うーむ。本当にあった怖い話状態。
タイトルの通りではあるんですけど、この連休中にいろいろやろうと決めていたことが全然できてない……。まずい……。
エロゲーのあれとあれをクリアしようとか、レビューもそろそろ書こうとか、仕事のあれをちょっと進めておこうとか……。達成したのってTGSに行くくらいじゃないのかしら。
大昔にも書きましたが(この記事。2013年です。懐かしいなぁ)、『徒然草』にある、こんな文章を思い出します。
実はこの文章、最後にちょっとだけ続きがあって、前回はそれを書きませんでした。
要は、「何でもうまくいかないもんだ、と思っていれば、思わず上手くいくこともあったりする。世の中「不定」(ふじょう)だと思っていれば、それだけが定まったことである」みたいな話でオチになってるわけですね。
昔(2013年ではなくて、高校生くらいのころです)この章段を読んだときには、意味があんまりわかりませんでした。ただ国語の授業の中で、「無常観をあらわしているのだ」と言われて、「はあ、まあ「決まった通りにはいかない」というのだから無常なんだろうな」くらいで誤魔化して済ませたのを覚えています。
その後しばらくしてまた読みなおす機会があり、そのときに抱いたのは、「何をアタリマエのことを」という感想でした。世の中のことなんてそんな思い通りに行くはずがないし、行かないということをことさらに書き立ててどうなるのか。私の、今日のブログみたいなもんです(笑)。「いやー、なんか色々予定してたけどうまく行かなかったよ、てへぺろ」みたいなことを書いてるだけで、日本三大随筆とか言われるんだからええご身分やな、みたいな。
ただ、最近になって、「切ない文章だなぁ」と思うようになってきたんですね。
もちろん私は『徒然草』に詳しい訳でもなければ文学プロパーですらないので、解釈としては妥当なものかわかりませんけれど、この章段(189段)を自分の身にひきつけて読むと、「わかるなぁ」というところが出てくる。
たとえば、クジか何かを引くことを想像してみてください。「あたるだろう」とか「あたったらこうしよう」とか考えてると当たらない。特に何の欲もなくクジに参加すると、思わずあたったりする。人生そんなもんですよ、と。
でも、それを書いちゃうとどうでしょう。「あたると思うとあたらないから、あたらないもんだと思って参加しよう」みたいな自覚化を経た時点で、それはもう「特に何の欲もなく」ではなくなっているんですよね。クジと日常生活の話は違うだろうと言われるかもしれませんが、私が最後に省略していた189段の結びには、いま述べた「矛盾」みたいなのがたぶんあらわれていると思います。
それは、この世界のなりゆきは「おのづから」のことであると言っているのに、それを「心得ぬる」というところ。「心得」という己のありようとして語っているところ。それって全然、「おのづから」の成り行きとして諦める姿勢ではないよなぁ、という。
この文章を、なんか世の中を渡っていくための処世術だとか教訓だとか、あるいは隠者の悟りのように読むと、どうしてもその部分がひっかかります。でも、そうではなくて、何か予定外のことに悩まされ、「しゃーない」と思おうとしてるけどどうしても諦めきれず、むりくり自分を納得させようとしている人が「書かずにいられなかった」愚痴のように読むと、なんとなく腑に落ちるところがあるように思うのです。
まあ多分に感覚的なものだし、私がそういう「後悔後を絶たず」な生活を送っているせいかもしれません。ただ、こうして同じものを読んでいるハズなのに印象が変わってくるというのは結構面白いですね。そういう機会が多いので、最近は割とまめに、メモ書き程度ではありますが「読書ノート」みたいなのを作って書き込んでいますし、エロゲーとかも簡単な感想メモは積み重ねるようにしています。何年か経ったあとにやり直すエロゲーがそんなにたくさんあるかと言われると微妙ですが……。
ともあれ、明日は洗濯をして買い物に行こうと思っています。さて、達成できるんでしょうか。
タイトルの通りではあるんですけど、この連休中にいろいろやろうと決めていたことが全然できてない……。まずい……。
エロゲーのあれとあれをクリアしようとか、レビューもそろそろ書こうとか、仕事のあれをちょっと進めておこうとか……。達成したのってTGSに行くくらいじゃないのかしら。
