よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

考察 (言説の方法論)

わかることとやれることは別ごとかもね、という話。

本日ツイッターを眺めていると、こんな記事がRTで回ってきました。それに関して思うところがあったので少し書いていきます。ちょっと嫌味ったらしいと思われるかもしれません。ここで引用したツイートの方などをバカにしたりという意図はなく、不適切であると言われるならば謝罪し取り下げるつもりもございます、ということをおことわりしたうえで進めさせていただきます。

 ▼「東大卒業式、ネットで激賞 伝説の格言の内幕明かし、コピペ情報に警鐘 信州大あいさつと一緒に話題に」(Yahoo!ニュース)

内容は、平成26年度の東大教養学部(駒場)の卒業式で、石井洋二郎学部長の式辞に関するもの。かつて大河内一男総長が語ったとされる「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」という「格言」について、これに「3つのデマ」が含まれている、という話です。

この「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」というのは私もよく耳にし、そのたびに疑問を感じていました。あきらかにJ.S.ミルの「It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.」(満足した豚であるよりは不満足な人間であるほうがよく、満足した愚者であるよりは不満足なソクラテスであるほうがよい)を縮小したか、あるいは改変したものです。

しかし、「豚」と対置されるのは「人間」であり、「ソクラテス」と対置されるのは「愚者」ですから、「肥った豚よりも痩せたソクラテス」などというとこれは、ミルにもソクラテスにもたいへん失礼ではないかな~なんて思っていたのですが、もとネタはこういうところにあったんですね。

さて、この記事および実際の石井氏の挨拶は、「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみる」ということの重要性を説いています。これは、ネット社会において非常に大切なことである、というのは間違いないでしょう。実際、この記事は非常に多くツイートされています。2015年4月8日の9時30分時点で約1080件。

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すべてを読んだわけではありませんが、多くの人がこれに賛意を示しています。

ただ、ここでどうしても私は「う~ん」と思ってしまうんですね。

というのは、このYahoo!ニュース自体、実は「二次文献」(あるいは総長の式辞全文を「一次資料」と見なすならば三次文献/資料)だからです。きちんと出典元は記載されていますが、これwithnewsからの引用というか転載ですよね。もとの記事は、文章こそ同じですがタイトルは全然違っていますし、写真なんかも入っていてレイアウトはまったく別モノになっています。

 ▼「東大卒業式、抜群のセンスでコピペ情報に警鐘 「肥った豚…」ネタに」(with news) 

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そして、同じく2014年4月8日の9時半時点で、こちらは130件しかツイートされていません。「一次資料にあたりましょう」ということを訴えた記事の出典もとが参照されていないわけです。笑うしかありません。

たまたま目に入っただけなので他意はないのですが、たとえばこちらの方。Yahoo!ニュースのほうを引用して次のように呟いておられます。



ご指摘はもっともで、実際に「一次情報」である総長挨拶へのリンクを貼って欲しいと言えるのは、おそらくそれを参照しようとしたからですよね。悪い意味ではなく意識の高い方なのだろうと思います。

しかしこれ、実はwithnewsのほうではきちんと「関連リンク」として末尾にリンクが貼られています

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つまり、Yahoo!ニュースが(おそらくは本文に含まれていなかったため)勝手に除外しただけです。この記事に対して批判を加えるなら、リンクを貼っていないことではなく、本来貼られていたリンクを取りこぼしたこと、でしょう。そんなことは承知のうえで上記のツイートをされた可能性はありますが、どうもYahoo!ニュースのほうを原典として扱っている気配が見えるので、私としては元の記事をご覧になっていなかったんじゃないかなぁ、と思ってしまうわけです。

ただ、この方などはおそらくマシなほうで、この記事に関して呟いた、あるいはそれをRTした1000人余りのうち、実際何人が東大教養学部のHPに行き、石井学部長のコメントを参照したのでしょうか

再びツイッターからになりますが、こちらの方。



石井氏の式辞を読めば「「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」がJ.S.ミルの言」では「ない」というのが非常に重要なポイントだというのがわかるはずなのですが、それをこういうかたちで言いとってしまうというのは、やっぱり「式辞」のほうは読まずにコメントしておられるのかなという疑いを抱いてしまいます。

一応リンクを貼っておきましょうか。

 ▼「平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞

こちらの式辞には、記事(withnews)の内容とは結構違うなというところや、よりはっきりとわかるところが幾つもあります。

たとえば、「実際は大河内さんの発言ではなくJ・S・ミルの引用だったこと。原稿には、J・S・ミルの引用を明記した上で書かれていたが、実際には読まれなかったこと」という部分。どうして「原稿」に書いてあったことのほうが一般に流布したんだろう、という疑問が起こるのですが、それについてはきちんと式辞内でわかるように説明がされています。

そして、石井氏の話というのは今回の例にとってほんとうに適切なのかな? という気もしてきます。というのは、大河内総長の「言葉」というのは、マスコミが報道したものです。そしてマスコミには東大の広報から正式に原稿が配布されていた。当時はネットなどありませんし会場の様子を録画・録音していたかどうかもわかりませんから、一般の人はメディアの発表を信じるくらいしかなかった。石井氏は「皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものである」という例でこれを挙げておられて、その意図はわからないでもないのですが、この大河内総長の話のほうは一次資料にあまりにも当たりにくいという意味において「ネットに流れている雑多な情報」とは、ややレベルが違うかなという気がします。出典元である書籍などのメディアの情報にまで疑いをむけるなら同じことが言えるかもしれませんが、それはもう「無意識のうちに伝言ゲームを反復している」のとは違いますよね。この辺の問題意識というのは、withnewsの記事を読んでいるだけでは出てきにくい内容のような気もします。

また、続きである「原文をかなりアレンジした表現になっていることなど」という部分。石井氏の発言では最終的に「これは「資料の恣意的な改竄」と言われても仕方がない」 とまで言われており、「かなりアレンジ」というのとはだいぶニュアンスが違います。石井氏が最後に、一次資料にあたることを「教養」として訴えることから考えても、この部分は割ととりおとしてはいけない(また、式辞では「意図的」ではない=アレンジというより勘違い、という立場のほうで語っておられるので、事実関係としても不適切な)表現ではないかと思われます。

と、こんな具合。やはり「伝言ゲーム」の中で取りこぼされるものや変奏されるものはある。

まあこういう話を言い出すと、じゃあミルの原典あたったのかとか、ここに掲載されている全文がほんとうに読まれたかどうかも分からんではないか、と言われそうですが、一応「ちなみに教養学部によると、公開された文章は、大河内さんの時とは違い、すべて実際に読み上げた」とのことなので、そこは信用するしかないでしょう。ミルのほうは原典あたっていません。すみません……。ただ、記憶にある内容とは一致しています。

