よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

考察 (言説の方法論)

理由付けの罠

カテゴリをエロゲーにするか一般にするか迷ったんですが、エロゲーじゃなくても通じる話だろうということで一般系に分類。毎度カテゴリにはそんなに気を使ってるわけじゃないんで、悩む意味あるのかというセルフツッコミはおいといて。

自分の意見を、ちゃんと理由もつけて説明するのって難しいよね、という話です。

ことの発端は、あるエロゲーに対する評価として、「エロゲーなんかやらない一般人もやってるから凄い」という褒め方をするのが妥当かどうか、というような話。こういう「褒め方」は、言いたいことは分かるんですけど、確かに微妙な気もしてくる。

たとえば、「この学校は偏差値の高い人だけでなく低い人も入れるから凄い」とか、「この大会は記録の高い人だけでなく低い人も参加できるから凄い」のようには、ふつう言いません。「AだけでなくBも」という場合、重点は「B」の側に置かれるものです。つまり、「一般人もやるから凄い」というのは、一般人のほうが上だと思っているからできる言い方であって、自動的にエロゲーマーを見下していることになるのではないか――。これが、「エロゲーなんかやらない一般人もやってるのが凄い」に反発する人の主張であろうと思われます。

ただ、褒めたい人の気持ちもわかる。これまた譬えを持ち出すと、「プロだけでなくアマチュアにもひらかれている大会だから良い」とか、「専門家だけでなく素人が読んでもよくわかる」というのは、褒め言葉として成立しています。この場合、「AだけでなくB」の「B」を出すことで示されるのは間口の広さ。それが価値として扱われている。

このように解釈がわかれるのは、「エロゲーにとって一般人もやっているというのはどんな風にいいことなの?」ということが分からないからでしょう。少なくとも明示されてはいないし、一般通念として成立しているわけでもない。「凄い」とか「良い」というなら、どんな人にとって、どういう意味で価値があるのかを示さないと、内容のないスカスカの発言になってしまう。こうした具体性の欠如は、論述としては失敗です。

しかし、分かっていてもこの手の「失敗」を避けるのは難しい。私も、とにかく気をつけよう気をつけようと思っているのになかなか実態が伴いません。また、他の人の発言や文章を読んでいても、同じように感じることが多い。原因はおそらく、私たちは、ある価値判断(この場合、「良い」か「悪い」か)に対して、根拠(「一般人もやっている」から)を示せばそれで説明した/説明された気になってしまうからです。


ちょっと具体例として、『天色*アイルノーツ』に対する批判の話をとりあげてみます。単に自分が感想書き終わったので他の方のを読んでいたというだけの理由で恐縮ですが……。

網羅的にレビューを見ているわけではないので、果たして世間的な流行なのかどうなのかはわかりかねるものの、「エロゲー批評空間」さんの投稿記事を見ていると、「世界設定に意味が無い」というツッコミが凄く多い。「空を飛ぶ島にした意味がない」とか、「異世界設定の意味がない」とかです。

これは、「面白くなかった」という価値判断に対して、「世界設定に意味が無いから」という理由が述べられているわけですが、こう問うてみることはできるでしょう。それの、何がダメなんですか? と。いや、喧嘩売ってるわけじゃなくて、純粋な疑問として。

そもそもここで言われている「意味」というのは、どういうことなのか。

作中の機能を言えば、舞台がファンタジーな「空島」であるというのはある程度の役割を担っています。主人公が「全くの新天地」に行くこと、や、「大した技能のない一般人でも特別な存在になれる」ことなどが端的な例ですかね。まあその辺の機能は、確かに他の設定でも代用可能だろうとは思います。しかし、だからといってファンタジー設定にしてはいけない、という理由も無いはずです。異様に複雑でわかりにくい設定でもありませんし。

あと、エルフや獣耳を出す、あるいは「魔石」による意思疎通の話なんかはファンタジーでなければできないことです(現代日本の枠で無理くりやろうとすると、前者はコスプレ、後者は嘘発見器かテレパシーになるんでしょうか)。つまり、必要はある設定なわけです。(その意味で「意味」はある)

じゃあ、「意味が無い」とはどういうことなのか。「意味」ではなく「必然性がない」のように言っている人もいまして、そういうことかも知れません。どうしてもそうでなければならない、強い理由ですね。設定と物語の間に、強固な結びつきが無い、という。

ただそれならそれで、『アイルノーツ』は「世界設定に必然性が無い」から面白くない(評価が低くなる)のはなぜか、きちんと説明してほしい。世界設定に必然性が無いというのは、どのような「悪さ」なのかが気になります。

だって実際問題、「世界設定に必然性が無い」ことは、それほど大きな問題なのでしょうか? たとえば神奈川県在住の主人公がいたとして、「神奈川である必然性」が無いから面白く無い、というツッコミを入れる人は、おそらくそう多くないと思われます。

