先日、衝撃の事実がツイッター上を駆け巡りました。

loveplus

大人気恋愛SLG『ラブプラス』や『ときめきメモリアルガールズサイド』で有名なプロデューサーの内田明理氏と、イラストレーターのミノ☆タロー氏がKONAMIを退職していたというのです。





退職日はそれぞれ、2月15日と3月15日。どうでもいいけどミノ☆タロー氏、「2」や「3」のような単発数字は全角で、「15」のような2桁数字を半角にするのは、もともと校正とかされてた方なんでしょうか。

なお、ミノ☆タロー氏によれば、「退職にあたり、「ミノ☆タロー」のペンネームがコナミの著作物となる為、3月15日よりフリーとして新しいペンネームで活動させて頂く事になりました。」ということだそうで、日付といいお二人で何か新しいことをはじめられるのでしょうか。いずれにしても、これまでのすばらしい作品に感謝するとともに、新天地でのご活躍を祈りたいところです。



いっぽう、上記の報告をうけてKONAMIさんは次のようなコメントを発表しました。

 ▼「『ラブプラス』・『ときめきメモリアル』シリーズに関するお知らせ」(コナミ) 

konami

平素は弊社製品をご愛顧いただきまして誠にありがとうございます。

弊社の『ラブプラス』・『ときめきメモリアル』シリーズの制作を担当した社員(内田明理氏、ミノ☆タロー氏)が退職したことで、同シリーズの制作について、お客さまにご心配をおかけしております。

KONAMIの『ラブプラス』・『ときめきメモリアル』シリーズは、お客さまから長年愛され続けている大切なコンテンツであり、今後も制作・提供を続けてまいりますので、ご期待ください。引き続き同シリーズをご愛顧賜りますようお願い申し上げます。

ご不明な点がありましたらコナミお客様相談室までご相談ください。 

要するに、『ラブプラス』と『ときメモ』はこれからも継続して作っていきますよ、ということ。

『ラブプラス』のほうは最近コンテンツが軒並み伸び悩んでいることもあって、実際にこれから新規開発が行われるかは微妙なところではないかと思うものの、一応退社の影響で終焉というかたちにはしないとの言質がとれたので、ファンとしては一安心と言えればいいのですが、 こういう場合かならず問題になるのは、メーカーとクリエイター、どちらがほんとうの意味での作品の作り手なのか、みたいな話。私はこれを、作品の「同一性」問題と勝手に呼んでいます。(本当は継続性とかのほうが良い気もしますが)

たとえば『水月 弐』のように、『水月』とはプロデューサーから原画、シナリオまでほとんど全部変わっていて、内容もほとんど接点がなくても「弐」というかたちでシリーズものであるというアピールがなされ、何らかの「同一性」が主張される場合もあるわけですが、私は強烈に違和感を覚えます。「こんなの「弐」じゃないだろ」という考えが頭をよぎってしまう。タイトルは『水月 弐』であったとしても、そこには「同一性」は失われているのではないか、と。

作品の「同一性」は、果たして何によって担保されるのか。個人的な好みは簡単に言えるものの、どこかで線引きをするとなるとこれはかなり難解な問題だと思っています。

管見では、「同一性」の所在として主張されるのは主に3つ。(1)クリエイター、(2)権利者(タイトル名と言ってもいいし、メーカーや出版社のような言い方をしても良い)、(3)内容、です。

(1)のクリエイターというのはそのままです。その作品に大きく関わったスタッフが作るものが「続編」だ、という立場ですね。(2)も簡単で、タイトルをつける権利を持っているところの意向次第という立場です。任天堂がポケモンに『アニマルマリオ』と銘打っていたら、内容がマリオとまったく関係なくても「マリオシリーズ」と見なす、みたいな感じで良いでしょう。私のホームであるエロゲー界隈だとこの辺に積極的なのは結構あって、たとえばLeafさんなんか『痕』を3本もバージョン違いで出してみたり、初代『WHITE ALBUM』とはかなりスタッフが違う作品に『WHITE ALBUM2』の名を冠してみたりしています。

ただ、(1)と(2)はバッティングしやすく、揉めごとが起きているのも少なからず見かけます。

『ファイアーエムブレム』と『ティアリングサーガ』の騒動のときなんかが顕著でしたが、あるメーカーで人気シリーズを作っていたゲームクリエイター(デザイナー)が退社して別の会社で似たようなゲームを作るというのはままある話です。しかも、版権をもつ元のメーカーがシリーズを継続して販売していたりすると、ユーザーとしては混乱します。メーカー側から出るのがシリーズの後継なのか、デザイナーがつくるものが後継なのか、それともデザイナーの退社とともにそのシリーズは死んだのか。

主力となるスタッフが抜けた時点でもうそのシリーズは終わった、つまり「同一性」は失われたと見なすのがわかりやすい気もするのですが、現在のゲームは多くのスタッフで作るため、隅から隅までまったく同じスタッフで作成されているということはまずありません。そのなかで、主力とみなされる――たとえばデザイナーとか――の影響力というのはどのくらいあるのでしょう。

プログラマーからグラフィッカー、音響担当までぜんぶプロデューサーが個人的な繋がりで引っ張ってきて……みたいな状況ならいざしらず、大手ゲームメーカーともなれば会社の力というのも結構大きいはずです。『ラブプラス』で言えば、KONAMIだからこそ可能だったことというのは確実にあると思う。CM1つとってもそうですよね。

そういった諸々の条件を無視して、一部のクリエイターだけに作品の本質を帰するというのはやっぱりナンセンスではないかと思います。

しかしいっぽうで、その人が抜けたらもう同じ作品とは言えないのではないか、という個性をもったクリエイターがいるのも事実です。宮﨑駿監督なんかどうでしょうね。もし、あと10年くらいして宮崎監督なしで『風の谷のナウシカ2』をスタジオジブリが作ったとしたら、それを認める人と認めない人とで「戦争」が起こる様子がなんとなく想像できます。

エロゲーの場合、シナリオライターがそれにあてはまる場合が多いでしょうか。絵師さんは思ったより含まれない印象。今度リメイクされる『Yu-no』みたいに、原画家が交代してもシナリオが変わっていなければさほど違和感なく同一作品として受け取っている人が少なくないようですし。

ただ、たとえば著者の死後別の人によって続編が書かれる小説があるように、単独のクリエイターの作品ですら、別の人によって「同一性」が引き継がれる(あるいは、引き継がれたと主張される)ことがあります。これなんかは、作品の「同一性」は作家の名前でも出版社やメーカーの名前(つまり著作権)でもなく、上記(3)に書いた通り「作品の内容」によってこそ保証されるという考えでしょう。

結局はバランスの問題であって、どれか1つが「同一性」のすべてを担保しているという考えそのものがナイーブでお門違いという感じなのでしょうが、やっぱり多くの人が「これなら続編と見なしていいかな」という風に納得できるラインみたいなものはあると思う。その辺を見極めるのはもう理屈ではなく個人のフィーリングだとすれば、あとは統計的な仕事になるのでしょう。

これは小さな規模でやってもあまり意味がないので、一度どこかが大きな調査してくれないかなぁ。