ちょっと話題になっている記事があります。

 ▼「ロジカルシンキングができない人々【論理よりも感情が優先される国】」(生きた経済ブログ) 

自由人氏のブログ「生きた経済ブログ」 の記事ですが、BLOGSOの執筆ブロガーでもあったことからそちらに掲載され、乾燥した冬の焚き火の如く燃え上がった模様。そのままだと単なるボヤ程度で済みそうだったところ、丁寧にもご本人が追加で燃料をブチ込んだため、山火事のように燃え広がっていまだ鎮火の目処が立たないという悲惨な状況に陥っています。

記事の内容は、和歌山県紀の川市で発生した小学5年生殺害事件を受けて行われた地域の対応を批判するもので、およそ以下のようにまとめることができるでしょうか。

・ 殺人事件をうけ、事件の被害者が通っていた同学校の児童らはボランティアと警察官が見守るなか保護者同伴で登校した、という報道があった。

・しかし、こうした「事後対処」はおかしい。「、犯人が逮捕されたということは、複数犯でもない限り、その地域はもう安全になった」と言える。

・1度事件が起きた後、同じ地域で連続して凶悪犯罪が起きる可能性は限りなく低い。それは論理的に考えればわかる。

・日本(「この国」)ではこのように「論理と確率を無視し、感情だけが優先されている」ことが多くて困る。

・これは、1等がでた宝くじ屋に2匹目のドジョウを狙って人が殺到するのと同じ思考回路である。1度当たりがでた宝くじ屋で連続して当たりがでる可能性は、他の宝くじ屋で当たりがでる可能性よりずっと低くなっている。

順番に詳しく見て行きましょう。

通り魔事件や猟奇殺人事件が起こる度に、こういう報道…と言うよりも、事後対処が為されるのだが、犯人が逮捕されたということは、複数犯でもない限り、その地域はもう安全になったことを意味する。事件が発生したということもあって普段以上に物々しい雰囲気で警察官が巡回しているわけだから、日本中で最も事件が起こりにくい安全な地域になっていると言っても過言ではない。
 そんな地域で「ボランティアと警察官が見守るなか保護者同伴で登校」というのは、よく解らない。 

まずこの部分ですが、読んでいて「ん?」と思いました。氏は犯人が逮捕されたのだからその地域は安全だ、だからボランティアや警官が見守りながら登校する必要はないのだと言いつつ、安全(事件が起こりにくいこと)の理由を「普段以上に物々しい雰囲気で警察官が巡回している」ことに求めているように読めます。

普段以上に警戒しているから続く犯罪が起こりにくい。これはわかります。しかしそれなら、普段以上の警戒(ボランティアや警察官が見守るなか保護者同伴での登校)をやめたら、犯罪が起こりやすいということにならないでしょうか。

これはどういうこっちゃ、と思いながら読んでいくと、氏はこう続けます。

結局、この報道から分かることは、「犯人が逮捕されれば安全」という論理的事実と、「犯人が逮捕された地域は安全」という確率的事実が、全く無視されているということである。論理と確率を無視し、感情だけが優先されていることがよく分かる事例だと言える。

おお……。論理……。そして確率……。どうも犯人が逮捕されれば安全というのは、警備云々ではなく数学的な話のようです。私のような数学音痴には残念ながら意味が解りません。するとそれを先読みしていたのか、自由人氏の詳しい解説が。

少し話を和らげるためにも、別の例で考えてみよう。
 例えば、「宝くじ」というものでも、1等当選が出た宝くじ売場には、毎度、長蛇の列ができる。その理由はおそらく「1等当選が出た所だからまた当たるかもしれない」ということなのだろうが、よくよく考えてみると、これほど可笑しな話もない。確率的に考えれば、同じ宝くじ売場で1等当選が出る確率は最も低くなるはずだからだ。

(中略)

本来であれば、1等当選が出た宝くじ売り場は閑古鳥が鳴いて然るべきところだが、実際には逆に長蛇の列が出来上がる。このような可笑しな逆転現象が起こるということ自体が、論理や確率を無視し、感情のみが先行しているという証左でもある。

………ん? 宝くじという例は確かにわかりやすいのですが、これ、明らかにおかしい気がします。

確率的に考えれば、同じ宝くじ売場だからといって1等当選が出やすいわけではないならわかります。宝くじ1枚の当選期待値は同じですからね。しかし、「同じ宝くじ売場で1等当選が出る確率は最も低くなる」とはどういうことか……。独立事象ではない宝くじを想定しているのでしょうか?