また、SFのように、 世界の全貌や特殊な能力のメカニズムが整合的に明らかにされるとスッキリする作品、というのはありますが、そうでなければ駄作、というのはまた別の話です。特にファンタジーは、「はじめからそういうモノ」というお約束で始められることが多いので、設定にツッコミ入れるのは無粋、という人もいますよね。

「世界設定に意味が無い」ことが良くないとして、それは誰にとってどんな風に良くないのか――作品にとって良くないのか、《私》にとって良くないのか。《私》にとって良くないのなら、それはどう良くないのか。また、《私》以外の人にも通用するような良くなさなのか、それとも《私》に固有のひっかかりなのか――説明が必要なのはこのあたりでしょう。

私の個人的な見解を言えば、「意味がない」も「必然性がない」も、言いたいことがズレている気がします。たぶん、そういう客観的な物語構造(を想起させる類)の話ではない。「世界設定に意味が無い」という理由付けをしている人のレビューを読むと、その大半は、「世界設定に不自然さを感じる」と言い換えたほうが、ぴったりくるように見える。設定があまりにもご都合主義的で制作側の意図が透けて見えて萎えるとか、そういうことではないか、と。それなら、《私》が物語に没頭できないという意味でマイナス評価になる、というのは理解できるように思われます。

私の「憶測」が妥当なら、「意味」やら「必然性」というのは、理由付けとして失敗している。あるいは私の読みが全くの見当はずれであったとしても、「世界設定に意味(必然性)が無い」から「面白くない」というのは、実はよくわからない(きわめて説明不足な)記述であることは言えるハズ。

いずれにしてもこの件の抱える面倒くささというか不明瞭さは、「一般人もやるエロゲーは凄い」発言同様、何がどう凄いのか、という結論の具体性が欠如していることに由来するものだと言えましょう。


理由付けと内容がずれていてわかりづらいだけならまだ良いのですが、褒めたい/けなしたい内容の具体性を検討せずちぐはぐな理由をつけたがために、全体がコケてしまう、というのもあります。

一番わかりやすいのは、「こういう試みは初めて見たので凄い」みたいなパターン。「いや、これより前に同じことをしてるのあるから……」と言われたら終わりです。歴史モノの漫画なんかにありがちなのは、「史実をきちんと踏まえている」から良い、という評価で、これも「いや、史実と違うこと言ってるよ……」と言われてしまうとアウト。

いやぁ、私がよくやっちゃうんですよ。『キングダム』とか『センゴク』を褒める時に、「史実をよく踏まえてるし……」みたいな言い方。でもよくよく考えると、史実踏まえて無くても面白い歴史モノの作品っていっぱいあるし、『キングダム』や『センゴク』が、史実の裏付けと違うことをやっていたとしても、面白さが損なわれるとは思えない。私が「史実を踏まえている」ということで褒めたかった部分って、たぶん理由付けと合致してないんですよね。

ところが、本当の面白さはそこじゃないと思っていても、手っ取り早く権威付けできたり褒める要素になるからと思ってそれらしい理由をつける。そしてそれがために、言いたかった結論のほうが変質してしまう。突っ込みどころ満載の、「言いたかったことと全然違う評価」の一丁上がりです。気をつけないといけません。


以下、私の経験談になりますが、私は自分の中の「形になっていない想い」を表現しようとしてことばをを使うのだけれど、そのときに、どうしても「テキトー」なことばにしてしまいがちです。「面白かった」とか「興奮した」とか。なんとでもとれる、中身の無いことばに。

不思議なことに、ことばにしてしまうとそれで自分の感情は言いとれたような気持ちになる。ことばに感情が引っ張られるとでも言いましょうか。

でも、どこかでそのことばに不信感も持っている。そこで、その「テキトー」なことばに対して理由付けをする。そうやって曖昧さをごまかそうとするんですが、その時肝心のことばの側がきちんと定まったものではないので、理由のほうもきちんとした対応関係を考えずに喋ってしまう。まあ、とりあえず何かそれらしい理由ついてりゃいいだろみたいなノリで。

そして、理由がそれらしければそれらしいほど、「ちゃんと理由がついたんだから、自分はことばで適切に感情を表現したに違いない」とか考えちゃうんだと思います。自分で納得しちゃうんですね。

自分の意見の表現の失敗を防ぐためにも、考えをなるべく精確に、慎重にことばにするよう心がけたいとは思っているのですが、そんなこんなでなかなか難しい。練習と反省あるのみなのはわかりますよ。ただ、自分ではなかなか気付けないことですからねぇ。まあだからこそ読者の眼というのは貴重であり、その眼を確保できる場があることは、とてもありがたいことだと感じる次第です。

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作品に内在するという話

文学でも映画でもエロゲーでもいいんですが、ある作品を鑑賞する立場として、「作品内在」ということが時々言われます。まあ「内在」ということばそのものは、やや水ぶくれ気味になっていて明確な定義が難しいことばなのですが、要は、物語の登場人物たちの立場を踏まえた上で鑑賞しよう、というくらいの意味で良いかと思います。歴史的には、作家論の流行や、それに対する「内在批評」の展開といった背景があり、どちらかと言えば既存の鑑賞形式を「外在」として纏めあげて、それらに対抗するために言われ始めた語という感があり、それだけに、敵に応じて「内在」の意味も揺れ動く、そういうタイプの語ですかね。

