よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

その他

2枚獲り

モバマスで、初の上位SR2枚獲りに成功しました。ヤッター。

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過去のSRよりグッとアイドルらしさが出る衣装。素晴らしい。

イベント自体もチーム戦を凄く楽しんだし、良かった良かった。……通帳見るのが怖いですが。

2枚獲りも果たし、新田さんの素晴らしいお姿も拝めたので、しばらくモバマスは軽く流す程度になりそう。というか、毎回こんなことやってたら財布がもちません。ただでもエロゲーのためにストックしておかないといかんのに。2枚獲りのラインはボーダーの上がり方が半端無くてホントにびっくり。想定の倍くらいかかってしまいました。

イベント中に仲良くなった人がいて、2人とも私よりベテランでボーダー見極めとか知識とかもあり、火力もずっと高かったんですが、イベント最終戦にほとんど参加できなかった影響が大きかったようで、最後の最後ギリギリで追いぬかれておられてかなり切なかったです。一緒にゴールできていれば最高だったのになぁ。

私は常に200位ボーダーあたりを走り続け、最終戦は10分ごとのポイントのあがりかたを見ながら、予測値よりかなり上をキープし続けました。ムダの多い獲り方になってしまったけど、最初だからいきなりギリギリを狙うのは難しかったですね。次走ることがあれば経験を活かしたいところ。

上にちらっと書いた通り、今回はチーム戦でした。ただ、チームの中でも順位を競う仕様なので、いつもはもう少し殺伐とした感じになるところ、今回は皆で協力しあったり譲りあったり情報を教え合ったりという和気あいあいのチームでラストを終えることができました。今回2枚獲れたのも、そこで教えてもらった知識とか情報のおかげな部分が少なくありません。

上位報酬をとれた=恩恵を受けたから、余計によく見えているのかもしれないけれど(ワリを食った人がいたらやっぱり面白くなかったでしょうし)、終わった後の皆の挨拶も凄かったし、やっぱり雰囲気良くて楽しかったです。

何にしてもコミュニケーションがあって楽しいイベントになりました。参加者の皆さん、ありがとうございました(。・x・)ゝ!

そういえば、台風の影響でいらん仕事がスライドしてきて超絶忙しくなり……。ホントに台風の中の人は空気読んで欲しいです。


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戻らない青春

「中学・高校と女っ気が無くて灰色の青春だった」

飲み会の席。中高一貫の男子校出身だった友人Aが、およそそんなようなことを言いました。

それを聞いていた別の友人Bが返して曰く。

「ンなことぁない。可愛いなとか好きだなとか思っても、そういう子はだいたい先輩とか学年のイケメンと付き合うんだよ。それを、指をくわえて見てるしかない気分というのは、あまり味わいたくない。なまじ女子がいるほうがつらいこともあるんだぜ?」

なるほど。モットモです。私は高校くらいから既に二次元専門だったので、そこまで実感を伴って友人Bのことばを聞くことはできませんでしたが、雰囲気とか感覚はなんとなくわかります。なんだかんだで可愛いなと思う子はやっぱりいて、そういう子がクラスでも「選ばれた者」と付き合っていく様子というのは珍しくもなかったですしね。

サークルなんかでも、フリーだった女の子がメンバーの一人と付き合いだした途端に空気が悪くなったりという話はよく耳にします。常日頃接触の機会が多い「身近な相手」というのは、それだけ惚れた腫れたになりやすいし、いざことが起こったときの気まずさとかダメージも大きいのでしょう。

別にモテたいとかそういう願望が無くても、「ちょっと良いな」とか思ってた子が他人のモノになっていくのは扱いに困る。というか、めんどくさい。

別に「彼女や彼」に責任があるわけじゃありません。友人Bのことばを借りれば(完璧に覚えてはないけど)、「『どうせ俺とはつりあわないしなー。告ってもつきあうことにはならなかっただろうなー』とか、『いや、別にそんな好きでもないしなー、付きあおうとかいう発想になる時点でおかしいなー』とかいろいろ考えて自己嫌悪になる」。そう、めんどくさいのです。主に自分のメンタルが。