話を戻しまして、つまるところ一次資料にあたることの重要性を説く記事が実は二次資料、あるいは三次資料であり、記事自体が多くの賛同者を得たにもかかわらずその原典なり出典元なりにきちんとアプローチをした人はおそらく結構少ない、というのがこの記事のパフォーマティブなレベルでの笑えない「オチ」ではないかと思うわけです。

こういうことを「教養」と呼ぶかどうかはさておき、実際に一次資料にあたるクセをつけるというのは、やはり相当難しいと思います。理由は主に2つあって、1つはネット情報の性質に依るもの。ネットというのはスピード感の求められるメディアなので、多少情報に誤りがあってもスピードのほうが優先されている、という側面はあるのではないでしょうか。

もう1つは、やはり人間の怠惰さ。一次資料をあたるにはなんだかんだで「ひと手間」が必要ですし、その「ひと手間」を惜しむということは多々ある。以前にも書いた気がしますが、私の記事の一部がtumblrか何かで引用されていたとき、そのtumblrで引用元として記載されている私の記事に飛んできた人は、リブログしている人の1/10にも満たないくらいの数でした。リンクをワンクリックするのでも来ないのに、自分で検索したりまして本を実際に読んだりという話になると更に厳しい気がします。

ただこのあたりのことで問題なのは、「一次資料にあたりましょう」というのが何やら高尚な、それこそ「教養」のような話だと思われていることではないでしょうか。ネットがこれだけ普及した現在、原典に、あるいは一次資料にあたるというのは「道路を渡る時は左右を確認してから渡りましょう」と同じくらいの、ごく基本的なこと、それこそ生活の知恵的なものであるべきです。

実際にできるかどうかはわかりません。正直こんな偉そうなことを書いている私も、じゅうぶんにできているとは言いがたい。むしろ手抜きまくり。道を渡るときつい飛び出してしまったり、スマホ歩きをしていてぶつかりそうになったりということがあるように、実践はなかなか伴わないものです。しかし、当たり前と思われているからこそお互い気軽に注意するし、言われた側も素直に聞き入れることができる面はあるはず。いま私たちに必要なのは、「一次資料にあたる」ということの心理的なハードルを下げて、とりあえずそれが当然だよね、という意識を広く共有できるようにすることではないかと、そんなことを思ったのでした。

あと最後、ほんとうにどうでもいい話を1つ。Yahoo!、withnewsともに見出しで使われている東大のイメージ写真。これ、「一次資料」(withnewsに出典がimasiaと記載されており、写真を検索すればこれがでてきた)だと本郷キャンパスにある安田講堂のように見えるんで、渋谷の駒場にキャンパスのある教養学部の話としてはふさわしくないのかなとか思っていたのですが、駒場の時計塔なのかな? まあ安田講堂でも、東大のシンボルということなのかもしれませんけど。(駒場祭へようこそ! と書いてあるので、駒場キャンパスの1号館の時計塔ですね。安田講堂がモチーフらしく勘違いしましたが、これこそちゃんと一次資料と対象させるべきところでした。失礼しました)

う~ん、やっぱり一次資料にあたるのってめんどくさいですね(ダメじゃん)。

ブログ記事「ロジカルシンキングができない人々」を巡るあれこれ

ちょっと話題になっている記事があります。

 ▼「ロジカルシンキングができない人々【論理よりも感情が優先される国】」(生きた経済ブログ) 

自由人氏のブログ「生きた経済ブログ」 の記事ですが、BLOGSOの執筆ブロガーでもあったことからそちらに掲載され、乾燥した冬の焚き火の如く燃え上がった模様。そのままだと単なるボヤ程度で済みそうだったところ、丁寧にもご本人が追加で燃料をブチ込んだため、山火事のように燃え広がっていまだ鎮火の目処が立たないという悲惨な状況に陥っています。

記事の内容は、和歌山県紀の川市で発生した小学5年生殺害事件を受けて行われた地域の対応を批判するもので、およそ以下のようにまとめることができるでしょうか。

・ 殺人事件をうけ、事件の被害者が通っていた同学校の児童らはボランティアと警察官が見守るなか保護者同伴で登校した、という報道があった。

・しかし、こうした「事後対処」はおかしい。「、犯人が逮捕されたということは、複数犯でもない限り、その地域はもう安全になった」と言える。

・1度事件が起きた後、同じ地域で連続して凶悪犯罪が起きる可能性は限りなく低い。それは論理的に考えればわかる。

・日本(「この国」)ではこのように「論理と確率を無視し、感情だけが優先されている」ことが多くて困る。

・これは、1等がでた宝くじ屋に2匹目のドジョウを狙って人が殺到するのと同じ思考回路である。1度当たりがでた宝くじ屋で連続して当たりがでる可能性は、他の宝くじ屋で当たりがでる可能性よりずっと低くなっている。

順番に詳しく見て行きましょう。

通り魔事件や猟奇殺人事件が起こる度に、こういう報道…と言うよりも、事後対処が為されるのだが、犯人が逮捕されたということは、複数犯でもない限り、その地域はもう安全になったことを意味する。事件が発生したということもあって普段以上に物々しい雰囲気で警察官が巡回しているわけだから、日本中で最も事件が起こりにくい安全な地域になっていると言っても過言ではない。
 そんな地域で「ボランティアと警察官が見守るなか保護者同伴で登校」というのは、よく解らない。 

まずこの部分ですが、読んでいて「ん?」と思いました。氏は犯人が逮捕されたのだからその地域は安全だ、だからボランティアや警官が見守りながら登校する必要はないのだと言いつつ、安全(事件が起こりにくいこと)の理由を「普段以上に物々しい雰囲気で警察官が巡回している」ことに求めているように読めます。

普段以上に警戒しているから続く犯罪が起こりにくい。これはわかります。しかしそれなら、普段以上の警戒(ボランティアや警察官が見守るなか保護者同伴での登校)をやめたら、犯罪が起こりやすいということにならないでしょうか。

これはどういうこっちゃ、と思いながら読んでいくと、氏はこう続けます。

結局、この報道から分かることは、「犯人が逮捕されれば安全」という論理的事実と、「犯人が逮捕された地域は安全」という確率的事実が、全く無視されているということである。論理と確率を無視し、感情だけが優先されていることがよく分かる事例だと言える。

おお……。論理……。そして確率……。どうも犯人が逮捕されれば安全というのは、警備云々ではなく数学的な話のようです。私のような数学音痴には残念ながら意味が解りません。するとそれを先読みしていたのか、自由人氏の詳しい解説が。