で、私自身は比較的この「内在」という態度が好き……というか極端な「外在」的態度があまり好きではないせいで、頻繁に「内在」ということを言います。

私の言う「外在」とは、たとえば、女の子を賭けて決闘する物語を読んで「女性をモノのように扱うとはけしからん」と言い出したり、愛していた恋人が死んだことを嘆いて自ら命を断つ登場人物に対して「自殺は不道徳だからけしからん」と言ってみたり……。まあそういう、作品に描かれている内容そっちのけで、自分の立場からしかものごとを見ないような、そういう態度です。

で、「外在」はあんまり面白くないから「内在」を心がけたいよね、みたいな話をしていたら、ある友人が「その割にOYOYOくんは分析とか何とか言って、素直に読まないよね」みたいなことを言われまして。もう一人その場にいた友人にもうなずかれてしまいました。

それを聞いて、「ああ、やっぱりなぁ」と思いました。どうも「内在」というのは、自然で素朴な読み、のように思われているフシがある。たとえば、自分がそのキャラになりきって、心情を代弁するような。でも、そうではありません。

確かに、私は頭でっかちなことを言うし、物語に対してもそうすることがままあるのですが、そのことは基本、「内在」的であることとバッティングしません。

たとえばシェイクスピアの劇を観て、劇に「内在」するためには、16世紀ごろのヨーロッパの文化や常識を、ある程度知らねばならないでしょう。ハリウッド映画でも、中国の古典でも同じことです。ある世界の中に入っていくためには、その世界についての知識や何やらが、当然必要になる。

いや、そんなことはない。そういう物語には、人間の普遍的な感情が描かれていて、だからいま現在の自分が感じた自然で素直な感情のままに読めば良いのだ、という人がいるかもしれません。しかし、私はそういう態度こそが、「外在」的な態度の極致ではないかと思う。なぜなら、ある物語に「普遍的な」感情が描かれていると簡単に言ってしまうということは(その前提で読むということは)、その物語の世界はただの仕掛け(手段)にすぎなくて、他の物語でも代替可能だと――つまりその物語世界は「不要」だと――言っているのに等しいからです。物語の内にはいるなら、そんなことを言えようはずがない。

「外在」的な読みを支えるのはおそらく、知識ではなく共感です。私にとっての常識が、同時代の他の人たちにも、そして当然、場所も時代も異なる物語世界の内部にも、通じるはずだという意識。そういう共感への無批判な信頼に根ざしている。

あるいは全く逆で、そもそも意思疎通など不可能だという諦めに基づいている場合もあります。読み取るなんて不可能だから、それなら勝手に押し付けても良いだろうという開き直り。

このどちらかによって、外在的な読みは成立するのでしょう。行き着く先は、「私はそう思うから」という根拠で、「私はそう読みたいから」という読みを、作品に押し付ける態度です。まあ私はやっぱりあんまり好きじゃないし、面白いとも思いません。

これが、作品でなく人間だったらどうでしょう? たとえばあなたが、目に砂が入って泣いていたとします。それを見た誰かが、「あいつは涙を流している。私は悲しい時に涙を流すから、あいつも悲しいことがあったにちがいない」とか言い出したら、「何じゃそりゃ」と思うでしょう。求められるのは、人間が涙をながすシチュエーションに対する知識と、周囲の状況(風が吹いている、砂が舞っている等)への分析です。

心理にしても同じことで、態度のひとつひとつ、言葉遣いのひとつひとつから、丁寧に拾い上げていくしかない。「内在」というのはだから、誰でもが理解できるような客観性を示し、つきつめていくのと似ている。目の前の対象を、あくまで自分と違うものだと考えて、それにアプローチを仕掛けていくわけです。あの人はこういう態度をとって、こういう発言をして、日頃はこういうことを言っているそうだから……っていう感じで。

その結果、対象本人が気づかなかったような心理が出てくることもあるかもしれません。ほら、あるじゃないですか。他人から言われて自分のクセに気づくとか、自分の気持ちに気づくとか。それは、読み手の解釈を押し付けているのではなくて、対象の側から見えなかったものを引っぱり出しているわけです。

もちろん、「内在」というのは完璧に行うことは不可能です。なぜなら、対象はあくまで対象でしかなく、「自分」になることは無いのですから。しかしだからこそ、そこで安易に自分と対象を重ねたり、「どうせ分からない」と開き直ったりせず、踏みとどまって考えるということは、その相手を本当に大事にしている(認めている)のだとも言える。

自分と違うものがある、ということを認めた上で、そこに何とか近づこうとする試み。それこそが「内在」するということの本質的な意味(あるいは目指すべきところ)であり、そのために必要なのは、決して単純な共感のようなものではないと、私は思っています。