大昔にも書きましたが(この記事。2013年です。懐かしいなぁ)、『徒然草』にある、こんな文章を思い出します。
今日はその事をなさんと思へど、あらぬ急ぎまづ出で來て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ人はきたり、頼みたる方のことはたがひて、思ひよらぬ道ばかりはかなひぬ。煩はしかりつる事はことなくて、安かるべき事はいと心苦し。日々に過ぎゆくさま、かねて思ひつるに似ず。
実はこの文章、最後にちょっとだけ続きがあって、前回はそれを書きませんでした。
予てのあらまし、皆違ひ行くかと思ふに、おのづから、違はぬ事もあれば、いよいよ、物は定め難し。不定と心得ぬるのみ、実にて違はず。
要は、「何でもうまくいかないもんだ、と思っていれば、思わず上手くいくこともあったりする。世の中「不定」(ふじょう)だと思っていれば、それだけが定まったことである」みたいな話でオチになってるわけですね。
昔(2013年ではなくて、高校生くらいのころです)この章段を読んだときには、意味があんまりわかりませんでした。ただ国語の授業の中で、「無常観をあらわしているのだ」と言われて、「はあ、まあ「決まった通りにはいかない」というのだから無常なんだろうな」くらいで誤魔化して済ませたのを覚えています。
その後しばらくしてまた読みなおす機会があり、そのときに抱いたのは、「何をアタリマエのことを」という感想でした。世の中のことなんてそんな思い通りに行くはずがないし、行かないということをことさらに書き立ててどうなるのか。私の、今日のブログみたいなもんです(笑)。「いやー、なんか色々予定してたけどうまく行かなかったよ、てへぺろ」みたいなことを書いてるだけで、日本三大随筆とか言われるんだからええご身分やな、みたいな。
ただ、最近になって、「切ない文章だなぁ」と思うようになってきたんですね。
もちろん私は『徒然草』に詳しい訳でもなければ文学プロパーですらないので、解釈としては妥当なものかわかりませんけれど、この章段(189段)を自分の身にひきつけて読むと、「わかるなぁ」というところが出てくる。
たとえば、クジか何かを引くことを想像してみてください。「あたるだろう」とか「あたったらこうしよう」とか考えてると当たらない。特に何の欲もなくクジに参加すると、思わずあたったりする。人生そんなもんですよ、と。
でも、それを書いちゃうとどうでしょう。「あたると思うとあたらないから、あたらないもんだと思って参加しよう」みたいな自覚化を経た時点で、それはもう「特に何の欲もなく」ではなくなっているんですよね。クジと日常生活の話は違うだろうと言われるかもしれませんが、私が最後に省略していた189段の結びには、いま述べた「矛盾」みたいなのがたぶんあらわれていると思います。
それは、この世界のなりゆきは「おのづから」のことであると言っているのに、それを「心得ぬる」というところ。「心得」という己のありようとして語っているところ。それって全然、「おのづから」の成り行きとして諦める姿勢ではないよなぁ、という。
この文章を、なんか世の中を渡っていくための処世術だとか教訓だとか、あるいは隠者の悟りのように読むと、どうしてもその部分がひっかかります。でも、そうではなくて、何か予定外のことに悩まされ、「しゃーない」と思おうとしてるけどどうしても諦めきれず、むりくり自分を納得させようとしている人が「書かずにいられなかった」愚痴のように読むと、なんとなく腑に落ちるところがあるように思うのです。
まあ多分に感覚的なものだし、私がそういう「後悔後を絶たず」な生活を送っているせいかもしれません。ただ、こうして同じものを読んでいるハズなのに印象が変わってくるというのは結構面白いですね。そういう機会が多いので、最近は割とまめに、メモ書き程度ではありますが「読書ノート」みたいなのを作って書き込んでいますし、エロゲーとかも簡単な感想メモは積み重ねるようにしています。何年か経ったあとにやり直すエロゲーがそんなにたくさんあるかと言われると微妙ですが……。
ともあれ、明日は洗濯をして買い物に行こうと思っています。さて、達成できるんでしょうか。