少し話を和らげるためにも、別の例で考えてみよう。
 例えば、「宝くじ」というものでも、1等当選が出た宝くじ売場には、毎度、長蛇の列ができる。その理由はおそらく「1等当選が出た所だからまた当たるかもしれない」ということなのだろうが、よくよく考えてみると、これほど可笑しな話もない。確率的に考えれば、同じ宝くじ売場で1等当選が出る確率は最も低くなるはずだからだ。

(中略)

本来であれば、1等当選が出た宝くじ売り場は閑古鳥が鳴いて然るべきところだが、実際には逆に長蛇の列が出来上がる。このような可笑しな逆転現象が起こるということ自体が、論理や確率を無視し、感情のみが先行しているという証左でもある。

………ん? 宝くじという例は確かにわかりやすいのですが、これ、明らかにおかしい気がします。

確率的に考えれば、同じ宝くじ売場だからといって1等当選が出やすいわけではないならわかります。宝くじ1枚の当選期待値は同じですからね。しかし、「同じ宝くじ売場で1等当選が出る確率は最も低くなる」とはどういうことか……。独立事象ではない宝くじを想定しているのでしょうか?

氏はこのあと、「この国では、至るところで論理や確率よりも感情だけが優先される向きがある。その感情論に敵対した意見は、どれだけの正論であろうとも、いつも感情論に否定される」と感情論的傾向に怒りをあらわにし、「事件が発生した場所で同じような事件が発生する確率は最も低く、1等当選宝くじが出た場所で、再び1等当選が出る確率は最も低い。これは統計的な事実であり、残念ながら感情論が入り込む余地はない」と宣言します。そして、「このことが解らないというのであれば、その人物は「私はロジカルシンキングができません」と言っているに等しい」と罵倒するのですが……宝くじの例はサッパリわかりません。

本来なら前半部分にもいろいろ問題が有るとは思うのですが、和歌山の事件はあくまで話のダシというか枕であって、本論は「感情論」批判だと読めるのでそちらに絞って検討してみます。あとついでに言うと、1等当選が出た売り場で買ってる人はみんながみんなほんとに当たりが出やすいと思ってるわけではなくて、別に確率は変わらないけど縁起をかついでるだけというか、感情論というよりは信仰とかそっちに近い気もするんですがこれは氏の中で区別しないということかもしれないので、こちらもひとまず措きます。


さてこの記事、案の定あちこちからツッコミが入ったため、自由人氏は「補足」を即座に追加しました。その内容がこちら。

 例えば、サイコロを振って「1」の目が出たとして、次にサイコロを振った場合、「1」が出る確率は6分の1ですが、「2から6」の目が出る確率は6分の5です。
 
 勘の鋭い人ならもうお分かりだと思いますが、この記事で述べたかったことはそういうことです。早い話、確率を考える上での視点が違っているということです。

 個々のサイコロの目が出る確率は等しく同じですが、同じ目が続けて出る確率は同じではありません。同じ目が続く確率よりも違う目が出る確率の方が高くなるのは、サイコロの6つの目で考えても分かると思います。(この場合、5倍の差がある)

 例えば、宝くじ売場が全国に1000店舗あるとして、同じ店で続けて当選が出る確率よりも残り999の店で当選が出る確率の方が999倍高いのは火を見るより明らかです。

porna
ドドドドドドドド

間違いありません。これは、ポルナレフ召喚案件です。

サイコロを例に取ったということは、氏はこれを独立事象として考えているということです。つまり、どの宝くじ売り場で宝くじを買っても、1枚あたりの当選確率はかわらないという前提で考えて良い、ということです(もちろん、宝くじの枚数を多く仕入れている宝くじ売り場はそのぶん当たりやすくなる)。
「1等当選宝くじが出た場所で、再び1等当選が出る確率は最も低い」という部分は、正しくは、

「1等当選宝くじが出た場所で、再び1等当選が出る確率は他の宝くじ売り場(全て)よりも低い」とするべきでした。

というコメントからもうかがえるように、氏は決定的に確率の論理をとりちがえているのだと思います。

どういうことか。

氏のたとえが2通りの意味に解釈できるので、まずはそこから考えてみましょう。

「宝くじ売場が全国に1000店舗あるとして、同じ店で続けて当選が出る確率よりも残り999の店で当選が出る確率の方が999倍高いのは火を見るより明らか」という部分ですが、これは店舗1であたりがでる確率と店舗2~1000の全部であたりがでる確率だと店舗2~1000全部であたりが出る確率のほうが高い、という意味でしょうか? だとすれば、あまりにも当たり前なので議論の余地がありません。

さきの犯罪の例でいえば、和歌山県紀の川市とその他の日本全国すべての土地で比較すれば、そりゃあ和歌山県紀の川市の犯罪発生率は低いですよ。(ちなみに、単純に「999倍高い」ことにはまったくならないのですが、それはもう誤差の範囲ということで措きます)

ただもしそうだとすると、氏が言う「同じ宝くじ売場で1等当選が出る確率は最も低くなる」、つまり二度続けて犯罪が起きる確率は低くなるということの説明ができません。1度目だろうが2度目だろうが変わらず妥当することだからです。「二度目」ということが氏にとって軽い問題でないことは、まとめのところで「再び1等当選が出る確率」のように、「再び」を常につけていることからも明らかでしょう。したがって、この解釈ではおそらくない。

ではどういうことかというと、氏は次のように言いたかったのだと思います。

サイコロの1が出たあと、続けて1が出る確率は1/6 X 1/6 で1/36である。しかし、サイコロの2~5がでる確率はそれぞれ1/6である。したがって、連続して1が出る確率は、2~5が出る確率より低い。

どうでしょう。この例なら氏の言いたかったことを拾えていると思うのですが……。

ただ、言うまでもなくこれは誤りです。何が誤っているかというと、たしかにサイコロで2~5の目の出る確率は1/6が5回で5/6なのですが、それはサイコロを1回しか振らない場合ですよね。最初に1が出て、かつ次の試行で2の目の出る確率はやはり1/6 X 1/6 で1/36。同じく最初に1が出て、かつ次の試行で3の目が出る確率は1/6 X 1/6 で1/36……となるわけです。

つまり自由人氏は、「ある店で当選が出た」という前提を条件に加えた場合と加えない場合の確率を比較しているのではないか、というのが、記事を読んだ限りでの私の推測になります。宝くじの例にもどすと、店舗Aで当選が出て、かつ、店舗Bで当選が出る確率というのは、単純に店舗Bだけで当選が出る確率よりはるかに低くなります。店舗Aで当たりが出て、再度店舗Aで当たりが出る確率と比較するなら、条件を同じに揃えなければ話になりませんよねということではないでしょうか。

