先日、少し縁があって、「デキる」と評判の先生による、高校の授業を聞くことができました。始業式やら入学式も終わったばかりという、4月のクソ忙しい時期にご苦労なことですと思ったのは内緒。題材は、高校2年生で、1年ほどかけて漱石の『こころ』を読むということでした。

で、まあ大学で文学理論をきちんと修めたんだろうなと思わせる内容であったのですが、彼はいわゆるテクスト論者で、テクスト論以外の読み方を、非常に否定的に――という言い方では生ぬるいほど馬鹿にした感じで――授業をしていた。聞いていて、私はその点がとても微妙だなぁと思っていました。

正直、読解の方法に正しいも間違っているもないと思います。作家論で読もうが、ストーリーを追いかけて楽しもうが、感情移入して自分が登場人物になりきろうが、テクストの、ましてや物語の楽しみ方なんて人それぞれであって、読み方・楽しみ方にランク付けがされるなんてことはないはずです。いや、これは単に私の「信仰」の問題であるという以上に、テクスト論者であれば原理的にそうなるはずです。(なぜならテクスト論というのは、読解に関する絶対的な解の存在を否定するところから始まったのですから)

あるとすればせいぜい、教える側がどんな理論を好むかという趣味趣向の問題でしょう。しかし、そんなものを高校教師が声高に主張して――つまり、自分が好き/嫌いだという理由によって教える内容を極端に偏らせるというのは、果たして良いことなのでしょうか。それは、根本的には、自分が仏教徒だから仏教の教えを広めてキリスト教を馬鹿にするだとか、自分が左翼的思想の持ち主だから天皇を批判するだとか、死刑廃止論者だから冤罪事件ばかりを取り扱うというのと、同じことだろうと思うのです。

もちろん、教師も人間であり、教育の内容には個人の価値観やその人の人間性が反映されるのは仕方がないでしょう。あるいは、多少はそういうものを織り交ぜていくことによって、深みのある授業が可能になるということについては、私は否定しません。しかし、学校教育の場においてふさわしい限度というのは存在してしかるべきです。加えて、教えるべきはむしろそれぞれの読み方によってとりだそうとしているものが違う、ということでしょう。方法論を比較して優劣をつけるということは、その方法によってとりだされる内容に優劣をつけるということで、それをやるなら方法の善し悪しではないところできちんとした基準なり理由なりを伝えなければならないはずです。

これが、「受験に必要だからこの読み方を覚えておけば便利だ」といったような実用的利便性であったなら、技術の問題として扱うことができますし、色々な読み方の特徴なり良さなりを紹介したあとで、特に自分が好んでいるものについて触れるということなら、ある種の公正さが保たれていると言えるのですが、好みを押し付けるのみならず、自分とそりのあわない相手を不当に貶めるのはやりすぎというもの。

しかも何というか気の毒なことに、その先生は「個性的」で「実力ある」先生として周辺でも名を轟かせ、学内でも影響力がある感じでした。そういう先生が自信満々で授業をすれば、生徒たちは「そうなんだ!」と納得してしまうでしょう。一種の洗脳と言っても良い。これはマズイんじゃないかなぁと、さすがに本人に言うわけにもいかなかったので、終わったあとで私を公聴会に誘ってくれた先生に話してみたんですが、その先生も似たような感想を持っていたようでした。

一応感想を書いて出す機会があったので、そこにはオブラートに包んで上のようなことを書いたんですが、果たしてどうなることやら。あの学校の生徒の皆さんに変な影響が出ないことを祈るばかりです。