先日話題にしたのにまたかという感じですが、純丘曜彰教授博士がINSIGHT NOW!に投稿なさった文章について、ご本人がリアクションを発表されました。それによれば、「麻薬の売人以下」としたのは「京アニのことではない」のだと。

ΩΩΩ<な、なんだってー!?

これがまた物凄い内容であり、個人的には好意的に受け止めかねました。理由は以下の通りです。

①そもそも弁明の内容が牽強付会に過ぎ、妥当性が感じられない。
②弁明が表層的な表現の問題に終始しており、読者の憤りを汲み取ろうとしていない。
③他人に責任転嫁するような自己弁護ばかりで単純に見苦しい。
④謝罪の内容が自らの表現の拙さに終始しており、事件被害者への配慮に欠ける。

このうち③、④についてはJCASTの取材内容や編集によるものかもしれないのですが、まあ読んだ側としてはまったく愉快な気持ちになりませんし、これを氏がそのまま掲載OKしたのだとすれば、結局何もわかっていないしかわってもいないんだなという印象しか持てないものとなっています。

こちらとしてもいちど触れた手前、最後のオチまで見届けようということで、ちょっと長いですが氏の「真意」を確認し、その後原文を分析していきたいと思います。

▼「「麻薬の売人以下」は「京アニのことではない」 純丘曜彰・大阪芸大教授、炎上コラムの真意語る」(JCASTニュース)

 アニメ制作会社「京都アニメーション」放火殺人事件を受けて寄せたコラム記事が物議を醸している純丘曜彰(すみおか・てるあき)大阪芸術大学教授が2019年7月26日、J-CASTニュースの取材に応じ、コラムで京アニのことを指したものだとしてインターネット上の批判を集めた「麻薬の売人以下」との表現について、「これは京アニのことではない」と反論した。

   京アニ作品に限らず長年のアニメファンであり、アニメが研究対象でもある純丘氏は、放火事件を「心の底から悲しんでいる」と心境を明かす。ただ、自身が書いた記事については「文章が下手で申し訳なかった。誤解されるだろうと思う」と反省を口にした。真意はどこにあったのか。

   純丘氏をめぐっては、南青山インサイト(東京都港区)が運営するウェブメディア「インサイトナウ」へ21日に寄稿したコラムが「炎上」状態にある。「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」のタイトルで長さは約3000字。特に問題となったのは最終盤のこの段落だ。

「いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う」(以下、「当該段落」)

   コラム中盤では、京アニの特徴を説明するにあたり、

「京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ」
「京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった」
「そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ」

と、当該段落とも共通するワードを用いている。タイトルも「京アニ放火事件の土壌」。そのため、同段落では京アニの名前こそ明記していないものの、ツイッターでは「多くのクリエーターを殺された京アニを『麻薬の売人以下』とこき下ろした」「京アニを麻薬の売人以下だと侮蔑している」など、「麻薬の売人以下=京アニ」と認識され批判が殺到した。

   コラムは24日に削除、同日中に「京アニ」の言葉を省いた形で大幅に短縮・再構成のうえ再度公開されたが、25日までにこれも削除。同時にサイトトップには謝罪文が掲載されるという慌ただしい展開をたどった。

   純丘氏はなぜこのような論考を書いたのか。J-CASTニュースの取材に「文章が下手で申し訳なかったと思っています。改めて読むと書き方が悪いです。誤解される文章だと思う」と表現の至らなさを認めつつ、強調したのは「『麻薬の売人以下』は京アニのことを言ったものではありません」ということだった

   「そもそもこの比喩の主語に『京アニが』とは書いていません」と前置きする純岡氏は、「麻薬の売人以下」なのは、あくまでその前に書かれている「いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどという(人々)」のことであり、ここに京アニは含まれないと説明する。

   では何を念頭に置いているかというと、コラムの最序盤、字数にして2000字以上前の段落に登場する「アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化」しているアニメ制作スタジオのことだという

「関連グッズを売るためにアニメを作れ、という広告代理店やテレビ局があるわけです。アニメ制作費をペイさせるため、物販を抱き合わせるのが定着してしまっている。アニメの内容にまで介入される。グッズが売れればいいとでも言うように、同じような作品を作り続ける。それは制作側にとって本末転倒であり、アニメ本来の在り方ではありません。おもちゃを売れと、テレビの放送スケジュールを埋めろと、そういう体制の中でいわゆる作画崩壊アニメなどもつくられる。