友人Aが「灰色の青春」と言って表現したかったのは、そういうレベルの話とは少し違う気がしますが、私たち(と、友人達もまとめてしまいます)みたいなあんまり女の子に縁が無さそうな(そして実際に無い)野郎どもには、男子校みたいな閉鎖空間のほうがかえって心の平穏を保ちやすい。そういうこともあるのかも。

ってなことを、『ゴールデンタイム』の小説版読みなおしてて思い出しました。そんなお話。

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まちあわせとめじるし

今日、東京駅八重洲口で友人と待ち合わせをしていたところ、二回ほど「~さんですか?」と話しかけられました。ビジネススーツを着ていたんですが……取引先の待ち合わせの人と勘違いされたんでしょうか。だとしたら、ちゃんと目印とか打ち合わせておいたほうが良いと思うのですが。

そういえば最近、ネット繋がりの方とお会いすることが増えまして、そのたび「目印」の選定に微妙に苦労します。

「緑色のカーゴに、白のTシャツで……」などと服装を説明してみたりもしましたが、存外難しい。

たとえば「デニム」と言ってみたところでイメージされるものは十人十色。名前のよくわからない衣服をまとっていることもままありますし……。「ハンチング帽」とか言われてもちょっとわかりません、という私みたいなおしゃれ音痴が他にもいらっしゃるかも。ただ、色合いとかは参考になるでしょうね。

また、分かりやすい場所だからといって人が多いところは苦労します。個人的にフザケンナと思うのは、「渋谷ハチ公前」と「新宿西口交番前」。人多すぎですわ……。分かりにくいし、人に酔って疲れるしで良いことなし。分かりやすいけど行きにくい、んな感じ。

やっぱり場所と持ち物をうまく組み合わせるのが最強です。そこそこ人が少なくて分かりやすい場所を指定して、「他にこんなの身につけてるヤツいないだろ!」くらい目立つアイテムを装備していく。これ最高。アキバとかでオフ会やる時はキャラクターTシャツとかいいですよね。

ただ、仕事帰りとかになるとなかなかそういう服装で行くわけにもいかず……。キャラクターのショルダーバッグとか缶バッジつけた帽子とか、そういう持ち運びに便利なものがあると良さそう?

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フリーターの定義から見る《若者》

余り知られていないかもしれませんが、「フリーター」ということばには、一応定義があります。

1991年、厚労省が「若者の人間力を高めるための国民会議」というのを開催し、その中で定義がなされている。それによればフリーターとは、(1)15~34歳の人。(2)現在就業している者については勤め先における呼称が「アルバイト」又は「パート」である雇用者。(3)女性については未婚者。(4)在学者を除く。(5)現在無業の者については家事も通学もしておらず「アルバイト・パート」の仕事を希望する者。

以上をざっくりまとめると、「15~34歳の男性または未婚女性(学生を除く)で、現在パート・アルバイトに従事している者か、もしくは現在無職であってもパート・アルバイトに就労を希望する者」という感じで要約できるかと思われます。

 参考: ▼厚労省「若年者問題に関する関係府省等の取組・連携の強化について

「パート」や「アルバイト」にもさまざまな定義があってややこしいので、そのあたりはいったん措くことにしましょう。いま注目したいのは、「15~34歳」という年齢の部分。

この定義を鵜呑みにするならば、35歳を超えたらフリーターではないということになるんですね。これは、厚労省がこのときに設定した「若者」の定義にそっています。

行政の「若者」定義というのは場面に応じていろいろと変わっています。それぞれ適当に決めている可能性は無きにしもあらずなのですが、ここで「15~34」が採用されたのには、それなりに時代的な背景が関係していそうな気はします。想像の域を出ませんがおそらく、1991年当時の状況では35歳以上で正規雇用されていない人というのは、あまり想定されていなかった。しかし、現在はどう考えても40歳付近で上記の条件に適う人がいっぱいいる。行政ははたして、かれらを何と呼ぶのでしょう。

