ときどき、「了解」という返事は失礼である。「承知」と言いなさい、といったことをおっしゃる方がおられます。とはいえ、私の身の回りでも、よく「了解しました」、「了解です」という返事をしている人は多いし、それで特に何か問題が発生している感じもしません。

WEBでは既に存分に話題になっていたようで、たとえば次のような取り上げ方がされています。

 ▼「「了解いたしました」はビジネス上では失礼?「了解」の意味と使い方
」 (ビジネスマナーのあいうえお)

 ▼「
「了解」は失礼か?」(アスペ日記)

 ▼「
[言葉]「目上には「了解」ではなく「承知」を使う」は誤用」 (あの頃の僕らは胸を痛めてブギーポップなんて読んでた

 ▼「
NHKの「目上の人に「了解」は失礼?」とかいう記事がちょっとどうしようもない内容だった」(不倒城) 

 (上記のまとめとして、2014年「
「了解」は失礼か? NHKまで取り上げた日本語のマナーの疑問を、ブロガーたちはどう考えたんだろう」(週刊はてなブログ)を紹介しておきます)


こうした流れでたびたび指摘されているように、マナー本とかで商売をしている人たちが、メシの種として「了解は実は失礼だったんだ!」ということをでっち上げ、それによって実際の日本語が左右されている、という点は確かにあるのかもしれません。

しかし、ここまで厳密な調査を重ねてきたにもかかわらず、「でっちあげ説」もまた1つの推測であり確定的な裏付けが存在するわけではない、ということが忘れられていることは残念です。

私たちに分かることは、それこそ「貴様」の意味が逆転したり、「荒らげる(あららげる)」が「荒げる(あらげる)」になったり、「ご苦労様」が目上から目下にかけることばであると説明されるようになった、というような、ことばの変化が現実に起こりつつある、あるいは既に起こっているということです。まずは、いま「了解」と「承知」についてどのような議論があるのかをきちんと見定めることが第一であり、それに対してどのような態度をとるかという決定は見定めた結果を踏まえてからでも遅くはないでしょう。


とりあえず話をいろいろ聞いたり調べたりしていると、「了解・承知論争」で「承知」のほうが良いとされる理由には、少しずつ違う内容が含まれていることが分かってきました。

細部の違いを捨てて大別すると、管見では次の3つになります。

(1)了解ということばが目上から目下に向けられるものなので失礼である。 (2)了解と承知では、承知のほうが敬意が高いので目上の人に対しては承知を使うべき(了解が失礼かどうかは問題ではない)。 (3)承知は敬語だが了解は違うため、「了解です」はまずいが、「了解いたしました」なら良い。

個別の論点を確認するため、とりあえず辞書を引いてみました。国際社会の中で日本語の意味の違いを分かりやすく説明できるように、という意図で編まれた講談社『日本語大辞典』第二版には、了解と承知は次のように説明されています。

了解 (名・サ変他) よくわかること。また、納得して承知すること。understanding ; agreement

承知 (名・サ変他) ①知っていること。be informed ②聞き入れること。同意・承諾 consent ③許すこと。がまんすること。 pardon

英語の意味が違っているのですが、そこに目をつぶれば「了解」は「承知」と言い換えてもよく、複数ある「承知」の意味の1つに「了解」が含まれる、と理解して良いのでしょう。これを見た限りでは、承知が敬語であるとか、了解が目上から目下に向けるものであるとか、そういった内容は読み取ることができません

とはいえ、現代の辞書というのは割といい加減なものなので、編者が勝手にそう思い込んでいるだけ、というパターンもあります。というか、了解が能動態なのに承知の①の意味が受動態で表現されていて、どっちも同じ意味ですよ、というのは言語を扱う上では相当に雑な感じがして、あまり信用できません。

