よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

考察系

メディアのあり方の話。

ちょっと前の記事ですが、新型コロナの報道を巡って、メディアの報道姿勢を批判したこういう記事がありました。お酒を呑みながら思ったことを徒然なるままに書いてみます。

 ▼「東京都医師会、分断あおるメディアに一喝「なぜ皮肉めいた報道ばかりするのか」」(ENCOUNT)

 東京都医師会の定例記者会見が12日、都内の東京都医師会館で行われ、尾崎治夫東京都医師会会長があらためて新型コロナウイルス感染対策の徹底を声高に訴えた。

 尾崎会長は「医師会は開業医の団体だとか、何もやってこなかったと言われているが、大病院や診療所も含めてやれることを精一杯やってきたつもり。民間、大学、国公立も協力してこの難局に立ち向かっていかないといけない」と熱弁。「飲食店が悪い、医師会が悪いと分断する流れを作る方もいるが、今こそ一丸となって感染を止めるべき。感染を抑えることなくして経済の再生もない」と強く訴えた。

 さらに、質疑応答である記者から「GoTo中断や五輪開催に関して小池都知事と菅首相の間で足の引っ張り合いが起きているが……」と政策に絡めた質問が飛ぶと「私どもはあくまで医師会。評論家的に批評する立場でもなく、そんな状況でもない。誰が悪いと言ってるときではなく、知事にしても首相にしても一生懸命やっているんです! 全員で気持ちを1つにしないと乗り切れない状況にきている」と質問を一蹴。

「第1波よりもはるかに危険な状況にきている。マスコミの方も『緊急事態宣言なのに街から人は減りません』だとか『今日は1000人を切りました』だとか、なぜ皮肉めいた報道ばかりするのか。もう私たちは逃れられないところまできているんです!」と声を大にして報道姿勢を批判した。

医師会だって利権ズブズブで他人のこと偉そうに言えるのかよ、みたいな話はまあおいといて、やっぱり今の日本で「信頼できる情報ソースとしてのマスメディア」がないっていうのは厳しいなと思うんですよね。

新聞やTVが良くも悪くも大衆のものとなり、広告収入で維持されるようになった結果、やっぱり「カネになる」ことが現実問題として重視されざるを得なくなった部分があります。マスコミだって霞を食って生きてるわけではありませんから。

そうすると、スポンサーやパトロンの意向を意識した情報発信になる。また、マスメディアが「世論」を元に世の中を動かしているんだ、という不必要な驕りが出てきて、情報を正確に伝えることではなく自分たちが正しいと思う方向に世の中を動かそうとする、そういう意識でいまのメディアが動いているように見えます。

そこには、読者の判断を尊重しようとする信頼や敬意がない。自分たちの都合が優先されている。

もちろん、そうではないメディアも少数はあるのでしょうし大手メディアの中でも良心的な姿勢で臨んでいる人もいるのでしょう。しかし、全体の趨勢として、メディアは事実を報道する報道機関ではなく、思想を広報するプロパガンダ機関になって幾久しいと思っています。

こういう状況はきっとこれからも続くだろうし、やっぱりこれからは「機関」に頼るのではなく、ある程度個人での情報収集と判断決定をしていかざるを得ない時代になるんだろうなぁ……。

鬱を強制解除する話。

アタマに電気を流して鬱を治す……そんな夢(?)のようなお話が現実になりつつあるようです。

 ▼「脳に埋め込んだ電極で「うつ状態」から「喜びに満ちた状態」へ感情を移行させることに成功」(ナゾロジー)

1月18日に『Nature Medicine』に掲載された論文によれば、脳内に埋め込んだ電極で「喜びの回路」を刺激することで、難治性のうつ病が数分で改善したとのこと。

信じがたい話ですが、論文が掲載された『Nature Medicine』は権威ある『Nature』系列の科学雑誌であり、信ぴょう性は確かなようです。

しかし研究者たちは、個人差の大きな脳からどうやって「喜びの回路」をみつけたのでしょうか?

(中略)

そして今回、マッピング技術の性能を確かめるために、難治性うつ病に苦しむ36歳の女性患者に対して、はじめての試験が行われました。

その結果は、まさに驚きでした。

女性患者は覚えている限り5年間、一度も笑ったことがないほどの重いうつ病でしたが、神経マッピングによって発見された最適部位に電気刺激が行われると

「突然、心の底から本物の歓喜と多幸感を感じ、世界に色が戻ったように感じて笑みが絶えない状態に変化した」

とのこと。

この結果は脳への適切な電気刺激が、喜びの感情を強制的に起動し、うつ病に対して有効に働いたことを示します。

しかしより興味深い点は、刺激する場所によって女性患者が感じる喜びの質に違いがあったことがあげられます。


英文の方も目を通しましたが、実際に医療の現場で用いられるようになるのか、また効果がどのくらい持続するのか、萎縮した脳の働きが回復するのか、副作用はどうなのか……といった部分は置いといて、脳に電気的な信号を流したり、あるいは流した結果出てくる化学物質を投与することで感情をコントロールする、という研究がずいぶんと進んでいることにある種の感慨を抱きました。

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人間を「知覚の束」といったのは哲学者のヒュームですが、私たちが強固に信頼している自我や理性、感情といったものを究極的にはすべて化学物質の反応で説明できるのだとすれば、私たちの「人間」という感覚には大きな違いが生まれるだろうし、事実そうなりつつあります。

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少しわかりにくいかもしれないので丁寧に言いますと(この手の話が好きな人は別として)、人間の感覚・感情・思考といったものは脳の反応によって生じます。それをコントロールしている物質と、その時の脳の反応を自在にコントロールできるのだとすれば……と考えてみて下さい。

今回とりあげたニュースのように、鬱をキャンセルして多幸感をもたらすこともできるでしょうし、特定のものごとに対してやる気を出させることもできるでしょう。親や先生に従順にさせる回路、みたいなものだって発見されるかもしれません。眠くなる刺激を与えてやれば睡眠薬がわりになり得るし、逆に脳を興奮させて覚醒に導くことも難しくないはずです。また、視覚や聴覚、嗅覚と結びつく部分を刺激することで幻覚を見せることも可能かもしれない……。感情、思考、行動。そういったものを物質的な反応として説明し、制御できるようになるわけです。ある意味究極の唯物論ですね。

