方針にほんとうに合致しているのか? という話です。

そうして、無症状の子どもの間で感染が拡大し、それが各家庭に運ばれます。言うまでもなく接触機会が多いため家庭内のほうがはるかに感染の可能性が高いでしょう。すると子どもから家族が感染し、その家族内で症状がでるかもしれません。出なかったとしても、両親から職場に運ばれ、そこで感染が広がる……ということは容易に想像できます。実際、かなりの対策をしていた北九州の小学校でクラスターが発生しているわけですからね。


で、以上のような話をしていると当然、「なぜそこまでして登校させる必要があるのか?」という話になります。私が言いたいのはここです。大事なことなので2回言います。なぜ、登校が必要なのでしょうか?

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まあ、理由はいろいろ出てくると思います。たとえば……

・生徒の学力がつかない。
・生徒の学力や健康などを確認できない。
・他の生徒とのコミュニケーションがとれずに人格的な成長を促せない。
・子どもが自宅にいると困る家もある(両親共働きなど)。
・自宅にいないほうがいる子どももいる(DVなど)。
・いつまでも休校を続けるわけにもいかないのでどこかで慣らさないといけない。

私は現場の人間ではないので細かいところはわかりませんので想像ですが、これくらいは標準的に出てくる内容じゃないでしょうか。コロナの中でずっと引きこもっていることもできませんからどこかでリスクを採らないといけない、というのは確かです。しかし、それはほんとうにこのタイミングなんでしょうか。

実際これ、全員にあてはまる話ではないはずです。加えて、全部学校に登校しないと解決できないことではないですよね? オンラインで授業できてる学校もあるわけですし、健康観察は電話でもできます。

家でじゅうぶんな学習も運動もできていて、両親共働きだけど祖父母が近隣にいて預けることができる。子ども同士のコミュニケーションも、LINEやZoomでできている……そんな家であれば、通常通りの登校をする必要が出てくるでしょうか?

学校に意味がないと言っているわけではありません。教育活動というのはどんなものでもすべて何らかの意味があるはずですので、登校する、登校して集団行動をする、という中で必ず子どもたちにとって有意義な活動ができるはずです。

しかし、それがどの程度必要なもので、現状の社会情勢にかんがみて適切なのかどうなのか、デメリットと比較して是非実施しなければならないものなのか……ということが検証されているのか、甚だ疑問です。少なくとも、「感染拡大を防ぐ」という意味では、現時点での登校再開は下策ではなかろうかというのは既に述べた通りです。
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そこを曲げて登校させる理由がある子どももいる、というのはわかります。ならば、そういう子どもだけを登校させる、というのではダメなのでしょうか? たとえば家の経済的な事情でどうしてもインターネットにつないでWEB授業をうけることができない子どももいるでしょう。学校ではそういう子どもたちを集めて授業を行う。クラス全員が出てこないとダメ、って話は少ないと思うんですよね。

もちろん、ずっと家にいろというのではなく週に1回とか2週に1回とか登校するのは良いと思うんです。でも、「通常に戻す」というのを意識して毎日登校とかにする必要、いまの段階であるんでしょうか……? いや、あるのだ、ということならそれで構わないのですが、どうもきちんと議論されているように思えないのです。いま、コロナの拡散を抑えること、経済活動を止めないことが二大重要事項ですが、それを超えるメリットが果たして登校再開にあると判断したのでしょうか。

社会全体で感染をおさえるという意味では、コントロールが難しい子どもを外に出すのが最も危険な気がするのです。また、子どもたちにとっても登校することがほんとうに「良い」ことなのかわかりません。無条件に「学校に登校できるのは良いことだ」「日常を取り戻すというのは、子どもたちにとっても嬉しいことだ」という前提を置いてしまっていませんか……?

「登校再開」というのが、どうして「全員一律で毎日(あるいは週に数日)登校せねばならない」になるのか。そこをしっかり考えていくべきではないでしょうか。少なくともそんな議論もろくにできていないのに登校するのは準備不足であろうと私は思います。緊急事態宣言にあわせるのではなく、子どもの実態と社会の実態にあわせて判断するということはできないのかなぁ。そうすれば、もうちょっとフレキシブルな学校の再開ができるんじゃないかと思うのですが、どんなもんでしょうね。

わかることとやれることは別ごとかもね、という話。

本日ツイッターを眺めていると、こんな記事がRTで回ってきました。それに関して思うところがあったので少し書いていきます。ちょっと嫌味ったらしいと思われるかもしれません。ここで引用したツイートの方などをバカにしたりという意図はなく、不適切であると言われるならば謝罪し取り下げるつもりもございます、ということをおことわりしたうえで進めさせていただきます。

 ▼「東大卒業式、ネットで激賞 伝説の格言の内幕明かし、コピペ情報に警鐘 信州大あいさつと一緒に話題に」(Yahoo!ニュース)

内容は、平成26年度の東大教養学部(駒場)の卒業式で、石井洋二郎学部長の式辞に関するもの。かつて大河内一男総長が語ったとされる「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」という「格言」について、これに「3つのデマ」が含まれている、という話です。

この「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」というのは私もよく耳にし、そのたびに疑問を感じていました。あきらかにJ.S.ミルの「It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.」(満足した豚であるよりは不満足な人間であるほうがよく、満足した愚者であるよりは不満足なソクラテスであるほうがよい)を縮小したか、あるいは改変したものです。

しかし、「豚」と対置されるのは「人間」であり、「ソクラテス」と対置されるのは「愚者」ですから、「肥った豚よりも痩せたソクラテス」などというとこれは、ミルにもソクラテスにもたいへん失礼ではないかな~なんて思っていたのですが、もとネタはこういうところにあったんですね。

