従兄弟の就職活動がうまくいかないようで、荒れまくっています。具体的には、私に(というか私の父に)相談が来るレベルで。で、父が説得というかなだめるのに失敗したので私にお鉢が回ってきました。週末の気が重たいです。

彼がふてくされている理由の1つに、「コネ入社」を使っている人が多いというのがあるそうで……。私はまともに就職活動をしていないし、関西圏の私大におけるコネの重要性というのがいまいち実感としてよくわかっていないのですが、「コネなんて卑怯だ」といったようなことを繰り返しているらしい彼に、同情しつつも、彼自身「コネ」が目の前にあったら飛びつくんじゃないかなぁ、少なくとも私なら利用しちゃいそうだけど……みたいなことをぼんやりと考えてしまい、既に対話は難しそうな予感がぷんぷん。

プラトンの『国家』に、「ギュゲスの指輪」という逸話があります。

ある時、「透明人間になれる」指輪を見つけた牧童ギュゲスが、リュディア国王カンダウレスの妃をこっそり寝とり、そのうえ王を殺害して自分も王位についた。彼自身や彼の子孫は罰を受けることもなく繁栄した、という、だいたいそんな感じ。

このエピソードは、「道徳的な悪をなすことは自己の利益に反する」というソクラテスの教えに対して、「いや、そんなことないんじゃね? 不道徳なことしても、自分は丸儲けすることってあるじゃないか」という反論として、プラトンの兄であるグラウコンが持ち出す話です。

プラトンというか、プラトンの語り伝えるところのソクラテスは、このグラウコンの意見に対して、「結局不道徳なことをすると、めぐりめぐってその人の損になるのだ」と返答する。いかにもプラトンらしい考え方だと思います。しかし、これで納得する人はどのくらいいるのでしょう? 少なくとも、私には難しい。

グラウコンの問いかけというのは、一般化すれば、「みんなのための道徳」と「私だけの利益」がバッティングしたときにはどうするの? という、本質的な問題を突いていると私は思います。 そして、悲しいかな、「正直者がバカをみる」という格言があるように、現実の社会では「みんなのため」を選んだところで必ずしも直接的な利益につながるとは限らないんですね。

こういうのって、いまの私たちにとっても大きな課題なんじゃないかなぁと思ったりします。すこし位相を変えてやると「カルネアデスの板」や「トロッコ問題」などもそうですが、「1人を殺せば100人が助かる」のだとして、その1人が自分だった場合、あなたは死を選べるのか。「みんな」の論理と「わたし」の論理は、どこかで折り合うものなのか、それとも永遠に交わらないものなのか。法律によってルールは作れるかもしれないけれど、それで「納得」はできるのか。あるいは、その法律が拠って立つところの原理原則は何によって保証されるのか。

公民の教科書とかに出てくるような話で言えば、道徳法則という「みんな」のための、つまりは人類に普遍的な法則に従うことこそ人間の「自由」だと考えるカントと、個人の利益を最大限に確保しようとする功利主義者との間に横たわる道徳観の違いというのは、ある意味こうした問題を巡って先鋭的にたちあらわれてくるのだと言えるし、ロールズの「正義」云々を始めとする現代の政治思想の大きなテーマの1つも、こうした全と個の折衝にあるのだと言えます。

偉大なる先人たちに知恵をお借りしたところで、熱くなっている彼に何らかのサジェスションができるかどうかは、はなはだ微妙です。というか、コネがどうのこうのという彼自身の主張は、おそらく彼の不満の全体を表しているわけではないので、まともに話をするなら政治哲学より心療内科の本でも読んで行ったほうが良いのかなと思ったりしているのですが、私の利益と全体の正義ということに対するスタンスは、自分自身、しっかりと考えて決めておかねばならないことだなと今さら反省したので、いろいろ勉強してみるつもりです。