SF小説の古典的名著・オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』では、人びとが「ソーマ」と呼ばれる、多幸感を得られる薬を受け取って「幸せに」生きているデストピアが描かれていましたが、そういうSFチックな世界も遠くないのかな、なんてことを考えてしまいます。

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もちろんそこまでの反応が解明できるのか、できたとしてほんとうに制御できるのかはわかりません。「近代哲学の父」と呼ばれたデカルトは、世界のすべてを機械論的に説明できると信じていました。すなわち、世界の因果化関係はすべて何らかの法則にもとづく説明可能なものなので、究極のところまでいけばAという行為がどのような結果をもたらすか、完全に予測できるはずだ、と。世界は巨大な機械のようなもので、どういうことが起きればどういう反応があるのかは決まっている、というわけです。

デカルトのこうした発想から物理学が発展してきたことはあまりに有名ですが、21世紀の現代にいたり、私たちの世界は機械論的な部分とそうでない部分の差を、未だに埋めきれないでいます。むしろ、そこに埋めがたい何かがあるということがかえって鮮明になってきたとも言えるでしょう。

取り上げた記事のような研究が進み、人間の記憶や感情などがすべて電気信号として記録できるようになったとしたら――。そうなったら、「脳のコピー」を作ることができるようになるかもしれません。あるいは、ある人とまったく同じ思考をすることのできる脳をつくる、とか(理論的には可能だとしても、現実にはもちろん無理だと思います)。

ただ、そうなったとしても「私」という神秘は失われないのだろうという妙な確信もあります。スピリチュアルな話ではなく。

たとえば、「私」と「私の脳のレプリカ」があったとします。「私」が死んだとしても、その記憶は全て「私の脳のレプリカ」に移植されて次の肉体へ受け継がれる。そんな夢のような「転生」が可能になった世界を想像してみてください。

外側で生きている人間には、「私」と「私の脳のレプリカ」に違いはないのかもしれません。しかし、死んでしまう「私」は、ほんとうにそれで納得できるでしょうか? だって、「私」には、「私」の死後のことはわからないのに。あなたの記憶をすべて引き継いであなたと同じように振る舞うコピーロボットが、あなたの死後のことをすべて引き継いでくれるから安心して死んでくれ、といわれて全員が全員納得できるとは、私には思えません。少なくとも私は無理かな。

ロマン主義的な話になるけれど、その揺るぎない一回性を認めるならば、それこそ私たちが「魂」と呼ぶものの置きどころのようにも思われます。そんなふうに考えると、今回とりあげたような唯物論的な脳の研究が進むことで、最後に残る場所として人間の神秘があぶり出されてくるのかもしれませんね。

あるオタクの死。

オタクの「孤独死」を扱った記事を読みました。いろいろと考えさせられてしまった。

 ▼「好きなものに囲まれて逝った40代オタク男は「孤独死」だったのか」(NEWSポストセブン)

 高齢者の問題として話題になることが多かった「孤独死」だが、単身世帯(一人暮らし)が全年代で増えているいま、年齢を問わない問題になりつつある。そして2020年7月には、遺品整理や特殊清掃を行う株式会社ToDo-Companyから「オタクの孤独死が急増」と発表されたのを目にして、落ち着かない気持ちになった一人暮らしの人も少なくないだろう。俳人で著作家の日野百草氏が、好きなものに囲まれてこの世を去ったオタクの死について考えた。

 * * *
「葉月のやつ、まだブラウン管だったのか、最期まで変わらないな」

 限りなく埼玉に近い東京都区部、親御さんの許可をいただき見慣れたアパートの一室に入る。もう20年以上前か、このアパートでネオジオの格闘ゲームに興じたり、古いアニメを見てはああでもない、こうでもないと一晩中語り合ったのは。部屋の中は驚くほど変わっていない。時が戻ったみたいだ。このアパートの住人は、葉月くん(40代、仮名)。彼は『闘神都市』というゲームのヒロイン、瑞原葉月が好きだったので葉月にさせていただく。

(中略)

 葉月くんのような死を「孤独死」というのだそうだ。筆者は常々おかしいと思う。好きなものに囲まれて、好きな生き方をして、誰にも迷惑をかけずに生きてきたひとりの人間の死を、誰が「孤独死」と決められるというのか。葉月くんのレーザーディスクのコレクションは未開封のものが多い。コレクターは本当に大事なコレクションは開封して観る用とコレクション用の未開封とで買うものだ。当時観たから手元に置きたいだけ、というのもある。これもおかしな孤独死男性のネガティブな情報とされるのだろうか。

 好きなものに囲まれて死ぬなんて最高の幸せだ。結婚もしてないなんてとか、子どももいない人生なんてとか、普通の父親となって幸せを云々なんて葉月くんのような古参オタクには余計なお世話である。葉月くんが長生きできなかったことは残念だが、この20世紀オタクの秘密基地のような城を枕に「討ち死に」した彼の死は羨ましく思う。ましてや彼はそれを徹底できた。SNSもやらず、ソシャゲもやらず、煩わしいインターネット文化もガン無視して20世紀のオタクのまま死んだ。

 この件はコロナ禍の本格化する以前、2020年2月の話である。親御さんからはぜひ書いて欲しいと言われていたが、コロナ禍の取材や社会的な問題に取り組む中で延び延びとなってしまった。個人的に消化するのが難しいという部分もあったが、このコロナ禍、孤独死問題に関する一部記事に対しての違和感から再び筆をとった。

 緊急事態宣言が発令された4月以降、自粛の中で孤独死について多くの記事が配信された。一般的な幸福論からすれば不幸な死なのかもしれない。しかし幸福とは相対的なものではなく絶対的なものだ。葉月くんの人生は幸せだった。好きなものだけに囲まれて死んだ。健康に気をつけても心疾患は突然やってくる。もちろん事故など突然の死の可能性はきりがないが、いずれにせよ絶対的な幸福の中で死ぬなら本望だと思う。誰に孤独だ無縁だと決めつけられる謂れもない。コロナ禍は2021年も長引くだろう。独身の一人暮らしにとってさらに厳しい時代となったことは確かだ。友人や恋人がいるなら幸いだが、そうでない独身者も多いだろう。だからこそ絶対的な幸福としての大好き、が必要だ。葉月くんにはそんな大好きがいっぱいあった。

 死ぬ瞬間までオタクの城で大好きなアニメを観てたなんて最高じゃないか、なあ葉月。

まず、葉月は『闘神都市』じゃなくて『闘神都市2』のヒロインです。というのは声を大にして言っておきたい。あと、葉月が大好きだったなら彼の名前はシードにしてやれよ、と思わないでもないのですが、閑話休題。

