本日ツイッターを眺めていると、こんな記事がRTで回ってきました。それに関して思うところがあったので少し書いていきます。ちょっと嫌味ったらしいと思われるかもしれません。ここで引用したツイートの方などをバカにしたりという意図はなく、不適切であると言われるならば謝罪し取り下げるつもりもございます、ということをおことわりしたうえで進めさせていただきます。

 ▼「東大卒業式、ネットで激賞 伝説の格言の内幕明かし、コピペ情報に警鐘 信州大あいさつと一緒に話題に」(Yahoo!ニュース)

内容は、平成26年度の東大教養学部(駒場)の卒業式で、石井洋二郎学部長の式辞に関するもの。かつて大河内一男総長が語ったとされる「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」という「格言」について、これに「3つのデマ」が含まれている、という話です。

この「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」というのは私もよく耳にし、そのたびに疑問を感じていました。あきらかにJ.S.ミルの「It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.」(満足した豚であるよりは不満足な人間であるほうがよく、満足した愚者であるよりは不満足なソクラテスであるほうがよい)を縮小したか、あるいは改変したものです。

しかし、「豚」と対置されるのは「人間」であり、「ソクラテス」と対置されるのは「愚者」ですから、「肥った豚よりも痩せたソクラテス」などというとこれは、ミルにもソクラテスにもたいへん失礼ではないかな~なんて思っていたのですが、もとネタはこういうところにあったんですね。

さて、この記事および実際の石井氏の挨拶は、「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみる」ということの重要性を説いています。これは、ネット社会において非常に大切なことである、というのは間違いないでしょう。実際、この記事は非常に多くツイートされています。2015年4月8日の9時30分時点で約1080件。

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すべてを読んだわけではありませんが、多くの人がこれに賛意を示しています。

ただ、ここでどうしても私は「う~ん」と思ってしまうんですね。

というのは、このYahoo!ニュース自体、実は「二次文献」(あるいは総長の式辞全文を「一次資料」と見なすならば三次文献/資料)だからです。きちんと出典元は記載されていますが、これwithnewsからの引用というか転載ですよね。もとの記事は、文章こそ同じですがタイトルは全然違っていますし、写真なんかも入っていてレイアウトはまったく別モノになっています。

 ▼「東大卒業式、抜群のセンスでコピペ情報に警鐘 「肥った豚…」ネタに」(with news) 

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そして、同じく2014年4月8日の9時半時点で、こちらは130件しかツイートされていません。「一次資料にあたりましょう」ということを訴えた記事の出典もとが参照されていないわけです。笑うしかありません。

たまたま目に入っただけなので他意はないのですが、たとえばこちらの方。Yahoo!ニュースのほうを引用して次のように呟いておられます。



ご指摘はもっともで、実際に「一次情報」である総長挨拶へのリンクを貼って欲しいと言えるのは、おそらくそれを参照しようとしたからですよね。悪い意味ではなく意識の高い方なのだろうと思います。

しかしこれ、実はwithnewsのほうではきちんと「関連リンク」として末尾にリンクが貼られています

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つまり、Yahoo!ニュースが(おそらくは本文に含まれていなかったため)勝手に除外しただけです。この記事に対して批判を加えるなら、リンクを貼っていないことではなく、本来貼られていたリンクを取りこぼしたこと、でしょう。そんなことは承知のうえで上記のツイートをされた可能性はありますが、どうもYahoo!ニュースのほうを原典として扱っている気配が見えるので、私としては元の記事をご覧になっていなかったんじゃないかなぁ、と思ってしまうわけです。

ただ、この方などはおそらくマシなほうで、この記事に関して呟いた、あるいはそれをRTした1000人余りのうち、実際何人が東大教養学部のHPに行き、石井学部長のコメントを参照したのでしょうか

再びツイッターからになりますが、こちらの方。



石井氏の式辞を読めば「「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」がJ.S.ミルの言」では「ない」というのが非常に重要なポイントだというのがわかるはずなのですが、それをこういうかたちで言いとってしまうというのは、やっぱり「式辞」のほうは読まずにコメントしておられるのかなという疑いを抱いてしまいます。

一応リンクを貼っておきましょうか。

 ▼「平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞

こちらの式辞には、記事(withnews)の内容とは結構違うなというところや、よりはっきりとわかるところが幾つもあります。

たとえば、「実際は大河内さんの発言ではなくJ・S・ミルの引用だったこと。原稿には、J・S・ミルの引用を明記した上で書かれていたが、実際には読まれなかったこと」という部分。どうして「原稿」に書いてあったことのほうが一般に流布したんだろう、という疑問が起こるのですが、それについてはきちんと式辞内でわかるように説明がされています。