さて、この記事および実際の石井氏の挨拶は、「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみる」ということの重要性を説いています。これは、ネット社会において非常に大切なことである、というのは間違いないでしょう。実際、この記事は非常に多くツイートされています。2015年4月8日の9時30分時点で約1080件。

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すべてを読んだわけではありませんが、多くの人がこれに賛意を示しています。

ただ、ここでどうしても私は「う~ん」と思ってしまうんですね。

というのは、このYahoo!ニュース自体、実は「二次文献」(あるいは総長の式辞全文を「一次資料」と見なすならば三次文献/資料)だからです。きちんと出典元は記載されていますが、これwithnewsからの引用というか転載ですよね。もとの記事は、文章こそ同じですがタイトルは全然違っていますし、写真なんかも入っていてレイアウトはまったく別モノになっています。

 ▼「東大卒業式、抜群のセンスでコピペ情報に警鐘 「肥った豚…」ネタに」(with news) 

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そして、同じく2014年4月8日の9時半時点で、こちらは130件しかツイートされていません。「一次資料にあたりましょう」ということを訴えた記事の出典もとが参照されていないわけです。笑うしかありません。

たまたま目に入っただけなので他意はないのですが、たとえばこちらの方。Yahoo!ニュースのほうを引用して次のように呟いておられます。



ご指摘はもっともで、実際に「一次情報」である総長挨拶へのリンクを貼って欲しいと言えるのは、おそらくそれを参照しようとしたからですよね。悪い意味ではなく意識の高い方なのだろうと思います。

しかしこれ、実はwithnewsのほうではきちんと「関連リンク」として末尾にリンクが貼られています

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つまり、Yahoo!ニュースが(おそらくは本文に含まれていなかったため)勝手に除外しただけです。この記事に対して批判を加えるなら、リンクを貼っていないことではなく、本来貼られていたリンクを取りこぼしたこと、でしょう。そんなことは承知のうえで上記のツイートをされた可能性はありますが、どうもYahoo!ニュースのほうを原典として扱っている気配が見えるので、私としては元の記事をご覧になっていなかったんじゃないかなぁ、と思ってしまうわけです。

ただ、この方などはおそらくマシなほうで、この記事に関して呟いた、あるいはそれをRTした1000人余りのうち、実際何人が東大教養学部のHPに行き、石井学部長のコメントを参照したのでしょうか

再びツイッターからになりますが、こちらの方。



石井氏の式辞を読めば「「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」がJ.S.ミルの言」では「ない」というのが非常に重要なポイントだというのがわかるはずなのですが、それをこういうかたちで言いとってしまうというのは、やっぱり「式辞」のほうは読まずにコメントしておられるのかなという疑いを抱いてしまいます。

一応リンクを貼っておきましょうか。

 ▼「平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞

こちらの式辞には、記事(withnews)の内容とは結構違うなというところや、よりはっきりとわかるところが幾つもあります。

たとえば、「実際は大河内さんの発言ではなくJ・S・ミルの引用だったこと。原稿には、J・S・ミルの引用を明記した上で書かれていたが、実際には読まれなかったこと」という部分。どうして「原稿」に書いてあったことのほうが一般に流布したんだろう、という疑問が起こるのですが、それについてはきちんと式辞内でわかるように説明がされています。

そして、石井氏の話というのは今回の例にとってほんとうに適切なのかな? という気もしてきます。というのは、大河内総長の「言葉」というのは、マスコミが報道したものです。そしてマスコミには東大の広報から正式に原稿が配布されていた。当時はネットなどありませんし会場の様子を録画・録音していたかどうかもわかりませんから、一般の人はメディアの発表を信じるくらいしかなかった。石井氏は「皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものである」という例でこれを挙げておられて、その意図はわからないでもないのですが、この大河内総長の話のほうは一次資料にあまりにも当たりにくいという意味において「ネットに流れている雑多な情報」とは、ややレベルが違うかなという気がします。出典元である書籍などのメディアの情報にまで疑いをむけるなら同じことが言えるかもしれませんが、それはもう「無意識のうちに伝言ゲームを反復している」のとは違いますよね。この辺の問題意識というのは、withnewsの記事を読んでいるだけでは出てきにくい内容のような気もします。

また、続きである「原文をかなりアレンジした表現になっていることなど」という部分。石井氏の発言では最終的に「これは「資料の恣意的な改竄」と言われても仕方がない」 とまで言われており、「かなりアレンジ」というのとはだいぶニュアンスが違います。石井氏が最後に、一次資料にあたることを「教養」として訴えることから考えても、この部分は割ととりおとしてはいけない(また、式辞では「意図的」ではない=アレンジというより勘違い、という立場のほうで語っておられるので、事実関係としても不適切な)表現ではないかと思われます。

と、こんな具合。やはり「伝言ゲーム」の中で取りこぼされるものや変奏されるものはある。

まあこういう話を言い出すと、じゃあミルの原典あたったのかとか、ここに掲載されている全文がほんとうに読まれたかどうかも分からんではないか、と言われそうですが、一応「ちなみに教養学部によると、公開された文章は、大河内さんの時とは違い、すべて実際に読み上げた」とのことなので、そこは信用するしかないでしょう。ミルのほうは原典あたっていません。すみません……。ただ、記憶にある内容とは一致しています。

話を戻しまして、つまるところ一次資料にあたることの重要性を説く記事が実は二次資料、あるいは三次資料であり、記事自体が多くの賛同者を得たにもかかわらずその原典なり出典元なりにきちんとアプローチをした人はおそらく結構少ない、というのがこの記事のパフォーマティブなレベルでの笑えない「オチ」ではないかと思うわけです。

こういうことを「教養」と呼ぶかどうかはさておき、実際に一次資料にあたるクセをつけるというのは、やはり相当難しいと思います。理由は主に2つあって、1つはネット情報の性質に依るもの。ネットというのはスピード感の求められるメディアなので、多少情報に誤りがあってもスピードのほうが優先されている、という側面はあるのではないでしょうか。