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何というか、良い文章だなぁと思います。ただ、それは取材が行き届いているとか故人に寄り添っているとかそういうこともあるのですが、どちらかというと記事自体のクオリティの話じゃなくて、私個人にとって刺さるものがあると言いますか。ある種のオタクの心意気みたいなものを語っていて、そこに共感できる気がするんですよね。

この方(日野百草さん)は作家ですので、事実をドラマティカルに書いている部分はあるでしょう。多少の誇張やフィクションは含まれていておかしくありませんし、もしかすると「葉月くん(40代、仮名)」は実在しないかもしれません。ただそうであったとしても、私にとってのこの記事の良さがなくなりはしないのかなと思っています。

日野百草っていうと知らんわいとなりそうですけど、「新勝寺ひろ」さんとか「上崎よーいち」さんなら分かる人がいるかもしれない。昔、パソパラとかコンプティークにコラム書いてた方です。いや、「新勝寺ひろ」名義とか私も知らなくてブログ拝見して初めて知りましたけど、出自からして付け焼き刃ではなく40代のオタクの生態とか気持ちみたいなのを知っている方。そういうガチなところは文章に滲んでいて、読んでいて嫌味がないし安心感があります。

たとえば「彼は『闘神都市』というゲームのヒロイン、瑞原葉月が好きだったので」という冒頭の一句。さらっと書いていますがふつうなら出てこないフレーズです。ただ、これがあることで「あ、葉月くんはエロゲーも嗜んでおられたのね」ということが分かる。あるいは「みんな当時は永遠だと信じていたが、永遠ではなかった。永遠なんかなかった。」という部分も、往年のエロゲーマーなら「ここにあるよ」と返したくなり、実際に記事はそういう方向に進んで行く。さらっと読める文章の中に、分かる人にだけ分かればいいやという書き方を入れていく。俄仕込みではない匠の技を感じます。

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さて、この文章のキモ(キモさじゃないですよ)は、「オタクとは孤独だ」というところに尽きるのではないかと私は思っています。

ここに書かれている「葉月くん」のこだわりは、いわゆるふつうの人には理解できないでしょう。そしておそらく彼の友人たちにも、筆者にも、もちろん読者である私たちにも理解できないことはいっぱいある。オタクのこだわりなんてそんなものじゃないですか。変な話ですが、筆者がこの記事の中で発掘した遺品や「葉月くん」との思い出を語る量が増えるほどに、私には「葉月くん」の輪郭が見えにくくなりました。外在的な情報は増えているんですけど、「私が想像するこういう人じゃないんだな」ということに気づく感じ。わからないことがわかる、というやつですね。

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ただ、事実としてわかることもある。それは、亡くなった「葉月くん」は死後の自分の評価を見ることはできないということです。だから、彼が亡くなったその時、彼にとって現在の(死後の)ことは本質的なことではなかったでしょう。

1人の人間がこの世を去った。それについて生き残った私たちは、やれ幸せだったの不幸せだったの、かわいそうだの立派だったのと評価をするけれど、ぶっちゃけ自分が死んだ後の評価なんてオタクには関係ないわけです。自分が死んだらグッズを処分してほしいとかHDDをふっとばしてほしいとか、そりゃまあ確かに私も思います。でもほんとうに気になるかと言われればそこまででもない。自分が死んだら後は野となれ山となれ……みたいな意識はどっかにある。

グッズなんかを引き継ぎたいと思っている人がいるのはわかります。そういうタイプのオタクもいるでしょう。もしかすると中には「鴎外文庫」や「漱石文庫」「米沢文庫」のように自分の名前を冠した博物館を作りたいという人がいるかもしれません。しかし、おそらく「葉月くん」はそのタイプではなかたし私も違います。名誉も不名誉も、遺産も跡継ぎも、自分の後に残るものをそんなに重視はしていない。

また、40代で世を去った「葉月くん」が満足だったか無念だったかも、究極的には彼にしかわからないことです。もっと長く生きたかったのか、それとも生きづらさを感じていたのか。私たちは身勝手に想像することしかできません。

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オタク――少なくとも「葉月くん」のようなタイプのオタクにとっては自分の世界が全てです。自己完結型。この記事が浮かび上がらせるオタクの姿は、そういう孤独さだったと思うのです。ただ、それは別に悪いことじゃない。そのことをポジティブに捉え直せば、記事中の「しかし幸福とは相対的なものではなく絶対的なものだ。」という一文になるのかな、と。

オタクの人生を外から評価するな、と言っているわけではないでしょう。それならこの方の記事自体が矛盾することになります。そうではなく、ある種のオタクにとって「他人の評価なんて関係ない」のです。最期までひとり。他人から孤独だねと言われても、「そうだね。それで?」「それがいいんだよ」と返せる。

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「葉月くん」と年代も傾向も結構近しいと思われる私は、この記事をオタクの孤独を肯定するものだと読みました。孤独讃歌。おそらく「その種の」オタクはこの記事を呼んで、「葉月くん」のことではなく自分自身のことを主に考えたのではないかと思うのです。自分もこんなふうに死にたい、自分はこれだったら無念だろうな、いざというときに備えてコレクションについて遺書を書いておこうかな……etc。究極の関心事は自分のことになるタイプですから当然ですね。

私だけの世界。自分だけの城。そこで生き抜くことを肯定している。別に否定されたって良いんですけどね。肯定されようが否定されようが、孤独なオタクの生態は変わらないから。

でも同じように生きている人がいるということは、何というかその孤独を励まされているような感じがします。孤独なのに励まされるというのもおかしな話かもしれませんが、仏教だって孤独な修行の中に「同行」がいますし、同じ道を往く人がいることは心強い。そういうことにしておきましょう。

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最後の「死ぬ瞬間までオタクの城で大好きなアニメを観てたなんて最高じゃないか、なあ葉月」という1文。これはおそらく、故人の真情を勝手に慮ったものではありません。この記事はこうじゃなきゃいかんわけです。死の意味を決めるのは「葉月くん」だという宣言であると同時に、筆者から読者である「その種の」オタクに向けたメッセージであり、究極的には「その種の」オタクが自分自身に向けたメッセージなのですから。

