ここ最近ではぶっちぎりに酷いというか、凄いというか、京アニ事件に関してとんでもないこと言う方が出てきたようで。一発KO間違いなしのハードパンチャーがさっそうとあらわれた感じで、なかなかインパクトあります。いやあこれはよく燃えるだろうなぁ……。

 ▼「京アニを「麻薬の売人以下」と表現 放火事件めぐる大学教授のコラムが非公開に 「不適切な発言があった」」(BIGLOBEニュース)
放火事件に見舞われた京都アニメーションを「麻薬の売人以下」などと表現したコラム「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」に批判の声が相次いでいる。ビジネスメディア「INSIGHT NOW!」に掲載されたこのコラムは24日、非公開にされた。取材に対して運営会社は、内容に「一部不適切な発言があった」とコメントした。


このコラムは、大阪芸術大学の純丘曜彰教授が「INSIGHT NOW!」に寄稿し、21日に掲載されたもの。1970年代からのアニメ業界の歩みやトレンドを解説し、京都アニメーションの前身が「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」に携わったことが、同社の後の方向性を決定づけたとしている。その後の京都アニメーションの作品については、「一貫して主力作品は学園物」で、「らき☆すた」や「涼宮ハルヒの憂鬱」など、「似たり寄ったりの繰り返し」とのこと。また、学園物は「中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすが」だと考察している。


そして、こうした人たちをファンにすると、「いつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなもの」とのこと。最後には、京都アニメーションを「偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身も中毒に染まるというのは、麻薬の売人以下だ」と断じた。


このコラムは24日に非公開になった。運営会社は取材に対し、問い合わせが複数寄せられたことから利用規約に照らし合わせて内容を確認したところ、「一部不適切な発言があった」とコメント。また、純丘教授へ危害が加わることも懸念されたことも非公開にした理由の一つとした。「INSIGHT NOW!」では、寄稿された記事の確認は掲載後に行っているという。

事件が起こったからといって、必ずしも被害者に寄り添うようなことを書かなければならないとは思いませんが、これはいかにも酷い。一応全文がアーカイブにあったので、載せておきます。


 ▼「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の背景/純丘曜彰 教授博士」
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。

もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映からも労働争議で多くの人材が放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。

そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』の実写化で、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり学園物の手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。

このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、方向として決定的になったのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。

もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。

なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。

夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。

『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。

起業する、選挙に立候補する、アイドルになる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。

いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身も中毒に染まるというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。



(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学 などがある。)

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まず、良識の観点からそれもしほんとうに思っていたとしても今言うことじゃねーだろっていう話があります。被害に遭われた方やそのご家族のことを考えると、「偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取」だとかいう表現を書く必要も意味もない。自分の発言がどういう効果を持ち、またそれがどう受け止められるかを理解できないような人間は言論人として最下層です。解っていなかったなら廃業したほうが良いレベル。解っていてやったなら、人間としてどうかと思いますけれども(なお、ありえないとは思いますがこれが受け入れられると考えていたなら、そっちのほうがヤバい)。

次に、単純に事実認識が正確ではないという話。

この文章には、犯人の動機を決めつけるような記述があちこちに見られます。しかし、それはもっと多くの事実がきちんと出てきた後に、慎重な考察を重ねた上で考えるべきことでしょう。少なくとも容疑者の意識が戻っておらず聞き取りも不十分な状態で、ろくな手続きもなしに決め打ちできることではありません。犯人像が捜査段階で明確になっていないことを考慮していない、あまりにも雑な手つきの記述です。

あと、これはもう半ば個人攻撃になるんですけど、現在掲載されている「INSIGHT NOW!」の文章、まったく違う内容になってるんですよ。

▼「終わりなき日常の終わり
あまりに痛ましい事件だ。もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、過労働が常態化していく。

そんな中、74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。

しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。

なぜ子供以上大人未満のジュブナイルが日本アニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。しかし、いま、もはや市場が高齢化してきている。だから、この機に事業再編し、常態化した過労働と決別する必要がある。

あれだけの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で規定の製作スケジュールをこなすのは無理だ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。業界全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためて大人になる物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さない一歩になると思う。


※ この記事は、大阪芸術大学の意見・見解を代表・代弁するものではありません。

これがなんというかもう、最高にかっこ悪い。なかったことにするのかよっていう。自分の放ったことばを引き受けないのかっていう。そんな覚悟であの文章を、被害者が読める場所に解き放ったのだとしたら、もうこれは言い訳できないんじゃないかと思うんですけど。


最後に、そうした形式的な部分を措いたとして、内容そのものにも疑問が残ります。もちろんそれは個人の主張ですから良い悪いどうこういう話ではないにしても、クオリティ高いとは思えません。

タイトル的には、宮台真司とかを意識していそう(オウム事件の『終わりなき日常を生きろ』はあまりにも有名です)。『ビューティフル・ドリーマー』からループ作品に注目するというのも、いかにもゼロ年代サブカル批評の影響を感じます(そして内容的には、そうしたサブカル批評に否定的)。何年前の話だよってツッコミをいれたくなる人とか、「いやぁ、懐かしいなぁ」と思い出に浸りたくなる人とか、たくさんいそうですよね。CG全盛のこの時代に白黒映画を見ているような趣深さがあります。