……ま、自分にできるかどうかはこの際おいておきまして、ですけれども。

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心情描写のことば選び

「 二人でいるときの沈黙は、やはり気になった。あまりに沈黙が長いと、なんだか申し訳なくなってしまう。食事が終わって短い会話を交わしたあと、沈黙に耐えられなくなると、わたしは黙って席をはずすか、テレビに集中しているふうに目を凝らすか、横たわって眠いふりなどをする。」

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青山七恵『ひとり日和』、序盤のワンシーンから引用しました。うまいなぁ、と思う。文章が巧いかとかそういうことはわからないけれど、心情描写として、とても丁寧に見える。

ここでの「わたし」の気持ちを説明せよ――そんな問題が「現代文」で出たとしたら、私はお腹を抱えて笑うかもしれません。無粋極まりない。だって、説明できないから、こんなにも丁寧に描いているわけでしょうに。

「申し訳ない」というのは、「わたし」の気持ちではありません。いや、もちろん多少思っていることは思っているのでしょうが、気持ちのすべてではない。また、あくまでこの時の相手(下宿先のおばあさん)に対する感情であって、「わたし」が「わたし」自身に向ける真情としてはふさわしくない。

しかし、「所在ない」だとか「居心地が悪い」のように、何か感情をあらわすことばで言いとってみたところで、引用した上の文章で描かれている感情に、届くとは到底思えません。

以前このブログで、心情描写が直接的すぎる物語の話をしましたが、直接的な感情語というのは、ことばの力が強すぎて、こういう繊細で微妙な心の動きを表現しようとしても難しい。

ここで描かれている「わたし」の感情は、強くてハッキリとしたことばによる規定をすりぬけてしまうようなものだし、そもそも感情というのは本来そういう性質のものでしょう。

ためしにもうひとつ、「わたし」が失恋するシーンを同じく『ひとり日和』から抜いてみます。

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「恋の終わりは予想以上にあっけなかった。わたしが待っていた自然の流れというのは、こういうことなのだろう。言ってはみたが、よく考えてみれば言葉に出すほど最悪でもなかった。悲しくもなければ、憎らしくもない。どちらかといえば、期末試験が終わった帰り道のような気分だ。」

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「悲しい」や「憎らしい」といったできあいを拒否して選ばれたことばには、解放感や倦怠感、諦め、後悔……そんなさまざまなニュアンスが込められている。「期末試験が終わった帰り道のような」ということばには、そんな諸々を想像させる力があります。

感情を、テンプレートで乱暴にきりとってごまかさず、微細なニュアンスを少しでもすくい取る。そういう表現のほうが、読んでいて面白いなぁと私は思います。もちろん、娯楽としてはシンプルなのが良い時もありますけどね。

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狭量その2(ヘイト値)

以前にも書きましたが私は狭量で、しかも結構好き嫌いが激しいタチです。たとえばですが、若かりし頃は嫌いな相手、いけすかないヤツがちやほやされてるのを見たりすると、それだけでイライラした。人間だけじゃなくて作品もそう。いまはだいぶ薄れたものの、かつては気に入らない作品が褒めそやされているのを見ると、わけもなくけなしたくなって、まず否定から入ったりしたものでした。お恥ずかしい話です。

嫌いな云々というのは、必ずしも意見が対立する人であるとか直接被害を受けた人というわけではなくて、なんとなくそりがあわない人であるとか、他の人に対して何か酷いことをしているのを見たとか、そういう場合も入ります。作品であれば、正直なところ結構楽しんだにもかかわらず、この作品がもてはやされるのは許せん! みたいなこともあった。

嫉妬ではないですよ。別に自分と比較して……とかじゃないので。もちろん自分と直接の利害関係が発生するとストレスは倍増しますが、そういうのとは無関係に成立つ話だと思って下さい。

ようするに、たいした理由もなく「直観的に」イヤだというのが抑えられないという話。我がことながら漂う小物臭がハンパない。でも、ありませんかそういうの。「あいつ(あれ)が評価されるなんて、世の中間違ってる……!」みたいに思っちゃうこと。

私であれば、「ああ、これはムリ」と思う人がバイト先にいたことがあります。とにかく差別というか好き嫌いが激しくて、気に入る/気に入らないでえこひいきをするし、自分の価値観を絶対だと思って押し付けて他人の言うこと聞かないし、セクショナリズムを発揮して身内囲いを始めるし……。更に上のスタッフに気に入られて重用されていたんですが、「この人が出世すんのか」と思うと、なんかもうやってられなかった。自分の直属の上司ではなかったけど、ぶっちゃけ呪われろ! くらいのことを考えたこともあります。

そして、現実問題こういう考えを持っていまうと、精神衛生上あんまりよくありません。力づくでその相手をねじ伏せることが出来たら(実際に権力を使って潰すとか)話は早いのですが、それがなかなかそうもいかない。

