あまり深くつっこむつもりはなかったのですが、フォームから「どう思ってるの」というフォームからのメッセージを頂きましたので(リクエストありがとうございます)、ちょこっとだけ。

といっても、ここ最近のバタバタもあって、会見を動画で見た程度で周辺の議論とかもきちんと読めてはいないので、正直申し上げてあまり大した意見も書けそうにありません。質問頂いてから、後追いでまとめを見たり検索かけたり……という状態でした。

以上をおことわりの上でになりますが、感想としては「自殺とかしなきゃいいけど」くらいの感じです。可哀想とか同情とかではありません。もちろん、一般論的に今回の件についてはけしからんと思っていますし、非難するロジックを組み立てることはできます。曲がりなりにも学問的な分野に携わる身分としてもの申したいことはございますし、《日本の》学問分野における信頼を失墜させたという意味では、国民という立場から表明したい怒りもございます。

しかし、そういった事情は所詮間接的なものでありまして、ここまでことが大きくなった現状、直接的な利害関係が薄い人間が、まだ首を突っ込む段階ではないだろうと思っています。

これは、いわゆる「当事者問題」とも関わることなのできちんと考えておく必要があるかとは思うのですが(たとえば、どこまでが「当事者」か、みたいな議論もできます)、私は決して、非当事者が首を突っ込むなと言っているわけではありません。ただ、うかつに触れるには余りに騒ぎが大きくなりすぎたし、デリケートすぎる段階ではないか、ということです。ネタとして触れるくらいならまだしも、真面目に……つまり自分のことばに責任をもって話をするには、いまはまだ適切な段階ではないだろうと。

んで、そういう、この問題を外側から見ている人間として言えることは、とりあえず生き死にの問題にならなきゃいいなぁというくらいです。

その辺を取り払って、現象として今回の件を見た場合、こちらの方の意見が比較的私の立場に近いかなと思います。

 ▼「STAP界隈でこれから何が起こるのか」(戦争だ、90年代に戻してやる) 

一見してわかるように、両者の主張は全く噛み合っていません。理研は研究方法の不備について指摘しているのに、小保方さんはSTAP細胞の存在について主張しています。両者の意見は完全に平行線です。

なぜ小保方さんはこんなかみ合わない答弁を行ったのでしょう。それは彼女のメッセージが理研ではなく、マスコミを始めとする一般マス層に向けられたものだからです。

そもそもSTAP細胞を巡る報道の焦点は、「小保方論文の研究手法は正しかったのか」ではありません。そんなこと、はっきり言って視聴者は誰も気にしていません。科学の素人たるマス層が気にしているのは「STAP細胞は存在するのか否か」です。

別に小保方さんがお涙頂戴の政治的天才だとか、戦略家だとか、「肌が蘇るSTAP美容液」や「STAP細胞効果でみるみる痩せる奇跡のSTAPサプリ」を売りだしてお金持ちになるだろうとか、その辺はどうでもいいんですけど、理研(あるいは学者界隈)と一般の人(および小保方さん)との間で問題関心がズレていて平行線だ、という指摘については異論がなく、それが今回の件を妙に複雑というか、ややこしい感じにしているのだろうと思います。

専門家、今回の場合であれば学者界隈が問題にしているのは、「学問的誠実さ」あるいは「学的良心」 というやつですが、これはいわゆる世間一般の道徳的な話ではなく、学問的手続きの厳密さの問題です。上記記事の指摘で言えば、「研究手法」の問題、つまりは方法論の話です。これに対して、小保方さんの回答と、彼女の言動について同情的なコメントを寄せる人の多くが、「STAP細胞は実際にあるか否か」という結果のほうを問題にしている、というのは、私が観測している範囲の印象になりますが、概ねその通りでしょう。少なくともワイドショーやニュースを始めとするマスメディアの関心は後者のほうにあります。

これは、ちょっと不思議な感じもします。たとえば、ドーピングをして100m走の世界記録を樹立したとして、人はその記録を認めないでしょう。しかし、嘘八百を並べ立てても結果的に有用なものが出てくれば、認める人がいる、ということなのですから。しかし、よくよく考えてみると、私たちにとってこういう話題というのは凄く身近なことかもしれません。というのも、ブログ記事とかが後者の典型ですよね。プロセスの厳密さやおかしさがあったとしても、結論がなんとなく納得できる、実感に即している、役に立つ気がするなら、まるっと全体を認めてしまう、という。

これを、専門家vsマス(大衆)のような構図にしてしまうのは、今回であればアカデミズム至上主義的な空気が醸しだされてイヤですし、「専門家特有の厳密さ」が閉鎖的に発揮されると悪く働くことも当然あるので、どっちが良いとか悪いとかいう話は、今回はやめておきます。私自身はなんだかんだいってアカデミズムのほうを擁護したい気持ちがあるのは確かですが、それが美点ばかりでないことも理解しているつもりです。

そんなわけで、小保方騒動を見ていて思うのは、学問的なプロフェッショナリズムというのは少なくとも一般の人びとになかなか届きにくいし、実際あまり届いていないのであって、学者の側もそのことに対して危機感だとか問題意識をあまり抱いていないんじゃないかということ。

かつて東北でひらかれた某シンポジウムで、「携帯電話の電磁波」の問題を巡って、市民団体と科学者の先生が言い争いをしていたことがありますが、まぁ酷かった。科学者の先生は、「現状では電磁波に健康を害するような影響は認められない」ということを繰り返し、市民団体は「でも将来はわかりませんよね?」とか「まだ見つかっていない未知の電磁波があるのではないでしょうか?」みたいなことを繰り返す。これなども、ある意味で「過程」を重視する科学者と、「結論」に重きをおくマス、という図式に当てはまるかもしれません。

で、こういうズレというかすれ違いってやっぱり決定的だし、それを価値観の違いだとか、学者センセーはお高く止まっているだとか、大衆はバカだとか言ってたんじゃいつまでたってもこの社会はまともに機能しないと思うんですね。

まあその辺を考える上で、小保方さんの問題というのは興味深いんじゃなかろうかと思っています。

期待されたものと違うのではないかと思いますが、こんなところでお返事になったでしょうか。