よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

その他

『White Album2 Piano Music Collection』と『ゆきかき』の感想(C87同人誌)など。

本日はC87で頒布されていた同人誌、kapellさんの『White Album2 Piano Music Collection』、とっつんさんの『ゆきかき』の感想など。実はだいぶまえに読み終わっていたのですが、感想書くのが遅くなってしまいました。その理由については後述します。

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▼『White Album2 Piano Music Collection』
中のイラストはとっつんさん。『White Album2 Piano Music Collection』は、『WHITE ALBUM2』の作中に使われたピアノ曲にかんする本で、楽曲のタイトル、来歴、PC版(ゲーム)およびアニメ版のどの場面で使われていたか、といったデータが書かれています。その性質上、解釈的な部分にはかなり抑制を効かせていましたが、ところどころで挟まれる、著者の見解がなかなか興味深いです。以前にも出されていた同人誌のパワーアップという感じ。

アニメ版とPC版との対照などもされており、作品の演出面について検討する際には(とくに私の如き素人には)非常に参考になります。必携の一書と言って過言ではないかもしれません。

これだけの労作なので、本当なら1曲1曲のCDを買うなりしてきちんと聞いたうえで作品をプレイしなおしてから感想を……とか思っていたのですが、新年度も始まってしまってそれも難しく、うだうだ言っているといつまで経っても書けずに機を逸してしまうのではないかということで、今回思い切って書いてしまうことにしました。

個人的に注目したいのは、ショパンの練習曲5番「黒鍵」。これは私でも知っている有名な曲で、てろてろてろてろ、てろてろてろてろろ~ん という感じの……うん、私の音楽センスでは再現とか考えないほうがいいですね。まあそんな曲です。主旋律のほとんどすべてを黒鍵でひく(一度だけファを叩く)というかわった曲で、そのため「黒鍵」あるいは「黒鍵のエチュード」という愛称で知られています。

kapellさん曰く「ゲームでも、テレビアニメにおいても、かずさがまず弾くのはこの曲」(p.5)ということで、これがかずさの「黒」のイメージだというのはなるほどと思いました。

そこで連想されるのは、ショパンがこの曲を、「友へ」というメッセージとともにリストに贈ったというエピソード。(昔誰だったかに、受け取ったリストは曲が難しすぎて弾けずにとんずらしたというエピソードと一緒に聞いたんですが、ググってもここくらいしか出てこなかった。ホントか嘘かはよく知りません)

まあ一応そういうエピソードがあるという前提で話を進めますが、リストの曲というとPC版では非常に印象的なところと、すげーどうでもよさそうなところで1回ずつ出てきます。印象的なのは、「愛の夢」(kapellさんの本ではp.17)。アニメ版ではバンドが終わった後にもこの曲が使われていたようです。

どうでもよさそうなのは、「ラ・カンパネラ」(p.30)。かずさの追加コンサートの演目の1つとしてリストアップされていたということでした。リストだけにリストアップ。なんちって(死)。

ただ、今回本を読んでいて私は後者のほうに引っかかった。

かずさの追加コンサートは、ショパン、リスト、シューマンの3曲が使われたようです。私は「ふーん」と思うどころか何の違和感もなく読んでいたのですが、どうやらここはかなりおかしなところだった模様。

本項で取り上げる追加コンサートは、「別れのポロネーズ」で始まり、「ラ・カンパネラ」を挟んで、シューマンのソナタ第2番で締められます。
この3曲を全て演奏したとしても、実は30分前後にしかならないのです。
コンサートとしては短すぎて、曲に関して知識がある人にとっては違和感が残る曲数であるということがいえるでしょう。(p.28)

kapellさんはこの「違和感」に深入りを避けておられましたが、適当にものが言えちゃうクラシック門外漢の私は「おっ」と思ったわけです。なんかリストとつながったんじゃないの? みたいな。

「黒鍵」に象徴されるショパンがかずさだとするなら、そしてkapellさんが言うようにかずさが「口に出せない想いを乗せて」ピアノを弾く少女であるなら、かずさの選曲には何か意味があったのではないか。自分がショパンで、そのショパンが認めた「友」リストの曲を次に配し、ショパンに対して並一通りでない情熱を向けた信奉者シューマンの曲で締める。「3」という数もなんだかいわく有りげな感じがして、深読みしたくなる要素がいっぱいじゃないかな~と。

アニメで、これらの楽曲の使われ方が変わっていたという指摘がkapellさんからされていて、その辺は気をつけなければならないと思うのですが、かずさの怒りをあらわすシーンにはPC版では別の曲があてられていたということや、「I.C.」ではリストは登場していなかったというあたりは、PC版とアニメ版の『WA2』の演出を考える上でも示唆に富むように思われます。