つらい時は逃げて良い。でも、逃げてばかりではいけない。

会社の別部署の人が無断欠勤2日目になり、電話にも出ず、実家に連絡したところ休みだと偽って帰省していたことがわかりました。

何があったのかわかりませんが、そこまで辛かったなら逃げて正解でしょうり我慢したって良いことありません。三十六計逃げるに如かず、逃げるは恥でもないし役に立ちます。

しかし、家や学校で子ども相手に「逃げる」コマンドだけを教えて何でもかんでも良いことにするのはどうかなぁと思います。この歳まで生きていれば、自分にとって何一つ不自由のない環境なんてまず降ってこないということが分かってきます。選ばれし勇者ならまだしも、私のような凡人は、望まぬ環境に身を置き、望まぬ仕事をやりながら、理想とは程遠い生活を送るしかありません。

そうなった時、撤退するのは選択肢です。でも、それを続けていたらいつまでもいつまでも、逃げるしかないかもしれません。どこかで、力づくでも自分の居場所を掴み取る、そんな腕力も必要でしょう。

その挑戦を試す機会、勇気を振り絞る機会は若いうちがベターです。そうしてまた、そんな「ウザくて暑苦しいこと」を言ってくれるのは、家族が先生しかないんじゃないかと思うのです。社会人になって、個の確立したひとりの大人にそんなことをやる人はいないし、やったとしてもうまくいかない。

戦う勇気と力と方法を身につけるには、流行りの褒めて伸ばす手法だけでは(自信をつけるためにも誉めることは大切だと思いますが)ダメで、しっかりと追い込んでやることも必要なんじゃないかと思います。褒めつつ追い込む、でもちろん構わないわけですが。

ゴアテックスの革靴の罠。

個人的にですが、最近「雨用」として販売されているゴアテックスの革靴というのはあんまり雨に向いていないんじゃないかと思っています。

理由は、構造。

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ゴアテックスの革靴というのは上のように、アッパー(表面)の革、ゴアテックス、ライニング(裏地)という構造になっています。実際に横に開いてみると下のような感じ。

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つまり、アッパーの革自体は雨水にさらされてダメージを受けるわけですね。「雨用」の靴ということばのイメージからすると、雨の日に履いても足が濡れない(水が靴の中に染み込まない)だけではなく、靴が傷まない、メンテナンスが容易であるといったことも含まれているように思われがちですが、ゴアテックスシューズというのは靴のアッパー(外側)の革を守ってくれるものではないのです。靴の表面は、ふつうに雨のダメージを受ける。

いやまあ撥水加工とかしてあるのでデリケートなレザーなんかと比べれば圧倒的に水濡れに強いのはわかります。しかし、所詮は革。撥水とかンなもの1年も2年も保たないはずです。つまりは、雨靴としてガシガシ使っていると表面はすぐボロボロになる。かといって結局撥水スプレー(防水スプレー)を使うならふつうの革と変わらない。ギャグじゃないですよ。

じゃあ合皮にすればいいんでしょうか。でもそれだとゴアを挟む意味ないんですよね。もともと通気性ないから、外から水は入らないけど中の蒸気(ムレ)は追い出せるというゴアテックスの良さが活きない。というか、毛穴から水が浸透しないのでアッパーからの浸水を気にする必要がない。

そもそも論で言えば、「雨に降られた」ときアッパーの革から水が染みることってそんなにあるんでしょうか? 確かに靴の中が水で濡れる時って結構ありますけど、それは靴の革から染みた場合よりも縫い目から染みる場合のほうが圧倒的に多いと思います。セメント靴ならゴアも多少効果がありそうですが、グッドイヤーやマッケイの靴だったら縫い目をなんとかしない限り靴の中はやっぱり水浸しになるでしょう。

また、ゴアテックスの効果自体もそう何年も保つものではありません。アッパーとライニングの間に繊維を挟むという手法上、効果がなくなったからと言って新しいゴアテックスの布を入れ直すということはほぼ不可能のはずです。

そうすると、ゴア靴というのはセメントでないと真価を発揮しづらいうえ、結局アッパーの革の寿命が伸びるわけではなく、その効果に期待するならソールを貼り替えて何年も使うのには向いていない靴ということになります。

なのに高い。ここからは機能面ではなくてコスパの話になりますが、3万とか4万だせば、比較的質の良い、それこそ10年は使えるような革靴だって買えちゃうわけですよ。

たしかに、あからさまな雨靴とかゴムで通気性の悪い靴を履きたくないビジネスマンにとっては、見た目と機能をそれなりに満たしていて魅力的な部分もあるのですが、コスト的にもパフォーマンス的にも優れているとは言い難い気がするんですよね。どっちつかずというか。

というわけで、あんまりゴア靴って魅力的に見えないんですけどどうなんでしょうね。間違っているんでしょうか。詳しい人いらしたら是非教えていただきたいです。

しかしてとしかるに

先日「しかして」の話をしたのでちょっと延長線。

漢文の「しかして」と「しかるに」がわかってないどころか真逆に覚えていたことが発覚してびっくりする、という経験を昔塾で講師をしていた時に何度か経験しました。

まあ創作物とか読んでいても、「しかして」と「しかるに」を間違えて使っている人結構多いですよね。

「しかして」は、「そして」の意味ですから順接。
「しかるに」は「そうであるけれど」の意味ですから逆接。

どちらも「しか」=「そう」の意味で、「しかして」は「そうして」。「しかるに」は「そうであるのに」という話ですが、逆で使っている人がめっちゃ多い。もしかして、「しかして」を「しかし」だと思って逆接で使っているのかな? と勝手に推測しています。

中学・高校で古典をそこそこしっかり勉強していればおそらく(古文でも漢文でも)お目にかかる記述ですから、大学を受験しようかという段階になってさっぱり覚えていないのは単純に授業サボってただけかなという気もするのですが、受験で古典使わなかった人とかからすると馴染みのない表現かもしれないですね。

ちなみに「しかして」は、訳としては「そして、それから」のような訳がつきます。

sikasite

「そして、それから」!! 分かるかなぁ……。分かりますよね?

