今回はちょっと真面目な話。少し前に海外の翻訳小説を読む機会があり、「訳の精度」みたいな議論をしました。その中で、そもそも翻訳って何を訳してるんだろうね、という話がでてきた。そりゃ内容じゃないの、と言いたくなるのですが、内容なら翻訳って「どう」可能なんだろう、という問題がでてくるんじゃないか。そんな感じです。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

川端康成の『雪国』の冒頭、この有名な一節はよく知られているでしょう。また周知のように、川端はノーベル文学賞を受賞しています。英訳を担当したのはE.G.サイデンステッカー。彼はこの部分を、次のように書いています。

The train came out of the long tunnel into the snow country.

翻訳家、松野町夫は『雪国』のこの冒頭を、「翻訳家泣かせ」だと言います。

原文の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、翻訳者泣かせの文である。この種の和文は英訳が極端に難しい。この文は、複文なのか、それとも重文なのか?トンネルを抜けたのは何だろうか?人か、車か、汽車か?雪国であったのは何か?英文では主語が必須だが、この和文には、主語に相当する主格や主題が出てこない。主語を特定できないので英訳作業に着手できないのだ。「抜ける」とか「~であった」という動詞は大事にするが、その主体となるもの(名詞)はあっさりと省略されてしまっている。  (『雪国』を読めば、日本語と英語の発想がわかる!

そして後のところで、サイデンステッカーのこうした一連の訳を「はっとするほど正確」だと評していきます。

なるほど、英文としては平易で読みやすく、何の問題もありません。しかし中には、この訳文にどこか違和感を覚える人もいるのではないでしょうか。

たとえば、松野のいう主語。サイデンステッカーは「The train」を主語にしていますが、『雪国』は、「夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。」 と続きます。ならば主語は、「島村」ではないのか。あるいは、車内のすべての人で「We」が相応しいのではないか。いや、語り手である「私」のようなニュアンスもあるのではないか。そんな考えが浮かんできます。

もっと言えば、島村が乗っていた「汽車」は、白い煙を想像させます。夜の黒、雪の白、黒い汽車の車体に、そこから吐き出される白い煙。そういった黒と白のコントラストがこのシーンのイメージだとすれば、「The train」という表現はいささか物足りないようにも私には思われます。

しかしまた、松野の言わんとすることも分かる気がする。ここで松野が述べていることは、文章構造的な話(文脈依存文云々)を除けば、ある文章が表現している内容をいかに「正確」に写しとるかに訳の真髄がある、ということです。それはたとえば、最後の箇所に端的に見て取れます。

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」は、「帽子の耳おおいは、顔まで垂れさがっていた」と表現している。たいした違いはないじゃないか、ですって!?いいえ、垂れていたのは、「耳」にではなく「顔」にでしょうと、訂正している。なるほど、確かに「耳おおい」は、耳を越えて顔にまでかかるものですね。いやはや、恐れ入りました。

松野の評が妥当かどうかはともかくとして、ここでは「垂れていたのは、「耳」にではなく「顔」にでしょうと、訂正している」サイデンステッカーを高く評価しています。本来ならばこういう情景のはずで、それを表現するならこちらのほうが適切だ、というわけです。

つまり松野は、逐語的な訳ができなくても、作品の内容や本質、そこに描かれている情景を表現することは可能だと言っているし、それこそが翻訳の本質だと考えているわけです。ある表現が描こうとしているイメージや感情、そういったものを移し替えるのが翻訳なのだ、と。

ですから、作品が表現しようとしている情景や感情といったものを原作以上に完成度の高い、的確ですぐれた表現に置き換えることも当然可能になり、サイデンステッカーはまさにそれをやってのけた、ということになるのでしょう。

しかし、このようにある作品(表現)が描こうとする本質をなぞり返すかたちでの翻訳が可能だと考えることは、翻訳という作業にある矛盾を(矛盾という言い方がよくなければ逆説を)持ち込むようにも思われます。

翻訳の話といえばよく引き合いに出されるのが、ベンヤミンの「翻訳者の使命」。ボードレール『悪の華』の中の「パリ風景」の対訳につけたベンヤミン自身による序文で、極めて短いエッセイです(この辺参照)。ここで展開されている話は、松野の話とうまく噛みあいながら、その矛盾を浮き彫りにするように思う。

