今日、地下鉄に乗っていると、前に座った若い(といっても学生ではなさそうだった)カップルがこんな話をしているのが耳に入ってきました。なお、会話調で書いていますが実際の音声を記録したものではなく、記憶を便りにして多少脳内編集してあります。

女「○○はさぁ、お年寄りに席譲るとかってどう思う?」
男「ん~?」
女「アタシはさぁ、何かイヤなんだよね。偽善者っぽくて。イイ人だと思われたくてやってるワケじゃん?」
男「あ~、ワカルかも。嘘くさくてわざとらしいよネ」

とかまあ、だいたいこんな感じです。この話題はこれっきりで、その後は何か私生活のことをしゃべっていました。

お年寄りに対して席を譲る、というのが偽善っぽくて嫌だ、という以上の話ではないのですが、こういう考え方ってよくあるよなぁ、と思わないでもありません。

もう少しちゃんとした形で問いなおすなら、世間的に善とされている行為する場合、純粋にその行為の結果だけを目的として行わなければならないのか、ということになるでしょうか。

「世間的に善とされている行為」というのは、今回の場合「お年寄りに席を譲る」ことです。「純粋にその行為の結果だけを目的として行う」というのは、たとえば「イイ人だと思われたい」とか、「誰かに褒められたい」というような下心(そう呼んで良いなら)をもたずに、本来「席を譲る」ということで達成されるはずの結果のみを目指して行為することを言うと思ってください。

なんか電車の中で若い男女が与太話風に話をしているから微妙に聞こえたというのはあるのですが、こういったかたちで、ある種の「純粋さ」を求める言説というのは頻繁に目にするように思います。そして、席を譲る、というような行為でなければ、結構な割合でそういう下心があるというのは非難の対象になる。

たとえば、積極的に発信をするような活動をしている人に「あれ、結局目立ちたいだけだよね」とか。

実際、何というか意図が透けて見えてしまうことのカッコ悪さみたいなものはあるのだろうけれど、こういうのってケースバイケースなんじゃないかなぁと私なんかは思います。そりゃまあ、純粋に行為することができればカッコいいんでしょうけど、別に混ざりモノがあったっていいじゃないか、と。

混ざりモノのほうが多くて、「善」いおこないが本当の意図のほうを隠蔽するタテマエになっていたら、それは幾分か批判されてしかるべきかもしれませんが、そうでないなら別にいいじゃん、と。

そもそも実際問題、人間「純粋な」モチベーションで行為することってどれだけあるかと言われたらほとんど無い気がします。いろんな思惑が重なって行為というのは生まれてきている。だから、褒められたいとかいい人だと思われたいとか、そういう気持ちが混ざっていたって別にそのことをもって「偽善」呼ばわりされなくてもいいんじゃないでしょうか。

別に積極的に不純さを肯定しようというつもりはありませんけれど、純粋さを根拠にして世の中を斜めから見よう、という態度はいかにも若々しいというか、あんまりイケてないなぁと、そんなことを思ったのでした。

あ、電車はガラガラだったので、その男女が席譲れよとかそういう話ではないです。