「国旗国歌要請問題」として割と大きく取り上げられていたこの件。さらっと書かれている「人文社会科学系や教員養成系の学部の廃止」ってのはそうとう大きい問題だと思うのですが、存外話題にならない。また、矢面に立っている国家斉唱についても「大学で国家歌うのは当然」みたいな意見が多いことにちょっと驚きます。

 ▼「<国旗国歌要請>文科相「適切判断」迫る 国立大学長は困惑」(Yahoo!ニュース、出典は毎日新聞)

 下村博文・文部科学相は16日、東京都内で開かれた国立大学86校の学長を集めた会議で、入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請した。さらに、文科省が8日に通知した文系学部の廃止などの組織改編を進める方針についても説明し、改めて改革を促した。補助金と権限を握る文科省からの相次ぐ求めに、出席した学長らの間には困惑が広がり、一部の教員からは「大学攻撃だ」と反対の声も上がっている。

 国旗・国歌については、安倍晋三首相が4月に国会で「税金で賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとり正しく実施されるべきではないか」との認識を示していた。下村文科相は16日、「各大学の自主判断」としながらも「長年の慣行により国民の間に定着していることや、(1999年8月に)国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」と要請した。

 会議後の学長らは厳しい表情。琉球大の大城肇学長は「学内で問題提起しようと思うが、かなり混乱すると思う。集団的自衛権の議論や基地問題ともリンクして、大学改革とは違う所に話が飛んでいきそうな気がする」。50年の創立以来、慣例で国歌斉唱や国旗掲揚はしていない。「個人的には棚上げにしておきたい」と複雑な心境をのぞかせた。

 滋賀大の佐和隆光学長は「納税者には(国立大としての)責任を果たすべきだと思うが、国の要請に従う必要はない」と強調した。国旗掲揚はしているが、国歌斉唱はしておらず、その方針を継続する考えを示した。

 文科省によると、今春の卒業式で国旗掲揚したのは74大学、国歌斉唱は14大学だったという。

 一方で、文科省は国立大学に組織・業務の見直しを迫っている。8日の大学への通知では、人文社会科学系や教員養成系の学部の廃止や他分野への転換を求めた。国立大は中期計画(16年度から6年間)を作り、大臣の認可を受けなければならない。下村文科相はこの日「これらの学問が重要ではないと考えているわけではないが、現状のままでいいのかという観点から徹底的な見直しを断行してほしい」と理解を求めた。

 複数の学長は「交付金をもらえないと困る。今後、人文社会科学系の学部の定員は減らさざるを得ない」と話した。 【三木陽介、高木香奈】

こういうテーマについては若干ポジショントークになりがち――「要するに」賛成なのか反対なのかだけで考えてしまいがちで、発言するのが難しいところがあります。とはいえ、黙っておけない程度には関心があるので感想を述べておこうかな、と。あと、ニュースを詳細に見たわけではないので若干勘違いや事実関係の誤認があるかもしれず、そうだったら大変恥ずかしいのですが、基本路線としてはかわらないでしょうか。

と、言い訳をしたうえでスタート。

まず、私は「日の丸」が国旗であり「君が代」が国歌であるということについて、特に異論がある立場ではありません。そもそも現行の「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)でそのように定まっているので、その部分について争うつもりはない、ということは明言しておきます。

もちろんこの部分が大問題だ、という方もおられるのは承知していますし、議論の余地はあるということには同意します。ただ、今回の件の中心的な問題はそこではないだろうと思うのです。今回私が言いたいのは、日の丸・君が代を国旗国歌と認めたとしても、国旗と国歌を大学の式典で歌うように求めるということがよろしくないだろう、ということ。

先に結論だけまとめてしまえば、愛国心を押し付けてはならないし、仮に愛国心を養うことが大事だとしてもその涵養の手段が国旗・国歌である理由がない、ということです。

まず、愛国心云々について。国民国家なんだから愛国心を重視するのは当然で、あるいは、税金でやってるんだから国のため、国民のために役立つことであるべきだ、という話をちらほら見かけます。

基本路線としてはもちろん賛成です。少なくとも、税金使ってみんなの不利益になることをやらないでほしい。ただそれは、嫌いになる/あえて国の不利益になることをするなというくらいの意味であり、必ずしも愛国心が(積極的に)皆の利益のために必要か、というとそれもまた違うだろうと思うのです。

愛国心を軸とする論者とはこの時点で決定的に違ってしまうのかもしれませんが、私は、さまざまな思想が受け入れられることが良い、という立場です。愛国心は重要な意味を持つ場合もあるでしょうが、戦時日本のように悪い方向にはたらく可能性もある。何かが絶対的に善だとか悪だとかいう意見に接した際、「それはほんとうに善といえるの?」と言えることが重要であると考えています。

