ときどき、個人の自由はなによりも優先されるから何をやっても(あるいは言っても)良い、というスーパーリバタリアンみたいな人がいます。というか今日会いました。

個人の主義主張はもちろん自由とはいえ、私はその手の人があまり好きではありません。というのも、もしすべての個人が完全に自由に振る舞って社会が理想的に回るのだと本気で信じているなら、それは完全な平等が実現できると信じていた、アタマお花畑の俗流マルクス主義のお仲間にしか思われないし、方便としてそのように振る舞っているなら、他人には自分を攻撃するなと言いつつ自分は他人を攻撃する卑怯者だからです。

他人に優しくしろみたいなことを言うつもりはありませんが、自分が他人を傷つけていることに自覚的であるのに無頓着な人は、たいていの場合人を傷つけることを正当化する理屈をひねり出すもので、それは個人と対立するものとしての社会が果たしている役割をあまりに軽視していると私は思っています。

いや、一貫性としては個人性を抑圧する全体性を認めないというところで通っているのですが、それならばその人とは共に在ることができないのではないか、と。

まあ私の話も、結局大事なのはバランスだという面白くもない着地をするわけで、それがクソだとか欺瞞だと言われたらそのとおりなのでしょう。極端に走った先にこそ見えてくる真実の光があるのも認めます。そもそも、どちらが正解でどちらが誤りという問題ではないのかもしれません。

ただ、歴史を振り返ったとき、極端に走ったものがもたらした崩壊や悲劇の恐ろしさを見ると、どうもその選択肢を取ることを良しとは思えません。中庸の美徳みたいなものを、最近とみに感じています。