氏はこのあと、「この国では、至るところで論理や確率よりも感情だけが優先される向きがある。その感情論に敵対した意見は、どれだけの正論であろうとも、いつも感情論に否定される」と感情論的傾向に怒りをあらわにし、「事件が発生した場所で同じような事件が発生する確率は最も低く、1等当選宝くじが出た場所で、再び1等当選が出る確率は最も低い。これは統計的な事実であり、残念ながら感情論が入り込む余地はない」と宣言します。そして、「このことが解らないというのであれば、その人物は「私はロジカルシンキングができません」と言っているに等しい」と罵倒するのですが……宝くじの例はサッパリわかりません。

本来なら前半部分にもいろいろ問題が有るとは思うのですが、和歌山の事件はあくまで話のダシというか枕であって、本論は「感情論」批判だと読めるのでそちらに絞って検討してみます。あとついでに言うと、1等当選が出た売り場で買ってる人はみんながみんなほんとに当たりが出やすいと思ってるわけではなくて、別に確率は変わらないけど縁起をかついでるだけというか、感情論というよりは信仰とかそっちに近い気もするんですがこれは氏の中で区別しないということかもしれないので、こちらもひとまず措きます。


さてこの記事、案の定あちこちからツッコミが入ったため、自由人氏は「補足」を即座に追加しました。その内容がこちら。

 例えば、サイコロを振って「1」の目が出たとして、次にサイコロを振った場合、「1」が出る確率は6分の1ですが、「2から6」の目が出る確率は6分の5です。
 
 勘の鋭い人ならもうお分かりだと思いますが、この記事で述べたかったことはそういうことです。早い話、確率を考える上での視点が違っているということです。

 個々のサイコロの目が出る確率は等しく同じですが、同じ目が続けて出る確率は同じではありません。同じ目が続く確率よりも違う目が出る確率の方が高くなるのは、サイコロの6つの目で考えても分かると思います。(この場合、5倍の差がある)

 例えば、宝くじ売場が全国に1000店舗あるとして、同じ店で続けて当選が出る確率よりも残り999の店で当選が出る確率の方が999倍高いのは火を見るより明らかです。

porna
ドドドドドドドド

間違いありません。これは、ポルナレフ召喚案件です。

サイコロを例に取ったということは、氏はこれを独立事象として考えているということです。つまり、どの宝くじ売り場で宝くじを買っても、1枚あたりの当選確率はかわらないという前提で考えて良い、ということです(もちろん、宝くじの枚数を多く仕入れている宝くじ売り場はそのぶん当たりやすくなる)。
「1等当選宝くじが出た場所で、再び1等当選が出る確率は最も低い」という部分は、正しくは、

「1等当選宝くじが出た場所で、再び1等当選が出る確率は他の宝くじ売り場(全て)よりも低い」とするべきでした。

というコメントからもうかがえるように、氏は決定的に確率の論理をとりちがえているのだと思います。

どういうことか。

氏のたとえが2通りの意味に解釈できるので、まずはそこから考えてみましょう。

「宝くじ売場が全国に1000店舗あるとして、同じ店で続けて当選が出る確率よりも残り999の店で当選が出る確率の方が999倍高いのは火を見るより明らか」という部分ですが、これは店舗1であたりがでる確率と店舗2~1000の全部であたりがでる確率だと店舗2~1000全部であたりが出る確率のほうが高い、という意味でしょうか? だとすれば、あまりにも当たり前なので議論の余地がありません。

さきの犯罪の例でいえば、和歌山県紀の川市とその他の日本全国すべての土地で比較すれば、そりゃあ和歌山県紀の川市の犯罪発生率は低いですよ。(ちなみに、単純に「999倍高い」ことにはまったくならないのですが、それはもう誤差の範囲ということで措きます)

ただもしそうだとすると、氏が言う「同じ宝くじ売場で1等当選が出る確率は最も低くなる」、つまり二度続けて犯罪が起きる確率は低くなるということの説明ができません。1度目だろうが2度目だろうが変わらず妥当することだからです。「二度目」ということが氏にとって軽い問題でないことは、まとめのところで「再び1等当選が出る確率」のように、「再び」を常につけていることからも明らかでしょう。したがって、この解釈ではおそらくない。

ではどういうことかというと、氏は次のように言いたかったのだと思います。

サイコロの1が出たあと、続けて1が出る確率は1/6 X 1/6 で1/36である。しかし、サイコロの2~5がでる確率はそれぞれ1/6である。したがって、連続して1が出る確率は、2~5が出る確率より低い。