と、ことほど左様にクラシックの素養がなくともさまざまな想像の翼を広げることができる(まあいままで私が述べたのはテキストクリティーク的には杜撰を通り越した無責任な妄言にすぎないわけですが)。また、クラシックを多少なりとも知っている人にとっては、どこでどんな楽曲が使われていたかを把握できるというだけでもじゅうぶんな手引となるでしょう。

そういう意味で、解説書や解釈書という以上に、作品の世界に対する想像力を働かせることができる優れた「導きの書(ガイドブック)」だったと思います。

たしかこちら(アリスブックスさん)で委託販売があるので、ご関心のあるかたはどうぞ。



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▼『ゆきかき』
中にSSがあって、そちらの著者はkapellさん。『WA2』のモノクロ画集で、全160ページです。まじすごい。タイトルと表紙イラストの通り、小木曽雪菜嬢への愛に溢れた本です(ちゃんと他のキャラも描かれてますよ。160ページ全部雪菜だったら別の意味ですごいです)。

絵については、音楽以上に何も語れないのでつきなみなことしか言えないのですが、いろいろなキャラクターの表情をご自分なりのスタイルで表現した、こちらは「解釈」の本かなという印象をもちました。なるほど、このキャラにはこんな表情もあったのか、という楽しさがあります。

また、ラフスケッチというか鉛筆の淡いタッチが非常によくマッチしています。『WA2』のような作品は、これはあくまでも個人的にですが、デジタルでしっかり彩色した綺麗な「CG」という感じの絵よりはこういうアナログ調の繊細であたたかみのあるイラストが似合うと思います。

単なる趣味だろと言われればその通りなんですけどね。いまだに携帯の待ち受けにしている『ホワイトアルバム』の壁紙これですし。

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あとこういうマナも好きだったり。

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『ゆきかき』は表紙の彩色もいいですよね。コピックか水彩でしょうか。色鉛筆っぽくはないような……いや、適当ですが。

紙質とかにもこだわってる感じ。こういう本はできればメイキングのプロセスなんかも載せて欲しいなと思ったり。サンクリやコミティアでイラスト系の同人誌出されてる方のを買うと、だいたいメイキングがついてて「おお~」と思ったりするのですが、あれは買い手の方も絵描きさんを想定しているからなのでしょうか。

ともあれ、できれば水彩風の色付き絵を他にも見たいなと思わせる良い本でした。

おふたりとも、楽しい時間をありがとうございました。 

イベントレポート:サンクリ2015冬に行ってきた話。

本日は秋葉原で大図書館の羊飼いラジオ出張公録、千葉のほうでワンフェスとイベントが盛りだくさんでしたが、私は池袋のサンクリ2015Winterに一般参加してきました。

朝8時くらいに会場に到着。雨がふるかと言われていましたが、幸い開場まで天気が崩れることはなく、やや寒い以外は快適な待機時間。カタログは既に購入していたので(サンクリはカタログが入場証がわりになる)、鞄を場所取りがわりに置いたあとは貴重品だけもって喫茶店へ。池袋という都心で開催されるため、こういうことができるのがサンクリは楽ですね。

今回はA1ホールとA23ホールの2ホール開催。ちょっとずつサークルの数が減ってる気がするけど、年4から年3スパンでの開催になったのはその辺りの事情もあるのかもしれません。

今回も私はA1ホールからスタート。まずは、べっかんこう先生のサークル「ロケット野郎」へ。入場前の待機列全体では先頭から100人以内にはいたはずですが、半分くらいがロケット野郎に行ったような……。結局ここでかなりの時間を使います。購入を終えた後「あじのひらき」さんへ向うも、並ぶ前に新刊と既刊のグッズセット完売の告知。まあ無理ですよね~。

サンクリ参加は数回程度というにわかではありますが、なんとなく解ったこととして、サンクリはコミケとかと違って一瞬で完売ということはない。ちょっと早めに来て(当然、早過ぎたらダメですよ。都心だけにコミケよりはるかに周囲の迷惑になるし、かつては盛大にペナルティがあったようなので)初手に並べばたいていのものは手に入れられる。ただ、2手目3手目になると無理な場合が結構あります。あと、サークルさんと一般参加者の距離が近くて、スケブやら先着限定の特典やらがちらほらあって、そういうの狙う場合は結構な頑張りが求められるかもしれません。

さて、「ロケット野郎」さんの後は「にの子や」さん、「L.L.MILK」&「どてちん天国」さんをまわって目標は達成。「bolze.」さんは残念ながらお休みだった模様……。さっき見たらブログのほうに欠席告知が出ていました。

その後はいろんなサークルさんをゆっくりと見て回ります。というか会場も広くないし参加者の人数が多すぎるということもないので、全サークルさんをじっくりと見られる。これがサンクリの好きなところの1つです。ほんとにいろんな発見や出会いがある。

