いきなり本筋とはあまり関係のない話で恐縮ですが、今週の土曜日からセンター試験が始まります。受験生のみなさんは今頃大変な思いをされておられることでしょう。近くて遠い二次元の街から健闘を祈っています。

さて、確か昨年度だか一昨年度だかのセンター国語追試で、田島正樹『正義の哲学』から出題されていたなぁと思いだし、なんとなく読み返していました。今回とりあげるのは、その中で映画『マトリックス』を話題にした部分。『マトリックス』で主人公たちがコンピューターに夢(ヴァーチャルな世界)を見させられているということに気づき、「真実」(リアル)に目覚めた彼らが他の人間も覚醒させようとする、というおおざっぱな紹介のあと、次のように続けられています。

ここで、リアルな世界とヴァーチャルな世界を本当に区別するものがいったい何か、という問題が生じる。コンピュータと闘う人間が、コンピュータにつながって夢を見ている人間と違って現実に触れていると思えるのは、彼らがヴァーチャルな世界をいわば巨大なテクストとみなし、その任意の場所に「外」から侵入することができるからである。彼らの侵入は、テクストを切ったりつないだりする解釈的介入に他ならない。つまり彼らにとって、この日常世界は一つの夢というテクストであり、その意味を支配する魔法にかけられているようなものだ。この魔法は解かれねばならぬもの、少なくとも別の魔法によって別の意味を帯び得るもの、つまりは解釈によってまったく別様の読解も可能なものなのだ。

ここには、テクストの読解、あるいはもっと広い意味で世界の認識というものに関するある立場(合理論的な立場)からの問題がとても分かりやすく描きとられているように私には思われます。

あるテクストがあったとします。「夢」を見ている人というのは、そのテクストに関する自分の解釈が絶対的なものであることを疑っていない人のことです。そして、「真実」に目覚めた人が、その解釈の誤りを指摘する――さしあたりそんな風に読めるでしょう。

しかし、そうすると「真実」に目覚めた人は、どうして自分が見ているものが「真実」だと言えるのでしょうか? その人が見ているものもまた、もう一つの「夢」にすぎない――そんな可能性は考えられないのでしょうか? 『正義の哲学』は、そのことに踏み込んでいきます。

すると、現実の世界への覚醒と見えたものは、結局「この世界」(ヴァーチャルな世界)への解釈的介入がもたらした効果(仮象)に過ぎないと言えるのではないか? つまり、ヴァーチャルな世界を離れて、そこへと覚醒すべき確固とした現実があるわけではないのだ。 …(中略)… コンピュータの夢から覚醒した者も、それがもう一つの夢でないという確証は、それだけでは得られないだろう。

ある「夢」を相対化した。しかし、それを可能にするものもまたもう一つの「夢」でしかない。「真実」はどこにも存在しない。これが「真実」で、あれが「夢」であると断言することはできない。理論的には、どうしてもそうなってしまう。だから、「あらゆる理由は不十分であり、あらゆる推論は決断である」。

この後議論は、じゃあ世界は「真実」を放棄して無秩序な「夢」の中で没交流化していくしかないのかという問いに対し、「決断」そして「信仰」によってそれをクリアしていくしかない、という重要な話になりますが、まあその辺はひとまずおいときます。

私は上記のような考えに結構同意する立場なのですが、ここで肝心なのは相対化の視線を自分にも向けるということでしょう。お前が見ているのは「夢」だが俺が見ているのは「真実」だという主張が必ずしも誤っているとは言えませんが(「真実」である証拠がないのと同時に「真実」でないという証拠もないから)、そう主張することで生じるのはお互いに異なる神を喚び出して戦う、泥沼の宗教戦争です。

そして、この手の宗教戦争に手を染める人というのは存外少なくない。それは実際の宗教の対立だけではなく、たとえば、テクスト解釈では「作者の死」をめぐる現代日本の言説なんかの中にもよく見られます。

ここで言うテクストは主に小説(物語)のことですが、こうした思想が生まれる背景として、「作者の考え」を小説からとりだすのが「正しい」読解であるという考え方がありました。いわゆる作家論的な読みです。しかしそれは、読者の自由な読みを唯一絶対の「正しい」読みによって圧殺するものだとも言えた。「作者の死」は、作家論が捉える「作者」なるものが唯一絶対である保証など何もないと喝破し、テクストを前に可能な読みは無限にあるということを示しました。つまり、「作者」という唯一の神から読者を解き放った。

しかし、「作者」を倒すために用いられた理論というのは、同時に他のあらゆる解釈の根拠も唯一絶対ではありえないことを示すものでもありました。だから、いわゆるテクスト論に乗るなら、作家論的な読みもまた一つの読みの可能性として、平等に残されているはずです。「作者」は死ぬけれど死体は残る――神の地位から逐われたにすぎない、ということになるでしょうか。

はじめの『マトリックス』の話でいえば、すべてが「夢」として同じ地位に並んでしまうのです。にもかかわらず、「夢」から抜け出すときに仮の「真実」とみなす世界が存在するせいか、「作者」を「夢」であると指摘できる立場こそが唯一絶対の「真実」だと素朴に主張する論というのを結構見かけます。

もちろん、「作者」という神について別の神を立てて、どちらが「正しい」かを争うということ自体は可能です。だから「作者の死」には、神そのものを解釈の世界から放逐する無神論的な「作者の死」と、別の神への改宗を迫る宗教戦争的な「作者の死」という2通りの意味があるというのが適切かもしれません。

ですが、無神論的な「作者の死」の理屈を使いながら、自分は別の神を崇めているという場合があって、これは端的に矛盾というか破綻しています。そして、おそらく無神論的な解釈から解釈同士の交流の可能性を見出す道すじと、宗教戦争から解釈同士の交流の可能性を見出す(私は泥沼だと思うけれど)道すじは異なっているはずなのですが、破綻に巻き込まれるとそれが見えなくなってしまう。

結果的に、自分に都合よく相矛盾する理屈を使い分ける「無敵理論」を形成し、相手と交流するのではなく単に圧殺するだけの、もっともたちの悪い殺戮マシーンが一丁上がりとなるのではないかという危惧があります。それは、私も含めて本当に陥りやすい罠だと思う。

最初に取り上げた本のタイトルが『正義の哲学』であることも含めて、 「正しい」解釈をめぐる諸々について、いまいちどじっくりと考えてみたいなと思ったのでした。