個別の目が出る確率は等しく同じだが、同じ目が続けて出る確率よりも違う目が出る確率の方が(数量的に考えても)圧倒的に高い。誤解を招く言葉使い(全体と個別をごっちゃに書いていた)があったことはお詫びしますが、論理的に間違ったことを書いたつもりはありません。

という締めのコメントがすべてであり、その2つは比較することに意味のない数字だ、という話です(自由人氏が私の考えるような「勘違い」をしているのかはもちろん定かではありません。あくまで推測です。ただ、いい線行ってるんじゃないかなと自画自賛しておきます)。

いや、こんなの中学高校レベルの数学の話(繰り返しになりますが、独立試行の問題)なのでいちいち説明しなくてもだいたいの人にはわかるのだと思うのですが、一度こんがらがってしまうと論理の迷宮に入りこんでしまうというのも解る気がする。

ハッキリ言うなら、この自由人氏の論理もまた感情論というかオカルトだと思います。

わかりやすくいえば、「くじ引きあたったから運を使い果たした。次は当たらないだろう」みたいなネガティブ・オカルトの発想。氏が批判しているのが「くじ引きあたったから運気が来てる。次も当たるはず!」みたいなポジティブ・オカルトだとすれば、たしかに対照的ではあるもののどちらもオカルトであることは変わらない、という感じです。対極に位置するオカルト頂上決戦。

人はえてしてこういうオカルトにそれらしい理屈をつけて納得してしまう。そういう意味ではまさに自由人氏が批判してるような感情論的な態度を自分で華麗に実践してみせてくれたわけで、(半ばネタとしてですから本意ではないでしょうが)批判そのものは成功したと言えるのかもしれません。

そして今回の件で私が興味深いと思ったのは、誤った思い込みをしてしまった人を納得させるのは極めて困難である、という点です。おそらく数学の教科書かなにかで独立試行の話をされていれば、自由人氏は簡単にこのことを飲み込めたんじゃないかと思う。しかし今回、自分の中でできあがったロジック(もどき)があったせいで、コメントでさんざん指摘されてもそれを理解できず、あさっての方向に「補足」を出してしまった。今回の件に関する「正しい論理」が何度も示されているにもかかわらず、自由人氏はそれに気づくことができなかったわけです。

これは、特に氏の能力が低いとか頑固だからだとか、そういう話ではないでしょう。私も含め、大半の人が陥る可能性のある罠だと思う。人は、自分の中にある強固な思い込みに目が曇った場合、外側から「正しさ」をつきつけられてもなかなか気づくことも認めることもできない。

だからこういう場合、「これが正しいんだ!!」と正しい論理を提示して、それを認めさせようとしてもなかなか成功しないのではないかと思います。もちろん柔軟な思考の持ち主、謙虚な思考の持ち主には有効だと思いますが、そうではない私のような凡人にはイマイチ。ではどうするかというと、相手の考えていることをしっかりなぞり、理解したうえで、ここがこう間違っている、というのを提示する。

相手が間違っていると思うのなら、自分の正しさだけを主張するのではなく、相手の議論をしっかりと理解してどこがどう間違っているかを解きほぐし、相手が内側から崩れる道を示す。そうすれば対話の道が開けるのではないか。私はそんなふうに思います。

批判ということばには相手の誤りや欠点を指摘するという意味もありますが、対象について原理的な考察を加えるという意味もあります。本当に相手のことを深く理解していれば、どこを突けば崩せるのかという欠点も、おのずと見えてくるでしょう。逆に言えば自分のことを理解していない相手からの批判というのは、「あいつは分かってないな」という逃げを打って跳ね返せるので致命傷を負うことはない。

もっとも恐ろしい批判者というのは、実は一番の理解者なのかもしれません。 

テクストの「正しい」解釈という思想について

いきなり本筋とはあまり関係のない話で恐縮ですが、今週の土曜日からセンター試験が始まります。受験生のみなさんは今頃大変な思いをされておられることでしょう。近くて遠い二次元の街から健闘を祈っています。

さて、確か昨年度だか一昨年度だかのセンター国語追試で、田島正樹『正義の哲学』から出題されていたなぁと思いだし、なんとなく読み返していました。今回とりあげるのは、その中で映画『マトリックス』を話題にした部分。『マトリックス』で主人公たちがコンピューターに夢(ヴァーチャルな世界)を見させられているということに気づき、「真実」(リアル)に目覚めた彼らが他の人間も覚醒させようとする、というおおざっぱな紹介のあと、次のように続けられています。

ここで、リアルな世界とヴァーチャルな世界を本当に区別するものがいったい何か、という問題が生じる。コンピュータと闘う人間が、コンピュータにつながって夢を見ている人間と違って現実に触れていると思えるのは、彼らがヴァーチャルな世界をいわば巨大なテクストとみなし、その任意の場所に「外」から侵入することができるからである。彼らの侵入は、テクストを切ったりつないだりする解釈的介入に他ならない。つまり彼らにとって、この日常世界は一つの夢というテクストであり、その意味を支配する魔法にかけられているようなものだ。この魔法は解かれねばならぬもの、少なくとも別の魔法によって別の意味を帯び得るもの、つまりは解釈によってまったく別様の読解も可能なものなのだ。

ここには、テクストの読解、あるいはもっと広い意味で世界の認識というものに関するある立場(合理論的な立場)からの問題がとても分かりやすく描きとられているように私には思われます。

あるテクストがあったとします。「夢」を見ている人というのは、そのテクストに関する自分の解釈が絶対的なものであることを疑っていない人のことです。そして、「真実」に目覚めた人が、その解釈の誤りを指摘する――さしあたりそんな風に読めるでしょう。

しかし、そうすると「真実」に目覚めた人は、どうして自分が見ているものが「真実」だと言えるのでしょうか? その人が見ているものもまた、もう一つの「夢」にすぎない――そんな可能性は考えられないのでしょうか? 『正義の哲学』は、そのことに踏み込んでいきます。

すると、現実の世界への覚醒と見えたものは、結局「この世界」(ヴァーチャルな世界)への解釈的介入がもたらした効果(仮象)に過ぎないと言えるのではないか? つまり、ヴァーチャルな世界を離れて、そこへと覚醒すべき確固とした現実があるわけではないのだ。 …(中略)… コンピュータの夢から覚醒した者も、それがもう一つの夢でないという確証は、それだけでは得られないだろう。

ある「夢」を相対化した。しかし、それを可能にするものもまたもう一つの「夢」でしかない。「真実」はどこにも存在しない。これが「真実」で、あれが「夢」であると断言することはできない。理論的には、どうしてもそうなってしまう。だから、「あらゆる理由は不十分であり、あらゆる推論は決断である」。

この後議論は、じゃあ世界は「真実」を放棄して無秩序な「夢」の中で没交流化していくしかないのかという問いに対し、「決断」そして「信仰」によってそれをクリアしていくしかない、という重要な話になりますが、まあその辺はひとまずおいときます。