そう。『闘神都市2』のFDです。『Memories Off』の「それから」だと思った人は惜しい(それでも君を思い出すから)。

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ああ~。葉月はかわいいなぁ……。

まあ、私もそんな厳密にことばを使い切れていないので偉そうなことを言い過ぎて墓穴掘る前にやめておきましょう。

ツイートの「ウソ」が明かされる過程に見る、ツイッターの凄さと怖さの話。

他人事にあんまり首を突っ込むのもどうかと思いつつ、ちょっとした疑問が予想外の方向に転がって、ツイッターの凄さとか怖さを思い知ることになりたいへん興味深かったので、経緯もろともメモを。

ことの発端はこのツイート。

これがタイムラインで回ってきたのですが、出典はなんだろう? と。この方が続けてツイートしているのは、『日本之下層社会』でした。横山源之助の超有名作です。

ただ、『日本之下層社会』は明治32年刊行です。まえがきその他は、明治31年の記載になっていました。「明治28年」という表記はめちゃめちゃ引っかかる。それに、『日本之下層社会』ってそもそもこんな話じゃなかったような……。もっとデータみっちり、下層民のことバリバリみたいな感じで、「書生」と詐欺みたいな話題は出てくる余地がなかったような気がします。

で、気になりだすととまらない。手元の岩波文庫、国会図書館のデジタルコレクション(これ)、あと全集の目次(これ)をざっと確認しました。でも、「名の美、実の醜」なんて話はどこにも出てきません。う~ん?

文章自体は素人がすぐ書けるようなものでもないからなにかからの引用であることは間違いないにしても、これホントに『日本之下層社会』なの? という疑問と、違うのなら何からの引用なのか知りたいという欲がむくむくとわいてきました。

明治28年頃の横山は毎日新聞でルポ記事などを書いていたので、もしやそれではないかとアタリをつけてツイートをしてみます。すると、さっそくフォロワーさんからの反応が。



はお~ん、なるほど……。というか、ツイッターに投げた途端、一瞬で悩みが解決しました。持つべきものはフォロワーさん。集合知の凄さを身にしみて感じました。ありがとうございますm(_ _)m

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閑話休題、どうやら『日本之下層社会』ではなく立花雄一が横山源之助の著述を編集した『下層社会探訪集』(『下層社会探訪』という本はありませんでしたので、誤記だと思われます)からの引用だった模様。コミックシーモアのサイトから一部を無料で試し読みできたので(こちら)、目次をサーチしてみると、確かにありました。

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ただこれ、『日本之下層社会』を編集したものではありません。その前後年代の横山源之助の文章を編集したものです。『日本之下層社会』の文章も含まれていますが、それ以外のものも混ざっている。そして本文の構成や引用の仕方から見るに、スクリーンショットで引用されているのは、毎日新聞に書いていた記事ですね。

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この「同」は明らかに『毎日新聞』のことですし、「名の美、実の醜」は新聞掲載のものだった、ということでほぼ間違いなさそう。

つまり「名の美、実の醜」の文章は、『日本之下層社会』からの引用ではなく『下層社会探訪集』という本からの引用だった。ただし『下層社会探訪集』は横山源之助の著作ではなく(編者がつけたもの)、横山が毎日新聞に書いていた記事からの引用であるというのが最も適当な言い方になるでしょう。

で、そうなると今度はどうして@rikei0danshi氏がそんな不正確な引用もとを示したのかが気になるのですが……。



なんかこんな(上ツイート)話が出ていました。5chで別の人がアップロードした画像を拾って使ったのだ、と……。まあ実際に自分がその本を持っていれば手間を省くためにそういうこともあるかもしれません。ただ、事態はもうちょっとフクザツ。

というのは、5chのこの(下画像)カキコ。

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最初のツイート主 (@rikei0danshi氏) のツイートが14日の7時で、5chのスレが13日の18時。どうも5chのほうが先に同じ内容のことを書いています。田端大学、ホリエモン、イケハヤ……と内容もまんま同じですね。要は@rikei0danshi氏が5chのスレから内容を「パクった」という主張のようです。

ほんとうに@rikei0danshi氏が「パクった」のかについては、自体真偽は定かではありません。もしかすると、この書き込みをした人が@rikei0danshi氏本人かもしれない。あるいはこの前に@rikei0danshi氏が同じことを主張していて、この書き込みのほうが「パクった」のかもしれません。そこはわかんない。

ただ、この書き込みと『下層社会探訪集』の名前を書いていた5chの書き込みとIDが一致しているのはたしかです。ということは、これを5chに書いた人はこのスクリーンショットが『下層社会探訪集』からの引用だということを知っていたのは間違いありません。

プロフィールからすると@rikei0danshi氏、文筆業的なこともしておられるようなのでそんなにいい加減なことをなさるのか疑問ではあるのですが(やったら信用を失うわけですし)、出てきている情報から考えると、自分で読み、調べたものをネタとして利用したわけでないのは間違いないように思われます。本当に読んで画像の切り抜きまでしたなら、少なくとも書名を間違えるということは無いはずです。

なにかの勘違いだったとしても(勘違い説は考えにくいシチュエーションですが)、多くの人に誤った知識を植え付けているという責任は発生するでしょうか。

結果的には、「名」と「実」を主題に他人を揶揄するようなツイートをしている本人が、かえって「名」にこだわって「実」を落としているというなかなかパンチの効いた皮肉というか、攻撃力の高いブーメランになっているのかもしれません。


さて今回の件、ツイッターで発信したことで私は瞬時に自分の疑問を解消するヒントを得ました。一方で、ツイートを鵜呑みにしたせいで誤った知識(あれが『日本之下層社会』からの引用だという)を身に着けてしまった人もたくさんいます。下手をすれば、学校や大学で知ったかぶりをして大恥かくかもしれません。ンなことになったら大怪我です。ツイッターこわい。

また、ツイートがバズったせいで「事実と違うことを言っている」、「パクったかもしれない」ことが発覚しています。私はまったくこれが明らかになるプロセスに参加していませんが(5chとご本人のツイートのみで完結している)、雑にやっていたにしろ倫理観が欠如していたにしろ、狭いコミュニティの中でなら通用していたことが大きな世界にいきなり引っ張り出されて破綻する。これもまた、ツイッターの怖さと言えるのではないでしょうか。(幸か不幸か炎上案件にはなっていないのでこのままフェードアウトしそうな気もしますが。このブログの読者の方には、放火しにいく人もいないでしょうし)

私も、こんな偉そうな記事書いてますがそのうちテキトーに知ったかやらかしてブーメラン自爆する可能性が高そうです。ほんと気をつけよう……。



あと1点引っかかることがありまして。それは、「しかして」の使い方。「しかして」って順接表現なんですよね。実際横山源之助は『日本之下層社会』で「而して」を順接で使っています。