もう1つは、やはり人間の怠惰さ。一次資料をあたるにはなんだかんだで「ひと手間」が必要ですし、その「ひと手間」を惜しむということは多々ある。以前にも書いた気がしますが、私の記事の一部がtumblrか何かで引用されていたとき、そのtumblrで引用元として記載されている私の記事に飛んできた人は、リブログしている人の1/10にも満たないくらいの数でした。リンクをワンクリックするのでも来ないのに、自分で検索したりまして本を実際に読んだりという話になると更に厳しい気がします。

ただこのあたりのことで問題なのは、「一次資料にあたりましょう」というのが何やら高尚な、それこそ「教養」のような話だと思われていることではないでしょうか。ネットがこれだけ普及した現在、原典に、あるいは一次資料にあたるというのは「道路を渡る時は左右を確認してから渡りましょう」と同じくらいの、ごく基本的なこと、それこそ生活の知恵的なものであるべきです。

実際にできるかどうかはわかりません。正直こんな偉そうなことを書いている私も、じゅうぶんにできているとは言いがたい。むしろ手抜きまくり。道を渡るときつい飛び出してしまったり、スマホ歩きをしていてぶつかりそうになったりということがあるように、実践はなかなか伴わないものです。しかし、当たり前と思われているからこそお互い気軽に注意するし、言われた側も素直に聞き入れることができる面はあるはず。いま私たちに必要なのは、「一次資料にあたる」ということの心理的なハードルを下げて、とりあえずそれが当然だよね、という意識を広く共有できるようにすることではないかと、そんなことを思ったのでした。

あと最後、ほんとうにどうでもいい話を1つ。Yahoo!、withnewsともに見出しで使われている東大のイメージ写真。これ、「一次資料」(withnewsに出典がimasiaと記載されており、写真を検索すればこれがでてきた)だと本郷キャンパスにある安田講堂のように見えるんで、渋谷の駒場にキャンパスのある教養学部の話としてはふさわしくないのかなとか思っていたのですが、駒場の時計塔なのかな? まあ安田講堂でも、東大のシンボルということなのかもしれませんけど。(駒場祭へようこそ! と書いてあるので、駒場キャンパスの1号館の時計塔ですね。安田講堂がモチーフらしく勘違いしましたが、これこそちゃんと一次資料と対象させるべきところでした。失礼しました)

う~ん、やっぱり一次資料にあたるのってめんどくさいですね(ダメじゃん)。

新しいことへの挑戦は難しく、けれどおもしろいという話。

ちょっと私信めいた話……というかほぼ100%私信なのですが、そういうブログなのでご寛恕ください。

本日、私用でちょっとある会合に行ってきまして、まあこれまで何度か機会がありお誘いも受けていたのですが、あまり直接的なかかわりがないため敬遠したいと思ってぜんぶお断りしていました。ただ、あまり断り続けるのもアレだなという若干の申し訳なさと、一度くらい行ってみてもいいかという興味があわさって思い切って参加してきました。

すると、予想以上にフランクで気をはらずにすみ、またこれまでに知らなかった分野の世界をいろいろと知ることができた。あんまり詳しく書けない話なので抽象的でわかりにくいとは思うので恐縮ですが、ひとことで言えば非常に面白かったわけです。

お決まりの「この歳になると」なのかそれとも私の生来の性格ゆえなのかは判りませんが、どうも「新しいこと」を始めるのに躊躇いがありました。それをやることにデメリットがあるからというわけではなく、単にめんどくさい、あるいは他にやりたいこともあるし乗り気になれない。そうしてあれやこれやと言い訳をして、勝手に「どうせこんなもんだろう」と決めつけて、未知なるものへの取り組みから逃げ続けていたところがありました。

いや、いまの言い方でもちょっとカッコをつけているかなぁ。実際、怖かったんだと思います。何かよくわからないけど怖い。あるいは、わからないからこそ怖い。実際今日も現地に行く前には、「場違いじゃないかな」とか、「行ってやることあるんだろうか」とか、「数時間針のむしろじゃないのか」とか、「エロゲーやりてぇ」とか、いろいろ考えて不安になっていた。楽しみな要素ってほとんどなかったと思います。それでよく行こうという気になったもんだ……。 

結局最近の私は、その怖さみたいなのを乗り越えるエネルギーを持てないことが多かったということなのでしょう。停滞とは、そういう小さな立ち止まりの積み重ねの中で、自分に対する言い訳がどんどん上手になっていき、結果として生じるものなのかもしれません。

私にも「知らないことにどんどん挑んでみたい」と思って、考えるより即行動、みたいな時期はあったはずなのですが、新しいことにトライするというのは難しく、実際うまくいかないことも多い。だから、周りが見慣れたもので埋まってくると、自分がうまくやれること、あるいはやれそうなことを見つけてそちらに労力を傾けるほうが楽です。守りに入る、というやつですね。けど、今日その会合に行ってみて、やはり挑戦してみること、未知なるものに触れるということの面白さを思い出した気がします。

そういう気持ちになれただけでも行った甲斐はあったし、更にそこでのいろんな出会いはいまの私にとって活力を得られる有意義なものだったという確信があります。

これからは「食わず嫌い」 をできるだけやめるべく、いろんなことに挑戦していきたいなぁ。とりあえず、まずはエロゲーでやったことないブランドの作品プレイするとか、避けてたジャンルのをやってみるあたりからスタートしてみようと思います。

ブログ記事「ロジカルシンキングができない人々」を巡るあれこれ

ちょっと話題になっている記事があります。

 ▼「ロジカルシンキングができない人々【論理よりも感情が優先される国】」(生きた経済ブログ) 

