正月に帰省したときのこと。私のいとこと『君の名は。』を観ていた私の母が、「難しい話だ」と繰り返していたんですね。いとこ(♀)は、「難しくないよ~」みたいなことを言ってる。そばを通りかかった私が、「60過ぎているご老体には、ワカモノのレンアイが難しいんだろ」と言うと、母は真顔で、「いやそうじゃなくて、どうして記憶が消えるの? あれ、どういう意味なの?」みたいなことを聞いてきました。

ああ、なるほどそっちかと。つまり、母は記憶が消えたりケータイの履歴が消えたり、あるいは三葉が「生き返った」りするのがわからない。三葉が瀧くんに惚れる理由がわからないとか、入れ替わりが発生している理由がわからないみたいな「解釈」の問題というより、その一歩手前のところだったんですね。

ただ、母がそこに引っかかったということは、私にとって色々考えるきっかけになりました。

私たちはふだん、さまざまな物語に触れています。ガチなSFでなくても、『ドラえもん』とかでタイムパラドクスみたいな話をしょっちゅう目にする。そのため、「過去が変わったら現在も変わる」とか、「過去のできごとをなかったことにしたせいで誰かが消える」といったことを一種の常識として受け取っています。しかし、私の母のようにそういった背景がない人にとっては何が起きているかわからない、「難しい」展開だったということなのでしょう。

たとえばファンタジーでよく見かける「呪文を唱えれば火が出る」みたいなのも、よくよく考えてみるとある種の文化を共有していなければ理解できないかもしれません。非常に原理的というかプリミティブな問いであり、それゆえに威力もあります。そこが気になると言われると、そういう設定だからだとしか言えない。

こういう話って実はいたるところに存在します。たとえば、「善きサマリア人のたとえ」みたいなのはキリスト教文化を理解していないと分からないだろうし、「輪廻転生」や「死後の世界」だって特定の宗教をバックグラウンドにしている。『平家物語』を流れる滅びの美学みたいなのが万国共通の普遍性を持っているなんてのは思い上がりで、それはやはりある特定の文化、思想、世界認識、そういったものに強く依拠しているはずです。

だから、もし母が『君の名は。』について「現実を無視した突飛でご都合主義的な、荒唐無稽で意味不明の恋愛話だった」と評価したとすれば(ンなことは言っていませんけど)、それはそれで1つの視点・1つの立場なのだろうなと思います。

しかし同時に、別の文化を共有する人にとってはあれが確かな現実である――あるいは少なくとも、現実に対するものの見かたに何らか資する点がある――ということも、じゅうぶんにありえます。タイムパラドクスが起きたら歴史が上書きされて人が消える、みたいなことは当然実証されていないフィクションですけれど、それを信じている、あるいは受け入れているということがものがたる何らかの精神性に意味はあるはずです。非現実的な神話の世界を信じていたギリシアの人びとの生活が現実から乖離していたなんてことはないし、ファンタジックな内容に満ちた『聖書』の世界が現にいま生きている人びとの生をかたちづくってるわけですから。

文化的背景がなければ《わからない》のは当然とも言えるし、逆にどんなにぶっとんで見える物語でも何らかの現実は背負っていて何某かのものを捉え語りだしているのだから安易に切り捨てるのは失礼だとも言える。そんなわけで、ここで私がしたかったのは、母の「難しい」という評価が正当だとか不当だとかそういう話ではありません。

じゃあ何だと言われればそれこそ別の意味で難しいのですが、何というか、ある物語とか作品を味わうには前提となる知識なり文化なりがどうしても必要なんだろうなという話。だから、自分が心動かされるような作品に出会えるということはそういう偶然が噛み合った幸運な結果なわけで、感謝しないといかんですね。