いかないからどうするかというと、「理論武装」をはじめます。かくかくしかじかの理由があるからあの人(作品)はけしからん。自分の批判は正当である……という感じですね。

こうして、嫌いなことに理屈をつけていくにつけ、自分がヤなヤツになってるなぁと思ったりもする。ですが、よくよく考えてみると、これは単に攻撃のためにあとづけの理論を捏造しているというだけのものではないのかもしれません。おそらく、自分が抱いた「いけすかない」という直観が何処から来たモノなのか、それを辿って見つめなおすプロセスでもあります。

嫌いだから理論ができるのか、先に見えない自分の中の理論があって嫌いになるのか。鶏が先か卵が先かみたいな話だけど、そういう機会(大嫌いなもの、許しがたいものに出会う機会)が無いと、自分の内に潜むものは見えてこないのかもしれません。

「その人を知りたければその人が何に対して怒りを感じるかを知れ」とは、以前にもとりあげた『ハンター×ハンター』ミトさんのセリフですが、これは自分についても言えることでしょう。自分が何に怒り、何を嫌悪するかというところから自分が見えてくる。そんなこともある。だから存分に嫌えというのではなくて、そういう「自分」に出くわした時に、それとじっと向き合うことが大事かもしれないなあと、最近はそんなことを思っています。

もうちょっと膨らませる話にしようかと考えていたのですが、ちょっと収拾がつかなくなりそうだったので、本日はこの辺で。好き嫌い、怒りから批評の話にもっていくのは、また今度にいたします。それでは、また明日。

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文章の味わい方それぞれ

最近、いわゆる「味のわかる」友人とラーメンを食べに行くことが増えました。彼は結構すごくて、使ってるスープのベースを、味である程度判別できる。「アゴだな」(※トビウオのこと)とか言い出した時は、ちょっと尊敬しました。

本人も結構な料理好きで、もちろん素人なのですが、プロ顔負けのこった料理を作ります。材料にも詳しい。だからラーメンに限らず、いろんな料理の作り方から素材まで、おおよそのところはわかるようです。ばくばく食べて「うめーうめー」言ってるだけの私とは、食事の楽しみ方のレベルが違う。

で、「文章を読む」ってのも実は、これに似たところがあるのかもしれないなぁ、と思いました。文字はほぼ誰にでも読めるから、あんまり意識はされないけれど、たくさんの文章を読み、知識や概念を身に着けている人とそうでない人、普段文章を書く人と書かない人、そういうところで、他人の文章を受け止めるレベルは、やっぱり明らかに違います。

最近光文社から新訳が出た『ソクラテスの弁明』の訳者解説には、こんなことが書いてありました。「プラトンは、「知らない」ことをめぐる状態を、「不知/無知」という語で基本的に分けている」。もちろんこれは日本語に直した時の区別ではあるけれど、「Amathia」と「Agnoia」を使い分けるという意識は、ことばを「なんとなく漠然と」使う人には持ち得ない意識だろうし、それを「不」と「無」に分けて考えるという時にはやはり、知識が必要になるでしょう。

私が、ラーメンたべても醤油か味噌かくらいの区別しかつかないのと同じように、知識や経験無しにフクザツな文章を読んだって、そこに書かれてあることは分からない。こんなことを書くと、鼻持ちならない教養主義と見なされるかもしれませんが、そういうことは、現実問題として、確実にあります。

というか、ついでに言っておくと、私はどっちかっていうと「読めない」ほうです。訓練は積んだのでずぶの素人だった時よりはマシになったかもしれませんが、世の中にはほんとにすごく「読める」人がいて、そういう人の前に行くと、「こらアカンわ……」と打ちのめされます。教養主義的なことを言っておきながら、自分はそれに乗っかれていないというバカバカしさ。

ただ、私は、そうやって複雑な文章を読みこなせることが必ずしも良いことであるとは思いません。もちろん、読めるに越したことはない。けれど、文章の味わい方、楽しみ方というのは、そればかりというわけでもないでしょう。それこそ、素材や調理法を知らなくてもラーメンを美味しく食べることができるように、文章もまた、楽しみ方は人それぞれで良いはずです。

料理の話だと分かりにくければ、音楽とかはどうでしょう。クラシック音楽なんかは特に、過去の膨大な蓄積と、卓越した技術を背景に持っています。また、オーケストラとかになると楽器の量も多く、クラシックファンというのはその辺りを基礎知識として持っている――少なくとも今鳴っている楽器が何であるかの聞き分けくらいはできる――人が非常に多い。でも、「第九」を聞いて心踊っている素人がいたとき、彼の音楽の楽しみは、玄人的なファンの楽しみに劣るものなのでしょうか? そんなことはないだろう、と私は思います。

たしかに知識があると、楽しみに幅は広がるかもしれません。傍から見ると凄いと感じるでしょう。それをたとえば、「深い」と表現するのは構わない。でも、「深い」ことが「善い」ことであるとは限りません。善くないと言っているのではなく、善いか悪いかとは別の問題だと、私は言っているつもりです。

