私たちはよく、モノを大切に、と教わります。しかし、そこで言われるのは主にモノの扱い方であり、捨て方について言われることはほとんどありません。断捨離などということばが流行ったのは、捨てるという側面についてそれまで意識されてこなかったがゆえではないかとも思われます。

ただ、人間であれば死者への弔いがあるように、モノにも弔いがあっても良いのではないか。いやむしろ、モノを大切に扱うというのは、そうした使い終えたあとのことまで含めて言うのではないか、と最近考えています。ただ、現代のいわゆる「消費社会」は、そういった感覚を感傷として 押し流してしまう。それが資本主義というシステムの合理的帰結なのかもしれませんが、個人的には一抹の淋しさを覚えずにはいられません。

いささか個人的な話になって恐縮ですが、かつて母は、ぼろぼろになった靴を履こうとした私にこう言いました。「そんなみっともない格好で出かけなさんな、靴が可哀想だ」と。

その時は、新しいほうが良いと言っているのか何なのか、そもそも靴が可哀想って何のことだかいまひとつ飲み込めなかったのですが、いまならわかる気がします。要は、モノにとって相応しい姿形がある、ということでしょう。そして、その相応しい姿形を失っても使い続けるのは、使い手にとってもモノにとっても「みっともない」ことなのだ、と。

たぶん、モノを上手に使う人というのは、この「みっともない」タイミングの見極めが上手い。そのモノの力を十分にひきだし、これ以上は無理かなとなったところでお役御免にする。そんなふうにモノを使いこなす人を、「モノを大切にする人」と呼ぶことは可能であろうと思います(もちろん、他にも大切にする方法はあると思いますが)。

あるいは、鼻持ちならないブルジョワ思想と言われるでしょうか。たしかに、私の家が靴を買い替えられる程度には恵まれていたからこそ出てきたことばだったのだと思います。けれど、モノを大切にするということに関するひとつの哲学である、とも思うのです。実際、母はすぐ新しいモノを買ってくれるかというとそういうわけでもなく、しょっちゅう布の鞄を縫い直したり、靴のかかとを修理したりしていました。で、使い終わったら「ご苦労さま」と言って箱に閉まって、大晦日の大掃除のときにまとめて捨てる、というのが我が家の慣習でした(そもそもは、祖母がそうしていたという話でした)。

昔の日本には「針供養」のような文化があったように、モノを使うというのは、使い終えるところまでやりきってこそ、というのはそれほど突飛な発想ではないでしょう。そうすることで、モノは手元を離れてかたちを失っても、人の心に残ることができる。モノの成仏というのは、そういう仕方でなされるのだと思います。

そんなふうに考えると、モノの捨て方を学び伝えていくというのも存外重要なことではないでしょうか。