91年というのは言うまでもなく、バブル崩壊から「安定成長期」が終焉を迎え、日本経済が長い長い混沌の時代へ突入しようとしていた時期です。15歳~というのは、形式的には義務教育が終了する年だから採用されただけだと思いますが、あとづけの結果的にいわゆる「ロスジェネ世代」(1975年ごろに生まれた世代)や「第二次ベビーブーム世代」(1971年ごろに生まれた世代)を意識させるものとなっています。34歳までというくくりがどういう枠組みから採られているのかはよくわかりませんが、意味としては団塊の世代は含まない、ということだったのではないかと想像します。

もちろん、現実の「フリーター」ということばは35歳をこえていようがアルバイト・パートとして働く人に使われることが多いし、意欲はあっても実際に就労していない人は「フリーター」ではなく「ニート」と呼ばれている。その意味で、厚労省の定義というのはあまり現実に即した内容とは言えません。

ただ、1990年初頭からすでに、30代中ごろの人間も就労者の中で「若者」(若年者)の範囲に入っていた、ということは面白いと感じました。たぶん、「若者」と言われて34歳を思い浮かべる人はそれほど多くはないと思う。実際会社員だとすれば、とても新人の年齢ではありません。しかしこと就労に関して言えば、行政上彼らは《若者》として、つまりはまだ成熟していない人間として扱われているわけです。


皮肉なことに

先日の艦これ記事、「ソース見ようよ」みたいに解釈された方が多くおられたようで、感想なども頂きました。勿論間違っちゃいないのですが、微妙に戸惑うこともありまして。

と申しますのも、タンブラーで私の記事が拾ってもらえたようなのですが、その拾われた記事からもと記事(私の記事)に辿ってきてる人ってアクセスログを見る限り1割ほどなんですよね。肯定的な反応が多いみたいなのに。

タンブラーからソースを辿る人が少ないというのは以前にも少し書いたことがあるのですが、ソース見ようという文章を読んでソースを見ないというのは、何とも皮肉な感じがします。

私の記事に力が無いといえばそれまでなのですが(ついでに、タンブラーの引用がかなり長いので文脈を誤読する可能性も低いと思われたのかもしれません)、読んだ内容に反応するのと実践するの違うということなんでしょうか。

いやまあ、浮気モノゲーム大好きな人がリアルでは一途な愛を貫いていたって別段構わないわけですし、いや、それはちょっと違うか。ともあれ理解や納得と実践は違うというか、「そういうもの」なんだと思います。でも実際目の当たりにするといろいろ考えてしまいます。

やはり書く側の反省として、言い方や表現の方法の問題は少なからずあるのだと思う。ことばに力を持たせるには、どうすればいいのかなぁ。

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ながいながいタイトルのはなし

そういえばブログ記事のタイトルって皆さんいろいろ工夫されてるんですね……。とある熟練ブロガーの方とお話をする機会があって、いろいろ新鮮でした。

私は、いわゆる「ブログのハウツー」みたいなのを余り知らないし、ぶっちゃけそんなに興味もありません。ただ、ブログを書き始めたときにあれこれ見たことはあって、基本「記事で書かれている内容がハッキリわかる」、「目を引く表現をする」、「キーワードを入れる」という3つがポイントとして取り上げられていることが多かったように思います。

そういう中で、へぇ……とおもったのはこちらの記事。

 ▼「記事タイトルのベストな文字数は? 8943記事のデータから探ってみた

ビジネス向けのブログ記事やWebページのタイトルの長さについて言及されたものですが、サンプルから「タイトルの文字数を何文字にするといいという明確なしきい値はない」という結論が導かれていて面白い。折角ですから、「~文字くらいが良いのです」と主張している側のエビデンスも見てみたい気がします。

