もういい加減過去に遡るのも億劫な数の記事になってしまったが、以前2度ほどエロゲーとプレイ本数の関係について書いた記憶がある(dtiblogの頃だったかもしれない)。そのたびに、もう少し考える、次も考えると言ってきたことについて、少し考えを整理できたので改めて書いてみたい。

こういう話は妙なことをウダウダ考えている頭でっかちな人間だからこそ出てくるのかもしれないし、本当はもっと単純な解決が望めるのかもしれないが、このブログを見てくれているような(結構高齢の)エロゲーマーの方の何人かには届く部分があるのではないかと密かに期待もしている。



いい加減私も30半ばになり、プレイしたエロゲーの本数も結構な数になった。小さいものや途中でリタイアしたものをあわせれば4桁には届いていると思う。 若いころ、特に20代前半は、「有名どころのエロゲーをやりつくしてやる!」くらいの勢いで本数をこなしまくった。だが歳を重ね、プレイしたエロゲーが増えるにつれ、「数こなしゃ良いってもんじゃない」という考えは強くなってきた。経験が濁るというか、どこかで見たような展開、見たようなヒロイン、見たようなセリフ……そんな風に感じてしまい、プレイ時の感情の振れ幅が小さくなった。それに、ほとんどの作品のヒロインの名前を忘れてしまったりもする。こちらは単に、記憶力が低下しているだけかもしれないが。

とはいえ、当然得たものもある。それはひとことで言ってしまえば知識というやつだ。量をこなした。あれもこれもやった。似ている作品、元になったであろうネタ、そのライターや原画家の以前の作品……そういったものを参照して、判断する力というのは随分ついたと思う。

私はエロゲーについて「語る」人間なので、このことは非常に大きい意味をもつ。なんだかんだ言って、数をこなしたからこそ語れることというのはあるからだ。知識量の面でも、「これだけやったんだからちょっとくらい偉そうなこと言っても許されるだろ」という気持ちの面でも。

けれど、心に残ったかそうでないか・面白かったかそうでないかというのは、本来特別そうした知識がなくても判断できる。私はオペラを人生で2度しか見たことがないし、宝塚歌劇団の講演は1度きり。どちらもズブの素人。それでも、それぞれ面白かったかどうかくらいは言える。ところがエロゲーのように大量にやってしまうと、「面白かったけどあれと比べるとちょっと劣るかな……」とか、「つまらないけどもっとつまらないのもあったし、まあ頑張ってるかな」のように、ついつい比較の視点が入ってきてしまう。それはおそらく、1作品に抱く独立した感想から少し変質している。「経験が濁る」というのは、言語化するとそういう感じだろうか。



ある作品をプレイすれば、誰しも作品に対してそれ自体への感想なり評価なりを持つだろう。しかプレイ本数が増えれば増えるほど、作品自体への感想に付随する比較の視点の存在感が大きくなりがちだ。「たくさんプレイしている人のほうがエロゲーについて分かってる」というような素朴な信仰が時として見られるのは、そんな事情があるのかもしれない。

私たちがエロゲーをプレイし感想を抱くとき、2段階の経験をするのではないかと思う。作品を単独で味わう経験と、それを比較の中で位置づけるという経験である。

比較の視点というのは一種の競争というか、競技じみたところがある。「Aという作品とBという作品を比べればAのほうが上だ」。「こういう視点ならBのほうが上だ」。そんな風に勝ち負けを競う話である。けれど、実はその競争は、基準を何にするかということで大半は結論が決まってしまうし、その基準の選び方は恣意的なものとならざるを得ないのも事実だろう。

こういう評価スタイルがもっとも典型的にあらわれるのが、ランキングであったり点数制であったりという「目利き」の領域だ。「これとこれとこれを並べたら、こういう理由でこれが1番になる」というふうに判断する世界。私もこういう書き方を結構するし、また需要があるのも理解している。

だが、人は必ずしも比較だけでものを考えているわけではない。味も良く値段も安く栄養価も豊富な身内の手料理があるとわかっていても、ジャンキーで高くて身体に悪そうなファミレスのハンバーガーががどうしても食べたくなる時はないだろうか。AよりBのほうがあらゆる比較で優っていたとしても、好きなのはBだ、ということはありえるし、それほど珍しくもあるまい。同じように、ある人の点数やランキングを見て、その評価にまったく異論はないが、自分にとっては1位の作品より10位の作品のほうが「好き」ということはじゅうぶんあり得る。