私は上記のような考えに結構同意する立場なのですが、ここで肝心なのは相対化の視線を自分にも向けるということでしょう。お前が見ているのは「夢」だが俺が見ているのは「真実」だという主張が必ずしも誤っているとは言えませんが(「真実」である証拠がないのと同時に「真実」でないという証拠もないから)、そう主張することで生じるのはお互いに異なる神を喚び出して戦う、泥沼の宗教戦争です。

そして、この手の宗教戦争に手を染める人というのは存外少なくない。それは実際の宗教の対立だけではなく、たとえば、テクスト解釈では「作者の死」をめぐる現代日本の言説なんかの中にもよく見られます。

ここで言うテクストは主に小説(物語)のことですが、こうした思想が生まれる背景として、「作者の考え」を小説からとりだすのが「正しい」読解であるという考え方がありました。いわゆる作家論的な読みです。しかしそれは、読者の自由な読みを唯一絶対の「正しい」読みによって圧殺するものだとも言えた。「作者の死」は、作家論が捉える「作者」なるものが唯一絶対である保証など何もないと喝破し、テクストを前に可能な読みは無限にあるということを示しました。つまり、「作者」という唯一の神から読者を解き放った。

しかし、「作者」を倒すために用いられた理論というのは、同時に他のあらゆる解釈の根拠も唯一絶対ではありえないことを示すものでもありました。だから、いわゆるテクスト論に乗るなら、作家論的な読みもまた一つの読みの可能性として、平等に残されているはずです。「作者」は死ぬけれど死体は残る――神の地位から逐われたにすぎない、ということになるでしょうか。

はじめの『マトリックス』の話でいえば、すべてが「夢」として同じ地位に並んでしまうのです。にもかかわらず、「夢」から抜け出すときに仮の「真実」とみなす世界が存在するせいか、「作者」を「夢」であると指摘できる立場こそが唯一絶対の「真実」だと素朴に主張する論というのを結構見かけます。

もちろん、「作者」という神について別の神を立てて、どちらが「正しい」かを争うということ自体は可能です。だから「作者の死」には、神そのものを解釈の世界から放逐する無神論的な「作者の死」と、別の神への改宗を迫る宗教戦争的な「作者の死」という2通りの意味があるというのが適切かもしれません。

ですが、無神論的な「作者の死」の理屈を使いながら、自分は別の神を崇めているという場合があって、これは端的に矛盾というか破綻しています。そして、おそらく無神論的な解釈から解釈同士の交流の可能性を見出す道すじと、宗教戦争から解釈同士の交流の可能性を見出す(私は泥沼だと思うけれど)道すじは異なっているはずなのですが、破綻に巻き込まれるとそれが見えなくなってしまう。

結果的に、自分に都合よく相矛盾する理屈を使い分ける「無敵理論」を形成し、相手と交流するのではなく単に圧殺するだけの、もっともたちの悪い殺戮マシーンが一丁上がりとなるのではないかという危惧があります。それは、私も含めて本当に陥りやすい罠だと思う。

最初に取り上げた本のタイトルが『正義の哲学』であることも含めて、 「正しい」解釈をめぐる諸々について、いまいちどじっくりと考えてみたいなと思ったのでした。

対話の品性

ネットではよく、人が「怒り」を表明している姿を見かけます。

リアルでも、特に職場などでは少なからずありますが、ネットは顔が見えないぶんリミッターが外れやすいのでしょうか、やたら口汚く罵倒し、しかもその様子が支持を集め、さらなる罵倒を呼ぶ……というシーンが多い。

しかし、こういう形で罵倒をしている人を見ると、私はどうも「うっ」となる。

昨日もとりあげましたが、『ヒンシュクの達人』という本の中で、ビートたけしがこんなコメントをしていて印象的でした。

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 最近、「自分が勝った」と思った瞬間に、相手をトコトン叩きのめしてやろうという感覚の人間が増えたような気がする。自分のほうが有利だとわかった瞬間に居丈高になるんだよな。
 スキャンダルを起こした有名人をネットで批判するヤツラもそうだ。絶対安全圏から、どん底に落とすまで叩きまくる。(中略)
 人間、自分が圧倒的に優位な立場にいるときに、相手にどう振る舞うかで品性みたいなものがわかる。「溺れた犬は叩け」じゃないけど、弱ってる相手、弱い立場の相手をかさにかかっていじめるのは、とにかく下品なんだよ。
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「下品」というのは、言い得て妙というか、そうだなぁと思います。もちろんそれは一つの価値観ですから絶対に正しいとは思わないけれど、私のように気弱な人間からすれば、「あの人にはちょっと近寄らないでおこう……」と思わせるに十分な力がある。

まして、自分には無関係なことで、よく知りもしないのに相手を「断罪」し、周囲と一緒になって罵詈雑言を並べ立てている人というのは、「私が似たような状況になったら、同じようにこちらの事情も考えずに責め立てて来るんだろうな」と思わせるに十分であり、その段階で親密なお付き合いを遠慮したい気持ちになります。

勘違いしないでほしいのは、別に批判することそれ自体を悪いと言っているわけではないということです。攻撃的なことも、口が悪いことも、私としてはそこまで気にしない。私の友人や、ツイッターのタイムライン上の人で口の悪い人なんてたくさんおられるけれど、その大半は「勝負」をしている人です。反論されるかもしれないし、自分も同じように攻撃にさらされるかもしれない危険と覚悟を背負って発言している。「下品」というのはだから、本質的には言葉遣いとかの問題ではありません。

たけしのことばを借りて言えば、「絶対安全圏から」見下すような態度、自分への反論を完全にシャットアウトするような「断絶」の態度をとること。これが、私の考える「下品」さです。なぜ「下品」に感じるかというと、そのような態度はコミュニケーションの放棄であり、他人の存在を無視することに対する開き直りだから。そしてそういう態度の人は、攻撃される心配が無いので、えてして攻撃的で、乱暴なことばを用いやすいだけだろうと思います。

人は誰も、自分の枠の中でしか他人を推し量ることはできません。コミュニケーションには、おのずと限界がある、ということはわかります。しかし、だからこそというべきでしょう、自分の枠には収まらない部分があるということを常に意識し、外側へと回路を開いておくことが大切だと、私はそのように思っています。だから、その回路を自覚的であれ無自覚であれ、閉じている人は敬遠したくなる。その印象を表現すれば、「下品」というのが近い。

具体例になるでしょうか、ちょうど、こんな記事がありました。

 ▼「表面だけの正義の味方になるな」(おやじまんのだめだこりゃ日記)