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「屑によって値段が違うとはいえ、日本紙の屑の代価は1貫目につき17銭、ボロ屑は(1貫目につき)10銭、洋紙の屑にいたっては1貫目につき7銭、薪や炭の破片は立場に持っていかず自分のものとして使い、陶器の破片のようなものは10貫目につき12銭である。そして(而して)、屑拾いが1日に拾うのは2貫目を上回ることはめったになく、たいてい1貫目と500目前後であり……」(抄訳)
てな具合ですね。他にもいくつかありますが、基本順接の接続詞として使われています。

……なのですが、「名の美、実の醜」では「しかして」が逆接のように見える。

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そのことばは美しく、その名(見かけ)は実によくみえる。しかし(しかして)、その中身を見れば、1つとしてことばの美しさに伴うものはなく、すべて言いようもなく醜く穢らわしいものであふれかえっている。(抄訳)

この「しかして」は逆接だと思うんですよ。頑張れば順接=「そして」で読めなくはないけど、かなり無理があります。

明治28年時点の横山が「しかして」を誤って使っていたのか、「しかして」を順接としても逆接としても使っているのか(そういう使い方があるのか)、編集の時点で何か変な操作が加わって誤記が生じたのか……専門家ではありませんからそこまで調べようとは思わないし実際に調べる力もないのですが、どうなんでしょう。

こっちのほうは残念ながらツイッターでは助けが得られませんでした。私、気になります。

部活動クラスターと教員の業務のムジュンの話。

島根県のサッカー部で新型コロナのクラスター感染が発生しました。その数91名。巨大クラスターです。

 ▼「島根県 強豪私立高校サッカー部員ら91人感染 クラスター発生」(NHK NEWS WEB)

松江市で新たに91人が新型コロナウイルスに感染していることが確認され、松江市と島根県は、松江市内にある私立高校で感染者の集団、クラスターが発生したと発表しました。

新たに感染が確認されたのは、松江市にある立正大淞南高校のサッカー部の学生寮で生活する男子部員80人と、自宅から通う男子部員6人、部に関係する教員2人、それに学生寮に出入りしていてすでに感染が確認されている男性の濃厚接触者3人の合わせて91人です。

このサッカー部では8日、男子部員1人の感染が確認されたため、帰省している部員を除く135人の部員全員と6人の教職員について9日検査していました。

91人の中に重症の人はおらず、部員30人が発熱やのどの痛みを訴えているということです。松江市では今後40人程度が入院して治療を受けるとしています。

松江市は10日以降、サッカー部の部員以外の全校生徒と、教職員などおよそ200人を対象にPCR検査を行うことにしています。
感染者の早期回復を祈るとともに、「犯人探し」のようなことにならないよう願うばかりですが、結局のところどれだけ警戒しても感染するときは感染するわけで、学校再開、部活動再開が実行された以上どこかでこうした事態が起きるのは避けられなかったでしょう。

もっとも今回の件の場合、ほんとうにじゅうぶんな対応をしていたのか、かなり疑問が残りそうだという声もあがっていますが、そのへんは学校側の調査待ちでしょうか……。

ともあれ学校でクラスターが発生した場合、閉鎖空間なので感染が拡大しやすいことや、若い人が罹患すると無症状のまま過ごす可能性が高くウィルスを広範囲に拡散させやすいといった問題が指摘されていますが、個人的にそのへんは学校特有の問題ではなく、どのような組織集団でも似たようなことが言えると思っています。

学校特有の問題となると、多くの場合感染者が未成年であり、感染を防ぐ管理責任が「学校」にある、あるいは「教員」にある、ということでしょう。

おそらく、学校の安全配慮義務であるとかそういったものが問われることになると思います。また、考えたくないことではありますが、万一重症化して後遺症がのこったり死者が出た場合は、訴訟沙汰も考えられるわけです。その場合、責任の所在は誰になるのでしょうか?

部活動であれば顧問だ、と考えるのがふつうでしょう。しかし、あんまり世間一般には知られていないことだと思うのですが、私の知る限り私立の学校で部活動が教員の「業務」として正当に扱われている学校というのは非常に少ないのです。

どういうことか。ちょっと下の記事を御覧ください。

 ▼「【学校の働き方改革】「部活動は労働時間」私立高校に対し是正勧告が行われました」(打刻ファースト)

学校の働き方改革を阻む要因となる課題のひとつに、「部活動の在り方」があります。
部活動における指導は教員による自発的行為なのか、それとも労働時間に該当するのかといった議論に、このたび、一つの結論が下されました。(中略)

学校関係者の皆様であればすでにご存じの通り、現行の学校指導要領や中央教育審議会の働き方改革答申によると、

・部活動は教育課程外に実施される教育活動の一つである
・学校の業務ではあるが、教員の仕事ではない
・顧問就任は業務命令ではなく、あくまで「依頼」のレベル

とされています。

つまり、部活動に教員が関わることは、業務外の自発的な行為と認識されています。
しかしながら、現状、どの学校でも教員が何らかの部活動を受け持つことが半ば強制となっていることから、

「業務ではない(労働時間として認められない)」
「しかし拒否できない(労働せざるを得ない)」

という矛盾が、教員の働き方改革推進を阻んできました。

まあ要するに、部活ってのは教員のボランティアだったわけです。自分が学生の頃は全然そんなこと知りませんでしたし、今の学生さんやその親御さんなんかでも、そのように認識している人は少ないんじゃないかなぁ……。

ですから、部活動の指導にお金は支払われないとか、休日に練習試合や公式戦があっても交通費すら出ない、なんていう話もザラにあったようです。というか、現在もあると聞いています。外野からすればそんなバカなっていう感じですが、複数の教育関係者に聞くと、私立の学校だと案外ふつうみたいなんですよね……。ひえぇ。

国公立の学校はさすがにこれを是正して、部活動を業務と認めていくらかの手当がでるようになりました。しかし、そうすると「労働基準法」との兼ね合いが出てきます。朝練、夜も遅くまで練習、休みはほぼナシでトレーニング……みたいな「強豪校」のテンプレ練習スタイルは許されないわけです。だって、労働だから。国公立の学校はこのため、日曜日の練習も自由にできなくなったし練習試合の参加数にも制限がかかったと聞き及んでいます。