ベンヤミンはここで、あらゆる言語のもととなる真の言語としての「純粋言語」(die reine Sprache)という概念を持ち出し、その「純粋言語」において人はすべての情報を余すことなく伝達できるのだ、と言います。逆に言えば、英語、ドイツ語、フランス語……といった各言語は不完全な言語であり、「依然として、伝達可能なもののほかに伝達不可能なものが内在している」というのです。何かを表現しようとしたとき、個別の各言語では必ず漏れてしまうものがある。

それはつまり、ある1つの言語で表現されている限り、表現しようとするもののすべてを表現しきることはできない、ということです(ちょっとわかりにくい書き方になりましたが、たとえば「猫が走った」と書いただけでは書き手が表現したかったすべては表現できない。同様に「A cat runs.」だけでもダメ、という感じ)。そこで、人間はある表現を別の言語に置き換え、伝え漏らしたところを拾い集めながら「真の表現」を目指すことになる。その先にあるのが「純粋言語」であり、「翻訳者の使命」とはかくして、「多くの言語をひとつの真の言語に積分するという壮大なモティーフ」になるというのです。

「純粋言語」という話をすると何やら突拍子もなく聞こえますが、要は表現には表現以前に何か表現したい対象があって(あるいはその表現が目指していた本質のようなものがあって)、それをうまく表現できたりできなかったりする、ということです。特にベンヤミンは、翻訳作業を経ることで「純粋言語」に向かうというのですから、翻訳作品に原典と同じだけの価値を認めている(原典がオリジナルでそれこそが絶対的な価値を持つとは考えない)ということになるでしょう(この辺が松野にも共通していて、松野もまた、オリジナルより翻訳のほうがすぐれた表現になりうることを認めていました)。

しかし、では「これ以上ない完璧な表現」というのが見つかったらどうするのでしょうか。ある言語の、ある表現でしか言い表せない感情や情景があったとしたら。その時には、翻訳は不可能に、つまり絶対にその言語で読まなければならない内容になっているのではないのか……。そんな疑問が浮かんできます。

ベンヤミンにとってはそれこそが「純粋言語」でした。そしてそれは、各言語からでは決して到達できないものでもありました。だから、「完璧な表現」に達してしまうことを心配する必要はありません。「あらゆる言語とその構築物には依然として、伝達可達なもののほかに、伝達不可能なものが内在している」というわけです。だから翻訳がこの世界から消えることはない。私たちは常に翻訳をし続け、表現が描きとろうとした真実を求め続けることができる。

このことをベンヤミンは、次のように述べています。

翻訳は、原作の意味に自身を似せてゆくのではなくて、むしろ愛をこめて、細部に至るまで原作の言いかたを自身の言語の言いかたのなかに 形成してゆき、その結果として両者が、ひとつの容器の二つの破片、ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにするのでなくてはならない。

原作も翻訳も、どちらも「破片」にすぎない。どちらも平等に、完成された「容器」ではないのです。また、原作と翻訳がまったく同じ形をした「破片」となることもない。それぞれが補い合って、完全な「容器」を目指すのだ、ということになるでしょう。

ある作品(表現)が、何か描こうとする本質をもっているという発想に基づけば、このベンヤミンの議論というのは割と説得力があるというか、翻訳というものを肯定的に捉えているように思われます。しかし同時に、翻訳がどうしても届かないものがあるということも示唆しているということは見逃せません。

原作もその翻訳も「破片」にすぎず、しかも同じ形の「破片」ではないのだということは、その両者の間に横たわる差異を翻訳することは不可能だ、ということになるでしょう。ある作品(表現)が、何か描こうとする本質をもっていて、それを「翻訳」することが積極的に肯定されるのは、そもそも絶対的に翻訳が不可能だからだということになる。これが、逐語訳的でない、内容を置き換えることを目指す翻訳のはらむ矛盾です。ベンヤミンはこうして翻訳の限界を、みごとに言いとっているように思う。

作品が翻訳されたとき、私たちは何を読んでいるのか。何が翻訳できて、何が翻訳できないのか。いや、作品を翻訳するとはそもそもいかなる営みなのか。私たちは現代の社会の中で、わりと当たり前のように翻訳作品を読み、翻訳された字幕で映画を見たりしているのですが、考えてみるとやっぱり不思議で奥が深いような気がします。