まあそれはさておき、「TwitterやFacebookで共有されるときにはタイトルが中心になるので、多少長くても、タイムラインでざっと見てどんな内容か把握できる説明的なタイトルのほうが良い」というのは実際そうなんでしょうね。確かに、タイムラインに流れてきたブログ記事が「面白そう」かどうかを判断するのはほとんどタイトルですし。

まれにリンクを貼る人のコメントに惹かれて見る場合もありますが、大半の人はコメントを付けずにポストするので、やはり記事タイトルのキャッチーさというのは重要なのでしょう。

ただ、私はそういうのが苦手というか才能がないというか……。まあ今回の記事タイトルを見てもらえばお分かりの通り、あんまり「一発で内容がわかる」ようなタイトルを付けられないタイプです。キーワードくらいは入れますが。

一応ダメなりにちょっとひねってみたりすることはあって、たとえば自分では比較的いろいろネタを使ってるつもりだったり。今回はこれが元ネタ(ながいながいペンギンのはなし)。ちなみにこのタイトル自体が、カレル・チャペックの「ながいながいお医者さんの話」から採られています。

そんなん誰もわからねーよって言われそう。でもまあ良いんです。自己満足。ただ、もし知ってる人がいたらニヤッとできると良いなぁくらいで。

個人的な好みを言えば先程も申し上げた通り、あんまり長くて説明的なタイトルが好きではありません。嫌いってわけでもないんですけどね。この辺が難しくて、どう言えばうまく伝わるか……。

実際問題長くて説明的なタイトルというのはやっぱり閲覧の時に参考になったりはします。なるんですが、タイトルがそこで止まってしまう。見るキッカケにはなるけれど、見終わった後にタイトルに戻ってくることが無いとでも申しますか。

ここからはちょっとビジネス用ブログとかの話から離陸して、ラノベのタイトルとかのほうが分かりやすいかもしれません。ひと目で内容が分かってしまうタイトルというのは、読み終わったらある意味無用になってしまいかねない。逆に、最初よくわからない、もしくは何の飾り気もないように見えたタイトルが、物語を読み終わって戻ってくると鮮やかに色づいて見えたりすることがあります。

ゲームなんかでもそうで、プレイを終えた後に「ああ、このタイトルってそういう意味だったのか……」って諒解感が訪れる作品がある。そういうのが楽しいんですよね。そして、説明的で入り口としては目を引きやすいけど読み終わった後意味のなくなるタイトルより、多少わかりにくくても読み終わった後、そこで立ち止まって考えるようなタイトルのほうに好きの比重が高い。そんな感じ。

自分がそういうタイトルつけてるとは言ってませんよ(笑)。私のは単に思いつきとノリで適当に決めているだけです。

ただ、記事にしろゲームやラノベにしろ、タイトルってやっぱり内容の一部だと思います。『ドラゴンクエスト』が『姫がさらわれたので王様に頼まれて勇者の俺が助けに行くぜ』みたいなタイトルだったら、終わった後の味わい深さが違っていたんじゃないでしょうか。

エロゲーでいえばたとえば、『螺旋回廊』なんかはプレイ前タイトル見ても「なんじゃそりゃ」だったのが、プレイ後「おう、なるほど螺旋回廊……」ってなりました。他にもいっぱい「名タイトル」ってあるけど、それは例外なく物語の余韻を、タイトルが引き受けているものだったように思います。

あ、Mielさんとか(こんな感じ)くらい開き直ると逆に楽しいかもしれません。

物語にしろ記事にしろ長くて説明的なタイトルが悪いとは思わないし実利があるのもわかるけれど、私がどうしてもそこに一抹の寂しさを感じるのは、「読み終わった後」の感情を受け止める力が薄くなっているからなのかなぁと、そんなことを考えたのでした。