今回驚いたのは、「モバマス」本の多さ。プチオンリーイベントが開催されていたという事情はあるにせよ、以前までとはまったく違う、もの凄い勢いと熱気を感じました。ラブライブ本、艦これ本は相変わらずの勢力でしたが、夏コミあたりにはモバマスがこれらに並ぶ第三極として登場してくるかもしれません。

その後は会場イベントなどに参加しつつ、途中から雨が降り始めたこともあって14時前に撤退。べっかんこう先生のスケブじゃんけんは1度も勝つことができませんでした。目指せ1勝やなぁ……。

本日の成果はたくさんあるので、5個ほど絞ってご紹介。

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(1) まずはロケット野郎さんのグッズと、アニメシンデレラガールズプチオンリーイベント開催記念の本。後者は委員会の頒布物ですが、表紙がべっかんこう先生だったので「べっかんこう枠」ということで。写真は左からブース配布のペーパー、冬コミ頒布のカレンダー、今回の新刊、記念誌。

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また、時間があるタイミングならサインOKとのことだったのでお願いをしたところ快く引き受けていただけました。ありがたや~。モノは、コミケグッズだった鈴木抱きまくらに入っているデザインプレートです。佳奈すけのグッズにサイン入れてもらうという念願がかなって嬉しいです。佳奈すけだけにかなって……。いや、なんでもありません。

(2) 次、ゆうき夕海先生(どてちん天国)とすめらぎ琥珀先生(L.L.MILK)の合体ブース。モバマスのイラスト本(18禁)。かな子としまむらさんが目印。どっちも肉感的でエロい。すばらしい。

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左から新刊、イラストペーパーの片面、表紙裏にしてもらったサイン、イラストペーパーのもう1面。サンクリは13時頃から人ががくっと減るので、それ以降であれば比較的作家さんにサインをお願いできるのも良いところですね。

あと、すめらぎ先生には『ななリン』のマニュアルにサインもお願いしてきました。

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お忙しい中ありがとうございました。

(3) ふらふらと会場を回っていて引き寄せられたのが、春名ヒスイさんのモバマス本、『ウチのみく知りませんか?』(前後編)と『後ろの席の前川さん』(どちらも非エロ)。とくに『後ろの席の前川さん』のカバーイラストからは、歴戦のモバマス戦士である気配が漂っています。

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その場で手にとって中を見たところ、文句なく面白そうだったので新刊のペラ本(4コマ漫画)込みで購入。『ウチのみく知りませんか?』は、アイドルとしての自分の在り方と、新しいアイドルをプロデュースすることになったプロデューサーとの関係に悩む等身大のみくにゃんの姿が。『後ろの席の前川さん』はクラスメートから見たみくにゃんの姿が描かれていて読み応えあり。

いやあ、アニメ化前からみくにゃんを追ってらした方だけあって愛が半端ないです。そして面白い。みくにゃんのいろんな表情を捉えててすごく良い本でした。同人誌って良いなぁと思わせてくれる作品でした。なお、ここに写真は載せませんでしたが新刊の『ニュージェネがブログを始めてみる話。』は、しぶりん、ちゃんみお、しまむーの3人が事務所からの指示を受けてブログを開設したらどうなるか……みたいな想定で描かれた4コマ漫画。Pは武内Pでした。あと、みくにゃんも最後に登場してた。

(4) サークル「さぼん」さん。uhhさんの描かれる女の子が魅力的です。新刊『SAVON SISTERS LOG』(ナナシス本)と既刊の『蹉跌をきたせば』(ラブライブ希凛本)を購入。以前友人がラブライブ百合本で注目しているということを言っていたので立ち寄ったところ、隣にあった新刊、ナナシス本の雰囲気が余りに良くて、その場ですっかり虜に。

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Tokyo 7th シスターズ』は最近名前を耳にするものの、どんな作品なのかまったく知らなかったのですが、このイラスト集はそんな私にでも女の子たちの物語を想起させるのにじゅうぶんな力がありました。

スケブOKということだったので描いていただきたい……でも『ナナシス』知らないし失礼かもしれない……と葛藤して、「ナナシス全然知らないけど構いませんか」とうかがったところ、幸いにも快く引き受けていただけました。

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というわけでスケブです。じゃーん。アホ毛がトレードマークの元気娘、春日部ハルちゃん(春閣下じゃないよ!)です。スケブをお願いしている間、にわかなりに勉強しました。ハルちゃん可愛いです。これを機に、ちょっとナナシスのことも知っていこう。uhhさん、ありがとうございました。

(5) ラスト、セブンデイズホリディさんのカラー漫画『渋谷凛はプロデューサーの夢を見るか?』。おまけでコースターもいただきました。18禁です。なんかエロ成分が少ないぞーということで我慢できなくなりゲット。エロいです。言うことなしです。