自由人氏のブログ「生きた経済ブログ」 の記事ですが、BLOGSOの執筆ブロガーでもあったことからそちらに掲載され、乾燥した冬の焚き火の如く燃え上がった模様。そのままだと単なるボヤ程度で済みそうだったところ、丁寧にもご本人が追加で燃料をブチ込んだため、山火事のように燃え広がっていまだ鎮火の目処が立たないという悲惨な状況に陥っています。

記事の内容は、和歌山県紀の川市で発生した小学5年生殺害事件を受けて行われた地域の対応を批判するもので、およそ以下のようにまとめることができるでしょうか。

・ 殺人事件をうけ、事件の被害者が通っていた同学校の児童らはボランティアと警察官が見守るなか保護者同伴で登校した、という報道があった。

・しかし、こうした「事後対処」はおかしい。「、犯人が逮捕されたということは、複数犯でもない限り、その地域はもう安全になった」と言える。

・1度事件が起きた後、同じ地域で連続して凶悪犯罪が起きる可能性は限りなく低い。それは論理的に考えればわかる。

・日本(「この国」)ではこのように「論理と確率を無視し、感情だけが優先されている」ことが多くて困る。

・これは、1等がでた宝くじ屋に2匹目のドジョウを狙って人が殺到するのと同じ思考回路である。1度当たりがでた宝くじ屋で連続して当たりがでる可能性は、他の宝くじ屋で当たりがでる可能性よりずっと低くなっている。

順番に詳しく見て行きましょう。

通り魔事件や猟奇殺人事件が起こる度に、こういう報道…と言うよりも、事後対処が為されるのだが、犯人が逮捕されたということは、複数犯でもない限り、その地域はもう安全になったことを意味する。事件が発生したということもあって普段以上に物々しい雰囲気で警察官が巡回しているわけだから、日本中で最も事件が起こりにくい安全な地域になっていると言っても過言ではない。
 そんな地域で「ボランティアと警察官が見守るなか保護者同伴で登校」というのは、よく解らない。 

まずこの部分ですが、読んでいて「ん?」と思いました。氏は犯人が逮捕されたのだからその地域は安全だ、だからボランティアや警官が見守りながら登校する必要はないのだと言いつつ、安全(事件が起こりにくいこと)の理由を「普段以上に物々しい雰囲気で警察官が巡回している」ことに求めているように読めます。

普段以上に警戒しているから続く犯罪が起こりにくい。これはわかります。しかしそれなら、普段以上の警戒(ボランティアや警察官が見守るなか保護者同伴での登校)をやめたら、犯罪が起こりやすいということにならないでしょうか。

これはどういうこっちゃ、と思いながら読んでいくと、氏はこう続けます。

結局、この報道から分かることは、「犯人が逮捕されれば安全」という論理的事実と、「犯人が逮捕された地域は安全」という確率的事実が、全く無視されているということである。論理と確率を無視し、感情だけが優先されていることがよく分かる事例だと言える。

おお……。論理……。そして確率……。どうも犯人が逮捕されれば安全というのは、警備云々ではなく数学的な話のようです。私のような数学音痴には残念ながら意味が解りません。するとそれを先読みしていたのか、自由人氏の詳しい解説が。

少し話を和らげるためにも、別の例で考えてみよう。
 例えば、「宝くじ」というものでも、1等当選が出た宝くじ売場には、毎度、長蛇の列ができる。その理由はおそらく「1等当選が出た所だからまた当たるかもしれない」ということなのだろうが、よくよく考えてみると、これほど可笑しな話もない。確率的に考えれば、同じ宝くじ売場で1等当選が出る確率は最も低くなるはずだからだ。

(中略)

本来であれば、1等当選が出た宝くじ売り場は閑古鳥が鳴いて然るべきところだが、実際には逆に長蛇の列が出来上がる。このような可笑しな逆転現象が起こるということ自体が、論理や確率を無視し、感情のみが先行しているという証左でもある。

………ん? 宝くじという例は確かにわかりやすいのですが、これ、明らかにおかしい気がします。

確率的に考えれば、同じ宝くじ売場だからといって1等当選が出やすいわけではないならわかります。宝くじ1枚の当選期待値は同じですからね。しかし、「同じ宝くじ売場で1等当選が出る確率は最も低くなる」とはどういうことか……。独立事象ではない宝くじを想定しているのでしょうか?

氏はこのあと、「この国では、至るところで論理や確率よりも感情だけが優先される向きがある。その感情論に敵対した意見は、どれだけの正論であろうとも、いつも感情論に否定される」と感情論的傾向に怒りをあらわにし、「事件が発生した場所で同じような事件が発生する確率は最も低く、1等当選宝くじが出た場所で、再び1等当選が出る確率は最も低い。これは統計的な事実であり、残念ながら感情論が入り込む余地はない」と宣言します。そして、「このことが解らないというのであれば、その人物は「私はロジカルシンキングができません」と言っているに等しい」と罵倒するのですが……宝くじの例はサッパリわかりません。

本来なら前半部分にもいろいろ問題が有るとは思うのですが、和歌山の事件はあくまで話のダシというか枕であって、本論は「感情論」批判だと読めるのでそちらに絞って検討してみます。あとついでに言うと、1等当選が出た売り場で買ってる人はみんながみんなほんとに当たりが出やすいと思ってるわけではなくて、別に確率は変わらないけど縁起をかついでるだけというか、感情論というよりは信仰とかそっちに近い気もするんですがこれは氏の中で区別しないということかもしれないので、こちらもひとまず措きます。


