オタクの「孤独死」を扱った記事を読みました。いろいろと考えさせられてしまった。
▼「好きなものに囲まれて逝った40代オタク男は「孤独死」だったのか」(NEWSポストセブン)
まず、葉月は『闘神都市』じゃなくて『闘神都市2』のヒロインです。というのは声を大にして言っておきたい。あと、葉月が大好きだったなら彼の名前はシードにしてやれよ、と思わないでもないのですが、閑話休題。
何というか、良い文章だなぁと思います。ただ、それは取材が行き届いているとか故人に寄り添っているとかそういうこともあるのですが、どちらかというと記事自体のクオリティの話じゃなくて、私個人にとって刺さるものがあると言いますか。ある種のオタクの心意気みたいなものを語っていて、そこに共感できる気がするんですよね。
この方(日野百草さん)は作家ですので、事実をドラマティカルに書いている部分はあるでしょう。多少の誇張やフィクションは含まれていておかしくありませんし、もしかすると「葉月くん(40代、仮名)」は実在しないかもしれません。ただそうであったとしても、私にとってのこの記事の良さがなくなりはしないのかなと思っています。
日野百草っていうと知らんわいとなりそうですけど、「新勝寺ひろ」さんとか「上崎よーいち」さんなら分かる人がいるかもしれない。昔、パソパラとかコンプティークにコラム書いてた方です。いや、「新勝寺ひろ」名義とか私も知らなくてブログ拝見して初めて知りましたけど、出自からして付け焼き刃ではなく40代のオタクの生態とか気持ちみたいなのを知っている方。そういうガチなところは文章に滲んでいて、読んでいて嫌味がないし安心感があります。
たとえば「彼は『闘神都市』というゲームのヒロイン、瑞原葉月が好きだったので」という冒頭の一句。さらっと書いていますがふつうなら出てこないフレーズです。ただ、これがあることで「あ、葉月くんはエロゲーも嗜んでおられたのね」ということが分かる。あるいは「みんな当時は永遠だと信じていたが、永遠ではなかった。永遠なんかなかった。」という部分も、往年のエロゲーマーなら「ここにあるよ」と返したくなり、実際に記事はそういう方向に進んで行く。さらっと読める文章の中に、分かる人にだけ分かればいいやという書き方を入れていく。俄仕込みではない匠の技を感じます。
さて、この文章のキモ(キモさじゃないですよ)は、「オタクとは孤独だ」というところに尽きるのではないかと私は思っています。
ここに書かれている「葉月くん」のこだわりは、いわゆるふつうの人には理解できないでしょう。そしておそらく彼の友人たちにも、筆者にも、もちろん読者である私たちにも理解できないことはいっぱいある。オタクのこだわりなんてそんなものじゃないですか。変な話ですが、筆者がこの記事の中で発掘した遺品や「葉月くん」との思い出を語る量が増えるほどに、私には「葉月くん」の輪郭が見えにくくなりました。外在的な情報は増えているんですけど、「私が想像するこういう人じゃないんだな」ということに気づく感じ。わからないことがわかる、というやつですね。
ただ、事実としてわかることもある。それは、亡くなった「葉月くん」は死後の自分の評価を見ることはできないということです。だから、彼が亡くなったその時、彼にとって現在の(死後の)ことは本質的なことではなかったでしょう。
1人の人間がこの世を去った。それについて生き残った私たちは、やれ幸せだったの不幸せだったの、かわいそうだの立派だったのと評価をするけれど、ぶっちゃけ自分が死んだ後の評価なんてオタクには関係ないわけです。自分が死んだらグッズを処分してほしいとかHDDをふっとばしてほしいとか、そりゃまあ確かに私も思います。でもほんとうに気になるかと言われればそこまででもない。自分が死んだら後は野となれ山となれ……みたいな意識はどっかにある。
グッズなんかを引き継ぎたいと思っている人がいるのはわかります。そういうタイプのオタクもいるでしょう。もしかすると中には「鴎外文庫」や「漱石文庫」「米沢文庫」のように自分の名前を冠した博物館を作りたいという人がいるかもしれません。しかし、おそらく「葉月くん」はそのタイプではなかたし私も違います。名誉も不名誉も、遺産も跡継ぎも、自分の後に残るものをそんなに重視はしていない。