私立の学校からすれば、これは問題です。公立の学校のように近所に住んでいる人だけが来ているわけではない。下手をすれば片道1時間とかかかる距離から通う学生もいるのですから、平日はンな大量の練習時間を確保できない。土日祝日の練習はかなり貴重です。これが「業務」として規制されてしまうと、部の活動に相当なダメージです。

また、お金の問題も深刻です。多くの教員に正当な「残業代」を支払うことになると、私立の学校経営は成り立たなくなる可能性があります。じゃあどうするかというと、実際にいくつかの学校で行われたのは、全体のベース賃金を下げるんだそうです。いままで月給30万だったのを、28万にして浮いた分を顧問の手当に回す。そんな感じ。

当然、さまざまな理由から給料が下がる教員からは凄い反発が来るでしょう。また、学校としても無限にお金を払い続けられるわけではないので、やはり部活動の活動時間制限みたいなものがつきます。それは労働環境として正当なものではあるのかもしれませんが、なかなかすんなり受け入れられるわけもなく、現状部活動については正式な学校業務、という扱いにはなっていない私立学校は結構多いようです。

今回の、この松江市のサッカー強豪校で部活動の扱いがどのようになっているのか、私は与り知ることができませんが、責任の所在が不明瞭なまま部活動を再開している学校は多いはずです。そして、教員がボランティアで生徒児童を集めて部活動をやっているという扱いなら、そこでクラスター感染が起きた、後遺症が残った等の場合に学校側が責任をとらない可能性もあるはずです。

実際にそんなことになるのかはわかりません(もし教員を切り捨てたら、今後学校に従う教員がいなくなりそうですから)。しかし原理的にはありえる話なわけで、学校側が守ってくれないかもしれないと考えておいたほうが教員のみなさんとしては安全なんじゃないかなぁと思ったりもするわけです。

そうすると、この状況下で部活再開するのってリスクしかない気がするんですけど、そもそもの原因は教員の業務ではないと定めている部活動が学校活動の一貫として認められているというわけのわからない規定にあるんじゃないかと思います。

これを正式な業務としたら教員の身体がもたないとか(任命された場合に拒否ができなくなる)、逆に学校活動から除外すると生徒児童がかわいそうだとか、いろんな話があって一筋縄にはいかないのはわかるんですが、まず「部活って何なの?」というのをハッキリさせてから学校生活に取り入れるのが先決なんじゃないんですかね。

Withコロナ、アフターコロナの中で、これまで曖昧なまま「なあなあ」で済まされてきたそういう制度的な部分もきっちり詰めて変化させることが必要なんじゃないかなぁと、記事をみていてぼんやり思いました。

Twitterの対話は難しいという話。

キーボードを叩きながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。マジに返せば流される。ネタに走ればクソリプだ。とかくにTwitterはやりにくい……。

というわけで、本日は自分のTwitter体験語り。仕事の話するより「引用」ができてしまうぶんこちらのほうが緊張しますね。

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先日下のようなことを呟いたところ、「コロナなど存在しないのだ」というニュアンスの(これも私の解釈ですが)お叱りを受けまして、何らかの返答を試みてはみたものの、結論から言うと難しさを痛感したというストーリーになります。

あくまでも私視点の一方的な語りになりますとお断りした上で、時系列で。


まずこのツイートに対して、フォロワーさんからリプライが来ました。私のツイート自体問題だらけじゃねーかというツッコミがある方もおられるかと思いますが、ちょいと目をつぶっていただけると幸いです。

これに対し、私もリプライを返しました。いきなり乱暴な言葉づかいだったのでちょっとムッとしていたのはここだけの話です。

私は「PCR検査数は10倍くらいに増えとる」の意味がわからなかったので、自分が言った「ちょい前まで100人台だった」という表現が誤解されているのかなと勝手に解釈して、その説明をしました。今にして思えば「10倍ってどういうことですか?」と聞けばよかったのかもしれませんが、Twitterだとそういう応答に凄い時間がかかる(リアルタイムではないから)場合があって面倒なんですよね……。

結果的にこれは、まったく的はずれな回答でした。こーへいさんは「こいつ何言ってるんだ?」と思われたことでしょう。スミマセン。

次に、この手の話題になると「陽性率」が取り沙汰されて、それを根拠に「陽性率があがっているのがヤバいんだ」という論法を使う場合があるけど(NHKの報道によれば、東京は6月22日の週の2.5%から、7月20日の週は7.7%に上昇している)、私はその立場はとらないということを表明しておきます。

ちょっと前は私も陽性率問題にしていたし実際論の補強に使えなくはないんですが、無作為抽出の陽性率ではないので簡単には使えないという判断です。

それから、「まったくマシではない」という考えの根拠を説明しました。ここは私の主観なので賛否わかれるところだとは思いますが、PCR検査数が増えていようがいまいが、数が増えていることがはっきりわかっていること、そしてその数の最低ラインが長期的に見て下がっていないことが問題なのだ、という主張をしたつもりです。

これはまあ、これ以上の話ではありませんね。

最後に「こちらは以上ですが何かありますか?」というボールを投げて、キャッチボールの意思があることを示しました。

と、こんな感じ。人によっては慇懃無礼だと言われるかもしれませんし、いきなり罵倒されたので私も意地になって丁寧な表現を使ったところはあるのですが、ことばが足りなくて意思疎通ができていなかったと考えたので極力行間を埋めきった返答を心がけたつもりでした。

そういうこちらの働きかけに対し、先方からは特に説明無く画像のリプが来ます。

Σ(゚д゚ )え、こんだけ!? まずは見たけど次はないパターンっすか。要求コミュ力高いなぁ……。

これ正直かなり解釈に苦労しましたが、書かれている英文とGoogle画像検索で出てくるこの画像の使われ方を調べた結果、だいたいこういうことかな? という線でリプライを飛ばしました。この前、意図を質問しなかった反省を即座に反映させたんだぜ……フフフ。


どうやら正解だったようです。やったぜ!