そこで、とりあえず頭を使わずに調べられるもののなかでは最も信頼性が高い(初出情報が掲載されているため)、小学館『日本国語大辞典』第二版にあたってみました。これは、「あの頃の僕らは胸を痛めてブギーポップなんて読んでた」さんでも同様のことをなさっていますね。

『日本国語大辞典』第二版によれば、了解と承知は以下のような意味になります。

【了解】(名)①はっきりとよくわかること。よく理解すること。また、理解して承認すること。諒解。領会。 *蘭学階梯(1783)下「成書に就てこれを読むの間、回復玩味すれば、自ら了解することなり」 *俳諧・蕪村発句解(1833)序「いささか私の了解をもそへて、例の筆まめに書与へたるを」 *西国立志編(1870-71)<中村正直訳>二・一三「また経糸を理する機関の錯綜せるものを了解し」 *花柳春話(1878-79)<織田純一郎訳>一七「文義の了解(リョウカイ)し易からざるを恐る」
②(ドイツ Verstehenの訳語)ディルタイの哲学で、文化を生の表現とみなし、その内的な生との構造連関を、自己の体験、自己移入、追体験などによってとらえようとするプロセス・操作。理解。

【承知】(名)①目上の人の命令などをうけたまわること。拝承。領命。 *江談抄(1111頃)五「粗依先父之談説、纔置文字之様、所承知、」 *大内氏掟書-一七四条・大永二年(1522)六月「兼而御諚之趣如斯。甲乙人等宜令承知、敢勿違失矣」 *塵芥(1510-50頃)「承知 セウチ」 *浄瑠璃・神霊矢口渡(1770)一「我れは裏より密に出ん。監物は表てより委細承知(セウチ)仕つる」 *蜀志-費詩伝「承知消息、慨然永歎」
相手の願い、要求などを聞き入れること。納得すること。許すこと。同意。承諾。承引。 *上井覚兼日記-天正一三年(1585)九月一九日「殊に案外出来候するなどと候事、如何様之儀候哉。難承知候」 *黄表紙・見徳一炊夢(1781)上「ずいぶんかしこまりましたg、おいみあきまでおこらへなされませ。おいみあきにはきっとせうち」 *浄瑠璃・伽羅先代萩(1785)道行「うんと言(いひ)な言な。ヱ承知(セウチ)か承知か」 *随筆・胆大小心録(1808)一〇〇「この国には、天が皇孫の御本国にて、日も月もここに生れたまふといひし也。是はよその国には承知すまじき事也」 *吾輩は猫である(1905-06)<夏目漱石>二「一斤(いっきん)位ぢゃあ承知が出来ねえんだが、仕方がねえ、いいから取っときや、今に食ってやらあ」 ③知ること。わかること。また、わかっていること。存知。 *洒落本・通言総籬(1787)一「神がみさんもどこやらも。とふにせうちでろけれど」 *咄本・無事志有意(1798)そそか「『痛くはなかったか』といへば、下女も承知(せうち)して居れば、『いいへ、疵は付きませぬ』といふ」 *滑稽本・浮世風呂(1809-13)二・上「そりゃア百も承知(シャウチ)だけれど」 *趣味の遺伝(1906)<夏目漱石>三「此問題に関して其起原発達の歴史やら最近の学説やらを一通り承知したいと云ふ希望を起して」

さすが『日国』。情報量が全然違いますねェ……。

とまあ、嫌味は措いといて、これを見る限り次のようにまとめられるのではないでしょうか。

A.承知には目下の者が目上の者から命じられたというニュアンスが含まれる場合がある。
B.同時に、承知には目上の者が目下の者の要求を聞き入れるニュアンスが含まれる場合がある。
C.了解と承知で意味が重なる部分がある。これには敬意は関係なく、ただ状態をあらわしている。

