イスラム国の写真の件で取材を受けた田巻源太氏が、自らの意図と異なった記事を書かれた、ということでブログに経緯を掲載しておられます。

内容は会話調で書かれているものの全てを録音していたとかそういうわけではないでしょうから、正直相当恣意が入っているでしょうし、全面的に田巻氏の発言を信じるのもどうかとは思いますが、またコメントを求められた専門家ができあがった記事に対して違和感を覚えたという概要がおおよそ妥当なものであるとすれば、その内容は日本の報道機関――主に新聞ですが――の質や理念について問題を提起するに十分な内容となっており、全文に目を通す価値があります。

 ▼「共同通信社さん配信の報道に関して。」(映像屋のざれごと) 

その後、21:07ごろに再度お電話をいただき、記事化された文章を聞かせてもらいました。
その時点で、「太陽光でこの影の出方はあり得ない」という文章になっており、
「いやいや、そんなことないんです。太陽光でも、カメラの後方に光源があって、そこそこ広角目で撮ったら、ああなるんで、外で普通に撮ったことはパッと見否定できないです。」
と伝えたところ、
「そうなんですか、そこも書いておかなければいけませんね」
という返答で、この日は終わりました。

翌日、友達から連絡が、「新聞にこんなののってる!」と東京新聞さんの記事を写真で送ってくれました。

「太陽光は原則こうした影はできない」

と、僕がコメントを出したようにしか読めない文章でした。

(中略)

さすがに、自分の発言と乖離した文章が一人歩きしていることに、合点がいかず、共同通信社の記者さんに電話しました。
「あのー、僕、太陽光でもああいった影出る可能性あるっていいましたよね?」
と。

回答は
「そうですよね、おっしゃっていましたよね。
でも、あのあと政府関係者からも合成の疑いがってコメント出ましたよね。なので、それに沿わない部分は書く必要なくなっちゃいまして。
それに、ちゃんと”原則”って追加したんで、太陽光下で100%出ないってことには読めない文章になってますんで」

はい?
政府の発表と違う部分は削除?
「原則」ってつければ、違う場合も許容される?

もう、なんか悲しくなってきました。
ただ単に、噂に真実味を持たせるためだけに、映像作っている人間なら誰でもよかったんでしょうね。
肩書きと実名が欲しかった。合成の疑いを否定しないコメントだけ載せる。

なんのための取材なんだろ。

マスメディアの恣意性を揶揄した有名な風刺画があります。下の絵ですね。

media

この絵を見るたびに、単なるメディア批判だけでなくてメディアの哀しい限界のようなものも感じます。だって、この事件の全体を、カメラはうまく写すことができないんです。全体を写そうとすれば遠ざかるしかないけど、遠ざかったら細部が見えない。細部を写そうとすると、全体が見えなくて意味がわからない。下手をすると誤解を招いてしまう。

今回の件は新聞ですが、やっぱりマスメディアの一種ということで似たようなところがあって、田巻氏のコメントを誠実に記事にすると、飯の種にならん、という部分があったのかなと思うところがあります。

マスメディアは学術媒体ではありません。だから、厳密さというのがそれほど求められないと言われればそうかもしれない。「マス」という語が示す通りそれは大衆向けのものであって、専門的でわかりにくい部分なんかをわかりやすく解きほぐして視聴者に届けるのが仕事とも言える。

その立場からすると、今回そのとある新聞の記者が 田巻氏のコメントを「原則こうした影はできない」と《要約》したのは嘘でも捏造でもなく解釈の範囲内ということだったのではないか。田巻氏の怒りに反して、私はむしろこの記者から、ある種のマジメさすら(少なくとも田巻氏のコメントを理解するだけの「勉強」はしているし、発言の原型を残すように努力している)感じる部分があります。

あとこういったら何ですが、今回のなんてまだ「マシ」なほうだろうという気もします。発言を決定的に歪めているわけでもないし、さきほども述べた通り一応元の発言に気を使いつつ「嘘ではない範囲で」ことを収めようとしているんですから。やられた側からすれば、たまったもんじゃないでしょうけど、ひどいマスコミはもっとひどいし、哀しいことにそんなのがゴロゴロしてますから……。

と、擁護のようなことを書きましたが、こんなしょうもないことを書いている時点でいかに今回の新聞の件がレベル低いか、という話でもある。

専門家にコメントをとったけど、そのコメントをそのまま使うのは難しい。かといって、勝手に「解釈」を加えると内容に誤解が生じるかもしれない……。こういった事態にあたって新聞はどう対処すればいいか。簡単です。記事を書いた後、一度その専門家に目を通してもらい、OKかどうかたずねる。そうすれば少なくともその専門家が納得して記事を出したことになるし、内容に何か問題があればその専門家の責任です。

というか、コメントをとるというのは本来そこまでやるのが当たり前だと思うんですよね。名前出してその人のコメントを載せるのであれば、新聞の側はその人に対して責任がある。今回のように「俺の意図したものと違う」という話になるのは、その道で商売をやっているプロとして情けないことだと思います。

また当然、読者に対しても不誠実ですよね。自分たちの力だけでは書けない部分を専門家の協力によって補って記事にしたはずなのに、その内容が十分なものかどうかを検討せずに載せているわけですから。正直、こういう態度の延長に朝日新聞の捏造事件とかああいうのがあるんじゃないのかなぁ。

印刷に間に合わせないとダメだからチェック入れてもらってる時間がないとか、載せたい内容からかけ離れるかもしれないとかいう話があるかもしれませんが、そこをやりくりすんのがプロだし、どうしてもダメなら載せなきゃ良いんです。調べたことを裏とらずに、あるいはどうもウソっぽいと思いつつ「ページ数の都合」とやらで載せている本と、きちんとした手続きを経られたものしか載せない本とならどちらが信用に価するか、比べるまでもないでしょう。

まあこういう記事が平気で跋扈するのは、読者がクオリティーに対して無頓着なのも悪い(良質な記事が必ずしも生き残るとは限らない)面もあるのかもしれませんが、基本的にメディア側のほうが情報の段階的に需要者より上にいるわけですし、ある種の啓蒙的な役割を果たす義務があるんじゃないかと私は思っています。その観点では、新聞がこういう信念なき無責任な記事を書いているということが、一般大衆のリテラシーを著しく低下させていると思う。だって、「ホントかどうかわからないことをホントらしく書いている記事」を読んでいて「ホント」と「ウソ」の見分けがつくようになるワケがないじゃないですか。

インターネットが普及した現在、新聞などのメディアは正直速報性に関して、正直TVやネットには対抗できなくなっています。とっくの昔に。なればこそ、「遅くなる」というのを逆に利点として活かして、時間をじっくりかけて記事の精確さ・クオリティーの部分で勝負すべきじゃないかと私は思う。ネットの「早い」けれど「不確かな」情報とは違い、きちんと裏を取り、精査して、「新聞に書いてあることなら大丈夫」と誰もが信頼できるような記事を書くというところに活路はあるのではないか、と。 

それをしないのは、早さへの中途半端なこだわりがあることと純然たる「手抜き」のせいだと私は信じているのですが、それとももう、新聞社にはそういう精確さ、誠実さをクリアするだけの力が残っていないのでしょうか。もしそうだとすれば、もう完全に未来はないのかもしれません。