どうでしょう。この例なら氏の言いたかったことを拾えていると思うのですが……。

ただ、言うまでもなくこれは誤りです。何が誤っているかというと、たしかにサイコロで2~5の目の出る確率は1/6が5回で5/6なのですが、それはサイコロを1回しか振らない場合ですよね。最初に1が出て、かつ次の試行で2の目の出る確率はやはり1/6 X 1/6 で1/36。同じく最初に1が出て、かつ次の試行で3の目が出る確率は1/6 X 1/6 で1/36……となるわけです。

つまり自由人氏は、「ある店で当選が出た」という前提を条件に加えた場合と加えない場合の確率を比較しているのではないか、というのが、記事を読んだ限りでの私の推測になります。宝くじの例にもどすと、店舗Aで当選が出て、かつ、店舗Bで当選が出る確率というのは、単純に店舗Bだけで当選が出る確率よりはるかに低くなります。店舗Aで当たりが出て、再度店舗Aで当たりが出る確率と比較するなら、条件を同じに揃えなければ話になりませんよねということではないでしょうか。

個別の目が出る確率は等しく同じだが、同じ目が続けて出る確率よりも違う目が出る確率の方が(数量的に考えても)圧倒的に高い。誤解を招く言葉使い(全体と個別をごっちゃに書いていた)があったことはお詫びしますが、論理的に間違ったことを書いたつもりはありません。

という締めのコメントがすべてであり、その2つは比較することに意味のない数字だ、という話です(自由人氏が私の考えるような「勘違い」をしているのかはもちろん定かではありません。あくまで推測です。ただ、いい線行ってるんじゃないかなと自画自賛しておきます)。

いや、こんなの中学高校レベルの数学の話(繰り返しになりますが、独立試行の問題)なのでいちいち説明しなくてもだいたいの人にはわかるのだと思うのですが、一度こんがらがってしまうと論理の迷宮に入りこんでしまうというのも解る気がする。

ハッキリ言うなら、この自由人氏の論理もまた感情論というかオカルトだと思います。

わかりやすくいえば、「くじ引きあたったから運を使い果たした。次は当たらないだろう」みたいなネガティブ・オカルトの発想。氏が批判しているのが「くじ引きあたったから運気が来てる。次も当たるはず!」みたいなポジティブ・オカルトだとすれば、たしかに対照的ではあるもののどちらもオカルトであることは変わらない、という感じです。対極に位置するオカルト頂上決戦。

人はえてしてこういうオカルトにそれらしい理屈をつけて納得してしまう。そういう意味ではまさに自由人氏が批判してるような感情論的な態度を自分で華麗に実践してみせてくれたわけで、(半ばネタとしてですから本意ではないでしょうが)批判そのものは成功したと言えるのかもしれません。

そして今回の件で私が興味深いと思ったのは、誤った思い込みをしてしまった人を納得させるのは極めて困難である、という点です。おそらく数学の教科書かなにかで独立試行の話をされていれば、自由人氏は簡単にこのことを飲み込めたんじゃないかと思う。しかし今回、自分の中でできあがったロジック(もどき)があったせいで、コメントでさんざん指摘されてもそれを理解できず、あさっての方向に「補足」を出してしまった。今回の件に関する「正しい論理」が何度も示されているにもかかわらず、自由人氏はそれに気づくことができなかったわけです。

これは、特に氏の能力が低いとか頑固だからだとか、そういう話ではないでしょう。私も含め、大半の人が陥る可能性のある罠だと思う。人は、自分の中にある強固な思い込みに目が曇った場合、外側から「正しさ」をつきつけられてもなかなか気づくことも認めることもできない。

だからこういう場合、「これが正しいんだ!!」と正しい論理を提示して、それを認めさせようとしてもなかなか成功しないのではないかと思います。もちろん柔軟な思考の持ち主、謙虚な思考の持ち主には有効だと思いますが、そうではない私のような凡人にはイマイチ。ではどうするかというと、相手の考えていることをしっかりなぞり、理解したうえで、ここがこう間違っている、というのを提示する。

相手が間違っていると思うのなら、自分の正しさだけを主張するのではなく、相手の議論をしっかりと理解してどこがどう間違っているかを解きほぐし、相手が内側から崩れる道を示す。そうすれば対話の道が開けるのではないか。私はそんなふうに思います。

批判ということばには相手の誤りや欠点を指摘するという意味もありますが、対象について原理的な考察を加えるという意味もあります。本当に相手のことを深く理解していれば、どこを突けば崩せるのかという欠点も、おのずと見えてくるでしょう。逆に言えば自分のことを理解していない相手からの批判というのは、「あいつは分かってないな」という逃げを打って跳ね返せるので致命傷を負うことはない。

もっとも恐ろしい批判者というのは、実は一番の理解者なのかもしれません。