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おことわりします

郵便局のホームページにある、「デートの断わり(断り)」の文面。


参考:「デートの断わり(断り)」 ※外部リンク
(ゆうびんトップ > お手紙文例集 > プライベートの文例 > 縁談・恋愛(プライベート))

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 お手紙ありがとうございました。
 せっかくのお誘いですが、あいにく先約があってお受けできないのです。本当にごめんなさい。
 実はちょうどその日、学生時代の友人たちと食事の約束をしていたのです。○年ぶりに仲良しが全員集まるので、今さら断るわけにはいかなくて……。私の好みにぴったりのコンサートなので、御一緒したいのはやまやまなのですが、今回だけは御遠慮させてください。
 また何かすてきなプランがあったら、ぜひまたお誘いくださいね。
 まずは、取り急ぎお返事まで。

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デート断るのにテンプレがあるというのは驚きですが、まあ、あったほうが書きやすいのはそうかもしれません。さすが日本の手紙を支配する郵便局、芸が細かい。惚れます。

真面目な話、飲み会にしろデートにしろ、「おことわり」をしないといけない局面というのはいくつもあるわけでして……。本当に事情がある場合から、単に行きたくなくてサボる場合まで。で、とにかくもっともらしい理由付けとか、相手を傷つけない断り方、みたいなのが昔からあれこれある。

ただこれ、「言われる側」としては嘘かホントかわかんないので、ぶっちゃけ連絡が来るだけマシみたいなところもあるんですよね……。飲み会の幹事みたいなことを何度かやったりもしたのですが、ほんとに困るのは「連絡来ない」パターン。

デートでも、90年代のドラマや漫画では「待ち合わせの場所ですっぽかされる」シチュエーションというのがよくありました(最近もあるか)。連絡が来るということは、まだ相手への配慮がある(その連絡をもとに行動できるから)わけですが、連絡なしのプッチはそういうのが感じられず、「おいおい」と思ってしまいます。逆に、嘘だろうがなんだろうが、連絡をくれたということは最低限の礼儀は果たしてくれたかなという気がしないでもないので、まあ良いかなという気になる。

というわけで私は、「連絡さえくれたら」派なのですが、世の中には「別に連絡なんて無くてもいいよ。来られないんだからしょうがないじゃん」という寛容な人も、「俺の誘いに応じないとはけしからん。万難排してこちらへ来い」というタイラントな方から、「来られないのはしゃ~ないけど、こういう飲み会に来ないって協調性足りないよね~」みたいな結果主義者まで、いろんな考えの方がおられます。

当たり前ですけど、そういう相手の性格にあわせて「おことわり」の方法を考えるのが(ずるい意味ではなくて)対人関係・礼儀というもの。ただ、そういう肝心な部分って「文例」からはどうしても読み取れない(こちらの都合を言うものでしかないから)んですよね。なので個人的には、文例見ながらウンウン唸るより、相手がどんな人かを考えながら書いたほうが良いのではないかなぁと思ったりします。

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見えないものは怖いという話

わかりやすさを考えると、ぶっちゃけあんまり良いタイトルだとは思わないのですが、他に適当なのも思いつかなかったので。

「パーナさん事件」なるものに関して色々意見も出揃ってきたし、そろそろいい具合に落ち着いてきたので情報をあつめていまして。その中で、次の記事を読みました。

『パーナさん事件』は現代の口裂け女だ」(「九十九式」2013年7月29日)

「パーナさん事件」そのものについてはまだ考えがまとまっていませんので言及を避けるとして、非常に印象に残ったのが、結びの部分。ちょっと引用させていただきます。

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かくして、現代は「都市伝説が一晩で生まれる時代」となった。この拡散に加担した「パーナさん」達は、動機がイタズラや嫌がらせではなく、彼女たちなりの善意と義憤だから始末におえない。「 まわさないあなたも加害者ですよ。」という不幸の手紙のような脅し文句のついたRTもあった。

