意外と近いところに、新興宗教を巡るドタバタというのはあったりします。

少し前の話(ゆうて、数年とかそのレベル)、大学時代の友人(♀)の兄が新興宗教にハマりました。本当に偶然にも、その兄の婚約者がかつての私の同級生でした(私は浪人・留年をしているので)。

信仰を得たというだけなら、まあ心の支えができてよかったねという話で終わるのですが、その兄くんは怪しげなツボや御札を購入し、のみならず多額の財産を教団に寄付しようとしていました。さすがに看過できぬということで、両者から私のところへ話が来て、恐ろしい偶然に驚きつつ(これこそ、神のお導きとかいうやつじゃないかと本当に思ったものです)兄チャマのところへでかけていきました。

私はご両親を知りませんし、いきなり見ず知らずの人間がご自宅にお邪魔するのもどうかなと思ったので、とりあえず兄ゃを伴って近場の喫茶店へ。ドトールとかそういうのじゃなくて、割とちゃんとした喫茶店でした。

お兄様は物腰もやわらかく、理知的で、およそ宗教に狂って家族に迷惑をかけているような方には思えませんでした。最初は何の話をしたかあまり覚えていませんが、野球の話になって、「がんばろう神戸」というスローガンの話になったのは記憶しています。そのあたりから、少し話の潮目が変わってきました。

兄上様が申すには、ああいった奉仕の精神、困っている人を助けようという気持ちが大事なのであり、自分はいま、ある人、ある教えと出会ったことでそういう尊い気持ちに目覚めた、と。だから毎日とても充実しているし、社会に貢献できている実感もある。あなたは○○さん(婚約中の私の友人)の知り合いだそうで、自分を止めに来たのだろうが、自分はまったく正気である。あなたこそ、利己的な精神を捨てて自分と同じ教えを戴いてみないか――。

細かいところは不正確ですが、おおよそそういったニュアンスのことをこんこんと語ってくださいました。ことがこの話になってからというもの、おにいたまの口調は早口になり、姿勢は前のめりになり、せわしなく手を動かして激しいアクションを繰り返していたのが印象的でした。

私は軽い質問をしたり壺や御札に実際の効果があったのかを確認したり、周囲で起きているトラブルについて私の調べた限りのことを話したりしてみたのですが、まあまったく効果がありませんでした。そのアニキは、自分とその宗教の行為は世界の人を救い、幸せにしているのだと壮大な話を繰り返すようになりました。

正直勢いに呑まれてしまい、説得と言ってもこれは無駄じゃないかという諦めの気持ちも入り、効果的な対応ができていなかったようにも思います。

ただ、そうこうしている中でどうしても、これは訊ねておきたいという問いが出てきました。説得するとか何とかではなく、ほんとうに純粋に、彼に訊ねてみたくなった。そこで、兄君さまに問うたのです。「あなたは世界の人を救う、幸せにすると言うが、まずあなたの家族や恋人を幸せにしなくて良いのか?」と。

あんちゃんは言いました。それはもちろん、そうするつもりである。しかし、自分のことは後に回すのが立派な姿勢なのだ。自己犠牲的奉仕の精神であり、いつか教えの正しさと素晴らしさに気づいた時、家族も分かってくれるはずなのだ、と。

なるほど、これは無理だと私は悟りました。私の力ではもうどうにもならない。「理(ことわり)」を超えたところですべてが動いているということを、肌で感じたからです。無力感に苛まれながら私はお兄ちゃまと別れを告げ、友人二人には後でメールにて「ごらんの有様だったよ……」とお詫びを入れました。

その一件以来、私は、自分の周囲の人を不幸にしてでも他人を幸せにするという気宇壮大な話には近づかないようにしようと心に誓っていて、それがその件から得た教訓です。

んで、なぜこんな話をしているかというと、その妹君のほうから昨日、4月に子どもが生まれたという報告があったから。婚約者だった私の同級生と、友人の彼女の家族がその後どうなったかという話はここでは差し控えますが、いろいろあったゴタゴタの果てに、幸せになるきっかけを掴めたならほんとうに良かったと思います。遠く九州の地で、幸せが花開くことを心から祈っています。