しかし、このやり取りが続くとこちらとしても相手の考えをきちんと解釈しきれる自信がないし、いわゆる陰謀論的なストーリーを念頭に置いている人に対してこれ以上話せることも無いなと思ったのでお別れを告げました。


ところが翌日になって、追加で再リプが来ます。時間ができてこちらのリプライをきちんと読んでくださったということなんでしょうか。ありがたいことです。


……ただ、正直最初何を仰っているのかわかりませんでした。

画像を見て、「10倍」の解釈が違うのかな、ということがようやく理解できた気がしたので、こんな返信をしました。


どうでしょう。たぶん、そんなに間違っていないと思うのですが……。

140字でうまく書ききれているかわかりませんが、比較対象の取り違えですね。私はPCR検査数が「昔と比べて今は」10倍になっていると考えていたのに対し、こーへいさんは「感染者数に対して」10倍だと言っているつもりであった、と。

この解釈で正しいなら、要するに陽性率を逆向きに表現しているということだと思います。そして、私は陽性率の話を避けたことが完全にスルーされた(または伝わっていない)気がしますし、陽性率の話をするなら今は上がっている(つまり、感染者数:検査数 の比率の差が小さくなっている)のだから問題は深刻化していると受け取らねばならないはずなのですが、そういう解釈をしていないということは、また互いの「見えない前提」が理解を妨げている感じがします(勝手な想像ですが、3月とか4月段階の陽性率を想定しておられるのかなぁ? でも最初の文脈的にそれは無理だし……と、ちょっとよくわかりません)。

あと、もう1つリプライが来ていました。

正直に言うと、これで心が折れました。

このパンフのおかしなところを1つ1つ取り出していくことは可能なのでしょうし、実際にいくつかはすぐにでもできます。たとえば1つ目の下線が引いてあるものはPCR検査そのもののはなしではなく、市販のキット(話題になった楽天とかのやつ)に関する言及です。また新型コロナウィルスの存在自体はWHOや種々の医学論文によって(未査読のものではない)存在が確認されていますし、「Aは証明されていない、だからBだ」という飛躍のある論法が使われています。また、根拠として挙げているものの多くが同じ団体が主張している内容で、マッチポンプ的です。

他にも、キャリー・マリスの発言についてはロイターのファクトチェックが入っていて、「誤解」であると宣言されています(これも精確に読むのが難しい記事ではあるのですが、話題になっているPCRの問題というのは、感染力があるウィルスとそうでないウィルスを区別できない、という話だという内容ですね。あと言った人間がそもそも違うっていう話)。

しかし、私程度がきちんと検証できることには限度がありますし、あくまで自分が実験したりデータをとったことではなく信頼できると一般に考えられていることからの「孫引き」的な参照が精一杯です。それでは、「信頼できると考えているモノ」の全体が違うこの方には通用しないだろうなというのはわかっていました。

実際、先のロイターのファク著チェックに対して、お相手は完全に否定的な姿勢を貫いています。(ちなみにこのロイターの記事ツイートに対する「反論」は他の方のものも相当数ぶら下がっていて「はぅ」となります)

過去のツイートを遡ると、同じ画像を常に相手の方に突きつけているので、これが「真実」であるというスタンスは揺るぎないものなのでしょう。

何が事実で何が真実かは現在進行系で揺らいでいる、という立場の私と相性が悪いですし、ここから意見をすり合わせていくのは相当な困難が予想されます。また、連日の猛暑もあってそれだけのコストをかける気力がわきません。

加えて、私のようにクドクドとした説明、回りくどいやりとりを望んでおられない感じがあったことも二の足を踏ませる原因となりました。先方のリプライはいつも端的で、そのぶん解釈の余地が多くなりがちなのですが、こちらにもシンプルな内容の提示を求められているんだろうなと。ダラダラした文章は不適切かもしれない。そう考えると、言える内容が思いつかなくなり……。

おざなりですが、こんな風に返すのがやっとでした。


参りましたとシャッポを脱ぐのも業腹ですし、この内容に対して無条件降伏はしちゃいかんだろうという思いはあったのですが、さりとて気の利いたことも言えず。

どうすればよかったのかはもちろん、そもそも攻略ルートが存在していたのかどうかもわかりませんが、Twitter上での意見のやりとりはホント難しいなと思いました。

いや、対面でも難しいし論文読んでディスカッション云々でも難しいんでしょう。

ただそれはあくまで、「話を聞く難しさ」「解釈する難しさ」「正確に伝える難しさ」みたいな、コミュニケーション一般に根ざす困難です。Twitterの場合はそこに加えて、即応性に乏しい、140文字しか書けない、持っている前提や思想が全然違う人とのコミュニケーションが発生しやすいという環境的な要因が過剰に加わってくる感じがあります。

対話をしていこうっていうポストモダン以降の学びや意思決定の立場からすると、こういう場面と向き合い続けていかなきゃならないんでしょうけど、ホントこれどうやって向き合い続ければ良いんでしょうね。個別の教育、特に義務教育を充実させて批判精神ならびに相互理解の精神を醸成するとか、そんなお題目は思いつくんですけど、具体的に何をすれば良いのかはわかりません。もっと全然違うアプローチが必要なんでしょうか?

そんなことを考えながら、私は茫然として流れ行くタイムラインを見送っていたのでした。

ツイッターキャンペーンの謎。

ツイッターキャンペーンというのがあります。私、あれでどうやって「抽選」をしているのかがずっと気になっているんですが誰かご存じの方おられるでしょうか……?

まあ「ツイッターのアイコンを変更」「ツイッターのヘッダーを変更」系のやつは、キャンペーン参加時に自分のアカウントをメールで送りますので、参加者全員の中から抽選というのはわかります。わかんないのは、「このアカウントをフォロー&このツイートをリツイート」系のやつ。

RT


残念ながら私は自分のツイートが何千RTもされたことがないので間違っているかもしれませんが、あるツイートを誰がリツイートしているか、全員を把握することってデフォのクライアントで可能なんでしょうか……? 他人のツイートに関して言えば、タイムラインに流れてくる何千RTの「RT数」をクリックしても、RTした人全員を確認することはできないと思います。たぶん50人くらいで表示上限になるはず。ちゃんと数えてないけど。

ちゃんとカウントしているとすると、外部アプリとして「ツイポーート」とかを使うのでしょうか。

▼「ツイポーート/twport

それで全部表示&カウントされているなら良いのですが、たとえば「1日のある時間に定期的に区切ってカウントしている」とか、「最初から恣意的に選択している」という可能性ももちろんあるわけです。いやまあ、それでも「抽選」であることに間違いはないし、雑誌やテレビの抽選なんかもそういう意味じゃ変わらないんですけれども、「ツイポーート」のような外部アプリを利用している場合、「応募したけれど表示されているかわからない」みたいな可能性もあるわけで、どういうかたちで参加者が管理されているのかは若干気になっています。

結局ブラックボックスでしかないから、知ってどうこうできるわけでもないんですけどね。
《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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