茂木健一郎先生がまた変なことをおっしゃっていると耳にしました。何でも、「選挙はくじ引きで良い」のだそうで、「ネタか拡大解釈だろ」と思って見に行ったら、割りとマジでした。

 ▼「<政権交代は政治家にとって学びのサイクル>政権を「6年毎にかわりばんこ」や「くじ引き」で決めることも一案 - 茂木健一郎」(BLOGOS) 

政治的な立場には、いろいろある。どんな見解でも、人々の意見をすべて反映しているわけでも、社会問題をすべて把握しているわけではない。だからこそ、議会制民主主義は、複数の勢力の間で政権交代が起こることで新陳代謝が起こる。

アメリカ大統領選挙は、少数の例外をのぞいて、ほぼ8年毎に共和党と民主党が勝利している。英国でも、保守党と労働党が政権交代してきた。このように、政権を担う勢力が交代することが、議会制民主主義における不可欠な「新陳代謝」となる。

政権交代は、政治家にとっても重要な学びのサイクルになる。与党になると、それほど冒険的な政策はとれない。急進的な主張をしていた人たちが政権をとると穏健になることはよくある。

一方、野党は、政権運営の直接の重責から解放され、いわば岡目八目で政策を精査することができる。政治家が、与党と野党の立場を交互に経験することには、以上のようなメリットがある。野党として醸成される能力と、与党として醸成される能力は異なる

それらを一定のリズムで交代して経験することで、政治家としての能力が高まっていく。通常、議会制民主主義は、その時々の民意を反映した勢力が政権をとるべきだというもっともな理屈の上に成立している。

しかし、以上のような見方をすると、政権交代が定期的に繰り返されることにメリットがある

極論すれば、たとえば6年毎にかわりばんこにやったり、くじ引きでもいいくらいだ。もちろん、通常の議会制民主主義の手続きで、それぞれが主張をし合い、選挙で結果として政権交代が一定のリズムで起きることが望ましい。

実際、民主主義が機能している多くの国では、そのような政治のバイオリズムのようなことが実現している。蓋然性としては政権交代が起こり得るにもかかわらず、実際には一つの政党が長期にわたって政権を担う(あるいは担う見込みとされる)国は、政党の政策の出し方や、党首の選び方、有権者の意識、政治文化のどこかに課題があるといえるだろう。

政権交代のリアルな可能性のない民主主義は不完全である。

(本記事は、著者のTwitterを元にした編集・転載記事です)

論旨がいまいち掴みきれないのですが頑張って言わんとするところを読み取るならば、主張は「政権交代しろ」ということでしょう。その根拠は、(1)政権交代には合理的なメリットがあり、(2)民主主義が「機能している」国では政権交代がきちんと行われているのだから、(3)政権交代が起こらない日本の民主主義は「不完全」または未熟なのでまず政権交代を起こすことから入る必要がある、という感じでしょうか。

茂木先生が言っていることはつまり、定期的な政権交代こそが民主主義という制度のもつ役割であり、それが実施されていない以上まずは形から入るべきだ、ということです。「極論すれば」とことわったうえで、くじ引きやらかわりばんこやらと言い出しているのは、その「形式」を達成することがまず第一だ、ということですね。

政治的な主張として、「政権交代こそが重要」とおっしゃるのは自由です。でも、ひとこといわせてもらうと、それは民主主義じゃないように思われます。

この話がおかしい(と私には見える)のは、それこそが真の民主主義だ、みたいなかたちで自説に価値付けをしようとしているところです。

私は政治思想史がプロパーではありませんから、高校生でも知っている程度の知識で語ることをお許し頂きたいのですが、一般に近代「民主主義」の思想的な歴史を語る上でその黎明期を代表する思想家として頻繁に名前が登場するのが、ホッブズ、ロック、ルソーの3名です。いわゆる、社会契約論者ですね。

ホッブズは社会契約論の基礎を築いた人という位置づけなのでちょっとはずして、ロック、ルソーという流れを簡単に追いかけると、ロックは「私有権」を人間の基本的な権利として認定した。近代資本主義の流れを作った人物と言われます。

なぜそんな話になったかというと、王権神授説へのカウンターだ、というのが一般的な解釈です。当時絶大な権力を誇っていた王侯貴族や教会は、自分たちの支配を、神の権威によって正当化していました。そこでは、土地も財産も、人間の命でさえ、神のものと考えられていた。ロックは、そうした諸々の権利の帰属を、神から人間に移そうとしたわけです。

ロックのあとを受け民主主義の基礎をかためたフランスのルソーは、ロックのような私有財産制を否定しますが、すべてが神のものだという前時代の発想に戻したわけではありません。彼のいう「譲渡」は、ホッブズのそれと違い(ここは解釈の別れるところではありますが)、個人のなかに権利を残しているように見受けられます。

少し話がまわりくどくなりました。要するに、民主主義というのは、人間の公的な集団(国家や社会)を成り立たせているのは個々の人間の判断であるという思想であり、それが十分に達成されればすべてうまくいく(あるいはうまくいかなかったとしても、個人の自由な意志よりも優先されるものはない)ということが、その根本にあります。

ですからすくなくとも「民主主義」者であれば、まかり間違っても民意より制度が優先されて良いとは言わないし、うまく行っていない現状を制度的に(今回の場合であれば、くじ引きで)解決しよう、という発想にはならないはずです。茂木先生は「もちろん、通常の議会制民主主義の手続きで、それぞれが主張をし合い、選挙で結果として政権交代が一定のリズムで起きることが望ましい」と述べておられますが、政権交代がおきないなら民意よりも制度(およびそれによってもたらされる結果)が優先されても良いと述べているわけで、だとすれば政治制度としては王政でも独裁制でも構わない、ということになります。(理屈としてはそうですよね?)

ですから、茂木健一郎氏が言っていることは、「民主主義」ではないと思うわけです。何がおかしいかって、「民主主義が大事だ」と言っておきながら主張している内容が民主主義からかけはなれている、というそのところです。別に、茂木先生の主張内容が妥当かどうかではなく。

この辺の話は若干微妙なのですが、おそらく、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムみたいな対立のほうが、主張としては近いのではないでしょうか。これも確かに「民主主義」の一貫として扱われることがありますが、厳密にはそこで扱われているのは、正義、公正、平等のような軸の問題です。

個の自由が最大限発揮されることに絶対的価値を置くリバタリアニズムに対し、制度によってバランスを保とうとするコミュニタリアニズム、という(あまりにも雑駁な押さえ方で恐縮ですが)軸の話をしているのに、なぜかそれを「民主主義」や「民意」という話と関連させて価値付けようとしているところに、上記の話の混乱があるのではないか、と私には思われました。

民主主義の話として読むと論外ですが、そういう政治思想・政治哲学の話としてなら まぁわからないでもないかなという感じはします。耳を傾けるに値するかどうかは別として。