「なんとなく「分かっているよ」と片付ける人は、本当には分かっておらず、自己認識がないままに、曖昧なまま進歩もなく、思い込みの中で人生を送っていく。また、不十分なまま「知らないよ」と開き直っている人にも、そこから知に向かう積極的な動きは起こらない」(『ソクラテスの弁明』解説)。それは事実ではあろうけれど、現実問題として、常に「愛知(フィロソフィー)」し続けるなんてことは、私達には難しい(そもそもそれが「善い」かどうかは、やはりわかりませんが)。せいぜい、常に自分は「読み足りていないのではないか」という謙虚な意識を持ち続けるくらいが関の山ではないでしょうか。

わからないこと、難しいことがあれば、それは文章の側に責任があるのではなく、読み手である自分の中に問題があるのではないかと考える――そういう意識を手放さなければ、文章の楽しみは人それぞれですから、別段是非善悪を論じる必要は無いだろうと、私は考えています。


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文章にとって「長すぎる」とはどういうことか

「長すぎる文章」(文章量が多すぎる文章)ということばがある。このとき、長すぎるというのは、何に(あるいは誰に)とって長すぎるのか。原理的には、二通りの解釈ができる。まず、読者にとって長すぎる。そしてもう一つは、文章にとって長すぎる。

ここでいう「文章」というのは、書き手のことではない、というのは一応ことわっておきたい。書き手にとって長すぎる文章というのは、原則存在しない。なぜなら、文章が存在しているということは、書き手は既にその文章を書き上げているのであり、つまりは書ききることができる程度の長さではあったのである。書き手が「長すぎた」と真に言えるのは、あまりの長さに書くことを断念した場合くらいだろう。

とまれ、ここでは表現された文章と、実際のその文章の書き手とを分けていることが伝われば良い。


さて、文章と読者という二者関係について考える場合、まず読者の立場から文章に出すことのできる感想は多い。たとえば、難しすぎるであるとか、句読点が不適切で読みづらいであるとか、文章に勢いがあって良いだとか。長すぎる、というのもそのような、読者にとっての主観の問題であることがほとんどである。

この時見落とされるのは、その文章にとって(文章というもの一般ではなく)、長さがどのような意味を持つのか、ということである。はたして、文章の内容と長さというのは、まったく切り離して考えることができるものなのだろうか。少し具体的に考えてみよう。

「他者」無き時代の思考

関連記事: コメント返信(2013年4月22日)

先日ツイッターで話をしていたのですが、どうも私たちは最近、すぐに「正解」を探してしまうよね、と。

これは凄く分かります。正直、身につまされる。「正解」という言い方をするといささか抽象的ですが、私的な言い方をするなら、自分の感性に合うものだけを選んで情報をピックアップしてしまう。実際、違和感を覚えたり、あるいは理解できないものからは目を背けたり、拒絶したりすることが、簡単にできるようになった。それこそたとえば、ツイッターのブロックのように。

もちろん、良いことでもあるのでしょう。嫌なことを強制され、逃れられなかった時代のことを考えると、回避し選択する自由があるというのはとても素晴らしいことです。しかし、あまりにそれを極端にやりすぎると、異なる考えは「無かったこと」になってしまう。存在していることは認めるとしても、いてもいなくてもどうでも良いような、事実上無意味な存在に、なってしまう。

たぶん、いまの私たちに欠けている「考える」姿勢って、もともとはそういうところにあらわれていたんじゃないかと思います。異なるものとどう向き合い、受け止めるかというところに。

真面目な思考力や真剣な悩みが若者には無い、みたいな話があるけれど、それはちょっと単純化しすぎでしょう。自分の考えを、深く深く掘り下げようとしている人は少なくない。若くて私なんかよりものしりな人なんて、ごまんといます。

でも、自分とは違う考え方について、それがなぜ相手にとって切実な問題なのかとか、どういう論理で導かれたものなのかということを、じっくりと考える、そういう人は減った。減ったというか、そういうことしなくても快適に過ごせる環境がどんどん整備されていったおかげで、あんまり必要がなくなったのでしょう。

また、これは議論がオープンになって人の目につきやすくなったせいだと思うのですが、議論というものにおいて「勝ち負け」が重視され、相手と戦うときに、結論が本人同士の納得よりも、「賛成者の数の有無」みたいなところで争われるようになった。このことも「考える」機会が失われていった、遠因かもしれません。

まず話の内容より勝ち負けが重視される。加えて、やたらめったらお互いの主張をぶつけあうせいで、相手の議論のいい所ではなく、悪いところを見て叩き合うようになった。結果、とにかく相手を低く低く見ようとして、「相手はこんなつまんない主張をしてるだけだ」みたいなところで話を終わらせてしまう。

