先日記事を書いた、「ロジカルシンキングができない人々」のお話。

 ▼「ブログ記事「ロジカルシンキングができない人々」を巡るあれこれ」 (2015年2月11日記事)

ブログ主である自由人氏が、更に追加記事を書いておられました。これがまたみごとな記事でして、既に油を注がれて勢い良く燃え上がっていた火に火薬を近づけたような感じで、冬の夜空を自爆の炎が鮮やかに彩るかたちとなりました。「一度事件が起きた場所で続けて同様の事件が起きる可能性は低い」という記事について、3度目の着火が行われるというのは実に皮肉なことです。

 ▼「誤解を解く難解さ【あるブロガーが嵌まった罠】」(生きた経済ブログ)

ただ、正直を言えば私は、この件に関しては触れないつもりでした。ツイッターでもそのように言っていたのですが、今回拍手でコメントを頂いたのでお返事ということで少しだけ書くことにいたします。

この件についてもう触れないつもりだったというのは、自由人氏が論理も何もかも捨てて自分を守る態度をとったからです。

最新記事(「誤解を解く難解さ」)における氏の説明はこうです。

「大前提を書いておくと、私がここで考えた確率というのは、一般的な(批判者が念仏のように批判している)宝くじの当選確率とは違う」。

そもそも、自由人氏は「宝くじを起点にして確率論を考えたのではなく、殺人事件を起点」にして確率を考えているのに、ほとんどの人がその部分を無視して曲解している。

秋葉原の通り魔事件の後で、「あなたは次回、通り魔事件が発生するのは秋葉原だと思いますか?」という質問をすれば、「はい」と答える人は「おそらく皆無に近いだろう」。

だが、「確率的には、東京の秋葉原で起こる確率も、大阪の日本橋で起こる確率も同じ」だから、「次回の殺人事件が起こる確率はどこでも一緒なんですよ」という(自由人氏への)批判を行う人の意見は「確かに正しいし、私も否定していない」。しかし、「私(自由人氏)が言っている確率はそういうものではない」。

自由人氏が述べたかったのは「「1:多数」の確率」である。言い直せば、「 「今回の事件が起こった都市」と「今回の事件が起こった都市以外の全国全ての都市」の比較においての確率。(注意:また曲解する人がいると思うので、予めお断りしておくと、「全国全ての都市」というのは個々の都市のことではなく、全てを含めるという意味)」(原文ママ)である。

このあと、自分にも書き方が悪いところはあったが、それは前回の「補足」で説明を尽くしたということと、にもかかわらずそれを誰も理解してくれなかったという話が続きますが、もういいでしょう。

氏がここでおっしゃっている「確率論」は論理的には妥当だと思います。(ただ、「秋葉原の通り魔事件の後で、「あなたは次回、通り魔事件が発生するのは秋葉原だと思いますか?」という質問」を多くの人が否定するかは判りません。模倣犯等の可能性もありますから)

しかし、こういう話にしてしまったら氏が最初に主張していた、「「犯人が逮捕された地域は安全」という確率的事実」は消し飛んでしまいます。氏がずっと繰り返していたのは、私が読む限り、「一度犯罪が起きた都市では二度目の犯罪が起きる確率が低下する」ということです。その後の「補足」で出されたサイコロの例にしても何にしても、「続けて」とか「再び」ということばが必ず出てきていることからも、そう読めるというのは無理のない結論だと思います。

しかし、今回氏が説明しているのはそういう繰り返し、二度目であることという条件なしで成り立つ内容です。つまり、立論自体が別ものに入れ替わってしまっています。

加えて言うなら、氏が今回主張しておられる内容はご本人も言っておられるように、議論する必要もないくらい当たり前のことです。そして氏は、「こんな当たり前のこともわからない人がいる」という怒りとともに最初の記事を書かれたのでした。ところが、氏が批判している「事件の被害者が通っていた同学校の児童らはボランティアと警察官が見守るなか保護者同伴で登校」するという行為は、「「1:多数」の確率」をわかっていないことによって行われている、という推測が妥当かというと、まったく妥当だとは思いません。

おそらく集団登校している児童の保護者らも警察関係者も、「和歌山県紀の川市」と「他のすべての地域」とで事件が起きる可能性を比べたら「他のすべての地域」のほうが高いということを認めるでしょう。しかし、それを認めても彼らは集団登校をやめないと思います。なぜなら、彼らが比較しているのはせいぜい「和歌山県紀の川市」と「他の1都市」でしかないからです。

自由人氏が監視・保護者つき集団登校を仮想敵としているのなら、その仮想敵の理論を取り違えています。そして、そのうえで自分の理論を採用すべきだというのなら、相手が乗っかっている理論(感情論と断じるのではなく)と自分の理論を比較して、なぜ自分の理論が正しいのかを述べなくては話が進みません。

つまり、「誤解を解く難解さ」で展開された自由人氏の確率論というのは、これを主張することに何の意味もなく、逆に主張することによって自分が誰もいない空間に向かって必死に大砲をぶっぱなしていたと告白しているようなもの、ということです。まだ最初の立論通りなら議論の余地もあったのですが……。

結局、当初の立論を破綻させても今回自由人氏が優先させたのは、「自分は間違った論理を言ってはいない」という主張です。実際にどうなのかは氏にしか判りえないことですが、傍から見れば少なくともそのように見えます。

傍観者からすれば氏と議論する意味が消失します(当初の立論は破棄されたことになるし、氏が新しく採用した「確率論」はあまりにも自明すぎて何ひとつ議論する意味も価値もない)し、氏はそんなふうに無意味だけど正しい理屈を繰り返し、ただ自分が間違っていないということを主張するだけになるでしょう。

実際、今回「誤解」として説明された内容を見て行くと、やたらと感情的なタームが目につきます。そして、分かってくれない読者が悪い、という論調が露骨なくらい繰り返されています。ときどき見られる反省や留保も、間違ってはいなかったが配慮が足りなかったとか説明が足りなかったというかたちで、自分が間違っていたということは是が非でも認めまいとする強いこだわりに貫かれていることがわかる。

あまり他人の内面を推し量るのはいい趣味ではないのかもしれませんが、それを承知で申し上げるなら、おそらくこの議論は氏の中で既に「勝ち負け」の問題となってしまっており、負けないための自己保身が続いているようにも見えます。こうなると決して倒すことはできないアンデッドのようなものです。

ただ、それを責めるのはあまりに酷かなとも思う。私はこういう「炎上」をしたことがないので判りかねますが、自分に対してあちこちから刃が飛んでくるというのは想像するだに恐ろしい状況だと想像します。そういうことを考えると、自分のプライドを守ろうとするのは仕方がないことではないか……。それゆえ、もうこれ以上つついてもあまり意味がないと思うのです。

ここまでしてきたような分析が既に氏に対しては批判的なものとなってしまっているわけですが、私は個人的に自由人氏を屈服させたいとも思わなければ、氏に何か重大な社会的責任があるとも思わないので、「もういいじゃないか」という感じです。今回の騒動から何か教訓じみたことを引き出そうもないし。

あえて気になることを挙げれば、こういう騒動はどんな風にすれば解決、あるいは「救い」が与えられるのかな、というところくらいでしょうか。それは「罠」にはまってしまった論者の誇りだけでなく、溺れかけた犬を更に棒で叩いて沈めようとする「衆人」の業も含めて(結局、私もその1人だという批判は甘んじて受け入れようと思います)。