さてこの記事、案の定あちこちからツッコミが入ったため、自由人氏は「補足」を即座に追加しました。その内容がこちら。

 例えば、サイコロを振って「1」の目が出たとして、次にサイコロを振った場合、「1」が出る確率は6分の1ですが、「2から6」の目が出る確率は6分の5です。
 
 勘の鋭い人ならもうお分かりだと思いますが、この記事で述べたかったことはそういうことです。早い話、確率を考える上での視点が違っているということです。

 個々のサイコロの目が出る確率は等しく同じですが、同じ目が続けて出る確率は同じではありません。同じ目が続く確率よりも違う目が出る確率の方が高くなるのは、サイコロの6つの目で考えても分かると思います。(この場合、5倍の差がある)

 例えば、宝くじ売場が全国に1000店舗あるとして、同じ店で続けて当選が出る確率よりも残り999の店で当選が出る確率の方が999倍高いのは火を見るより明らかです。

porna
ドドドドドドドド

間違いありません。これは、ポルナレフ召喚案件です。

サイコロを例に取ったということは、氏はこれを独立事象として考えているということです。つまり、どの宝くじ売り場で宝くじを買っても、1枚あたりの当選確率はかわらないという前提で考えて良い、ということです(もちろん、宝くじの枚数を多く仕入れている宝くじ売り場はそのぶん当たりやすくなる)。
「1等当選宝くじが出た場所で、再び1等当選が出る確率は最も低い」という部分は、正しくは、

「1等当選宝くじが出た場所で、再び1等当選が出る確率は他の宝くじ売り場(全て)よりも低い」とするべきでした。

というコメントからもうかがえるように、氏は決定的に確率の論理をとりちがえているのだと思います。

どういうことか。

氏のたとえが2通りの意味に解釈できるので、まずはそこから考えてみましょう。

「宝くじ売場が全国に1000店舗あるとして、同じ店で続けて当選が出る確率よりも残り999の店で当選が出る確率の方が999倍高いのは火を見るより明らか」という部分ですが、これは店舗1であたりがでる確率と店舗2~1000の全部であたりがでる確率だと店舗2~1000全部であたりが出る確率のほうが高い、という意味でしょうか? だとすれば、あまりにも当たり前なので議論の余地がありません。

さきの犯罪の例でいえば、和歌山県紀の川市とその他の日本全国すべての土地で比較すれば、そりゃあ和歌山県紀の川市の犯罪発生率は低いですよ。(ちなみに、単純に「999倍高い」ことにはまったくならないのですが、それはもう誤差の範囲ということで措きます)

ただもしそうだとすると、氏が言う「同じ宝くじ売場で1等当選が出る確率は最も低くなる」、つまり二度続けて犯罪が起きる確率は低くなるということの説明ができません。1度目だろうが2度目だろうが変わらず妥当することだからです。「二度目」ということが氏にとって軽い問題でないことは、まとめのところで「再び1等当選が出る確率」のように、「再び」を常につけていることからも明らかでしょう。したがって、この解釈ではおそらくない。

ではどういうことかというと、氏は次のように言いたかったのだと思います。

サイコロの1が出たあと、続けて1が出る確率は1/6 X 1/6 で1/36である。しかし、サイコロの2~5がでる確率はそれぞれ1/6である。したがって、連続して1が出る確率は、2~5が出る確率より低い。

どうでしょう。この例なら氏の言いたかったことを拾えていると思うのですが……。

ただ、言うまでもなくこれは誤りです。何が誤っているかというと、たしかにサイコロで2~5の目の出る確率は1/6が5回で5/6なのですが、それはサイコロを1回しか振らない場合ですよね。最初に1が出て、かつ次の試行で2の目の出る確率はやはり1/6 X 1/6 で1/36。同じく最初に1が出て、かつ次の試行で3の目が出る確率は1/6 X 1/6 で1/36……となるわけです。

つまり自由人氏は、「ある店で当選が出た」という前提を条件に加えた場合と加えない場合の確率を比較しているのではないか、というのが、記事を読んだ限りでの私の推測になります。宝くじの例にもどすと、店舗Aで当選が出て、かつ、店舗Bで当選が出る確率というのは、単純に店舗Bだけで当選が出る確率よりはるかに低くなります。店舗Aで当たりが出て、再度店舗Aで当たりが出る確率と比較するなら、条件を同じに揃えなければ話になりませんよねということではないでしょうか。

個別の目が出る確率は等しく同じだが、同じ目が続けて出る確率よりも違う目が出る確率の方が(数量的に考えても)圧倒的に高い。誤解を招く言葉使い(全体と個別をごっちゃに書いていた)があったことはお詫びしますが、論理的に間違ったことを書いたつもりはありません。

という締めのコメントがすべてであり、その2つは比較することに意味のない数字だ、という話です(自由人氏が私の考えるような「勘違い」をしているのかはもちろん定かではありません。あくまで推測です。ただ、いい線行ってるんじゃないかなと自画自賛しておきます)。

いや、こんなの中学高校レベルの数学の話(繰り返しになりますが、独立試行の問題)なのでいちいち説明しなくてもだいたいの人にはわかるのだと思うのですが、一度こんがらがってしまうと論理の迷宮に入りこんでしまうというのも解る気がする。

ハッキリ言うなら、この自由人氏の論理もまた感情論というかオカルトだと思います。

わかりやすくいえば、「くじ引きあたったから運を使い果たした。次は当たらないだろう」みたいなネガティブ・オカルトの発想。氏が批判しているのが「くじ引きあたったから運気が来てる。次も当たるはず!」みたいなポジティブ・オカルトだとすれば、たしかに対照的ではあるもののどちらもオカルトであることは変わらない、という感じです。対極に位置するオカルト頂上決戦。

人はえてしてこういうオカルトにそれらしい理屈をつけて納得してしまう。そういう意味ではまさに自由人氏が批判してるような感情論的な態度を自分で華麗に実践してみせてくれたわけで、(半ばネタとしてですから本意ではないでしょうが)批判そのものは成功したと言えるのかもしれません。