また、40代で世を去った「葉月くん」が満足だったか無念だったかも、究極的には彼にしかわからないことです。もっと長く生きたかったのか、それとも生きづらさを感じていたのか。私たちは身勝手に想像することしかできません。
オタク――少なくとも「葉月くん」のようなタイプのオタクにとっては自分の世界が全てです。自己完結型。この記事が浮かび上がらせるオタクの姿は、そういう孤独さだったと思うのです。ただ、それは別に悪いことじゃない。そのことをポジティブに捉え直せば、記事中の「しかし幸福とは相対的なものではなく絶対的なものだ。」という一文になるのかな、と。
オタクの人生を外から評価するな、と言っているわけではないでしょう。それならこの方の記事自体が矛盾することになります。そうではなく、ある種のオタクにとって「他人の評価なんて関係ない」のです。最期までひとり。他人から孤独だねと言われても、「そうだね。それで?」「それがいいんだよ」と返せる。
「葉月くん」と年代も傾向も結構近しいと思われる私は、この記事をオタクの孤独を肯定するものだと読みました。孤独讃歌。おそらく「その種の」オタクはこの記事を呼んで、「葉月くん」のことではなく自分自身のことを主に考えたのではないかと思うのです。自分もこんなふうに死にたい、自分はこれだったら無念だろうな、いざというときに備えてコレクションについて遺書を書いておこうかな……etc。究極の関心事は自分のことになるタイプですから当然ですね。
私だけの世界。自分だけの城。そこで生き抜くことを肯定している。別に否定されたって良いんですけどね。肯定されようが否定されようが、孤独なオタクの生態は変わらないから。
でも同じように生きている人がいるということは、何というかその孤独を励まされているような感じがします。孤独なのに励まされるというのもおかしな話かもしれませんが、仏教だって孤独な修行の中に「同行」がいますし、同じ道を往く人がいることは心強い。そういうことにしておきましょう。
最後の「死ぬ瞬間までオタクの城で大好きなアニメを観てたなんて最高じゃないか、なあ葉月」という1文。これはおそらく、故人の真情を勝手に慮ったものではありません。この記事はこうじゃなきゃいかんわけです。死の意味を決めるのは「葉月くん」だという宣言であると同時に、筆者から読者である「その種の」オタクに向けたメッセージであり、究極的には「その種の」オタクが自分自身に向けたメッセージなのですから。
▼「好きなものに囲まれて逝った40代オタク男は「孤独死」だったのか」(NEWSポストセブン)
高齢者の問題として話題になることが多かった「孤独死」だが、単身世帯(一人暮らし)が全年代で増えているいま、年齢を問わない問題になりつつある。そして2020年7月には、遺品整理や特殊清掃を行う株式会社ToDo-Companyから「オタクの孤独死が急増」と発表されたのを目にして、落ち着かない気持ちになった一人暮らしの人も少なくないだろう。俳人で著作家の日野百草氏が、好きなものに囲まれてこの世を去ったオタクの死について考えた。* * *「葉月のやつ、まだブラウン管だったのか、最期まで変わらないな」限りなく埼玉に近い東京都区部、親御さんの許可をいただき見慣れたアパートの一室に入る。もう20年以上前か、このアパートでネオジオの格闘ゲームに興じたり、古いアニメを見てはああでもない、こうでもないと一晩中語り合ったのは。部屋の中は驚くほど変わっていない。時が戻ったみたいだ。このアパートの住人は、葉月くん(40代、仮名)。彼は『闘神都市』というゲームのヒロイン、瑞原葉月が好きだったので葉月にさせていただく。(中略)葉月くんのような死を「孤独死」というのだそうだ。筆者は常々おかしいと思う。好きなものに囲まれて、好きな生き方をして、誰にも迷惑をかけずに生きてきたひとりの人間の死を、誰が「孤独死」と決められるというのか。葉月くんのレーザーディスクのコレクションは未開封のものが多い。コレクターは本当に大事なコレクションは開封して観る用とコレクション用の未開封とで買うものだ。当時観たから手元に置きたいだけ、というのもある。