本日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の死刑が執行されました。

オウム真理教による「地下鉄サリン事件」は、私にとって非常にインパクトのある大事件として記憶されています。というか、リアルタイムでこの事件に触れて、無関心だった人というのは比較的少数派でしょう。連日テレビもラジオも新聞もオウム一色でしたので、好む好まざるにかかわらず、情報を流し込まれていたのではないかと思います。

それはさておき、松本死刑囚の死刑が執行されたことで、この事件は「ひと区切り」がついたのでしょうか。

何度かここで書いてきたように、刑罰というのは罪の赦しのためにおこなわれる、という側面があります。死刑が執行されたことで、なにがしかの納得や踏ん切りが、被害者や遺族の胸におとずれたなら。あるいは彼らが松本死刑囚のことを忘れていくきっかけとなったなら、それは死刑に意味があったのだろうと思います。

ただ、それとは別に、社会にとっての意味、ということもあります。

日本は、犯罪を懲役年数や罰金といったかたちで純粋な量に還元してしまえる文化と違う、と私は常々考えています。そして日本における死刑というのは、その人の命をもって償わせるというのではなく(人の命と罪がつりあっていると考えているのではなく)、完全なかたちで社会から追放する――その人の存在を排除する――という意味を持っているのではないかと思うのです。

死刑が執行されたことで、松本死刑囚は、罪をつぐなうことなく排除された。放っておいてもいずれ、オウムを知らない世代が増え、直接の関係者も次第に数を減らし、社会からあの事件の爪痕も記憶も薄れていくのでしょう。それは時代の自然な流れではあるのですが、しかしその前に私たちの手によって、あの事件にカタをつけた。関係者の方々の想いというのがそこに重なるとは到底思えませんけれど、少なくとも日本の社会はこの死刑執行によって、オウム事件を「受け容れがたいもの」として位置づけ、意味づけたのでしょう。

そうして、逆説的ですが、追放されたものとして位置づけることで、ふたたび社会の中に回収したのだと思います。永遠に許さないという赦しが与えられたのかなぁ、と。

窓を叩く雨の音を聞きながら、そんなことを考えました。

最後になりますが、あの事件で亡くなられた方、その御遺族の方、被害に遭われた方々、すべてのみなさまに改めてお見舞いを申し上げます。