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2013年11月19日
 表面だけの正義の味方になるな

友人が知人から仕入れてきた話。以下、友人からのまた聞き話だ。

詳しくは言えないけれど、俺の知人はいまクレーム対応でてんてこ舞いらしい。その知人が言うには「本人からのクレームならまだいいが、被害を被っていない人からの苦情が多くて、そっちの対応がたいへん」らしい。被害を被った人はその対応も実に紳士的なのだが、そうでない人は世の中の正義を振りかざしてくる。その姿はまるでネットイナゴそのもののようだとさ。

知人は「マスコミのスタンスってのも報道各社によってかなり違うみたい」と言っていた。物事をいろいろな角度から見て、できるだけ全体像を見せようとするところと、新聞社のくせにゴシップ的な書き方しかしないところ、その中間に位置するところと、はっきりと別れるらしい。ついでに言うと、ゴシップ的な書き方しかしないところはニュースバリューが落ちると見向きもしない。真実なんてそっちのけで、世間が騒げばそれでよしにしか見えない。そんなところがニュースを流しているし、そんな偏った報道しか見ていないんだから世の中もおかしくなるよなー、とかなんとか・・・

この話を聞きながら、俺もマスコミに踊らされて表面だけの正義の味方にならないよう気をつけないとなー、と思った次第。
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被害を受けたわけでもないのに、義憤にかられてクレームをつけてくる「表面だけの正義の味方」。これが「下品」の典型です。

彼らによって本当に対応が必要な人へのケアが遅れるとか、そういう実務上の問題もありますが、それよりなにより絶対安全圏から遠距離射程で一方的に攻撃を仕掛け、相手が倒れるのを待つという姿勢がここにある。

もちろん、本当の戦闘ならそのような戦い方にケチをつけるような野暮はしません。しかし、言論の場というのはお互いに噛み合ってナンボというか、意見を戦わせることで生産的な考えを生み出すことが目的でしょう(繰り返しますが、これは1つの信念として)。そういう場で、一方的に攻撃するバリアを張る、あるいはバリアがある状態で好き放題暴れまくるというのは、やってはいけないことではないけれど、そういう人と好んでお近づきになりたくはないですね。

とはいえ、そういう意味で品性を保ち続けるというのは実に難しいことで、私もそれができているとは到底思えない。無自覚に、あるいは自覚しながらやっていまっていることというのは多々あって、後から振り返って「あ~あ……」と恥ずかしくなること数知れずです。後悔先に立たず、後も絶たず。

だからこそ、せめてもの抵抗というか戒めというか、「まずは形から」的な意味で、なるたけ言説の場では激昂せず、落ち着いた言い方で喋りたいと思っているのですが、先日「慇懃無礼だ」とか「遠回しに回りくどいことばかり言ってバカにしているように聞こえる」みたいに言われてしまい、軽くへこんでいます。

対話って難しい。

ノートのとりかた

巷では、「ノートが綺麗な生徒は成績も良い」みたいなことを言って売り出しているノートなんぞもございますが、多くの人はこれを見て、「ホントかよ?」と思うのではないでしょうか。あるいはもっとはっきりと、「嘘だッ!!」と。

実際、私の学生時代の経験から言っても、またその後関わった教育産業時代の経験から言っても、ノートの見栄えと成績に相関関係は無いような気がします。古代文字だかミミズがのたうち回ってるんだかわからないような文字で、メモ程度のものしかとらないのに成績が良い学生はかなりいますし、それ以上に、やたら綺麗なノートをとるけれどいまいち成績がパッとしない生徒がいる。

確かに、ノートにするということは自らの思考を整理し、わかりやすい形に整えるということです。だから、ノートをきちんととれる人というのは成績が良い、と言いたくなるのは理解できる。ある意味正しいことであるとも思います。しかし、ここで問題なのは「ノートをきちんととる」ことが、「ノートを綺麗にとる」ことと、必ずしも一致しないということです。

「きちんと」というのはおそらく、ノートをとる本人にとって意味のある、わかりやすい形で、ということです。一方「綺麗に」というのは、第三者から見てわかりやすいように、ということ。非常に乱暴に区別すれば、前者は理解力の問題であり、後者は説明能力の問題です。

ノートは自分にとっての思考の整理だから、「自分にだけ」わかれば良い。そんな風に考える人の作ったノートは、おそらく他人から見れば見づらいし、「よくわからない」ことが書いてある。一方、ノートを他人に見せたり、あるいは自分がしばらくたってから見返す必要があるから、忘れても大丈夫なように形を整えておく……という、そういう人の作るノートというのは「リアルタイムの思考」を離れ他人の目を意識した、ぱっと見理解しやすいものになるのではないでしょうか。

前者が掘り下げ型の思考、後者が俯瞰型の思考であると、そんな風に言ってしまうと言い過ぎかもしれませんが、得意な思考の形態が異なっているのではないかと、私は思っています。

ただ、根本的な問題として、ノートをとるのが下手な生徒というのはいます。

ものすごく綺麗にノートをとっていても、そのことに必死になってしまったり(特に女の子に多いのですが、カラフルなデコレーションや細かいレイアウトどりに躍起になって、内容をさっぱり覚えずにノートだけとっている)、あるいは自分でその時はわかっているつもりで箇条書き風のメモを書いているけれど、あとになって見直すと何を書いているか理解できずに往生したり(ズボラな男子学生に多いでしょうか)。

また、そもそもの問題として中学や高校では(最近では残念なことに「大学でも」と言ったほうが良さそうです)、居眠りが多発します。ノートをとるという作業をしていると、かなり居眠りの率が落ちますから、それを防ぐ意味でも「ノートをとれ」というふうに言うのは、一定の効果が見込めることでしょう。

また、言うまでもなく「情報の取捨選択」をするのにもノートは有効です。授業を聴きながら、本を読みながら、「ここは大事だな」「ここはメモしておこう」と思ったところを記録する。極めて有意義なトレーニングです。

そういった場合に、いわば学習スキルの一つとしてノートのとりかたハウツーを言い立てる意味はある。意味はあるどころか、かなり効果的だと思う。それなのに、「ノートが綺麗な生徒は成績が良い」のような不正確でいい加減な言い方をしてしまうと、多くの人にその「良さ」は伝わらず、勿体無いんじゃないかなぁ。

なんか手帳の書き方みたいなのでも似たような雰囲気を感じるんですけど。

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突き詰める思考と、表現と

私は仕事柄どうしてもある程度論理性を持った会話、議論というのを求められることがあります。その時によく使われる方法の一つに、「突き詰めて考える」というのがある。

他の現場ではどういう言い方をしているかは分かりませんが、たとえばこんな感じです。

+++++
生徒「人間は自由であるべきなんだから、校則とかなくして欲しい」
教師「人間一般の自由を盾に取るなら、教師側にも自由を認めるけど良いか?」
で、教師が体罰をガンガンやりはじめる。
+++++