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ふぅ…………。

あっ、か、感想ですね! ハイ! しぶりんは攻めも受けも、純愛も凌辱も、すべてが板につくレベルでこなせるオールマイティーヒロインで素晴らしいと思いました。

(その他)
5作品の中には入れませんでしたが、GUNPさんのモバマス本、『わたしの一番星』。これも素晴らしかったです。

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今回モバマス関係の本、ホント良いの多くて目移りしまくり、実際読んでみても満足度高い。このクオリティーの作品を各サークルさんが作って夏コミに届くようなら、これは大変なことになるんじゃないでしょうか。

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フルーツミックス企画さんが出しておられた、往年の名(?)作『With You』の菜織と乃絵美を「近代化」するという本。準備号的な扱いのコピー本でしたが、格好を現代風にカスタマイズするというコンセプトに興味を持って購入しました。たしかに古いヒロインを現代風にアレンジしてみるというのは面白いネタだなぁと。

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あと、民輝書房(みんきぃしょぼう)さんのところの性転換(TS)エロゲー分析本。『あいまいみすと』の話をメインに据えつつ、エロゲーにおけるTSの話をかなり突っ込んだレベルで展開している評論本でした。まだきちんと読んでいませんが、ちょっとお勉強させていただくつもりです。

といったところで、サンクリのイベントレポートお終い。スタッフのみなさん、サークル参加のみなさん、一般参加のみなさん、ありがとうございました。また次の機会も楽しみにしています。

ブログ移転に関するお知らせ

17日でdtiblogがサービス終了するため、そろそろやっておかないとなーということで、明日ブログ移転作業を行います。

移転先はもう8割型決めているのですが、ちょっとどうしても調整したい点などがあって、そこを明日やってみてから結論をくだしますので、しばしお待ちください。

詳細は、明日の23時以降、こちらのブログにて掲示いたします。

よろしくおねがいします。

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ラブライフアドバイザー

まとめサイト経由で回ってきた面白い? 記事。丁度一年前くらいのやつです。

▼「ベッドの女性の演技「口元の一連の動きで分かる」と性専門家」(NEWS ポストセブン)

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ベッドの女性の演技「口元の一連の動きで分かる」と性専門家
2013.12.03 15:59

 女性は男性に気を遣って、絶頂を装うこともある。「イク~!」と大きな喘ぎ声を出していても、それが演技という可能性もあるのだ。

 勘違いしないためにも、女性の「演技」と「リアル」を見抜くポイントは、男性として知っておきたいところ。

 まず、感度を測る上で、喘ぎ声の大きさは重要ではない。それよりも言葉の抑揚や息遣いに注目すべきだという。ラブライフアドバイザーのOLIVIA氏が語る。

「セックスに没頭すると、“気持ちいい”とさえスムーズに言えず、言葉が途切れ、声に抑揚が付くもの。息遣いも変わり、“ハァハァ”と胸式呼吸の状態から“ウッ”と息を詰まらせたなら絶頂を迎えた可能性は高い。この時の“イク”は、たとえ小さく呟いただけでも本物でしょう」

 声や呼吸だけでなく、口全体をチェックすべきだとOLIVIA氏は続ける。

「快感が高まると口元は緩み半開きになり、大量に分泌された唾液が垂れやすくなる。そしてオーガズムに達すると、今度は歯を食いしばるなどの力強い動作が加わります。口元の一連の動きを見ていれば、本当に絶頂に達したのかがわかるのです」

※週刊ポスト2013年11月29日号
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まあ、私の経験と照らしあわせてみますと、喘ぎ声の大きさは重要じゃないってのはわかります。ボリューム調整すればすぐ変わりますからね……。

「口元は緩み半開きになり、大量に分泌された唾液が垂れやすくなる」というのもわかります。口元差分のことですね。

あと、「今度は歯を食いしばるなどの力強い動作が加わります」。これは逆で、イクときは口を開けて、それまでに歯を食いしばるようなCGが表示されることが多いかなぁ。髪を口にくわえて歯を食いしばってる描写とか好きなんですけど……最近あんまり見なくなって寂しいです。

え? エロゲーの話じゃない? それは失礼しました……。まあエロゲーの女の子はそもそも演技とかしないしね! 天使だから!

…………それにしても、「ラブライフアドバイザー(性専門家)」って何か凄いですね。ラブライブアドバイザーかと思ったでごぜーますよ。

お前何処のモンよ?

ローソンで数の子の「松前漬け」のおにぎりとやらがでていたので、面白そうだなと思って買ってみました。ただ、買う前にちょっと躊躇ったのは、表に書いてあるこの文言。

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数の子は国産ではありません。

お、おう……。

まあ確かにこのパッケージだと国産(北海道産)なのかなと誤解しそうですから、裏面ではなくて表面に、しかも結構大きくその注意書きを載せたというのは評価してもよさそうな気がしないではないのですが……。しかし、「国産ではありません」って、じゃあ何処産なんでしょう?