警備員の写真を流して誹謗中傷をしたり、青山学院開放という嘘を拡散したりするのは、紛れもなく「悪事」なのだが、彼女たちは自分たちが加害者になっている自覚もないし、おそらく少なからぬ「パーナさん」たちは、これらのデマをデマと気づくことなく、「東京で私たちの仲間がひどい目に遭った」と信じたまま日常生活に戻っていくのだろう。暗澹たる気持ちになる。


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さらっと書いてありますが、「動機がイタズラや嫌がらせではなく、彼女たちなりの善意と義憤だから始末におえない」というのは、まことにその通りだと思う。これは「パーナさん事件」だけにとどまらない、私たちの社会に関する示唆に富んだ問題でしょう。

一般に――はどうだか知りませんが、少なくとも私にとっては、「悪意」は余り怖くない。いや、悪意それ自体は自分に向けられると鬱陶しいし、イヤですよ。ただ、「善意」に比べると薄気味悪さのようなものは感じません。

ストーカーなんかを想像してみると良いでしょうか。悪意を持ってつけ狙ってくる相手より、「向こうは善意のつもりなんだけどこっちからするととんでもない迷惑」みたいなパターンのほうが、私は怖いです。で、その怖さというのは、「何をされるかわからない」という恐怖だと思う。

悪意は、それなりに読めます。もちろんこちらの想定外の、とんでもないことをしてくる可能性というのはありますが、それが悪意ならなんとなく前兆がわかる場合が多い。しかし、善意の場合、まったく読めない。向こうが「善かれ」と思ってやっていることが、こっちには大迷惑なわけですから。

これはまあ、いろんな解釈ができるとは思いますが、今回私が言いたいのは「認識のズレ」ということです。上のようなシチュエーションで悪意に薄気味悪さを感じなくて済むのは、相手も自分も、ある行為を「悪」だという共通認識が成り立っているからです。言い換えれば、自分と相手は同じ土俵・同じ社会の中にいる。

一方、相手にとっての善意が自分への悪意として働くというのは、自分と相手とが、共通の文脈の中にいない、ということです。これが、恐ろしい。気味が悪い。理解できないもの、得体のしれないものを感じ取った時の不安――それはまるで幽霊を目の当たりに見ているかのような――を抱きます。「言ってもわからない」というのが、単なる制度的・世代的な食い違い、あるいは理解不足や能力不足ではなく、根本的に何か違う世界にいるのではないか。そんなふうに見えてしまう。

気取ったことばでいえば、こういうのもまた「他者」(もちろん、大文字の「他者」)に対する根源的な不安、ということなのでしょうか。いや、それは言い過ぎかな。ただ、ある種の「他者」性ははらんでいると思う。日常の中にふと顔を覗かせるような類のものではないにせよ、「うっ」と立ち止まりたくなる。

「九十九式」の書き手の方は、「パーナさん事件」を引き起こした彼女らのことを「始末におえない」と言い、最後に「暗澹たる気持ち」を表明しておられますが、これはある意味、自分たちのロジックに「彼女たち」を引き入れようとする試みだと言えましょう。そこからはみ出るものを、「足りないもの」「劣ったもの」と位置づけることで、自分たちの体系の中に組み入れる。

そのようにしてしまえば、恐らく私が感じているような不安は、消える。消えるのですが、それで良いのか、という疑問も残ります。彼女らに対して感じている違和感を雲散霧消させるということは、彼女らに対する――ひいては(大文字の)「他者」一般に対する冒涜ではないのか。

むろん、「他者」をそのままに受け入れるなんてのはどだいムリな話ですし、現実問題として私たちは「他者」と何らかのかたちで付き合いながら社会をまわしていかなくてはなりませんから、「始末におえない」のような取込み方をするのが適切なのだろう、というのはわかります。

