室生犀星に、「小景異情」という詩があります。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という有名な文句があるので、全部は知らなくても聞いたことくらいはある、という人も多いのではないでしょうか。今日、帰りの電車の中でこのフレーズを聞いたのでちょっとマジな考察の話をしたいと思います。

「ふるさとは~」のくだりは、現在でもよく故郷を懐かしむセリフとして引用されているのを見かけます。ただ、もとの詩を読むとこれが「誤解」であるということがわかるでしょう。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの

よしやうらぶれて
異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

OYOYO的な現代語訳は下のような感じになるでしょうか。

ふるさとというものは、遠くにいて懐かしみ
そして、帰れないことを悲しむ、そういうものだったなぁ

もしも、
ふるさとから離れた土地で物乞いになるまで落ちぶれたとしても
ふるさとは、帰ってきてはならない場所なのだ

独りで東京の街の夕暮れを見ながら
ふるさとのことを想って涙ぐむ……
そんな気持ちでいるために
遠い東京へ帰りたい
遠い東京へ帰りたいなぁ
この詩は、そもそも犀星が故郷の金沢で読んだ詩です。山本健吉が伝えるところによると、犀星の親友であった萩原朔太郎は、「東京から金沢を想って詠んだ詩」だと勘違いしていたそうです。そうした誤解もあって、今でも「異郷の地から故郷を懐かしむフレーズ」として、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」が使われているのでしょう。

こうした事実を知った大学時代、私はこの詩を、「故郷から離れたい詩」だと読んでいました。犀星は東京で極貧の生活を送り、金が尽きると故郷の金沢へ戻ってきて、また東京へ旅立った。幼少期からあまり良い思い出がなかったようですし、金沢にいるということは犀星にとって「敗北」を意味していたのだろう、と。

その考えが完全に間違っているとは思わないのですが、犀星の詩を読み返す機会が何度かあり、ふと「そう単純なものでもないな」と感じるようになりました。

ここからは、完全に学術的な根拠のない想像の話です。

たぶん、東京でボロボロの生活を送っている時、犀星は故郷に帰りたいと思ったのでしょう。その時の故郷は、彼には輝いて見えた。美しい自然、暖かくも懐かしい人びと、素朴な暮らし……。そういった思い出が心を満たし、「ふるさとおもひ涙ぐむ」ようになったのでしょう。

ところが、帰ってきてみると実際にはどうか。美しい自然はただ不便なだけでうっとうしいし、人びとは冷淡だし、暮らしは貧しく単調だし……戻ってきてみると、「ああ、俺はこれが嫌でふるさとから逃げたのだ」ということを痛感したのではないでしょうか。

喜劇王チャップリンは、「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ」と言ったそうですが、要は何事も、近づけば欠点が見えるけれど遠くにいるとそれがわからなくなる。犀星の語っていることは、その類の話だと思います。

しかし、だとすれば、彼がいま「都」に帰りたいと思っていることもまた、都から離れているからこそ、そう思えているにすぎないのではないか。そんな疑問が出てきます。犀星は最後の2フレーズで、「都」に「遠い」という形容詞をつけています。「ふるさとは「遠き」にありて思ふもの」なのだとすれば、都もまた、「遠き」にあるからこそ輝いて見えるのではないでしょうか。最初と最後で、ふるさとと都にそれぞれ「遠」という表現を用いた犀星からは、その自覚が透けて見えます。

きっと彼は、都会に戻ったら、またぞろ「都会は駄目だ」と言い出すのでしょう。そうして、「ふるさと」を想い、望郷の念に駆られるのです。この詩からは、そんなみじめな犀星の姿と、どうしようもない心情が浮かんできます。

ただ、そうと解っていながら、犀星は「ふるさと」にこだわった。この詩を私は、「ふるさとが嫌いだから東京に帰りたい」と読んでいたけれど、実はそうではないのだろうなと今は思っています。たぶん彼は、ふるさとをきれいな思い出のまま心に残しておきたかったのでしょう。ふるさとにいてふるさとを憎み、東京に戻りたいと思っているよりは、東京にいてキラキラした故郷を抱えていたい。彼は、ふるさとのために、東京に戻る。だから、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」なのです。

ぜんぜん違うのかもしれませんが、昔見た、ものすごく好きだったアニメやマンガがあって、現代にそのまま復刻されてワクワクしながら読み返してみると全然期待していたものと違った。遠くからその作品を想っていたときの、あのキラキラした気持ちに戻りたい。そういうのに似ているんじゃないかと思います。

あるいは、学生時代とか。もう一度戻れと言われて戻ってみたらクソみたいな生活で、とにかく早く抜け出したいと思うかもしれませんが、年をとっていま振り返ると「学生時代はよかったなぁ」と思える、みたいな。


そんなふうに読んでみて、私の中ではようやく何か腑に落ちた感がしました。この詩はやはり、故郷を想って読んだ詩で間違いないのだと思います。

現実をしれば幻滅してしまう故郷だから、せめて幸せな夢を見られる場所で故郷を想っていたい。この詩にあらわれているのはそんな、犀星の非常に屈折した故郷への愛であり、現在の自分に対する否定なのでしょう。

それを、故郷への愛、とストレートに言ってしまって良いのかどうかはわかりかねますが、「ふるさと」を懐かしめる場所に身をおいていたいという犀星の心持ちはなんとなくわかるようになった気がします。

歳をとったってことでしょうか。