裏を見ても、特に何処ということは書いてありませんでした。

数の子というとニシンの卵です。ニシンですから寒い地域……ロシアとかでしょうか。Wikipedia先生曰く、「日本国外では、カナダ、アメリカ合衆国アラスカ州、イギリスのスコットランド、ロシアなどで水揚げされるニシンから数の子が作られ、日本もこれらの地域産のものを輸入している」とのこと。

そして、「アラスカなどの北米大陸西海岸側のものは主に塩数の子として、カナダのニューファンドランド島などの北米大陸東海岸側のものは主に味付け数の子として、またヨーロッパ産のものは塩数の子、味付け数の子双方として、それぞれ加工されることが多い」そうなので、北米かヨーロッパのものというセンが強そうです。

そっちのほうのやつだと、結構品質が良いという話を小耳に挟んだこともあり。たとえば、「北日本水産物株式会社」のHPを見ると、数の子の品質管理についていろいろ書かれていました。というか、「カナディアン・パシフィック・カズノコ協会」ってなんだ(笑)。そんなものがあったとは……。HPが思いっきり日本語で微笑ましい限り。

Umidasなどを見る限り、国産の数の子はほぼ「幻」状態。それを除いて一番いいのはカナダ産、というのが定説のようです。まあ、肉とかでも味わかんない私が、数の子の味の区別とかできるとも思わないんですが……。

とりあえず、どことは言いませんがなんかデンジャラスな地域のものではないのかという不安もあり……。中国にも数の子工場ありますしねぇ(参考:「中国の「カズノコ加工場」」)。だいたい、「国産ではない」と書かずに「○○産」と書けばよさそうな気がするのに、なんでそうしないんでしょう。もしかすると、バラバラの地域から仕入れているのかもしれませんね。その辺はちょっとよく分かんないです。

余力があれば問い合わせなりで調べてみようかと思っておりますが、もしかご存じの方がいらっしゃったらぜひ教えてください。

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デジタル時代の表現と解釈に関する徒然メモ

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 最近よく耳にすることだが、もはや画家は確固とした存在理由を失い、これからはアイデアマンかデザイナーとして生きる道しか残されていない、と言われる。本当にそうだろうか? そんなことを言われるのも決して故のないことではないが、複雑な今日の思想状況が、問題をますますややっこしいところへ導いているような気もする。画家のみならず、あらゆる表現者の手からは、確かに従来後生大事にしていた何かが、抜け落ちつつある。テーマの喪失だの、コンセプトとマテリアルの分離だの、意味するものと意味されるものとの関係の崩壊だの、という出来事の背景にある何か――。そしてその何かを表現者の手から奪いつつ、表現者を別な次元に招き入れようとする使者は、恐らく近代技術というコンテクストそのものであるように思う。

[中略]

 さて、以上のような場合の画家および絵画は、果たして何を指しているのだろうか。いろいろなことを考えることも出来るが、なかでも画家は、描くべき対象なり理念を明確に捉え、そのコンセプトをなんらかのカンバスなりマテリアルに、確実に転写実現する者だということ。そして絵画とは、画家に酔って確認されたコンセプトが、ストレートに明瞭な図柄で示された表面である、といった意味合いがなにより大きく浮び上がってくる。ここでは、表現する前からすでに絵画が出来上がっていて、他の要素の作用する余地のないことが分かる。別な言葉で言えば、表現すべきコンセプトが先に完成されていなければ、絵画は成立しないというわけだろう。美術に限らず、近代の表現のあり方に見られるのは、まさしく自我の前提の許に行われる一方的な理念の遂行であることは、再言するまでもない。

(李禹煥『余白の芸術』みすず書房)
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李禹煥の言う「近代の表現」思想、すなわち表現者は表現内容を完全に表現に込めているという考えは、同時にそのような表現を味わう者は、表現者の意図を読み取らねばならないという信仰を生み出しました。

前後関係で言えば読者論より前に表現論があった、というのは重要なことだと思います。

表現者は何を表現するのか。自らの思想、あるいは存在そのものを表現する。なぜなら表現とは、その表現者の身体によって直接行われ、その限りにおいて作品とは、決して真似ることのできない一回性を背負う。だから、味わう者はその作品を通して、作者に触れることができるし触れなければならない、というわけです。

こうした「近代の表現」への信仰は、その後さまざまな批判にさらされ乗り越えられ、いまではかなりナイーブ(乱暴、の意味のほう)なことが言われる局面でしか見かけなくなってきました。