しかし、そうやって無理やり押さえつけようとしていたものが大きな勢力となったとき、社会には軋みが生じ、繕うことのできないほころびになっていく、というのもまた、歴史が証明する事実です。「パーナさん」たちの形成するアジールがそうであるかはひとまず措くとしても、私たちは「見えないもの」の怖さに対して、もう少し敏感であっても良いのかもしれません。

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Kの墓

先日まとめサイト各所にも取り上げられていましたけれど、漫画版『こころ』に載っていたというこのシーン。

Kの墓
Kの墓。

ないわ(笑)。

え~。これ、コラとかじゃなくてほんとにこういう表現なんですかね……。どこぞのスーパードクターの墓かと思いましたよ……。

漫画版『こころ』って幾つか出てると思うのですが、これどの本なんでしょう。たぶん初出ではないかと思われるこちらのツイートには(各種まとめサイトが掲載している掲載元のスレ(こちら)より、2ヶ月ほど早い)、特に言及も無く。


線の感じからすると少女漫画っぽい? 榎本ナリコ氏のバージョンとか、イースト・プレスの「漫画で読破」シリーズのとかあるので、ちょっとわかりません。ネタにしたし、機会を見つけて調べてみます。

いやあ、それにしてもシュールです。

「K」が本名かどうか以前に、墓石の表面に「○○家之墓」や法名ではなく、俗名をババーンと載せるとはまた斬新な。しかもそれが「K」ですからね。全方向ノーガードすぎてツッコミが追いつきません。

というか、真面目に考えてこういう表現(つまり「K」が固有名であるかのような表現)をしてしまうことは、やっぱり問題含みの気がします。漱石の『こゝろ』という作品に、固有名詞がほとんど出てこない(「先生」の奥さんは「静」、お母さんは「お光」という名前がありますが)。「語り手」である「私」は、作品冒頭で、こう言っています。

「私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。」

これは、「遺書」において親友を「K」という「よそよそしい頭文字」で呼ぶ「先生」との対比がとられているわけで、「K」という呼び方を「先生」がしているときには、死した親友とすら距離をとるある種の突き放した「よそよそしさ」が含まれていなければならないのだと思います。

語り手と、語り手の語る内容と、事実の関係というのは、小説が持つひとつの特殊な「技法」であって、漫画や映像にするのは凄く難しい。そもそも漫画だと、《語り手》と《語られる私》とをわけるのも困難ですしね。そのあたりをどう処理するかが腕の見せ所。果たしてこれは、上手くいっているや否や。

まあ、「先生」の悲嘆と悔恨の頭上に「K」という文字が佇んでいるこの漫画版の図柄は、「先生」自身の感情と理性の乖離を用言すると同時に、そのシュールさゆえに私たちをかえって物語への没入から引き離し、「よそよそしさ」を描きとっている……と言えなくもないのかもしれませんが、さすがにネタ臭が漂いすぎて、いろいろ台無しの気がする。単に現実離れした印象を与える効果にしかなってないような。そのへんは受け取り方次第なのかもしれませんけど。

Kの位牌
Kの位牌。

やっぱりないわ~(笑)。

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カンニング問題

Togetterでまとめられていた「カンニング」に関する問題を読んでの、ちょっとした感想です。

参考 :「試験問題作成の憂鬱、カンニングはなぜいけないのか」(Togetter)

内容が結構あちこちに飛んでいるし、複数の論点があり、読者がどこに比重を置くかで解釈が変わる部分もあるので、本当は更に詳しくまとめたほうが良いんでしょうけれど、めんどくさいので省略。

とりあえず、ここで言われているのは試験の理念および目的との関係でカンニングが考えられるべきである、ということです。「「ダメに決まっているだろう」という人は多いが「なぜダメか」という理由については皆に一致する強力な論拠があるわけではない」というのが、全体を貫く軸(であると私は読みました)。

