聞けば聞くほど酷い、この事件。

 ▼「原発避難いじめ 学校は「率先して金渡した」と判断」(NHK WEB NEWS)
東京電力福島第一原子力発電所の事故で、横浜市に自主避難してきた生徒がいじめを受けていた問題で、両親が学校に「子どもが同級生に150万円ほど払わされた」と訴えたのに、学校の調査では8万円分しか確認できず、生徒が率先して渡していたとして、いじめにはあたらないと判断されていたことがわかりました。教育委員会は当時の対応を検証しています。
 
この問題は、原発事故で横浜市に自主避難してきた、現在中学1年の男子生徒が、転校してきた小学校でいじめを受けていたもので、横浜市教育委員会は当時の対応を検証しています。

この問題で、生徒が小学5年生だったおととし6月、両親が学校に「子どもが同級生に遊ぶ金として合わせて150万円ほど払わされている」と訴えたのに、学校の調査ではおよそ8万円分しか確認できていなかったことが生徒の両親などへの取材でわかりました。

さらに、金を受け取ったとされる10人ほどの児童は「おごってもらった」などと話したことから、生徒が率先して渡していたとして、いじめにはあたらないと判断されていたということです。生徒の父親は「子どもはいじめをやめてほしくて金を払っていた。学校は動いてくれないのかと無力感しかなかった」と話しています。

横浜市教育委員会は、当時の学校の調査が十分でなかった可能性もあるとして、担当者から聞き取りを進めることにしています。

アホか。いくらなんでも140万円おごるわけがないでしょうに……。 

こういう、調査したともいえないことを「調査した」といってごまかすのが、道義的にもシステム的にも最低のことだというのがなぜ分からないのでしょうか。

私は、「いじめをなくそう」というのはスローガンとして良いけれど、実際にそれを目指してしまってはいけないと思っています。

人間が複数人集まればさまざまな人間関係が発生します。そして人間の数だけ視点が生まれる。そのとき、その人間関係を「いじめ」だと捉える人は必ず出てくるでしょう。「いじめをなくそう」というのを本気でやってしまったら、「おまえがやられたのはいじめではない」と言うしかないわけです。

どちらかといえば、大切なのは起きた後の対処でしょう。客観的に「いじめ」と見えることが起きている。あるいは主観的に「いじめ」と感じた人がいた……。そういう時に、適切な対処ができればみんながある程度気持ちよく過ごすことができます。いじめられた人は、適切に対処してもらえると思えればすぐに訴え出ることができるし、そばで見ている人も呼びかけることができるのです。

いじめをなくそう、という標語で目指すのは、いじめゼロという数字の書類を作ることではないはずです。そうではなく、苦痛を感じながら日々を送る人を減らすことであるべきで、だからこそ、起きてしまった苦痛に対し適切な処置ができることこそが求められているのではないでしょうか。

いじめは起きるものであり、そのことについて教員や関係者を責めても仕方有りません。そこを責めることが、かえっていじめの隠蔽に繋がるのです。だから、いじめ問題というのは適切な対応に惜しみない賞賛を送り、対処を誤った場合厳しく罰せられるべきだと(結果論になりがちですが)私は思っています。

その点で、今回の一件は報道されている内容が本当だとすれば、聞けば聞くほど論外です。学校の関係者は全員クビを入れ替えても良いし、そのくらいすべきじゃないんですかね。ものごとの重要なところを分かっていない人間が若者を「教育」することほど不幸なことはないでしょう。教える側・教わる側お互いにとって。