ただ、その乗り越え方にも何種類かある。たとえば李氏の場合、作者というのは周囲の環境との相互作用の中で作品を作るから、作者が完全にコントロールして作品に意図を込めることなどできない、ということを言います。作品は作者の奴隷ではない、というわけですね。そして、作品というのは作者の理念が実現されたものではなく、作者がそこで生きている行為そのものだ、というような結論を導いています。

李氏の立場というのは、たしかに作品と作者(の意図、理念)との間の繋がりを断ち切り、その意味で「近代の表現」論と一線を画しています。しかし、作品に刻みつけられた一回性のようなものは抜き難く存在してしまう。これを不徹底だ、という人もいるでしょう。

文学におけるテクスト論であったりというのは、作品の一回性をも抹消するような形で進行しました。そこにあるのはただの文字列であり、読者はそれを自由に読むことが許されている。もっと言えば、作者が誰であってどういう背景や意図を持っていたかなどということは、一切読書行為には関係ない――。

私などは、こういう行き過ぎたテクスト論というのは作品を読者の奴隷にしてしまう行為だと思ってしまいますが、作者という呪縛から読者を解き放つという意味で果たした役割は少なくなかったでしょう。

シミュラークルの話なんかもそうですが、結局こういう「アウラの喪失」みたいな話ってデジタルの手法(デジタル、というと近代っぽいですが)と分かちがたく結びついているところがあります。特に、ワープロやコピー機の類の普及は、作品から「一回性」を急速に奪っていった。

だから、表現することや解釈することについて原理的に何かを考えるのであれば、「デジタル」とはそもそも何かということを改めて考えなおすのが重要ではないかなと思って最近いろいろと読んだり書いたりしてるですが、どうもまだまとまりません。

もう少しまとまったら、また何か書こうかと思っています。

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「低俗」だっていいじゃない。

私のちょっと上の立場にあたる人たちは、どうもクラシック音楽が好きかつ精通しているようで、食事のときとか旅行やら何やらで集まったときにそっち系の話になるとしんどい。私は置いてけぼりです。

ショパンだのベートーベンだのみたいなド素人にも分かりやすい話ならまだ良いんですけど、やれラフマニコフだのドビュッシーだのという単語が飛んできて、主なクラシック音楽の情報ソースが漫画な私にはついていくのとてもむぅ~りぃ~(森久保乃々)。なんだよドビュッシーって。射精音かよ、みたいな(失礼な)。

チャイ語って言うと私の中では中国語なんですが、彼らにとってはチャイコフスキーの交響曲第5番(チャイ5)だそうで。話がかみあわねー! (全然精通してる感じしないかもしれませんが、私が覚えてるのがこのくらいの話題しかないだけで、ホントはなんかもっと詳しいこと言ってます。身内の名誉のために一応弁護をしておきます)

まあ私は耳も大したこと無いので、アシュケナージの演奏がどうだとかこうだとか言われてもさっぱりわかんないし、わかる人はすげーなぁという感慨を抱くしかない。音楽的感性とはちょっと違いますけど、絶対音感とか羨ましい。憧れの的です。ただ、ちょっと「おいおい」と思うこともあり。

というのも、どうも彼らはJ-POPがお嫌いらしく(洋楽がどうなのかは、話しているのを殆ど聞かないので不明)、あんなのは音楽じゃないとか、深みがないとか低俗だとか、まあそういうことを言っちゃう。私は、それを聞くとも無く聞いてしまう。

んで、J-POPとアニソンで育った私としては「う~ん」となるわけです。

好きなモノをけなされたから嫌だというのはもちろんあるんですけど、そもそも私には彼らが信奉するクラシック音楽の「高尚さ」がさっぱりわかんないんですよね。もう少し言えば、その高尚さからしてJ-POPやアニソンはどう低俗で、そのことがどう問題なのかよくわかんない。

一度聞いてみたこともあるんですが、音楽文化にとってどうだとか音楽表現とはこうだとかいう話をされて、最後は「まあOYOYOくんみたいな素人にはちょっと厳しいかな」(※意訳)みたいなことを言われてゲンナリして、以降深入りするのを避けるようになりました。今どきこういう化石みたいな選民思想を持ってる(しかもそれを公言しちゃう)人っているんだなぁという妙な感慨を抱き。

こういう話をしたのはもちろん、クラシック好きな人が無茶苦茶だと言いたいわけではありません。今回の話、クラシックVSJ-POPみたいな対立構造でも読めるような話になっちゃったのはちょっと失敗したでしょうか。

そもそも、どちらかというとこういうのって、クラシックよりJ-POPとかのほうに多い気がする。たとえばJ-POPやアニソンを好きな人が「高尚さ」故にクラシックを貶すというのは、今回のことの裏返しでしょう。ポップスはもともと、クラシック音楽などに対する「サブカルチャー」だし、アニソンなんかはカウンターカルチャーみたいなところがありますし。