むしろ京アニはこうした流れに逆らってきた会社です。どうにか自分達でプロデュースし、作品のクオリティで一生懸命勝負し、それが評価されてファンがついてきています。アニメーターの待遇改善にも努めています。学園物でも同じ日々を繰り返すだけではなく、その中で登場人物たちはもがき、前進しようとしていくモチーフを描き続けている。『聲(こえ)の形』はその象徴的作品ですよ。制作側とファンが一体になって作品をつくり、作品と向き合っている」
 
 当該段落にある「ガキの学園祭の前日のような粗製濫造」という一節も「京アニは粗製濫造していません。アニメ制作にあたって原作は自分たちのテーマに合うものだけを選んで作り込んでいます」と説明。「学園祭の前日」という表現も「制作各社が過労働の中でもただただ楽しげにアニメを作っていることを『学園祭の前日』に例えた」という。

   コラム中盤では、アニメ界で「学園物」が主流になっていく流れを概説している。その後、学園物に限らずさまざまなジャンルのアニメがヒットするも、学園物を主力とし続けている制作会社として「京都アニメーション」を引き合いに出す。

   ただ、続く節では「なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか」として、京アニだけではなく「アニメ業界」における学園物の位置づけを論じている。純丘氏は取材に「この記事において京アニだけの話は途中(編注:当該段落より前)で終わっています」と話す

   つまり当該段落は、文中にもあるように「業界全体」の変化を求める内容だという。純丘氏は「京アニの多くの優秀なクリエーターの命が奪われました。丁寧な作品づくりを続ける京アニの志を、アニメ業界全体で共有し、代理店や局に頼らない体制づくりを今こそ考えようよということです。クリエーターが作りたいものを作れるように、制作会社が合従連衡を組むなどして抜本的に経営体制を見直さないといけない」とする。

   だが上記のとおり、「書き方が悪かった」ことは認めている。実は「元々かねて積み上げてきたネタがあって、それを今回の放火事件を受けて編集し、1本の記事にしたのです」と明かし、「だから横道に飛んでいるところもたくさんある。文章の構造が悪いというのはその通りです」と反省を口にする。「悲惨な事件があって、一気に色々と思うことが吹き出してしまった」という

   コラムの削除までにはどのような判断がなされていたのか。純丘氏によると、インサイトナウでの原稿執筆は、公開前に同サイト側の編集チェックを通さない体制になっているといい、「炎上」を受けて同サイト側は一旦、記事削除に踏み切った。純丘氏には事後報告だったという。

   その後、同サイト運営会社から再度連絡があり、趣旨だけ分かるよう「京アニ」の言葉を使わないようにして再構成。純丘氏も「もともと京アニを含めたアニメ業界全体の問題を書きたかったのです。補足的なエピソードや『麻薬の売人以下』などの比喩があるとそこだけがクローズアップされてしまう。誤解されるくらいなら省きます」ということで、900字程度にして再公開された。だが、それでも炎上がやむことはなく、同サイト側の判断でまたも削除した。純丘氏は「何を書いても無駄だった」と諦めたように取材に語った

   両親がアニメや映画制作に携わってきたという純丘氏は少年時代から映像作品に親しんできた。京アニ作品もくまなく見ているといい、取材の中でも次から次へと作品名やそこでのテーマ性が語られた。「私は心の底からこの度の放火事件を悲しんでいます。悲しんでいないわけがない。こんな形で命が奪われ、壊されていいのか」と涙声で口にした。そして「間違っても京アニは『麻薬の売人以下』ではありません。京アニはそれと戦ってきた会社です」と繰り返し話していた。

(J-CASTニュース編集部 青木正典)

氏が書いた「京アニの特徴」を列挙したり「字数にして2000字以上前の段落」みたいなオモシロ表現を見る限り、J-CASTニュースもわかっていて煽ってるんじゃないかという気がしてきますが、まあ要するに「書き方が悪かっただけで真意ではない」という話が大半。そして、どう読むのが正しいかという自説の補足に終始しています。

どう書き方が悪かったかという分析もあまりありませんし、「誤解される文章だと思う」という表現からは、読み手も誤ったというニュアンスが強く伝わってきます。実際、氏は自分がきちんと書いているのだという主張をしています。ということは、こちらもきちんと読めば「誤解」は生じなかったはずだという雰囲気が透けて見えるように思えるんですよね。「何を書いても無駄だった」というひとことも、読み手が冷静ではないという責任転嫁のように見えてきます。

何より「誤解」を与えたことによって、被害に遭われた方やそのご家族、また読者に対してどんな影響を与え、それをどう受け止めているのかということがまったく述べられていません。「誤解」を解くだけだから謝る必要はない、ということなのかもしれませんが。


