以前話題になった、「メロス走ってないじゃん」という話。村田一真くんの自由研究ですね。

 ▼「「走れメロス」は走っていなかった!? 中学生が「メロスの全力を検証」した結果が見事に徒歩」 (ねとらぼ)

 メロスは作中、自分の身代わりとなった友人を救うため、王から言い渡された3日間の猶予のうち初日と最終日を使って10里(約39キロ)の道を往復します。今回の研究ではこの道のりにかかった時間を文章から推測。例えば往路の出発は「初夏、満天の星」とあるので0時と仮定、到着は「日は既に高く昇って」「村人たちは野に出て仕事を始めていた」とあるので午前10時と仮定して……距離を時間で割った平均速度はずばり時速3.9キロ! うん、歩いてるね!


中学生の「研究」ということで注目を集めたものの、一種のトリビア的ネタというか、『空想科学読本』みたいな感じで、「創作にマジレスしてみました」的な受け取られ方が多かった気がしますが、 この研究、実は結構面白いんじゃないかなとずっと思っていました。

というのも、かつてブログで書いたように、太宰の作品というのはある種過剰な「自意識」を表現しているものと読めるからです。そのときにとりあげたのは、確か『黄金風景』(本文)だったでしょうか。

私はつい癇癪かんしゃくをおこし、お慶をった。たしかに肩を蹴ったはずなのに、お慶は右のほおをおさえ、がばと泣き伏し、泣き泣きいった。「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」うめくような口調で、とぎれ、とぎれそういったので、私は、流石さすがにいやな気がした。

たとえばこの部分、一人称の「語り手」は「肩を蹴った筈」と言っているのに、蹴られた当人であるお慶は「頬をおさえ」、「顔を踏まれた」と言うわけです。もちろんお慶が嘘を言った可能性はあるにしても、語り手が現実を都合よくごまかしている文章だ、とも解釈できるでしょう。そこに、語り手の見栄、欺瞞などといった「自意識」の痕跡を読み取ることができます。

で、太宰を「そういう作家」であると見てやると、『走れメロス』は語りがちょっと特徴的なんですよね。「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐じゃちぼうぎゃくの王を除かなければならぬと決意した。」で始まるこの作品は、最初は三人称語りです。そして、「勇者は、ひどく赤面した。」という、やはり三人称で締めくくられる。ところが、途中で一人称語りが挟まれます。それが、この部分。

ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天いだてん、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代きたいの不信の人間、まさしく王の思うつぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身えて、もはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐ふてくされた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。

という感じ。「メロス」から「おまえ」となり、「私」へと段階的に語りがシフトしているのが分かるかと思います。この移行は明らかに意図的なものでしょう。んで、「この「私は、これほど努力したのだ」からしばらくの間、地の文で一人称語りに変わっています。他にも何度か「私は」という語りがありますが、まあこの部分が一番長い。要するに、「メロスが精一杯頑張った」というのは徹頭徹尾メロスの自己申告となっているわけです。少なくとも、三人称が俯瞰的に語る客観的事実としてではなく、主観的な現実として、メロスの「精一ぱい」は描かれている。

ですから、もし太宰が村田くんの研究のような内容を意図的に描いていたのだとすれば、メロスはのんびり歩きながらこんなことをのたまっていたわけです。したがって『走れメロス』という作品は、美しい友情やら何やらという見かけの背後に、メロスという一人の青年の、壮大な自己欺瞞があったのだ、という話になるかもしれません。まあ太宰が意図的に描いていなかったとしてもそのようなことは言えるかもしれませんが、意図的だったというほうが、傍証としては強くなりそうですね。

これで、実は太宰がちゃんと距離を計算していたとか、あるいは地理を調べていた、というような客観的な証拠(蔵書の中に関連する書籍があったとか、手紙にそれらしいことを書いていたとか)が出てくればその路線で話が進むというか、きちっと煮詰めていけば論文一本書ける……とまではいかなくても、国文系の学会発表くらいはできるんじゃないかと思ったりするんですけど、そんな甘いもんじゃないかな? でも、メロスに関してそういう角度からの研究って既にあったりするんでしょうか。文学プロパーじゃないんでよく分かんないけど、あれば読んでみたいので存じ寄りのかたおられたら教えて下さい、是非。

「ぱっと読んでこうだと思った」ことが裏切られていくというのが、ある種読書の醍醐味というところもあり、読みの可能性を広げるって面白いよねというのと、そのきっかけはやっぱり細かいところの分析の蓄積しかないという、そんなお話でした。