私が「ビミョー」と思ったのは、要するに偏狭なセクショナリズムを発揮して自分たちの集団の結束のために外の敵を攻撃するというパターン。私の上の人達の発言というのは紛れも無くそれだと、私は判断しています。

実際、クラシックを楽しむためなら他の音楽をけなす必要はないし、他の音楽の問題点を指摘するなら、自分たちの好きなものと比較してその優越性を誇示する必要はないはず。他の文化は他の文化で認めれば良いし、喧嘩をするつもりならもっと深くきちっとした準備をするのが礼儀というものでしょう。

外に敵をつくって、しかもその相手をただ貶めることによって自分たちの主張の強化をしたつもりになったり、あるいは所属するコミュニティの結束を固めるというのは見ていてあまり気持ちのいいものではありませんね。

まあ、飲み屋で行われる与太話と同じような身内での会話にそこまで目くじら立てる私も大人げないといえば大人げないのですけど。

……え、この記事自体が「外の敵を貶めることで自分の主張を強化している」んじゃないかって? ううん、それを言われると弱い(駄)。そういうブーメラン性は認めざるをえないのが、この手の話題をするときの難しいところです。

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インプットの時間は無理矢理にでもつくるべし

一般的な話になるかわからないのですが、仕事でもサークル活動でも趣味でも良いんですけど、アウトプットをする人に向けた話だと思って下さい。そうでない人にも通じるところはあるのかもしれませんが、さしあたり。

アウトプットをするというのはたとえば、何か作品を書いたり、あるいは人に何かを教えたりというのを想定しています。で、そういうことをするにはインプットが必要だということは何度かしてきました。しかし、この時間がなかなかとれない。

私自身を振り返ってみても、最近シーズン的なこともあって非常に忙しい。あんまり忙しい忙しいと言うと苦労自慢みたいになって微妙ですが、そういう大変だとかしんどいとかそういう話ではなくて、単純に時間が無いのです。じっくりとものを書いたり考えたりする時間が。

モバマスやってる暇はあるんじゃねーかというツッコミはおいといて。5分とかはとれるんですよ。さすがにスマホをタップするくらいはできる。ただ、そこそこまとまった時間がなかなかとれない。

仕事とか、あるいは学生さんであれば学校行事、日々の講義というのは、それ単体では5時間とか6時間くらいしかなくても、準備だの何だので、結局1.5倍~2倍くらいの時間をとられてしまいがちです。そして、いわゆる「目の前のことで手一杯」の状態になると、息抜きの時間が無いというのはまあ「忙しい」ので仕方がないとしても、自分のための投資みたいなことがやりづらくなる。

自分のための投資というのは、本を読んだり、あるものごとについて考える時間をとったり、あるいは知人友人とコミュニケーションをとったりというのも含まれるかもしれません。とにかくそういう、仕事ではないところで自分の幅を――抽象的な言い方になってしまいますが――広げるようなことをやれるかどうかというのは、結構大きいと思います。

ちょっと計算してみましょう。一週間に1冊でも良いから本を読むとします。一ヶ月で4冊。一年でだいたい50冊になります。もちろん、年間50冊なんて少ない、という人もいるかと思いますが、しかし「忙しい」状態になると本を読む時間とかってまっさきに削ってしまい、ほとんどの人は全く読まない日々が続いたりするんじゃないでしょうか。

そうしてそんな日々が1年、2年と経っていくうちに、ちょっとずつでも読んでいる人との差は100冊、200冊と開いていくわけです。長いスパンで見ると全然違ってきてしまう。

だから、「ウサギとカメ」のカメのように、地道な歩みというのは止めるべきではないし、そのための時間は無理をしてでも確保すべきではないかと、個人的には思っています。

いろいろ難しいスケジューリングなどをしなくても、たとえば朝を1時間なり30分なり早く起きて時間を作る。朝・昼・夜で20分ずつ時間をこじ開ける。そういうことはやってみると意外とできるものだし、それ(時間を開けたこと)によって致命的に仕事なんかにダメージが出る、ということはほとんどないハズです。

要は、「やらねばならないこと」というのは多少優先度を落としてもどうせ処理するにきまっているので、それなら自分のための時間の優先度をあげて、そっちを軸に生活考えてみてもいいのかもしれません。

私はとりあえず、1日30分はエロゲーの時間をとるようにしてます……。まさかこの歳になって、「ゲームは30分まで」のルールと再会するとは思いませんでした。

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錯視

自分用メモも兼ねて、錯視ネタが面白かったのでご紹介。

錯視っていうのは「目の錯覚」というやつで、だまし絵みたいなのとは違って純粋に生理反応として認識がズレ、モノが対象本来の姿と違って見えるというやつです。矢印の長さが違って見える「ミュラー・リヤー錯視」なんかが有名でしょうか。