相手の主張をくみとらずに攻撃しても、お互いに「あいつは分かってねぇ」で終わってしまう。不毛な争いの始まりです。

相手がどういう話をしようとしていて、それが自分とはどう違うのかをきちんと考える。そういう力もまた必要ではないかと思います。そうすることで、相手も「自分の議論」の欠点がみえてくるし、自分もまた、新しい考え方を身につけることができる。良い事だらけです。

そこまで突き詰めるのは無理でも、自分と違う考え方の人がいるということを「認める」というのは、そういう人の話を無視したり、自分より下であると勝手に見下すことではなくて、その自分と違うという違和感なり不快感なりと最後まで付き合うことでしょう。

よく、「他者」ということばでキレイなことが色々いわれるけれど、実は「他者」性を大事にするとか、「他者」を引き受けるっていうのは凄くめんどくさくて大変で、ストレスのたまることだと思います。だって、自分と全然違う相手が目の前にいるというそのことを、認めないといけないのですから。

そんなわけで、すぐ「正解」を探して、自分の考えの範囲で世界を見ようといういまの私たちの、思考には「他者」がいないし、それはブログやツイッターが目の敵にされる以前に、本だってテレビだってそういうものだったはずです。いまの社会は、「他者」不在の思考を簡単に強化することも可能になっている。

それはたぶん、とても怖いことなんですが、その怖さが既に見えにくくなってしまっているような気がします。折木くんじゃないけど、「慎むべし」ととなえ続けるしかないのかなぁ。

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インプット不足

最近我ながらヤバいなぁと思うんですが、どうもインプットが不足してきている。

エロゲーやってない、という話じゃなくて(エロゲーはそこそこやってます)、それについて考えたり、何か書いたりする際の、自分の考えを広げていくような出会い、そういうものを貪欲に求める姿勢が、やはり欠けてきている。本を読んだり、人と議論したりという、たとえば。

なんでそんなことを言い出したかというと、自分の「見方」が硬直化してきてるなーと思ったからです。どうも、他の人の話や議論を聞いて、驚くことが少なくなった。いや、驚いたフリは自分の中でしているのですが(こんな面白い話を今日はきけた、とか、読んだとか、思うようにはしている)、本当にそこに自分が新鮮さを感じているかというと、どうもそうではなくて、今までにあった経験の枠にあてはめて、「結局こういうことだよね」って納得しちゃってる。

これはマズいなぁと反省するわけです。読みの態度としても真摯さに欠けてるし、全部自分が納得できることに回収しちゃっていたら、そこから「新しい」ことは生まれてこない。深くもならない。同じところをぐるぐる回って自分のよく知った結論、納得できる話に落ち着いて「ああ、よかった」と胸をなで下ろすだけの、つまんない思考回路のいっちょあがり。

つらつら思うに、よくもわるくも自分のスタンスみたいなものを固めてきてしまって、その弊害かな、なんて。

昔、読んだり書いたりする方法論について何の意識もなかった頃は、はやく自分のスタイルを固めたいと思っていたのですが、いつの間にかそういうスタイルを作ることそのものが目的になってしまっていたことに、遅まきながら気づいたというところ。なぜそのスタイルが必要かというと、より深く読み、ものを考え、その思考を形にしていくためだったはずなのに。

どこかでじっくりと腰を据えて、いろんなことをインプットしていきたい。ただ、世の中はどんどんアウトプットを求めてきていて、なんか成果をはき出していかないと認めてもらえない時代になってしまったわけでして、その中でどれだけ非生産事項に時間をとれるかというのは結構深刻な問題なのですが、それでもどこかでインプットの場面を確保していかないと、先細っていくばかりだなぁという懸念も……。

ってなわけで、何とかいろいろ、じっくり考えたり読んだりする時間をとりたいんですけど、優先事項とか生活とかあると、なかなか難しいな~。

やっぱり時間がある年代のときに「貯金」するのって大事ですね。お金じゃなくて。

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表現と想像の余白

赤雪トナさんの『竜殺しの過ごす日々』(ヒーロー文庫)という小説があって、私は世界観や展開が好きなので読んでいるのですが、時々文章に「おや?」と思うことがあります。それは、たとえば次のようなところ。

「読まれない」ブログの書き方

ブログを書き始めた頃、「ブログはこう書くのが良い」というようなハウツーというか、もっと強制力が強い《べき論》みたいなのを色々チェックしました。

だいたいどこも言っていることは同じで、「短く」「簡潔に」そして、「わかりやすく」。読者が自分にとってのメリットを理解しやすいとか、具体的に書くとか、起承転結を使えとか、まあいろんな言われ方をしていますが、粗々その三つにまとまると思います。

そのスタイルを安易に否定するつもりはありません。ただ、簡単にそれに乗ることはできないと当時は思ったし、やっぱり最近になっても変わりませんでした。

理由の1つは、私がもともと長文書くタイプだからでしょう。それは、言いたいことがまとまらずとっ散らかるせいでもありますし、また普段触れている文章が、たとえば20000字程度の論文だったりするためだと思います。1つのことをキチンと説明するには、最低でも15000字くらいは欲しい。それでも短いくらいで、やむなく文章を圧縮して圧縮して……という作業を見ていると、2000字とか4000字はいかにも短い。丁寧語で書こうものならあっという間です。