そして、石井氏の話というのは今回の例にとってほんとうに適切なのかな? という気もしてきます。というのは、大河内総長の「言葉」というのは、マスコミが報道したものです。そしてマスコミには東大の広報から正式に原稿が配布されていた。当時はネットなどありませんし会場の様子を録画・録音していたかどうかもわかりませんから、一般の人はメディアの発表を信じるくらいしかなかった。石井氏は「皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものである」という例でこれを挙げておられて、その意図はわからないでもないのですが、この大河内総長の話のほうは一次資料にあまりにも当たりにくいという意味において「ネットに流れている雑多な情報」とは、ややレベルが違うかなという気がします。出典元である書籍などのメディアの情報にまで疑いをむけるなら同じことが言えるかもしれませんが、それはもう「無意識のうちに伝言ゲームを反復している」のとは違いますよね。この辺の問題意識というのは、withnewsの記事を読んでいるだけでは出てきにくい内容のような気もします。

また、続きである「原文をかなりアレンジした表現になっていることなど」という部分。石井氏の発言では最終的に「これは「資料の恣意的な改竄」と言われても仕方がない」 とまで言われており、「かなりアレンジ」というのとはだいぶニュアンスが違います。石井氏が最後に、一次資料にあたることを「教養」として訴えることから考えても、この部分は割ととりおとしてはいけない(また、式辞では「意図的」ではない=アレンジというより勘違い、という立場のほうで語っておられるので、事実関係としても不適切な)表現ではないかと思われます。

と、こんな具合。やはり「伝言ゲーム」の中で取りこぼされるものや変奏されるものはある。

まあこういう話を言い出すと、じゃあミルの原典あたったのかとか、ここに掲載されている全文がほんとうに読まれたかどうかも分からんではないか、と言われそうですが、一応「ちなみに教養学部によると、公開された文章は、大河内さんの時とは違い、すべて実際に読み上げた」とのことなので、そこは信用するしかないでしょう。ミルのほうは原典あたっていません。すみません……。ただ、記憶にある内容とは一致しています。

話を戻しまして、つまるところ一次資料にあたることの重要性を説く記事が実は二次資料、あるいは三次資料であり、記事自体が多くの賛同者を得たにもかかわらずその原典なり出典元なりにきちんとアプローチをした人はおそらく結構少ない、というのがこの記事のパフォーマティブなレベルでの笑えない「オチ」ではないかと思うわけです。

こういうことを「教養」と呼ぶかどうかはさておき、実際に一次資料にあたるクセをつけるというのは、やはり相当難しいと思います。理由は主に2つあって、1つはネット情報の性質に依るもの。ネットというのはスピード感の求められるメディアなので、多少情報に誤りがあってもスピードのほうが優先されている、という側面はあるのではないでしょうか。

もう1つは、やはり人間の怠惰さ。一次資料をあたるにはなんだかんだで「ひと手間」が必要ですし、その「ひと手間」を惜しむということは多々ある。以前にも書いた気がしますが、私の記事の一部がtumblrか何かで引用されていたとき、そのtumblrで引用元として記載されている私の記事に飛んできた人は、リブログしている人の1/10にも満たないくらいの数でした。リンクをワンクリックするのでも来ないのに、自分で検索したりまして本を実際に読んだりという話になると更に厳しい気がします。

ただこのあたりのことで問題なのは、「一次資料にあたりましょう」というのが何やら高尚な、それこそ「教養」のような話だと思われていることではないでしょうか。ネットがこれだけ普及した現在、原典に、あるいは一次資料にあたるというのは「道路を渡る時は左右を確認してから渡りましょう」と同じくらいの、ごく基本的なこと、それこそ生活の知恵的なものであるべきです。

実際にできるかどうかはわかりません。正直こんな偉そうなことを書いている私も、じゅうぶんにできているとは言いがたい。むしろ手抜きまくり。道を渡るときつい飛び出してしまったり、スマホ歩きをしていてぶつかりそうになったりということがあるように、実践はなかなか伴わないものです。しかし、当たり前と思われているからこそお互い気軽に注意するし、言われた側も素直に聞き入れることができる面はあるはず。いま私たちに必要なのは、「一次資料にあたる」ということの心理的なハードルを下げて、とりあえずそれが当然だよね、という意識を広く共有できるようにすることではないかと、そんなことを思ったのでした。

あと最後、ほんとうにどうでもいい話を1つ。Yahoo!、withnewsともに見出しで使われている東大のイメージ写真。これ、「一次資料」(withnewsに出典がimasiaと記載されており、写真を検索すればこれがでてきた)だと本郷キャンパスにある安田講堂のように見えるんで、渋谷の駒場にキャンパスのある教養学部の話としてはふさわしくないのかなとか思っていたのですが、駒場の時計塔なのかな? まあ安田講堂でも、東大のシンボルということなのかもしれませんけど。(駒場祭へようこそ! と書いてあるので、駒場キャンパスの1号館の時計塔ですね。安田講堂がモチーフらしく勘違いしましたが、これこそちゃんと一次資料と対象させるべきところでした。失礼しました)

う~ん、やっぱり一次資料にあたるのってめんどくさいですね(ダメじゃん)。