そして今回の件で私が興味深いと思ったのは、誤った思い込みをしてしまった人を納得させるのは極めて困難である、という点です。おそらく数学の教科書かなにかで独立試行の話をされていれば、自由人氏は簡単にこのことを飲み込めたんじゃないかと思う。しかし今回、自分の中でできあがったロジック(もどき)があったせいで、コメントでさんざん指摘されてもそれを理解できず、あさっての方向に「補足」を出してしまった。今回の件に関する「正しい論理」が何度も示されているにもかかわらず、自由人氏はそれに気づくことができなかったわけです。

これは、特に氏の能力が低いとか頑固だからだとか、そういう話ではないでしょう。私も含め、大半の人が陥る可能性のある罠だと思う。人は、自分の中にある強固な思い込みに目が曇った場合、外側から「正しさ」をつきつけられてもなかなか気づくことも認めることもできない。

だからこういう場合、「これが正しいんだ!!」と正しい論理を提示して、それを認めさせようとしてもなかなか成功しないのではないかと思います。もちろん柔軟な思考の持ち主、謙虚な思考の持ち主には有効だと思いますが、そうではない私のような凡人にはイマイチ。ではどうするかというと、相手の考えていることをしっかりなぞり、理解したうえで、ここがこう間違っている、というのを提示する。

相手が間違っていると思うのなら、自分の正しさだけを主張するのではなく、相手の議論をしっかりと理解してどこがどう間違っているかを解きほぐし、相手が内側から崩れる道を示す。そうすれば対話の道が開けるのではないか。私はそんなふうに思います。

批判ということばには相手の誤りや欠点を指摘するという意味もありますが、対象について原理的な考察を加えるという意味もあります。本当に相手のことを深く理解していれば、どこを突けば崩せるのかという欠点も、おのずと見えてくるでしょう。逆に言えば自分のことを理解していない相手からの批判というのは、「あいつは分かってないな」という逃げを打って跳ね返せるので致命傷を負うことはない。

もっとも恐ろしい批判者というのは、実は一番の理解者なのかもしれません。 

テクストの「正しい」解釈という思想について

いきなり本筋とはあまり関係のない話で恐縮ですが、今週の土曜日からセンター試験が始まります。受験生のみなさんは今頃大変な思いをされておられることでしょう。近くて遠い二次元の街から健闘を祈っています。

さて、確か昨年度だか一昨年度だかのセンター国語追試で、田島正樹『正義の哲学』から出題されていたなぁと思いだし、なんとなく読み返していました。今回とりあげるのは、その中で映画『マトリックス』を話題にした部分。『マトリックス』で主人公たちがコンピューターに夢(ヴァーチャルな世界)を見させられているということに気づき、「真実」(リアル)に目覚めた彼らが他の人間も覚醒させようとする、というおおざっぱな紹介のあと、次のように続けられています。

ここで、リアルな世界とヴァーチャルな世界を本当に区別するものがいったい何か、という問題が生じる。コンピュータと闘う人間が、コンピュータにつながって夢を見ている人間と違って現実に触れていると思えるのは、彼らがヴァーチャルな世界をいわば巨大なテクストとみなし、その任意の場所に「外」から侵入することができるからである。彼らの侵入は、テクストを切ったりつないだりする解釈的介入に他ならない。つまり彼らにとって、この日常世界は一つの夢というテクストであり、その意味を支配する魔法にかけられているようなものだ。この魔法は解かれねばならぬもの、少なくとも別の魔法によって別の意味を帯び得るもの、つまりは解釈によってまったく別様の読解も可能なものなのだ。

ここには、テクストの読解、あるいはもっと広い意味で世界の認識というものに関するある立場(合理論的な立場)からの問題がとても分かりやすく描きとられているように私には思われます。

あるテクストがあったとします。「夢」を見ている人というのは、そのテクストに関する自分の解釈が絶対的なものであることを疑っていない人のことです。そして、「真実」に目覚めた人が、その解釈の誤りを指摘する――さしあたりそんな風に読めるでしょう。

しかし、そうすると「真実」に目覚めた人は、どうして自分が見ているものが「真実」だと言えるのでしょうか? その人が見ているものもまた、もう一つの「夢」にすぎない――そんな可能性は考えられないのでしょうか? 『正義の哲学』は、そのことに踏み込んでいきます。

すると、現実の世界への覚醒と見えたものは、結局「この世界」(ヴァーチャルな世界)への解釈的介入がもたらした効果(仮象)に過ぎないと言えるのではないか? つまり、ヴァーチャルな世界を離れて、そこへと覚醒すべき確固とした現実があるわけではないのだ。 …(中略)… コンピュータの夢から覚醒した者も、それがもう一つの夢でないという確証は、それだけでは得られないだろう。

ある「夢」を相対化した。しかし、それを可能にするものもまたもう一つの「夢」でしかない。「真実」はどこにも存在しない。これが「真実」で、あれが「夢」であると断言することはできない。理論的には、どうしてもそうなってしまう。だから、「あらゆる理由は不十分であり、あらゆる推論は決断である」。

この後議論は、じゃあ世界は「真実」を放棄して無秩序な「夢」の中で没交流化していくしかないのかという問いに対し、「決断」そして「信仰」によってそれをクリアしていくしかない、という重要な話になりますが、まあその辺はひとまずおいときます。

私は上記のような考えに結構同意する立場なのですが、ここで肝心なのは相対化の視線を自分にも向けるということでしょう。お前が見ているのは「夢」だが俺が見ているのは「真実」だという主張が必ずしも誤っているとは言えませんが(「真実」である証拠がないのと同時に「真実」でないという証拠もないから)、そう主張することで生じるのはお互いに異なる神を喚び出して戦う、泥沼の宗教戦争です。