■ほんとうに「誤解」なのか?
ともあれ、改めて氏の原文を確認し、私達がどう「誤解」したか確認しておきましょう。

あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。

文意としては、気の毒ではある。しかし、自覚のなさが招いたできごとである(自業自得である)[「だが」という逆接が入っているから、こう読むのが普通]というニュアンスでしょう。

もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映からも労働争議で多くの人材が放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。

そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』の実写化で、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり学園物の手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。

このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、方向として決定的になったのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。

ここは、アニメ業界史概観と京アニの関係に触れている箇所です。京アニのアニメ「製作」(制作のこと?)の転機を『ビューティフル・ドリーマー』だと位置づける中に、延々業界Disが混ざるという謎の箇所。京アニと「アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化し」たスタジオの関係は不明というか、論理的なつながりは見て取れません。

氏の反論(弁明)文によれば、「麻薬の売人以下」なのはここで述べられている「アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化」しているアニメ制作スタジオのことで、そこに京アニは含まれないということでした。

なるほど、「アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化」しているアニメ制作スタジオに京アニが含まれないというのはそうかもしれません。しかし、「麻薬の売人以下」がここを指しているというのはさすがに無理がありすぎます

なぜなら、ここで「アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化」したと言われているのは、基本的に1974年以前の過去の話だからです。それ以外の文脈では読めません。

また、この時点で「学園物」にドハマリした「ファン」の存在は出てきていないわけで、「偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取」という分析が「アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化」した制作会社に対して当てはまらないことも明白でしょう。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。

京アニの「主力作品は学園物」という規定がなされています。また、その「学園物」の反復を「終わりなき日常というモティーフ」であると解釈していますね。文脈的に筆者の強い主張と判断できる箇所です。

議論を整理すると、アニメには「大人向けのもの」もある → しかし京アニは学園物ばかり(終わりなき日常) → 一時期はトゲもあったが「悪酔いしたリメイク」になっている。という論旨です。「悪酔いしたリメイク」というのはどう読んでもマイナスの表現でしょう。誤解の余地などありません。

もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。

そして話題の核心。京アニに関する筆者の解釈です。「京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところ」という表現に対し、「京アニは粗製濫造していません。アニメ制作にあたって原作は自分たちのテーマに合うものだけを選んで作り込んでいます」と説明。「学園祭の前日」という表現も「制作各社が過労働の中でもただただ楽しげにアニメを作っていることを『学園祭の前日』に例えた」と弁解しておられましたが、へそで茶がわきます。

ここで用いられている接続語は「もっと言ってしまえば」です。「悪酔いしたリメイク」だと言っておいて、「もっと言ってしまえば」なのですから、表現的には間違いなく悪いニュアンスの表現が来ているはずだし実際にそう読めます。ピックアップしましょうか?

まず、京アニの作品は「内容が似たり寄ったりの繰り返し」。

次に、京アニの経営者については「創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のよう」。

そうして、「いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった」という主張で、「いつか起こると思っていた。予兆はあった。」という冒頭の宣言が回収されます。つまり、冒頭の「自覚に欠けている」というメッセージは京アニに対して出されたものであることは疑い得ないものです。

これのどこが「誤解」なんでしょうか。氏は正確に意図を表現しているし、読者も正確に読み取っていると思いますよ?


なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。

続いて、「学園物」に関する分析がスタートします。「なぜそれがアニメの主流となったのか」という問いを立て、「日本人にとって、最大公約数の共通体験だから」という理由付けを行っています。

また、アニメファンの年齢層が「学園」の年代と乖離していることから、アニメが「精神的に中高時代に留まり続けるよすが」となっていることを指摘。「キモオタのアラサー、アラフォーのファン」との類似性が語られており、その表現からマイナスの内容であることは疑えません。

氏は、ここからは京アニではなくアニメ業界全体の話になっているという説明をなさっているようですが(京アニだけではなく「アニメ業界」における学園物の位置づけを論じている。純丘氏は取材に「この記事において京アニだけの話は途中(編注:当該段落より前)で終わっています」と話す)、これもごまかしでしょう。

たしかにこの段落そのものは話題転換になっており、京アニと直接関係していないように見えます。しかし、次の段落を読めば京アニの話につながっていることがはっきりわかります。


夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。

ここで、冒頭部へ架橋がなされています。「夢の作り手」と「買い手」の関係。当然、アニメ制作会社とアニメファン、という文脈。そして「連中(引用者註:アニメファン)はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる」というのは、先述した「いつか「獏」がやってきて」というレトリックが示唆する内容であり、「それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。」という表現は「夢を喰い潰す」あるいは「熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃」という部分とつながり、最終的に今回の京アニ襲撃事件を示す内容であると読めます。むしろ、それ以外の読み方があるならご教示いただきたい。


『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。

んで、以下総括パートですね。「終わりなき日常」の反復(ループ)という構造が抱える問題点の指摘。古典的リアリズムの立場からのループ批判。これはゼロ年代サブカル批評(ゼロアカ)に触れた人にはおなじみの議論で、大塚英志がリセットボタンを押すとかんたんにやり直しができてしまい(アニメや漫画の中ではきちんと描かれてきた)キャラクターの一回的な死を軽く描いてしまう「ゲーム的リアリズム」を批判した流れと似ている。ただし、純丘氏はアニメ・漫画全般をこの理屈で批判しており、その意味で大塚よりも更に古典的でナイーブな内容であるというのが私の印象です。

起業する、選挙に立候補する、アイドルになる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。

ここはワナビ批判でしょうか。アニメファン、オタクというのがいつの間にかワナビにすり替わっており、その妥当性は正直あまり無いと思われるのですが……。

いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身も中毒に染まるというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

最終結論。「偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身も中毒に染まる」者への批判。それを「麻薬の売人以下」と表現しています。

「作り手たち」への要求が、「いいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示す」ことで「同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養する」ことだという表現から、最後に言及している「業界全体」の中には、たしかに京アニは含まれなさそうです。

しかし、文脈的に考えて「偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身も中毒に染まる」というのは搾取の対象から「逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ」によって夢の巻き添えを受けた者、と解釈するのが自然でしょう(そこに「中毒に染まる」という表現を用いるのが妥当か否かはさておき)。であるならば、「麻薬の売人以下」の作り手たちというのは、やはり京アニを指しているというのが妥当な読みであると考えられそうです。



というわけで、どう読み直しても「誤解」はしていないというのが私の感想です。

おそらく純丘氏は、そういう意味で「誤解」と言ったのではないとおっしゃるかもしれません。しかし、全面的に自分の表現がまずかったというのなら、「誤解」ということばは使わないほうが良かった。言葉じりを捉えてあげつらっていると思われるかもしれませんが、でも、表現がまずかったといって謝るのなら、そういうところに細心の注意を払って述べるのが重要なんじゃないんでしょうか。

また、多くの読者は単に「麻薬の売人以下」と京アニに言ったから怒ったというのではないはずです。根本には、被害者であるはずの京アニに対して「京アニにも責任がある」といった論調で語ったことのほうが問題視されており、言葉づかいのほうはそのおまけでしょう。そして、今回の弁明文を読んでも「京アニが燃やされたのは必然」といった論旨は否定しきれていないように見えます(燃やされたことを悲しんでいる、とは繰り返していますが)。

自分の文章がどう読まれて、何が問題となっているかもきちんとつかめていないというのは、批判に対して誠実に向き合っていないのではないかと疑ってしまう次第です。

氏が文系の学問を専攻しておられ、まして学生を指導する立場であるならば決しておろそかにしてはいけない部分でしょう。それなのに、「文章が下手で申し訳なかった」などと言い放ち、挙げ句書かれている内容は、批判にも自分の文章にもおよそきちんと向き合ったとは言い難い不誠実なものを出してくるというのは、恥の上塗りにしか思えません。

少なくとも、「私はそういうつもりで書いたわけではなかった。そう読めるかもしれないが」ということを、文系アカデミズムの現場でメシを食っている人間が依頼原稿に関して軽々しく言い放ってしまうのはありえないことです。いくらなんでも無責任です(たとえば、島田裕巳や中沢新一が、自らがオウムに対して述べたことをそのようなかたちで回収したでしょうか?)。それが許されてしまっては、私たちの理解や表現が成り立たなくなってしまう。

自分の表現がまったく自らの意図と乖離しておりそれに気づかず多くの人を傷つけたのだとすれば、自らの能力と引き受けるべき責任とについてきちんと言及がなされるはずなのに、それも無い

今回の反論か弁明かわからないあの記事から私に伝わってきたのは、関係者への申し訳ない気持ちでも、読者への謝罪でも、自らの言論に対する責任感でもなく、自己保身の気持ちでした。今回の件でこの期に及んでまだその状態であるということが、いろいろなものを冒涜しているように思えてやはり残念な気持ちになるのです。