閑話休題[ルビは「それはさておき」です。イメージしてください]。

このコラムで氏が語っている論理は、だいたいこうです。「学園モノというのは、日本人の経験の最大公約数である」→②「そこに安住する作品ばかりを作っていた京アニは、終わりなき日常を繰り返しているだけ」→③「そんな空虚な妄想が破綻するのは必然だった」

たぶん、そんなに間違っていないと思うけどどんなもんでしょう。

で、①はまあいいんですけど、②はどうなんでしょうね。ご自分でも「終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた」みたいなこと書いてますし、安住することを是としていたかどうか、個別にきちんと見ていかないと話はできないんじゃないかなぁ。これだけ強いことを言うならそこしっかりやるべきでしょう。責任として。少なくとも、「エンドレスエイト」だけでその後の京アニ作品のすべてを括っちゃうのはありえない。『聲の形』とか見たのかな。あれちゃんと見てこの感想なら、読解力のほうに問題がある気がしますけど。

唐突に『らき☆すた』のカラオケEDを例外としてヨイショが入ってるのは、そこに関わるクリエイターさん(途中交代になった監督とか)でも擁護したかったんですかね。哲学やってるみたいだし。

また、学園モノの反復を「精神的に中高時代に留まり続ける」ことと位置づけるのも表面的で、何世代前の評論だよとツッコミを入れたくなります。ゼロ年代系の議論に限っても、少なくとも東日本大震災で東浩紀が華麗な逃走を見せてゲーム的リアリズム路線から完全に撤退していくおもしろ展開をガチで擁護していた人たちですらそんなこと言いません。だいたいその理屈が正しいなら、SF作品ばかり書いてる人は非現実的妄想からいつまでも離脱できない妄想家で、歴史作品ばかり作る人は時代が変わったことに気づかない愚かな懐古主義者なんですか? 作品内容や手法と現実の文化を結びつけるというのはカルチュラル・スタディーズ系が得意とする1つのロジックではありますが、それは丁寧な論理構成とエビデンスの積み重ねがあるから説得力を持つのであって、これほど雑にやったらお話になりません。そして、このテーマはそんな雑にやって良いことじゃない。

最後に③は、結果が出ているからあとづけでなんとでも言えることなんですけど、さっき書いた通り、そもそもこの事件を「終わりなき日常」の破壊と位置づけていいかどうかは明らかになっていません。また、これは私の立場として、「ビューティフル・ドリーマー」や「エンドレスエイト」は単純な「終わりなき日常」の表現ではないと考えています。

そのへんは、筋の良い(そして誠実な)ゼロ年代批評がきちんと処理してきた部分だと思うのですが、同じことが繰り返されていると思いきや実はそれが同じではないという気付き(実際、ループからはほぼかならず「離脱」が生じて物語が成立する)の中に、ループものをただの反復としてしか見られないこれまでの古い世代とは異なる、より深い現実の捉え方があるのだ、という立場に乗っかりたいです。『まどマギ』のほむらが叫んだように、あるいは私のフィールド(エロゲー)だと『Hyper→Highspeed→Genius』あたりが自覚的であったように、ループするたび、その作品はループ前の世界に置き去りにされてしまう個別性があるということの逆説的な表現になっている。

ループする作品を持ってきてそれが「終わりなき日常」だと短絡的に結びつけるあたりで、そうした分野における過去の成熟した議論を踏まえていないわけで、正直内容的にも魅力を感じませんでした。

私はもともと大学の哲学思想畑でいろいろやっていた人間のつもりでしたが、この方がそういうところのご出身であるとうかがうと自分がやっていたのは何だったのかアイデンティティの危機を抱かずにおれません。ましてこれが学生を教える教授の立場だとうかがうと、私を教育してくれていたのは果たしてほんとうに教授という職業の人だったのか自信がなくなります。

哲学で現実から乖離した思想をこねくりまわしているとこうなるっていう生きた見本なんですかね。純丘氏御本人の理屈でいくなら、ということは哲学や思想なんてやるな、地に足をつけて現実を生きろ、と。ナルホド!


……と、形式面・内容面からいろいろ書きました。一応暴言・罵詈雑言にならないようきちんと本文に基づいて話をしたつもりでしたが、そういう話が今回のことの核心ではないかもしれません。

というのもこの純丘氏、アニメをそこそこ見ている気配は感じます。過去の記事なんか読んでも、まあオタク叩きとちょっと過剰なアカデミズムへの思い込みは措いといて、大谷某みたいなド素人ではない感じ。それに、ご自分で小説も書いてらしたりするんですよね。オタク嫌いがよくわからず印象論で口出した変な評論家よりはちゃんとオタク文化を見ていて、オタク的マインドというかクリエイター気質も強く持っておられるように感じます。

んで、そういう立場から京アニ嫌い、ワナビ嫌い、オタクのアカデミズム進出(ゼロ年代批評)嫌いなところに事件が起きたので抑えきれなくなって思いの丈をぶちまけちゃっただけかもしれません。

だとしたら、それが一番酷いんですけどね。