あちこちで袋叩きにあって、一躍「時の人」となったこちらの方。

 ▼「女子教育「コサイン教えて何になる」 鹿児島知事、撤回」 (朝日新聞DIGITAL)

 鹿児島県の伊藤祐一郎知事が、27日に開かれた県の総合教育会議で、女性の高校教育のあり方について、「高校でサイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」「それよりもう少し社会の事象とか植物の花や草の名前を教えた方がいいのかなあ」と述べていたことが分かった。知事は28日の定例記者会見で「口が滑った。女性を蔑視しようということではない」と発言を撤回する考えを示した

 総合教育会議での発言は、25日に公表された全国学力・学習状況調査の結果について、知事の目標設定を問われた場面だったという。知事は28日の記者会見で「サイン、コサイン、タンジェントの公式をみなさん覚えていますか。私もサイン、コサインを人生で1回使いました」と釈明した

口が滑ったならしゃーない(ンなわけない)。

鹿児島のPRになって何よりですね、とはなかなか言いづらいですが、しかしこのコメントだけを見るとあんまり考えずに喋ってる感がひしひしと。

もっとも、これ正確にどういう発言だったのかはちょっとわかりません。幾つかの報道を比べてみると、ニュアンスが微妙に異なります。文脈をわりと丁寧に出してる感じがあるのは産経かな。

 ▼「「女子に三角関数教えて何になる」 鹿児島知事が「口が滑った」と訂正」(産経WEST)

 鹿児島県の伊藤祐一郎知事が、県教育委員らが参加した会議で「高校教育で女子に(三角関数の)サイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」と発言したことが分かった。28日の定例記者会見で、発言について「自分自身も使ったことがないよねという意味。口が滑った」と述べ、訂正した。

 発言は、全国学力・学習状況調査の結果が25日に公表されたことを受け、27日の県総合教育会議で知事としての目標設定について問われた際にあった。伊藤知事は「女性委員に怒られるけど」と前置きした上で「サイン、コサイン、タンジェントを社会で使ったことがあるか女性に問うと、10分の9は使ったことがないと答える」とも述べた。

 総合教育会議は、改正地方教育行政法に基づき、各自治体に設置が義務づけられ、首長と教育委員会が、教育行政の指針となる大綱や学校問題などを話し合う。鹿児島県では5月に1回目の会議を開き、27日は2回目だった。

なお、Twitterの拾い物ですが、南日本新聞(2015年8月28日)がこちら。

nannichi

上によれば、発言の真意は「女性にとっては、サイン、コサイン、タンジェントよりも世の中の草花の方が将来、人生設計において有益かもしれないというメッセージ」だった。また、その根拠となる「サイン、コサイン、タンジェントを社会で使ったことがあるか女性に問うと、10分の9は使ったことがないと答える」というのは、伊藤祐一郎氏の経験談である。

別に伊藤氏を擁護するつもりはありませんが、この件に対する「批判」は若干厳しいなぁと感じるところもあります。

今回の件が袋叩きにあっているのは、

1.女性に三角関数のような数学(理論的学問)はいらない、というのが女性蔑視である。
2.女性(の学)は社会の事象とか植物の花や草の名前をやっていればいいというのがジェンダー固定観念である。
3.数学は役に立たない(教えなくていい)というのは勘違いだし、学問を有用性で判断するのはおかしい。

という3つのポイントからであろうと思われます。

「1」と「3」についてはこの人直接言ってはいないので、真意とか底意を深読みした結果、という感じですかね。伊藤氏が言ってるのは、「知り合いの女性は「三角関数なんて使ったことない」と言っており、(それが真であるなら)学校教育というのは生活から程遠い内容を教えている。ペーパーテストに頼らずもっと生活にそくした知識を教えるべきではないか」みたいな話。

三角関数を役に立たない教育の例として挙げたのは、一応「知り合いからの伝聞」ということになっているので、この人自身のアイディアというわけではないんですよね。まあそれをそのまま具体例として言ってしまうのは迂闊ではありますし、事後コメントを見ているとやはりそういう意識ははたらいていたように思われますけれど。

で、そうなるとやはりバッサリとダメなのは「2」でしょうか。

「世の中の草花の方が将来、人生設計において有益」であるというジェンダー観がいかん(つまり、女性=草花、というようなイメージの結びつけ方に問題がある)、という話。

とはいえ、同時に「社会の事象」についても学ぼうと言ってるわけで、女性の社会進出を否定しよう、みたいな前時代家父長制的な発言としてただちに読み取ることは難しい感があります。どちらかというと、「社会のことや自然のこと」という、2つあわせて広く「世間」を意味しているようにも読める。

これもし、主語が「女子に」ではなく「学生に」だったら大きな問題になっていなかったんじゃないかと思います。「学生時代にサインコサインを学んだが、社会に出て使ったためしがない。もっと社会の事象とか、植物の花や草の名前を教えた方がいい」だったら。

もちろんそこに女性という主語をつけたことが差別的だ、という話ですが、なぜその限定がついたかというと、この人が差別意識を持っていたからというよりは、(文脈上は一応)その話をしてくれたこの方の知人だか友人だかが女性だったからですよね。

いやまあ何が言いたいかというと、こういう発言をほんとうに表面だけで「女性蔑視だ」とか「学問を馬鹿にしてる」と批判して、それが許されるってのもやっぱり怖いなぁという話。

もちろんこの方の真意は批判されている通りのところにあるのかもしれないけれど、手持ちの報道内容から見た感じだと、真意なり底意なりは曖昧だと思うし、表現だけの問題だというのならそういう言い方で批判すべきですよね。この人が人間の屑だ、みたいな話じゃなくて。

んー、なんかまとまらなかったけど、伊藤氏を単純に擁護したいわけではなくて、誰かの発言を批判するとき、相手の発言をきちんと読もうという反省はあるのか、みたいな話がしたかったのです。それはもちろん、この記事も含めてですけれど。