以上を参考に、最初に挙げた「了解・承知論争」の3つの論点について再考してみましょう。

(1)「了解」は目上から目下に使うのが前提の語か。
 → 否。むしろ「承知」にそれに近い用例がある。
(2) 「了解」より「承知」のほうが敬意が高いか。
 → 場合により正。「承知」にはそれ自体で敬意を含む場合があるが、「了解」にはない。
(3)「了解しました」なら良いか
 → たぶん正。「了解」はニュートラルな表現なので敬語をオプションでつければ良い。

と、こんな具合。

ここから導かれる結論を簡単にまとめると、「了解」と「承知」のどちらのほうが敬意の表現として無難かと言われれば、「承知」であることは間違いない。また、「了解」単独には敬語的ニュアンスは含まれていない。しかし、「了解」が失礼かというとそういうわけではなく、「了解いたしました」のように別の敬語とセットで使うことで敬意は表現できる、という感じになります。

一応これで、辞書的な説明(語のもともとの用法や、学的な根拠に基づいた議論)は完結。ただし、「もともとそういうことばであった」ことは、「現代でもそのように使わなければならない」ことを保証するものではありません。

以下は個人的な感覚・感想を含めた話になります。

ことばの用法について「こういうルールがあるからこう使うべきだ」という議論もわからなくはないのですが、文法や語法というのはルールから作られたものというよりは、実際の用法からルールらしきものを「暫定的に」取り出したものに過ぎないはずです。これは敬語についても同じでしょう。「お食べなさる」という語がおかしい、と言ってみたところで、それが全国津々浦々に浸透して公共の場でも使われる現実が(もし万一)あったとしたら、それは「お食べなさる」という敬語が定着したと見て構わないはずです。

それプラス、以前にも何度か書いたのですが、敬意というのは、相手に対して敬意を払っている、払う意思があることを示す、ということが重要になると個人的には考えています。とはいえ、そうした個人的な意思というのは容易に確認できないため、共通の「形」が生み出されました。それが礼儀です。

たとえば、「ここには日本の神がいる」と神社に案内されたクリスチャンが、(一神教なので日本の神に礼拝することはありえんだろというツッコミはさておき)神社で十字を切ったらどうするか。また、出雲と伊勢では同じ神道でも礼拝の方法が異なるわけですが、(二礼四拍手一礼の)出雲で、(伊勢式の)二礼二拍手一礼をしたら、これは礼を失したことになるのか。

「その人なりに敬意を払おうとしているのだから良いじゃないか。神様だって許してくれるさ」という人もいれば、「いやいや、その文化のことを知らずにいい加減なことをするというのは、敬意が足りない。形式を踏襲してこそ敬意を払ったことになる」という人もいるでしょう。

何が言いたいかというと、「正しい」敬意の表現というのはおそらく存在しない、ということです。ことばにおいても同様のことが言えるでしょう。

重要なのは、あるコミュニティの中で、あるいは敬意を伝えたい対象に対して、敬意が伝わるかどうかであり、何か客観的な判断基準があってそれに従っているかどうかで敬語の正誤を判断するのはナンセンスではないでしょうか。

もっとざっくりと言ってしまえば、「ケースバイケースだ」ということです。

多くの人が「承知」のほうがていねいなことばだと思っているコミュニティで、「了解」を無理に使う意味はあまりないでしょうし、「了解しました」でお互い円滑なコミュニケーションがとれているところで、わざわざ声高に「承知を使わない奴は非常識だ!」みたいなことを叫ぶ必要もないでしょう。

ただ、現在のほうぼうでの論調を鑑みるに、「了解」ならモメる可能性はあるけれど「承知」と言っておけば余計なトラブルを招く可能性は減ります。学的誠実さとかそういうのを抜きにして、処世の術としては「承知」を使っておけば良い、というのが落としどころではないかと思います。

逆に、無批判に「承知」ということばを使って満足している人を糾弾したり、「マナー業界に踊らされて日本語の衰退に一役買っている」と憤るのも自由でしょう。そこには、そういう共通理解を持ったコミュニティが誕生し、その中で「妥当」なことばの用法が確立されていくでしょうから。