感想や批評やらというのに関わっていると、「理由」というのが大事になることが非常に多いです。なぜそう思ったのか、なぜそう言えるのか……。ただ、論理の組み立てではなくて感情に理由をつけるというのは、実は結構難しいというか、まあ無理やり言ってるよね、と思えることは多々有ります。

たとえば、「面白かった理由」を「勧善懲悪が好きだから」だと説明したとして、それが主観的にも客観的にも事実であるかどうか分かりません。物語を分析すると、勧善懲悪ではない(客観的に偽)かもしれないし、好みの作品の傾向を分析すると自分は勧善懲悪ものがそんなに好きではない(主観的に偽)かもしれない。

実際、こんな話があります。

アメリカの心理学者が行った、消費者行動に関する実験です。幾つかの被験者グループに、ストッキングを4足見せ、「最も優れている」ものはどれか選んでほしい、と依頼した。すると、全ての被験者がストッキングに「違い」を見出し、選んだ理由をたずねると、伸縮性やフィット感、光沢といったさまざまな理由を述べたのだそうです。すべて同じストッキングであったにもかかわらず。

また不思議なことに、ほとんどの場合、被験者の評価は左から右へ行くに従って高くなったのだそうです。まあ、全く同じ品物が4つ並んでいたということは考えられない(同じ名前の商品でも、1つ1つ微妙な違いはあるでしょう、そりゃ)から、実際には違いを見分けられていた人がいるのかもしれませんが、データ的に見れば「並んでいる順番」こそが《本当の》選考理由になっていた可能性が高いわけです。しかし、そのことを自覚的に述べた人はほとんどいなかったのだとか。

まあ、そんなもんだよねって思います。私だってそうです。自分の感情の理由なんて、下手をすれば自分が納得するためだけの「あとづけ」かもしれない。この作品が好きだとか、この人のことが好きだとかいうのも、実はタイミングとか状況がほとんどであって、個人の「好み」の問題なんて微々たるものなのかもしれません。

でも、それでも何か形にしないと分からないことってあって、不格好でもいいから形にしてみるということに、意味はあるんじゃないかなという思いもあって、まあなかなかこの辺は難しいですね。私はロマン主義者なので、何か「私の好み」みたいなものはある、と考えたい人ですが、そんなのはほとんどが「勘違い」の産物にすぎないのだという立場がある、ということは意識しておきたいなぁと思っています。