そして、この手の宗教戦争に手を染める人というのは存外少なくない。それは実際の宗教の対立だけではなく、たとえば、テクスト解釈では「作者の死」をめぐる現代日本の言説なんかの中にもよく見られます。

ここで言うテクストは主に小説(物語)のことですが、こうした思想が生まれる背景として、「作者の考え」を小説からとりだすのが「正しい」読解であるという考え方がありました。いわゆる作家論的な読みです。しかしそれは、読者の自由な読みを唯一絶対の「正しい」読みによって圧殺するものだとも言えた。「作者の死」は、作家論が捉える「作者」なるものが唯一絶対である保証など何もないと喝破し、テクストを前に可能な読みは無限にあるということを示しました。つまり、「作者」という唯一の神から読者を解き放った。

しかし、「作者」を倒すために用いられた理論というのは、同時に他のあらゆる解釈の根拠も唯一絶対ではありえないことを示すものでもありました。だから、いわゆるテクスト論に乗るなら、作家論的な読みもまた一つの読みの可能性として、平等に残されているはずです。「作者」は死ぬけれど死体は残る――神の地位から逐われたにすぎない、ということになるでしょうか。

はじめの『マトリックス』の話でいえば、すべてが「夢」として同じ地位に並んでしまうのです。にもかかわらず、「夢」から抜け出すときに仮の「真実」とみなす世界が存在するせいか、「作者」を「夢」であると指摘できる立場こそが唯一絶対の「真実」だと素朴に主張する論というのを結構見かけます。

もちろん、「作者」という神について別の神を立てて、どちらが「正しい」かを争うということ自体は可能です。だから「作者の死」には、神そのものを解釈の世界から放逐する無神論的な「作者の死」と、別の神への改宗を迫る宗教戦争的な「作者の死」という2通りの意味があるというのが適切かもしれません。

ですが、無神論的な「作者の死」の理屈を使いながら、自分は別の神を崇めているという場合があって、これは端的に矛盾というか破綻しています。そして、おそらく無神論的な解釈から解釈同士の交流の可能性を見出す道すじと、宗教戦争から解釈同士の交流の可能性を見出す(私は泥沼だと思うけれど)道すじは異なっているはずなのですが、破綻に巻き込まれるとそれが見えなくなってしまう。

結果的に、自分に都合よく相矛盾する理屈を使い分ける「無敵理論」を形成し、相手と交流するのではなく単に圧殺するだけの、もっともたちの悪い殺戮マシーンが一丁上がりとなるのではないかという危惧があります。それは、私も含めて本当に陥りやすい罠だと思う。

最初に取り上げた本のタイトルが『正義の哲学』であることも含めて、 「正しい」解釈をめぐる諸々について、いまいちどじっくりと考えてみたいなと思ったのでした。

叱るのもやさしさ

今日、お昼ごろ南北線に乗っていたら、駒込あたりで電車の中を走り回っている小学生がおり、それにお年寄りが半ギレになって注意する、という場面を見かけました。

親の教育がどうとかいう話をするつもりはないんですが、まあこの場合、子どもの方がかわいそうだよなぁと思う。本来そういう場面で「叱る」のって、親が良いんじゃないかなぁ。もしくは、兄弟とか。これは、社会的に親の責任がどうとかではなく、子どもにとって、という意味です。

私が子どもだったころを振り返ると、特に母親にめっちゃ叱られたんですが、母親に叱られるというのは最大の恐怖であると同時に、「いつか必ず許してもらえる」という妙な安心感も、どこかであったような気がします。もちろんそれは、うちの親が何度も私を叱り、何度も許す中で作り上げたものだったわけですが、「赤の他人」や「ちょっとした知り合い」だとそうはいかない。叱られたら叱られっぱなしで、許されたかどうか、はっきりと分からない場合がほとんどです。

そして、その「許し」が与えられないということは、子どもだった私には、かなり負担でした。それは私の性格的な問題なのかもしれません。統計的なデータがあるわけではありませんから。でも、私のようなちょっと内向的な人にとっては、叱られたけど許されなかったというのは、いつまでも引きずる悩みになってもおかしくないと思うのです。

だからこそ、子どもを叱るというのは親しい人、それもいつも身近にいて必ず「許し」を味わわざるをえないような人が率先してやるのが良いんじゃないかな。そんなことを常々考えています。

もちろん、最近はDVだなんだで「許し」を与えるどころかエスカレートして虐待までいっちゃったりするパターンもあるので、一概に身内万歳とは言いませんけれども、向き不向きというのはあるだろうと。

こういうのって大人になってからも同じで、誰かに注意されるのとかって、なんだかんだで立場とかのしがらみがあるわけじゃないですか。そういうのを抜きに、言いたいことを言って、でもお互いの関係が切れないという信頼が成り立っている間にある人が「叱る」のが向いているし、逆にいえばそういう間柄の人(親友でも家族でも、あるいは恋人でも)がいるというのはとても幸せなこと。

今回の子どもたちの場合、親がいなかったから仕方ないといえば仕方ないんですが、彼らの心に澱が残らないことを祈るばかりです。また、叱る方も、彼らに「許し」を与えることができないというのを念頭に、叱り方を考えても良いのかもしれません。

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対話の品性

ネットではよく、人が「怒り」を表明している姿を見かけます。

リアルでも、特に職場などでは少なからずありますが、ネットは顔が見えないぶんリミッターが外れやすいのでしょうか、やたら口汚く罵倒し、しかもその様子が支持を集め、さらなる罵倒を呼ぶ……というシーンが多い。