うーん。上手な例かどうか分かんないですね……。言いたかったのは、生徒は自分たちの自由が欲しくて、その根拠として「人間の自由」みたいな話を持ちだしたけれど、「人間の」自由だというのなら、その自由は教師側にも認められねばなりません。結果、「万人の万人に対する闘争」みたいな状態が引き起こされるかもしれない……。

「そんなつもりで言ったんじゃなかった!」と言っても、意図せずその人の主張の中に織り込まれてしまう内容というのがある、ということです。

何かロジックを組むんだけど、そのロジックが自分に都合のいいようにしか解釈されておらず、必然的に導かれるはずの他の観点を見落としているときに、こういう事態が発生します。「突き詰めて考える」というのは、要するに、あるロジックについて考えうるさまざまな論理的な帰結をきちんと検討する、ということです。「枚挙」みたいなイメージといえば分かりやすいのかな。

分かりやすい具体例になるか不明ですが、エロゲーについて私がこのパターンでよく問題にするのは、「リアリティ」がどうこうという話の場合です。

「リアリティがあって良かった」、「リアリティが無いからいまいちだ」という言い方が良くないというのは、過去に何度か記事にしたことがありました(「これ」とか「これ」とか「これ」なんですが、まあ参照する意味はあんまりないです)。

細かい話はざっくり省いて議論を進めると、「リアリティがある恋愛描写が良い」みたいな評価を迂闊にしてしまうと、よりリアルな表現のほうが良い(たとえば、実写のほうがエロゲーより良い)という話にもなりかねないし、また極論、エロゲーで恋愛やるより現実で恋愛やってるほうが良い(エロゲーをさっさとやめるべき)ということにもなりかねない。

もちろん、ことはそんなに単純ではないのですが、「リアリティ」なり「リアル」なりということばの便利さに頼りすぎると、自分では想定していなかったような結論を導いてしまったり、死角から思わぬ反撃を被弾する可能性はある、ということは意識しておいても良いのではないかと思います。

書き手の側の予防策としては、なるべく誤解がないように自分の使う語の意味を適切に絞るような表現を用いる。これに尽きるでしょう。自分は「リアリティ」という語でこういうことが言いたいのだ、という内容がはっきり伝われば問題ありません。逆に言えば、書き手がいい加減にことばを使うから問題がややこしくなっているのだとも言える。

私も感想とか書いている身として、(とても難しいことではあるのですが)できる限り気をつけたいと、常々思っています。

しかしこの話、書き手の問題ばかりとも言えない部分があるのではないか、そんなことを最近考えておりまして、というのも、読み手なり聞き手なりのほうが、あきらかに「文脈」を無視している場面に何度も直面したからです。

まあ詳細な話は都合もあって挙げづらいのですが、要は単なる揚げ足取りをしているだけなのに、「突き詰めた」思考をしていないからといって相手をけなしたり、ダブルスタンダードだと断じて取り合わなかったりというようなことがあった。いや、私も似たようなことやってるとか言われそうですが。

自分を棚に上げて言えば、確かに論理性を突き詰めるとおかしなことになるものの、文脈を追えば言いたいことは理解できるだろうにという場合もあり、少々教条主義的というか、「不親切」な批判をしているなぁと。たいていの場合、それは表現の問題であって思考そのものの問題ではないので、両者を切り分けて整理し適切な表現を探すほうが、どちらかといえば生産的な気がします。

このあたりの解決は、もう文字通り書き手と読み手、語り手と聞き手の相互作用によるものだとしか言えず、読み手がどれほど気をつけていても、書き手が気にしていなければ内容をきちんと読み取ることは難しいですし、逆に書き手がどんなに気を配っていても、読み手の側が意識していなかったり前提を共有していなければ、伝わることは希です。

そもそも、伝えたい内容が100%伝わるということなどありえない、という話もありますが、たとえそうであったとしても、なるべく誤解を招かないよう、あるいは自分の意志がはっきりと伝わるような表現というのは目指されて損はありません。

「突き詰める」思考というのは、そういう意味でコミュニケーションを正確かつ円滑に行うための手段であり、一種の配慮であるはずです。

ですから、「突き詰める」思考を要求して、かえってコミュニケーションが取りづらくなるというのは本末転倒の気がしないでもないのですが、正確な表現を目指さない相手とはそもそも会話を成り立たせる必要がない、という考えの人もいますから、まぁなかなか難しいところ。

とりあえず私は、他人に無理やり押し付けるタイプのものではないし、実践できていない人を問答無用で切り捨てるような類のものではないと思っています。そもそも、自分が満足にできないから、そうされると困りますしね……。

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物語の「理由」づけを巡って

先日ツイッターで回ってきた、三秋縋氏のこのツイート。








単純なことが良いとは限らない

お昼休み、定食屋でご飯を食べていると、隣のテーブルについた、大学生らしき(会話の内容から)集団がこんなことを言っていました。

 A君「あの先生の授業マジ分かんねぇわ~」
 B君「話が飛ぶし、知らないことを知ってる前提でいうからたまんないわな」
 C嬢「そうそう、もうちょっと分かりやすく説明してほしいよネ」

忠実な再現ではなくて「だいたい」の内容ですが、まあニュアンスは伝わるかと思います。んで、こういうのってちょっとかっこ悪いよなぁと思いながら聞いていました。

中学生・高校生なら「わからないから教えて欲しい」というのはまあ、アリという気がします。しかし、大学生にもなって――これは単純に年齢の問題というだけではなくて、日本では特に大学というのは自主的に学問をしたいという人が進学する高等教育の場であるということを踏まえて言っています――、「知らないことが出てきているから教えて欲しい」というだけならまだしも、「説明しない先生が悪い」と相手の責任にしてしまうというのは、どうなんだろうと。

こういう、「自分にわからない話が出てきたら、わかるように説明しない相手が悪い」式の論法というのは比較的よく見かけますが、下手をすると「自分は余程の大物です」と言っているか、「自分は力不足だけど直す気ありません」と言っているかのどちらかに聞こえてしまう、ということに気づいていない人が案外多いようにも思います。

たとえば、誰が見ても知識や経験が豊富な人が「君の言っていることは僕のように無知な人間にはよくわからないから説明してほしい」と言う時は、ある程度教養のある自分にも分からない言い方になっているから、普通の人が聞いたらもっと分からない。もう少し考えて喋れと言っているのだととれます。