で、確かにご説ごもっともではあるんですが、ぶっちゃけ大学レベルの高等教育の話に限定されてる議論なんですよね。渡邊芳之さんはそのスタンスで語っておられるし。だから、大学未満の場所での試験ってどういう目的なのか、ということには余り触れられていない。そこで高校・義務教育段階に触れてみましょう、というのが今回の記事。別に、Togetterの内容に反対ということではないです。むしろ賛成に近い。ただ、大学未満だと様子はだいぶ変わるんじゃないかなという直感(直観ではなく)で出発しています。

じゃあ高校以下ではカンニングってどうなの? と言われたら、こりゃあまあ、大部分の人の答えは「悪」でありましょう。私も同意。持ち込みもアカン。そして、大学の場合とは異なり、概ね「皆に一致する強力な論拠」があるように思います。

なんせ高校以下の学校での学習は、学校の方針によって変わる部分はあるにせよ、基本的に「基礎学力」の習得と定着にあります。中卒で働くにせよ、大学以上で高等教育を受けるにせよ、「次のステップのために必要な知識を身につける」ことが目指されている。大学レベルなら「方法」を学ぶというのがメインにできそうですが、高校以下は、「方法」を用いる下地づくりです。

身につけるということは、自由に使いこなせるということです。たとえばシューティングゲームにたとえて考えてみましょう。Togetterにまとめられているのは、基本操作ができる状態で、あるステージで出てくる敵の対処法を覚えていなくても攻略本を見れば良い、という話。しかし、いくら「マニュアルを読めばできる」からといって、操作方法を全く覚えずいちいちマニュアルを見ていたら話になりませんよね。

格ゲーで言えば、対人で対戦するのが大学のテスト。その前に自キャラの操作キチンとできるようになってないと、いちいち波動拳コマンドからググって確認してるようではお話にならない。

足し算引き算は、電卓使えばできます。でも、現実にはお釣りを出す時に電卓叩けない。単語の意味や故事成語は、辞書を引けば載っています。でも、他の人との会話の際、あるいは自分が意見を述べる際に、いちいち辞書を引けない局面はたくさんでてくる。求められているのは、そのレベルの基本です。

小中高くらいの学習というのは基本を叩きこみ、どのくらい達成したかを確認するのが目的ですから、カンニングされたらその判断ができなくなります。

他にも、大学入試を考えたら大学の制度が持ち込み不可のところが多いから、トレーニングとして自分の力だけで解くように教えるのだという考え方や、カンニングは悪であるという一般通念を身につけさせる道徳的配慮だとか言うこともできるんでしょうが、このあたりは外的な問題で、システムが変われば消えてしまう話なので措くことにします。

肝心なことは、大学までで学ぶことというのは原則、自分の血肉になっていないと話にならんようなものだ、ということです。大学以上のレベルのことばかりに目が行くと見落としがちですが、きょうび、たとい「持ち込み可」にしても答案を書けない学生なんてやまのようにいます。高校ならたくさん、大学でも少なからず。

なんせ、資料を参照しても文字が読めない。以前古典を教えていたとき、単語帳に現代語訳で「奥ゆかしい」と書いてあったのですが、「奥ゆかしいってどういう意味ですか?」と訊かれたことがありました。そんな子が、辞書をひきひき形だけの訳文を書いたって高校教育としては意味無いわけです。

大学以下の試験の目標というのは、評価付けは副次的なものであって、本来的には、学生の知識の定着を(危機感を煽るというかたちで)サポートしたり、結果から自分に足りていないところを確認するところにあるのではないかと思っています。

まあもちろん、私の考えはやはりあるバイアスがかかったひとつの立場なんですけど、そもそもの話として中高レベルでカンニングや持ち込みを可にした場合、メリットってあるのかな。その辺考えてみようと思ったんですが、私にはあんまり思いつきませんでした。

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エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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