しかし、こういう形で罵倒をしている人を見ると、私はどうも「うっ」となる。

昨日もとりあげましたが、『ヒンシュクの達人』という本の中で、ビートたけしがこんなコメントをしていて印象的でした。

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 最近、「自分が勝った」と思った瞬間に、相手をトコトン叩きのめしてやろうという感覚の人間が増えたような気がする。自分のほうが有利だとわかった瞬間に居丈高になるんだよな。
 スキャンダルを起こした有名人をネットで批判するヤツラもそうだ。絶対安全圏から、どん底に落とすまで叩きまくる。(中略)
 人間、自分が圧倒的に優位な立場にいるときに、相手にどう振る舞うかで品性みたいなものがわかる。「溺れた犬は叩け」じゃないけど、弱ってる相手、弱い立場の相手をかさにかかっていじめるのは、とにかく下品なんだよ。
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「下品」というのは、言い得て妙というか、そうだなぁと思います。もちろんそれは一つの価値観ですから絶対に正しいとは思わないけれど、私のように気弱な人間からすれば、「あの人にはちょっと近寄らないでおこう……」と思わせるに十分な力がある。

まして、自分には無関係なことで、よく知りもしないのに相手を「断罪」し、周囲と一緒になって罵詈雑言を並べ立てている人というのは、「私が似たような状況になったら、同じようにこちらの事情も考えずに責め立てて来るんだろうな」と思わせるに十分であり、その段階で親密なお付き合いを遠慮したい気持ちになります。

勘違いしないでほしいのは、別に批判することそれ自体を悪いと言っているわけではないということです。攻撃的なことも、口が悪いことも、私としてはそこまで気にしない。私の友人や、ツイッターのタイムライン上の人で口の悪い人なんてたくさんおられるけれど、その大半は「勝負」をしている人です。反論されるかもしれないし、自分も同じように攻撃にさらされるかもしれない危険と覚悟を背負って発言している。「下品」というのはだから、本質的には言葉遣いとかの問題ではありません。

たけしのことばを借りて言えば、「絶対安全圏から」見下すような態度、自分への反論を完全にシャットアウトするような「断絶」の態度をとること。これが、私の考える「下品」さです。なぜ「下品」に感じるかというと、そのような態度はコミュニケーションの放棄であり、他人の存在を無視することに対する開き直りだから。そしてそういう態度の人は、攻撃される心配が無いので、えてして攻撃的で、乱暴なことばを用いやすいだけだろうと思います。

人は誰も、自分の枠の中でしか他人を推し量ることはできません。コミュニケーションには、おのずと限界がある、ということはわかります。しかし、だからこそというべきでしょう、自分の枠には収まらない部分があるということを常に意識し、外側へと回路を開いておくことが大切だと、私はそのように思っています。だから、その回路を自覚的であれ無自覚であれ、閉じている人は敬遠したくなる。その印象を表現すれば、「下品」というのが近い。

具体例になるでしょうか、ちょうど、こんな記事がありました。

 ▼「表面だけの正義の味方になるな」(おやじまんのだめだこりゃ日記)

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2013年11月19日
 表面だけの正義の味方になるな

友人が知人から仕入れてきた話。以下、友人からのまた聞き話だ。

詳しくは言えないけれど、俺の知人はいまクレーム対応でてんてこ舞いらしい。その知人が言うには「本人からのクレームならまだいいが、被害を被っていない人からの苦情が多くて、そっちの対応がたいへん」らしい。被害を被った人はその対応も実に紳士的なのだが、そうでない人は世の中の正義を振りかざしてくる。その姿はまるでネットイナゴそのもののようだとさ。

知人は「マスコミのスタンスってのも報道各社によってかなり違うみたい」と言っていた。物事をいろいろな角度から見て、できるだけ全体像を見せようとするところと、新聞社のくせにゴシップ的な書き方しかしないところ、その中間に位置するところと、はっきりと別れるらしい。ついでに言うと、ゴシップ的な書き方しかしないところはニュースバリューが落ちると見向きもしない。真実なんてそっちのけで、世間が騒げばそれでよしにしか見えない。そんなところがニュースを流しているし、そんな偏った報道しか見ていないんだから世の中もおかしくなるよなー、とかなんとか・・・

この話を聞きながら、俺もマスコミに踊らされて表面だけの正義の味方にならないよう気をつけないとなー、と思った次第。
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被害を受けたわけでもないのに、義憤にかられてクレームをつけてくる「表面だけの正義の味方」。これが「下品」の典型です。

彼らによって本当に対応が必要な人へのケアが遅れるとか、そういう実務上の問題もありますが、それよりなにより絶対安全圏から遠距離射程で一方的に攻撃を仕掛け、相手が倒れるのを待つという姿勢がここにある。

もちろん、本当の戦闘ならそのような戦い方にケチをつけるような野暮はしません。しかし、言論の場というのはお互いに噛み合ってナンボというか、意見を戦わせることで生産的な考えを生み出すことが目的でしょう(繰り返しますが、これは1つの信念として)。そういう場で、一方的に攻撃するバリアを張る、あるいはバリアがある状態で好き放題暴れまくるというのは、やってはいけないことではないけれど、そういう人と好んでお近づきになりたくはないですね。

とはいえ、そういう意味で品性を保ち続けるというのは実に難しいことで、私もそれができているとは到底思えない。無自覚に、あるいは自覚しながらやっていまっていることというのは多々あって、後から振り返って「あ~あ……」と恥ずかしくなること数知れずです。後悔先に立たず、後も絶たず。

だからこそ、せめてもの抵抗というか戒めというか、「まずは形から」的な意味で、なるたけ言説の場では激昂せず、落ち着いた言い方で喋りたいと思っているのですが、先日「慇懃無礼だ」とか「遠回しに回りくどいことばかり言ってバカにしているように聞こえる」みたいに言われてしまい、軽くへこんでいます。

対話って難しい。
《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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