一方、たとえば私みたいなぺーぺーの人間が「ごめん、意味わかんないんだけど、もう少しわかるように喋ってくれない?」とか言うと、「お前何様だよ」という話になります。相手の言うことがわからないのは、自分の知識が足りないからではなくて相手が悪いのが前提になっているんですね。相手の言っていることをきちんと考えたり調べたりする気はありませんと宣言しているようなもの。私が実績のある大家ででもない限り、偉そうな態度であるのは間違いないでしょう。

そして、「偉そうな態度」が中身の伴っていない見せかけだけなら、そういう姿勢は「私は知識が足りていないけれど積極的に自分で調べるつもりはありません」と言っているようなものですから、「力不足だけど直す気ない」態度ととられても仕方がないんじゃないかと思います。

今回目撃したような、「自分にわからない話が出てきたら、わかるように説明しない相手が悪い」式の論法が臆面もなくはびこる理由には、「伝わるように言いましょう」式の教育であるとか、書き方のハウツーが流行った影響というのが、少なからずあるだろうと私は考えています。

教育現場に携わっている人と話をすると、「最近の子どもは理解力が低いから、教えられる内容のレベルがだいぶ落ちた」みたいなことを言っている。それは実際にそうなのかもしれませんが、じゃあ昔の学生は「難しいこと」を言っても一発で理解していたかというとそんなわけでもないでしょう。

自分自身の経験と照らしてみても、全然わからないことを、わからないなりに考えて考えて、半年とか1年とか経ったころにふと、「ああ、あれはそういう意味だったのか……」と、他のこととの関連で自分なりに飲み込めたりすることが多かった。

結局、「いまの子は飲み込みが悪い」とかいってレベルを落とし、「分かりやすくて丁寧な」話ばかりするようになったということが、いっそう「わかりにくい内容」から生徒たちを遠ざけている。そういう側面は間違いなくあると思います。

文章の書き方なんかでも似たようなもので、「多くの人に伝わるように、分かりやすい内容を心がけましょう」というハウツーが浸透したわけです。昔は、何か勿体ぶった・小難しい書き方をして重みがあるように見せるなんていうのも流行っていましたが、その逆ですね。

まあ何でも難しそうに書けってのは馬鹿げた話ですけど、だからって分かりやすいのが良いってのも、何か妙な話です。たとえば文章って、「正確」なのが良い――そんな考えがあっても良いのではない? そういうツッコミを入れたくなる。

ちょっと前に読んだ、仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか』(晶文社)という本の中に、こんなことが書かれていました。

ステマに関するおぼえがき ~ステマが嫌がられる理由

なんか「あまちゃん」のコメント欄を巡る騒動で盛り上がってたので、本日は「ステマ」の話。

ステマということば、いっときは猫も杓子もステマステマと連呼して流行語大賞でもとりそうな勢いもありましたが、最近では随分落ち着いてきた感があります。ただ、やはりことあるごとに「これはステマだ」といわれるのを見かける。

でも、それじゃあステマの一体何が問題なのか、ということは案外きちんと問われていないようにも思います。たとえば、ステマに遭って学習参考書を買った結果、ものすごく学力が伸びて志望大学に合格できたとしたら……果たして、そのときステマは悪だと言えるのでしょうか?

そんなことを考えながら、ステマについての入り口というか基本的な話を、自分なりに整理してみました。

◆語義
半ばバズワードのように使われているステマということばですが、一応ある程度一般的な共通理解は存在します。分かりやすく詳しいものをネットから2つほど引用してみましょう。

 ▼Wikipedia「ステルスマーケティング

「外野」の恐ろしさ

先日話題になっていた、この話。

  ▼「恐怖の無断転載成りすまし入れ子構造」(Togetter)

「私のイラストを自作発言されました!!><」と他人の「なりすまし」にキレる素振りを見せていた人が、更になりすましだったという今回の事件。少々思うところがあったので、これについてコメントしてみます。

Togetterのほうにも書かれていますが、見るの面倒だという方がおられるかもしれませんので、登場人物と事件の経緯を簡単にまとめます。

(1) @shilomi_to463 氏 あるイラストを、自分が描いたものとしてツイート。
(2) @_Hana1224_  氏 (1)氏に対し、その絵は自分が描いたものだとツイート。
(3) @ume_yama5 氏 別のイラストを、自分が描いたものとしてツイート。
(4) @hanahana_1224_ 氏 (3)氏の絵は自分が描いたものだと指摘。(2)と同じ人。
(5) @hanakaTWT 氏 (2)、(4)が「なりすまし」であるとツイート。

笑うのを通り越して意味不明すぎて気味悪いくらいです。正直、「あまりにも綺麗にオチすぎ」ていてヤラセを疑いたくなるレベル。はなか氏がというのではなくて、「なりすまし」3名が共謀してネタを作った可能性はわずかに残るかな、と。

いやまあ、それなら「釣りでしたー」って言いそうだし、そもそも何の得があるかわかんないから、無いとは思いますけど。

というわけで、現実にあった事件と考えて話を進めますと、まず気になるのは「なぜこんななりすましをしたのか」っていう部分。ただ、そこはつついても出てくるものが少なそうな感じがする。

なにせ、データ不足が甚だしいわけでして。なりすました人の1人は鍵かけちゃったし、他の人もツイートが消されてるのか何なのかほとんど無く(@_Hana1224_ は111ツイート、@ume_yama5 氏は30ツイート)、しかも大半がリプライとか挨拶。行為に及んだ動機が「すごいですね」って言われたかったのか、お絵かきサークルにでも入りたかったのか、そういうのすら不明。

一応「それっぽいこと」を言おうと思えば言えそうですけどね。たとえば、彼らは想定しているコミュニティが狭い。おそらく、本来自分の「身内」の中でだけ賞賛を浴びられれば良かった。そこでは「なりすまし」が露見するとは想定していなかったのだろうとか。あるいは、想像力の欠如。「完成品」を見せたら、「メイキングを見せて」と言われることも想定して当然なのに、そこまで頭が回ってなかったのだろう、などなど。

ことほど左様に、動機とは違う部分での「なぜ」ならば答えらしきものを並べることはできる。でも、そんなのは想像にすぎません。もしかすると私たちが思いもしないようなロジックが働いているのかもしれず、それについて考える手がかりは余りに少ない。私たちはついつい、理解できない行動に「納得できる理由」をつけたがるけれど、それが時として無自覚な暴力となりうることは意識しておかねばならないと思う次第です。

と、少し話が脱線しました。じゃあ今回私が何言いたいかというと、この件に絡んでる「外野」の発言で気になったところがあったので、それについて。まあ、私も外野だろというツッコミはおいときまして。

気になったというのは、@ume_yama5 氏とフォロー関係にある、おそらくはリアルで面識があると思われる方に、今回の件を見ていた「外野」の人たちがリプを飛ばしていること。んでその内容なんですが……。

《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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