原理的な話をすれば、それこそが「表現の自由」です。国が、ある思想とその表現の形式(この場合、思想=愛国心、表現=国旗・国歌)が疑いなく善であるという立場を示し、あまつさえそれを押し付けてくるというのは、表現の自由の侵害意外何ものでもないでしょう。

だいたい、国旗掲げて国歌歌ったからって愛国心を示せるものでもないでしょうに。

また現実の生活にそくして言えば、別に国に対してそれほど大げさな帰属意識をもっていないけれど日本国内で生活している人というのは多数いるはずです。あるいは、国はあんまり好きじゃないけど自分の周囲の人(たとえば家族・親類や友人)が好きだから日本で生活している人もいるでしょう。そういった人も受け入れる懐の深さを失ってしまうことも、個人的にはちょっと問題に思われます。

話が飛ぶようで深く関わっていると思うのは「東京都青少年健全育成条例」の問題。あれは地方自治体が「わいせつ」の範囲を勝手に決めて、それによって規制を敷く、ということが問題でした。キモは、実際に規制が行われるということ以上に、権力をもった公的機関が恣意的な判断によって「適当か不適当か」を定めてしまえるという事実が、将来的に国民の自由を侵害するのではないか、というところにあります。

国旗国歌問題も、政府が「適切な判断」と考えていることのこたえは決まっていて、その価値観を権力によって制度的に(補助金などの)押し付けようとしているという点で似通っているのではないでしょうか。

記事を読む限りこのたびの件について安部首相は、「税金で賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとり正しく実施されるべきではないか」とのたまっているようですが、如上の理由から、私にすればそれはちょっと無いかなぁという感じです。

そもそも教育に関する基本的な権利というのは、(一般的には)憲法下で社会権の範囲として理解されています。高校公民レベルの理解で恐縮ですが、社会権というのは自由権の裏返しのようなものだったハズ。簡単に言えば、国民があまりにもフリーダムすぎるとお互いの自由が競合して取り返しがつかない事態に発展する可能性があるので(たとえば失業とか過酷な労働とか)、そういうのを避けるために国民が国家に要請し、その保護を受ける権利です。ですから、国家が国民に対してこうあれ、と指導をするという態度・考え方がそもそもおかしい。

むろん、経済活動の自由であったり、あるいはかの有名な『宴のあと』事件のように、「公共の福祉」とバッティングするという理由で自由が制限されることはありえます。しかし、国家を歌え国旗を掲げろというのは、公共の福祉とは関係ないでしょう。一万歩くらい譲って公共性の問題であるかもしれないけど、「福祉」ではない。

税金を使っているから公益性が大事だというのはわかりますが、それは国の定めたことに従えということとイコールではありません。事態はむしろ逆の場合もあって、国は「国家の都合」で個人の自由を奪わないようにしなければならず、そのために憲法があるはずです。税金もまた然りで、それは国家が国民の権利を守るために使うものであって、国家の思想信条に従わせるために使うものではありません。

また、大学は義務教育の範囲ではありません(少なくとも国立大学――いまは独立行政法人ですが――や公立大学であっても授業料は発生しており、「無償」ではない)から、そこで「国民意識」のようなものを醸成する、というのもおかしな話でしょう。大学には「学問の自由」の一貫として「大学の自治」が認められています。国旗国歌に関する問題が「自治」に所属するか否かはきちんとした憲法判断を仰ぐ必要があるでしょうけれど、少なくとも国家が補助金をタテにとってこういった「要請」(実質的には脅迫)を行うということは、学問の府に対する圧力・挑戦以外の何ものでもないと言えます。

下村文科相の「各大学の自主判断」というのはその点、わきまえた発言にも見えますが、「国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」というくだりはやはり事実上の脅しに思えるかなぁ。

んで、こういう話は「法」の話であるとともに「価値」の話でもあります。価値とはなにか。既存の価値を疑い、新たな価値について考え、それを更に批判的に検討する。そういったことをきちんと考え実践していくには、やはり人文系の学問のちから、あるいは学問の基礎を養う教育のちからというのは見過ごせないものがある、と私は思います。

もし人文学や教育学を大学の中心からはずしたとしたら、価値について疑う力は学びの現場から後退していくでしょう(現にいまでも、こういう話が馬鹿にされ、疎まれているような気配を感じるのは被害妄想でしょうか)。ですから、国がある価値を押し付けると同時に人文系諸学問を大学の傍流においやろうというのは、ある種理にかなったというか、非常に効果的な手法のようにも見えてきます。そこまで考えてやってるのかはわかりませんが。

別にそういう国の動きを牽制したいとか防波堤にするためとか、そういう「手段」として重用してほしいとは申しませんが、こういうご時世だからこそ、人文学や教育学は求められる側面が大きいと思うし、力を失わないようにするため学問の現場におられるかたがたは是非、自信をもって意味を訴えて欲しい。

とりあえず、こういう動きに対してはひよらずに断固とした態度をとることが必要なんじゃないかなあ。