これもおかしな孤独死男性のネガティブな情報とされるのだろうか。好きなものに囲まれて死ぬなんて最高の幸せだ。結婚もしてないなんてとか、子どももいない人生なんてとか、普通の父親となって幸せを云々なんて葉月くんのような古参オタクには余計なお世話である。葉月くんが長生きできなかったことは残念だが、この20世紀オタクの秘密基地のような城を枕に「討ち死に」した彼の死は羨ましく思う。ましてや彼はそれを徹底できた。SNSもやらず、ソシャゲもやらず、煩わしいインターネット文化もガン無視して20世紀のオタクのまま死んだ。この件はコロナ禍の本格化する以前、2020年2月の話である。親御さんからはぜひ書いて欲しいと言われていたが、コロナ禍の取材や社会的な問題に取り組む中で延び延びとなってしまった。個人的に消化するのが難しいという部分もあったが、このコロナ禍、孤独死問題に関する一部記事に対しての違和感から再び筆をとった。緊急事態宣言が発令された4月以降、自粛の中で孤独死について多くの記事が配信された。一般的な幸福論からすれば不幸な死なのかもしれない。しかし幸福とは相対的なものではなく絶対的なものだ。葉月くんの人生は幸せだった。好きなものだけに囲まれて死んだ。健康に気をつけても心疾患は突然やってくる。もちろん事故など突然の死の可能性はきりがないが、いずれにせよ絶対的な幸福の中で死ぬなら本望だと思う。誰に孤独だ無縁だと決めつけられる謂れもない。コロナ禍は2021年も長引くだろう。独身の一人暮らしにとってさらに厳しい時代となったことは確かだ。友人や恋人がいるなら幸いだが、そうでない独身者も多いだろう。だからこそ絶対的な幸福としての大好き、が必要だ。葉月くんにはそんな大好きがいっぱいあった。死ぬ瞬間までオタクの城で大好きなアニメを観てたなんて最高じゃないか、なあ葉月。
まず、葉月は『闘神都市』じゃなくて『闘神都市2』のヒロインです。というのは声を大にして言っておきたい。あと、葉月が大好きだったなら彼の名前はシードにしてやれよ、と思わないでもないのですが、閑話休題。
何というか、良い文章だなぁと思います。ただ、それは取材が行き届いているとか故人に寄り添っているとかそういうこともあるのですが、どちらかというと記事自体のクオリティの話じゃなくて、私個人にとって刺さるものがあると言いますか。ある種のオタクの心意気みたいなものを語っていて、そこに共感できる気がするんですよね。
この方(日野百草さん)は作家ですので、事実をドラマティカルに書いている部分はあるでしょう。多少の誇張やフィクションは含まれていておかしくありませんし、もしかすると「葉月くん(40代、仮名)」は実在しないかもしれません。ただそうであったとしても、私にとってのこの記事の良さがなくなりはしないのかなと思っています。
日野百草っていうと知らんわいとなりそうですけど、「新勝寺ひろ」さんとか「上崎よーいち」さんなら分かる人がいるかもしれない。昔、パソパラとかコンプティークにコラム書いてた方です。いや、「新勝寺ひろ」名義とか私も知らなくてブログ拝見して初めて知りましたけど、出自からして付け焼き刃ではなく40代のオタクの生態とか気持ちみたいなのを知っている方。そういうガチなところは文章に滲んでいて、読んでいて嫌味がないし安心感があります。
たとえば「彼は『闘神都市』というゲームのヒロイン、瑞原葉月が好きだったので」という冒頭の一句。さらっと書いていますがふつうなら出てこないフレーズです。ただ、これがあることで「あ、葉月くんはエロゲーも嗜んでおられたのね」ということが分かる。あるいは「みんな当時は永遠だと信じていたが、永遠ではなかった。永遠なんかなかった。」という部分も、往年のエロゲーマーなら「ここにあるよ」と返したくなり、実際に記事はそういう方向に進んで行く。さらっと読める文章の中に、分かる人にだけ分かればいいやという書き方を入れていく。俄仕込みではない匠の技を感じます。
さて、この文章のキモ(キモさじゃないですよ)は、「オタクとは孤独だ」というところに尽きるのではないかと私は思っています。
