新国立、結局見直しになったようで。

 ▼「森氏、新国立見直し容認「あのスタイルは嫌だった」」 (日刊スポーツ)

 ▼「首相「計画白紙に戻す」」 (BLOGOS)

舐めとんかって感じですね。

当初からいろいろ問題含みで、そもそも「必要があるのか」と言われてきた新国立の立て直し。今回の件では、コンペの杜撰さや委員会の見積の甘さなど、さまざまなことが指摘されています。

内情がわからない「ブラックボックス」なので、中の人がバカだった説からゼネコンとの癒着まで好き放題言われていますが、そういう不透明性こそが大きな問題であることは言うまでもないでしょう。

 ▼「新国立競技場デザインコンペが八百長出来レースであった/証拠写真集

このあたりでも色々と言えることは尽きないのですが、個人的に今回の件が残念というか、「あーあ」と思ったのは、やはり新国立を巡る「思想」的な部分です。

こういう言い方をすると嫌う人もいるかもしれませんが、なんだかんだいって、日本が世界に向けてその「力」を示すシンボルとしての役割を担っていたはずです。国外の人たちはどう思うか知りませんが、少なくとも国内ではそうだった。それが迷走したというのもさることながら、そもそもの問題として、どういう方向性を目指していたのか。

IOCは、五輪開催に伴い各国にかかる負担というのを懸念しており、できるだけ(費用の面でも)コンパクトな五輪というのを期待するということをアナウンスしています。また、今回東京が名乗りを上げた際、移動距離などの面でのコンパクトさをウリにしていました。

だから、というわけではないのですが、私はもし新国立を建てなおすのなら、そういう要請に対して日本なりの答えになるものを作るべきではないかと思っていました。

豪奢なバカでかいものを建てて、自国の権威をアピールするというのは、たしかに1つの方法ではあります。しかし、そういう成金趣味の力業は日本の特技なんでしょうか。あるいはバブルの時代まではそうだったかもしれないのですが、いまの日本がそういう力を持っているかと言われるとかなり微妙だし、それを無理して大きく見せようとしてみたところで滑稽なだけ、という気がします。

予算はそれほど使わず、知恵と工夫によって多くの人が満足できるものを提供する。たとえ外からは「貧乏臭い」と笑われても、参加する選手たちと観客が満足して帰ってもらえるような五輪をする、というのが、曲がりなりにも先進国に名を連ねている日本の役割なんじゃないのかなぁ。

日本がそういう五輪をやれば、あまりお金のない国でも工夫によって五輪をすることができる、という良い見本になったでしょう。既存の価値観にしたがって、今の価値観に満足している人たちのごきげんをとるような五輪を開くのではなく、新しいビジョンを切り開いていく、そういう意味で世界の「思想」をリードするようなこともできたはずです。

選考にかかわった安藤忠雄氏は、「デザインで選んだだけ」(金のこととかその他は十分議論してない)とおっしゃっていますが、外部の情報を遮断して建築的な見地だけから選んだということなんでしょうか。だとしたら、氏の「建築」というのは周囲の環境とか思想とか、そういうものはガン無視して作られるものということになってしまう。それでいいならまあいいんですけど、それなら象牙の塔の模型でも作っておいてくれって話になっても仕方ない気がします。

責任の所在が誰にあるのかとか、そういうことも議論していかにゃあならんのでしょうけど、もう一度国立競技場の立て直しとは「何」なのかという理念に立ち返っていくところから始めてもいいんじゃないかなぁ。間に合わなかったら合わなかったで、帳尻合わせる力くらいはまだ日本にも残ってるでしょうから。