関東で生きる関西弁使いとして、ときどき理不尽なことを言われてきましたが、これはまたひどい。

 ▼「関西人の「知らんけど」は許せる? 心理学者に「多用する理由」を聞いてみた」(JCASTニュース)
   Q&Aサイト「発言小町」で2018年11月28日、「知らんけど」の使用に疑問を呈す投稿があった。

   投稿者は、真面目に話を聞いていたにもかかわらず、最後に「知らんけど」を添える人がいると指摘。「自信がないとか聞きかじりで不正確かもしれない情報なら、最初に断り入れませんか?」と不快感をにじませている。

(中略)

   「知らんけど」を頻繁に使う人の特徴としては、「物事を大袈裟に言い、多弁な傾向にあるでしょう。自信に乏しい人も用います。大阪では、大袈裟に言ったり、尾ひれをつけて言ったりする風土があり、これが頻出の要因の一つかと思われます」と分析する。

   発言小町での返信では、「せめて冒頭で『知らんけど』を言ってほしい」との要望があったが、「最初から話すと、聞く人の注目度が下がるので、好まれません」(長谷川氏)

私の経験上、「知らんけど」というのは意味や用法が一律に判定できないくらい多義的なことばです。たとえば、こうです。

――今日の夕食なんだろう?

――うーん、ハンバーグじゃない? 知らんけど。


あるいは、こう。

――最近はディズニーランドよりUSJのほうが人入ってるらしいね。知らんけど。

「たぶん」の意味だったり、伝聞であるという合図だったり……。解釈によってはたしかに、話を盛る人の保険、というようにもとれるのでしょう。しかし、不確かなことをそうであると示そうという誠実さだったり、ただ「わからない」というより積極的に会話に参加していこうというやさしさのあらわれであるとも言えるはずです。

上のような分析は、「すみませんが」と言ってなにかしようとした人に対して「すまないと思ってるならやるな」とか、「自信のなさのあらわれ」と言っているようなもの。まったく建設的ではないし妥当性があるとも思われません。

1つ1つの用例を見る丁寧さもなく、勝手な印象だけで語った四流・五流の妄想であると断じてしまって構わないでしょう。


知らんけど。