何か決まった結論を持って書き始めたわけではないのですが、ちょっとおもしろいというか、驚いたことがあったので。

先日、聴覚障害の方と「話す」機会がありました。手話ではなく(多少手話も学んではいるのですが実用レベルではない)、チャットです。ただ、その時彼が、「うまく書けないかもしれないので、日本語がおかしくても許して欲しい」というようなメンションを最初に飛ばしてきたんです。(なお、今回記事にするにあたってご本人の許諾は得ています。念のため)

んで、「あれ?」と思ったわけです。耳が聞こえないのは文字が読めないのとは違います。なぜ、日本語の心配をするのかな、と。そう訊ねると、「聴覚障害の症例の中には、助詞がうまく使えない場合があるんです」というお返事。

その後の会話で特に問題は感じなかったこともありその時は流したものの、気になって調べていると日本音声言語協会で面白い論文を見つけました。

 ▼「聴覚障害児における格助詞の誤用 ―言語学的説明の試み―」(J-STAGE)

PDFで本文が閲覧できます。

聴覚障害をもつ子供が統語的側面に問題をもつことは従来から多くの研究によって指摘されてきた。特に、日本語を母語とする聴覚障害児が文理解や発話の際に格助詞を正しく使用できない傾向があることは古くから知られている

のだそうで、全然知りませんでした……。文字が読めるんだから格助詞もお手の物かと。

調査の対象は児童ですが、具体例として、

 ・男の人がサッカー「で」やっています。

 ・お母さんが男の人「に」褒めた。

のような 例があがっています。論文では、特に聴覚障害を持つ児童が苦手とする助詞の傾向を分析し、文章の構成でどのような意味構造をとり損ねているのか、という検証を行っていますが、細かい話は私の手に余るので省きます。

ただ、文章というのは単に「文字」として読んでいるようでも、音として入ってくることがなければ認識できないことがある、というのは驚きでした。しかし言われてみるとたしかに、私たちは助詞やら何やらをほぼ難なく使いこなしているけれど、その助詞を使う根拠として意味を考えることはほぼ無く、慣れで処理している気がします。そして、その慣れのもとは、常日頃の会話なのかなと。

そうしてみると、論理的には飛躍した話になりますけれど、私たちは日本語を、ただ書くだけでなく声に出して読んだり、あるいは誰かが読んでいるのを聞いたりすることにも大きな意味があるのかもしれないし、読んでみて/聞いてみてはじめて分かることもあるのかな、と。

つまり、エロゲーをやるときには、ただテキストを読むだけでなくちゃんと音声もONにしてスキップせずにプレイすべきなのではないかと、まあそんなことを考えたのでした。(ひどいオチ)