 ▼ 参考: 「北岡明佳の錯視のページ

アスキーアートとして使われるのは、文字列錯視(ポップル錯視)と呼ばれるものだそうで、日本語だと「猫マナー」(杏マナー)とか「コニア画」がメジャー。

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こんなやつ。

       (( ∩ ))
        γ"⌒ヽ/〉_/〉   コロコロー
       ι'ゞ‐u(=゚д゚)σ  (((●
  猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー
  猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー
 猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー
   ●))) コロコロー
  ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫
   ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫
   ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫ーナマ猫
                コロコロー (((●
  猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー
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うーん、すごい。面白い。こうやって見ると、人間の五感って意外とアテにならないというか、「百聞は一見にしかず」かもしれないけどその「一見」も簡単に信用しちゃダメだなっていう気になります。デカルトが経験論を疑ってかかったのもわかる。

「確かなもの」を巡る思考って、こういう素朴な確信の揺ぎから始まるんじゃないでしょうか。

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諸行無常

早苗さんのSR、ケツをこっちに向けて誘ってるようにしか見えないなぁ……「ヤリすぎお姉さん」かぁ……なんてエロゲー脳的な妄想をふくらませる毎日を送っております、OYOYOです。

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アイドルサバイバル・秋の大運動会 上位報酬SR

あ、今回のお話はモバマスとはまったく関係ありません。単にこの、ケツを(正確には腰を)つきだしたポーズを見ていてふと、「謝る前にケツを出せ」という単語を思い出しまして。ご存知の方も多いのではないでしょうか。昔、早瀬悠一郎(ゆーいち)氏が運営されていたニュース系サイトです。

ネタと精度の高い分析とエロが入り乱れるサイト(ブログ)で、更新頻度も高く、読み応えバッチリ。ラグナロクとかドルアーガのエロ絵にお世話になりつつ、世相を斬る系の記事を楽しみにしていました。昨今の、他の人の意見をあつめて煽る系のまとめサイトと違い、一次資料に対して独自の調査や解釈を行ったうえで、その結果といわゆる世論とのズレに切り込んでいくタイプの、「モノを考えたくなる」ブログでした。

ただ、私が読み始めたのはかなり末期(悪い意味はありません。単に時期の話)だったころで、1年ほどで更新頻度が鈍り、結局閉鎖というか自然消滅のような形になり……。非常に残念だったのを覚えています。

その後「謝る前にケツを出せ 避難所(下書き用」のほうにぼつぼつ出てくる情報を不定期に見ていたのですが、「2010-05-03 突然閉鎖した理由ですが、」という記事を読んだ時、ふーむと考えさせられました。

理由を言うと、ゆーいち氏がここでパロっているのが、赤木しげるが自殺(安楽死的な)を選ぶ直前に原田に言ったセリフ(福本伸行『天』)だったせいで、「自殺」を連想したから。何か、「消えていく理由」を書き残すという行為の中に、「束縛から逃れたい」という思いと「消えたくない」という思いの交差を見たような気がして、遺書のように思えたんですね。実際は、そのあとTwitterはじめられてるので活動再開宣言に近いものだったんでしょうけど。

もちろん、実際のゆーいち氏がどうこうというのではありません。ただ、ネット上の人格が消えることを、「死ぬ」と比喩的に表した場合の話です。んで、こういうネット空間から消えるというのはどういうことなのかなぁ。ここに書いてあるように、自由になるということなのだろうか、と。

結局のところ、人は生きている限り何らかの「場」に縛られる存在ですから、完全に「自由」になることなどありえない。してみると、ブッダが「生きることは「苦」(思い通りにならないとか自由ではない、というような意味)である」と言ったのは、見事な把握であるようにも思われます。

ネットゲーの「引退」にしろ、ツイッターのアカウントの「消去」にしろ、ある「場」に所属することによって必然的に発生するしがらみから「自由」になろうとしたとき、究極的に人は、存在そのものを「場」から消してしまうしかないのかもしれません。

しかし、単に自分がいなくなるだけで、存在というのは消えるのでしょうか。

ネットゲーの引退するする詐欺(※引退する/したと宣言して、しばらくすると「復帰しました」と戻ってくること。「詐欺」とついているけどそこまで悪い意味はありません。ただ、廃人ほどその可能性が高いので揶揄する意味合いはありそうです)ではありませんが、存在の痕跡が残っていると私たちはそこに戻ってくることができる(ただ、痕跡が新たな束縛となり、再び場の重力に支配されてしまいますが)。

そう考えると、痕跡まるごと消すなんてとてもできない(誰かの記憶とかには残る)から、ネット上で完全に「死」ぬというのはなかなか難しいかもしれません。発信主体がいなくなっても、亡霊は残り続けているのですから。


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エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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