ここに書かれている「葉月くん」のこだわりは、いわゆるふつうの人には理解できないでしょう。そしておそらく彼の友人たちにも、筆者にも、もちろん読者である私たちにも理解できないことはいっぱいある。オタクのこだわりなんてそんなものじゃないですか。変な話ですが、筆者がこの記事の中で発掘した遺品や「葉月くん」との思い出を語る量が増えるほどに、私には「葉月くん」の輪郭が見えにくくなりました。外在的な情報は増えているんですけど、「私が想像するこういう人じゃないんだな」ということに気づく感じ。わからないことがわかる、というやつですね。
ただ、事実としてわかることもある。それは、亡くなった「葉月くん」は死後の自分の評価を見ることはできないということです。だから、彼が亡くなったその時、彼にとって現在の(死後の)ことは本質的なことではなかったでしょう。
1人の人間がこの世を去った。それについて生き残った私たちは、やれ幸せだったの不幸せだったの、かわいそうだの立派だったのと評価をするけれど、ぶっちゃけ自分が死んだ後の評価なんてオタクには関係ないわけです。自分が死んだらグッズを処分してほしいとかHDDをふっとばしてほしいとか、そりゃまあ確かに私も思います。でもほんとうに気になるかと言われればそこまででもない。自分が死んだら後は野となれ山となれ……みたいな意識はどっかにある。
グッズなんかを引き継ぎたいと思っている人がいるのはわかります。そういうタイプのオタクもいるでしょう。もしかすると中には「鴎外文庫」や「漱石文庫」「米沢文庫」のように自分の名前を冠した博物館を作りたいという人がいるかもしれません。しかし、おそらく「葉月くん」はそのタイプではなかたし私も違います。名誉も不名誉も、遺産も跡継ぎも、自分の後に残るものをそんなに重視はしていない。
また、40代で世を去った「葉月くん」が満足だったか無念だったかも、究極的には彼にしかわからないことです。もっと長く生きたかったのか、それとも生きづらさを感じていたのか。私たちは身勝手に想像することしかできません。
オタク――少なくとも「葉月くん」のようなタイプのオタクにとっては自分の世界が全てです。自己完結型。この記事が浮かび上がらせるオタクの姿は、そういう孤独さだったと思うのです。ただ、それは別に悪いことじゃない。そのことをポジティブに捉え直せば、記事中の「しかし幸福とは相対的なものではなく絶対的なものだ。」という一文になるのかな、と。
オタクの人生を外から評価するな、と言っているわけではないでしょう。それならこの方の記事自体が矛盾することになります。そうではなく、ある種のオタクにとって「他人の評価なんて関係ない」のです。最期までひとり。他人から孤独だねと言われても、「そうだね。それで?」「それがいいんだよ」と返せる。
「葉月くん」と年代も傾向も結構近しいと思われる私は、この記事をオタクの孤独を肯定するものだと読みました。孤独讃歌。おそらく「その種の」オタクはこの記事を呼んで、「葉月くん」のことではなく自分自身のことを主に考えたのではないかと思うのです。自分もこんなふうに死にたい、自分はこれだったら無念だろうな、いざというときに備えてコレクションについて遺書を書いておこうかな……etc。究極の関心事は自分のことになるタイプですから当然ですね。
私だけの世界。自分だけの城。そこで生き抜くことを肯定している。別に否定されたって良いんですけどね。肯定されようが否定されようが、孤独なオタクの生態は変わらないから。
でも同じように生きている人がいるということは、何というかその孤独を励まされているような感じがします。孤独なのに励まされるというのもおかしな話かもしれませんが、仏教だって孤独な修行の中に「同行」がいますし、同じ道を往く人がいることは心強い。そういうことにしておきましょう。
最後の「死ぬ瞬間までオタクの城で大好きなアニメを観てたなんて最高じゃないか、なあ葉月」という1文。これはおそらく、故人の真情を勝手に慮ったものではありません。この記事はこうじゃなきゃいかんわけです。死の意味を決めるのは「葉月くん」だという宣言であると同時に、筆者から読者である「その種の」オタクに向けたメッセージであり、究極的には「その種の」オタクが自分自身に向けたメッセージなのですから。