そういう思考の癖や書き方の癖みたいなものは、確かに存在します。けれど、私が《べき論》に乗らない理由は、それがメインではない。

主な理由は、「読者への信頼」です。ブログのハウツーサイトみたいなところを見ると、「短く」「簡潔に」「わかりやすく」書く理由は、書き手がそう書きたいからではなく、「読者への配慮」であると書かれている場合がほとんどです。しかし、一部の例外はあるにしても、普通「簡単さ」と「正確さ」は両立しません。短くなれば情報量は落ちるし、使うことばから厳密性が失われれば、内容は曖昧なものになります。そんなの当たり前です。でも、その当たり前の前提に目をつぶらないと、「短く」「簡潔に」「わかりやすく」は成立しない。

ならば、「配慮」と言えば聞こえはいいけれど、それはつまり、嘘でも構わないということです。正確さや内容の密度を犠牲にしても良い。要は「難しいこと書いても読者はどうせよまないよ」という、ナメナメな態度の裏返し。

その辺を割と忌憚なく述べておられるサイトさんもあります(当然、読者配慮の一環という文脈ですが)。

一目瞭然。読まれるブログ記事の書き方
 「Web上のテキストは熟読されません。身も蓋もありませんが、それが事実です。

ブログ記事を読んでもらうための10の書き方
 「中学2年生レベルの文章

無論、偉ぶるために無駄に難解で迂遠な表現を使う必要は無いでしょう。しかし、「そもそも読まれないから」、「どうせわからないから」という前提で文章を書くというのは、「読んでいただくために」と頭を下げつつ内心でベロを出している感が、どうしても拭えない。

よく言われる広告三原則に、「見ない(Not Read)」「信じない(Not Believe)」「動かない(Not Act)」というのがあります。身も蓋もない言い方をすれば、客はバカで、そのくせ疑り深いのは一人前で、しかもズボラである、という徹底的な顧客不信のうえに立って行動しろ、ということです。大衆に向けて「短く」「簡潔に」「わかりやすく」情報を伝えるマスメディアの人たちが(十把一絡げにはできませんが)、いかに視聴者をバカにする態度をとっているかを考えてみても良いかもしれません。

そりゃまあ、もともと「その程度のこと」しか言うつもりがないのならば構わないんでしょう。しかし、言葉を尽くしても言い尽くせないようなこと、あるいは大雑把に捉えてしまうと一気に陳腐な内容になってしまうような繊細な話題を扱うときに、「どうせ読まれないから」と、細部の精密さをそぎ落として良いでしょうか。

いわゆる「ブログのハウツーサイト」さんを否定したいわけではないので弁明として言っておくと、《べき論》は役に立つし、求められる局面というのも少なからず存在することは、私も認めています。

たとえばビジネス的な文章の書き方としては、「相手にわかりやすい」というのは必須の事項です。そして相手との意思疎通で誤解が生じると致命的な事態に発展する可能性があるので、相手の想定を可能な限り低く見ておく(かつ、正確な用語を用いる)というスキルが求められるのは事実です。

あるいは、セールストーク。文章自体に意味や価値があるのではなくて、他の行動を誘発する手段として文章がある場合です。アフィリエイト系のサイトなんかはこの典型だと思います。

また、いわゆる「大衆啓蒙」のような――つまり「このことは皆が知らねばならぬ」という強い問題意識を持って書かれる文章であれば、多少精度が落ちることは覚悟のうえで、伝えたい要点だけを伝える、というのはアリなのでしょう。ただそれは、何というか「偉い人」の書き方ですよね。教えてあげるよ、的な。先生とか、指導者とか、そんな感じ。

で、ブログは少なくともビジネス文書ではないし、また私はブログでセールスをするつもりもありません。そして、誰かを啓蒙するほど偉くもない。少なくとも、ブログを読む人はなんだかんだで「教えて欲しい」んでしょ? と上から目線で、「結論を押し付けられていることを気づかないように、相手が自分で判断したように納得させられるような」ものを書く技能はありません。やりたいとも思わないですし。

そんなわけで、私は結構《べき論》をほったらかしてダラダラ長文書くことが多いんですよね。

確かに一方では、こういった態度が行き過ぎると「選民思想」的な、つまり「俺はキチンと書いたんだから読めないバカはブロック」というどこぞの大批評家先生みたいなことになりますし、また伝達方法を洗練させずにナマの思考を垂れ流しみたいなみっともないことになる可能性もあります。「短く」「簡潔に」「わかりやすく」が、書き手として守るべき読者への配慮・思いやりという側面を持つことも、重々承知している。だから、「私の書き方が悪い」という意識は常に棄てないようにしたいし、そうしているつもりです。実践できているかは別として。

《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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