それに、そもそも比較によって表現されるのは感想ではないのではないかもしれない。たとえば私が私の経験から比較して「これは85点」とか、「AよりBが上」と言ったとして、そのときやりとりされているのは、厳密に言えば作品の感想というよりも単なる考え方でしかない。私の採点と判断を聞いた友人が深く納得をしてくれたとしても、それはその友人が単に私の考えを理解し納得したというだけであって、彼自身が作品を面白いと思ったわけではあるまい。だとすれば、比較が表現しているのは極論考え方のプロセスだと言える。さすがに低く見積もり過ぎではあると思うが。

いっぽうの作品を単独で味わうというのは、比較に先立つ経験だ。

たとえば、ある作品でシナリオライターが公表されていた人間と違っていたとする。そのとき、比較の視点は「(理想の)公表通りの作品」と「(現実の)嘘を含んだ作品」を並べ、容易に後者を劣ったものとみなすだろう。だが、たとえライターが「偽物」であったとしても作品それ自体としてはじゅうぶん楽しいということはあり得るはずだ。そして、感想というならこちらのほうがそれらしい。正しいかただしくないか、1位か1位じゃないか、80点か79点か……そういう確かな基準はないけれど、自分は「好き」。そういう範囲に入る話というのはきっとある。そして、そういう視点も棄ててはならないとと思うのだ。

もちろん、「一切混じりけなしに」作品だけを味わうというのは不可能である。エロゲーは1本もプレイしていなくても、漫画やアニメや小説や映画といったものをこれまで見たことがないというのはほぼありえないし、だとすればそうした諸々のものとの比較は否応なしに発生する。ただ、「ABCDEFとあって、その中で並べたらこうなる」という話とは違ったかたちで作品を捉えることならば、かろうじて可能だと思う。

ただ、感想や批評を書く側からすればこれはめっぽう書きにくいし、自分が読む側にまわったことを考えても、きわめて読みにくい。このあたりをうまく表現するような批評なり感想なりを書くことができれば……と思っていろいろ試してもいるのだが、どうしても難しさを感じてしまう。



少し話を戻そう。プレイ本数を重ねれば、よく「分かる」ようにはなる。しかし、よく「味わえる」ようになるかというと必ずしもそうではないだろう、というのがいまの私の感想だ。思い出に残る作品を幾つか挙げろと言われると、多くの人のチョイスが自分がエロゲーマーになって間もない頃にやった作品に比較的かたよるのは、そのあたりにも原因があるのではないだろうか。

勘違いしないでほしいのだが、私は何も作品を単独で味わうほうが比較するのより偉いとか、そういう話がしたいのではない。「数こなしゃ良いってもんじゃない」のと同様、「数をこなさなくても良いわけではない」。ただ、それぞれ得られる内容が違っていてどちらも別の価値を持っているということが言いたいのである。

そして困ったことに、この2つは両立が難しい。「味わえる」状態だとなかなか「分かり」にくいし、「分かる」ようになると「味わい」にくくなる。

意図的にバランスをとるのは更に困難だ。だから、まだエロゲーに慣れていない人はまず、目の前にある作品を存分に味わい尽くしてほしいと思う。なんだか上から目線の言い方になるので恐縮だが、その経験は下手をすればいましかできないような、とても貴重なものかもしれないから。

いっぽうすでに「分かる」方向に片足を踏み入れてしまった私は、なんとかその相対化を意識的に取り除いて素直に「味わう」術を取り戻したいと思っている。本数を重ねると味わいが薄くなるというのは寂しいことだから。しかし、果たしてそんなことが可能なのか、あるいは可能だとしてどうすれば良いのだろうかという不安はある。いまだによく判らないままであるが、私はどうしても小難しいことを考えてしまうので比較を「忘却する」ことはできそうにない。なのでとりあえず、自己反省で自分にかかっているバイアスを見つめなおす方向で行こうかなと思っている。